All Chapters of 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

 休みが終わり、再び撮影現場へ出勤すると、紗月は由衣の周囲の空気がどこかおかしいことに気づいた。 これまでも由衣の機嫌がいいことはなかった。 だが今日は、紗月が現場に来た時から、由衣が何とも言えない視線でじっと彼女を観察していた。 その視線に、紗月はなんとなく背筋が寒くなる。 幸い、今日は由衣の撮影スケジュールがかなり詰まっていた。 ほとんどの時間をスタジオでの撮影に費やしており、紗月と顔を合わせる機会もあまりない。 それに、紗月は少しだけ安堵する。  今日は美咲から、セットの解体作業を手伝うよう指示されていたからだった。 本来であれば、この作業は専門の大道具会社の担当であり、解体スタッフの配置もすでに決まっていた。 そのため、紗月が来たところでかえって邪魔になるだけで、スタッフたちも困ったような顔をしていた。 結局、運搬などの簡単な作業だけを任されることになった。 それでも、美咲や由衣の傍にいるよりは、こちらの方がずっと居心地がよかった。 解体チームの雰囲気はとても良い。 四人しかいないからか、全員仲が良く、仕事中も笑い声が絶えない。 紗月が一人で黙々と作業をしていると、退屈しているのではないかと気を遣い、わざわざ会話に巻き込んでくれることもあった。 こんな職場の空気は、紗月にとってほとんど初めてのものだった。 朝倉サポートソリューションズでの日々は、毎日が息苦しく、張り詰めた空気の中で過ごすばかり。 由衣の傍も同じだった。 だからこそ、解体スタッフたちの楽しそうな会話を聞きながら、紗月も時折つられるように微笑み、小さな笑い声を漏らしていた。* 昼休み。 紗月は近くの椅子に腰を下ろし、ぼんやりと時間が過ぎるのを待っていた。 何気なく顔を上げた時、別の方向から由衣がこちらへ歩いてくるのが見えた。 迷いのない足取り。 その視線もずっと紗月へ向けられている。 明らかに、自分を目当てにしているのだと分かった。 紗月の前まで来ると、由衣はゆっくり顔を上げ、目の前にある解体途中の背景セットへ視線を向けた。 それは数日前の撮影で使われていたセットだった。 二階建てほどの高さがある、マンションのバルコニーを模したセット。 高層階のベランダを演出するために作られたものだ。 今は、もともと取り付けられていた透かし彫りの装
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第122話

 すべては一瞬の出来事だった。 幸いだったのは、紗月が立っていた場所が足場の縁ではなかったことだ。 とっさに身体をひねったことで、そのまま床へ倒れ込み、間一髪で足場の外へ投げ出されるのは免れた。 しかし、その代償は大きかった。 足首に鈍い痛みが走る。 まだ治りきっていなかった場所を、再び捻ってしまったのだろう。今度は前回とは比べものにならないほど痛みが強かった。激しい痛みに息が詰まりそうになる。 紗月はその場に身体を丸めるように倒れ込んだ。 それでも、両腕だけは無意識にお腹を守るよう抱き締めたまま、決して離そうとはしない。 あと少し。 あとほんの少し位置がずれていたら、そのまま足場から真っ逆さまに落ちていた。 痛みがあまりにも激しく、息をすることさえ苦しい。 額には汗が滲み、全身は強張ったまま一歩も動けなかった。 視界まで歪み、ぐらぐらと揺れている。 それでも、その視界の端には由衣の足元が映っていた。 彼女は安全な場所に立ったまま、一歩も動こうとしない。 ただ静かに、紗月が苦しむ姿を見下ろしていた。 やがて痛みがわずかに和らぎ、紗月はゆっくりと顔を上げる。 その視線の先で、由衣は口元をゆっくりと吊り上げ、不気味な笑みを浮かべていた。 その瞳には、凍りつくような冷たい悪意が宿っていた。 紗月と目が合っても、由衣は視線を逸らそうとはしなかった。 その身には、狂気と冷静さが同居したような、ぞっとする空気が漂っている。 紗月の心は、一気に底へ沈んでいった。 由衣が、はっきりとそう口にしたからだ。「やっぱり、本当に妊娠してたんだ」 その口調には、一片の迷いもなかった。 つまり、たった今の行動は、紗月が本当に妊娠しているのかを確かめるためだけのものだったのだ。* 昼休みが終わると、由衣は何事もなかったかのように撮影現場へ戻っていった。 だが、彼女が去った後も、あの低く不気味な笑い声だけはいつまでも紗月の耳にこびりついて離れない。 全身から血の気が引き、震えはいつまで経っても止まらなかった。 ――もう、ここにはいられない。 紗月は本能的に、お腹の中の子だけは守らなければならないと思った。 そう思った瞬間、紗月ははっと息をのんだ。 妊娠を知ってからというもの、胸の中はずっと複雑な思いでいっぱいだった。どこか現実味
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第123話

 彼がそこまで率直に尋ねてくるとは思ってもみなかった紗月は、呆然と篤司を見つめた。 唇を開きかけるものの、結局何も言葉にすることができない。 当の篤司はまるで気にした様子もなく、本当に何気なく事実を確かめただけ、とでも言うような淡々とした表情を崩さなかった。 それ以上問い詰められることもなく、紗月は胸の奥でそっと安堵の息をつく。「今日はもう動かないほうがいいでしょう。足首も捻っていますし、かなり腫れています。一度病院で診てもらったほうがいい」 篤司は終始抑揚のない声音でそう告げた。 何事にも動じないような淡々とした雰囲気はどこか近寄りがたく、紗月は少しだけ怖さを覚える。 それでも、そのさりげない気遣いが胸に沁みて、ありがたくてたまらなかった。「ありがとうございます……篤司さん?」 篤司はちらりと紗月を見ただけで、呼び方については何も言わなかった。 ただ小さく頷くと、それ以上言葉を交わすこともなく、そのまま解体チームの作業へ戻っていった。 足が思うように動かせないままでも、紗月は何度か立ち上がって手伝おうとした。 しかし、そのたびにチームの誰かが気づき、慌てて制止する。「大丈夫ですよ、朝倉さん。うちは作業も早いですし、無理に手伝っていただかなくても平気ですから」 そう優しく声を掛けられても、何もせずに見ているだけでは、紗月はどうしても落ち着かなかった。 自分だけ何もせず座っているように思われるのが嫌だった。それでも椅子に座らされたままでは、本当に何もすることがない。 そんなふうに所在なくしていた、その時だった。「朝倉さん。視力はいいですか」 不意に篤司が隣へやって来て、相変わらず無表情のままそう尋ねた。「えっ? 視力……ですか? あ、はい……目はいいほうです」 篤司は小さく一つ頷いた。 何を考えているのか読み取れないまま、彼は近くの机へ向かい、一冊の記録表と一本のボールペンを持って戻ってくる。「篤司さん……?」「これは記録表です。確認した資材や備品を記録しておく人が必要なので、この一覧にある品目ごとに数量を書いてもらえれば十分です」 そう言いながら、午前中に取り外され、整然と並べられた木材や資材を指さした。「多少誤差があっても問題ありません。会社へ運び戻す時に、もう一度正式に数量を確認しますから」 特別な技術も知識
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第124話

 篤司は普段ほとんど笑わないのだろう。 ぎこちなく浮かべられたその笑みは、どこか不自然だった。 紗月には分かった。彼なりに親しみやすく接しようとして笑ってくれたのだと。けれど慣れていないせいか、表情はどこかぎこちなく、少しだけ引きつって見えた。「……ありがとうございます。書き間違えていないといいんですが」 紗月が小さく礼を言うと、篤司は資料を閉じながら静かに答えた。「間違っていても構いません。どうせ最後にもう一度確認しますから」 そう言って一拍置くと、何かを思い出したようにふと尋ねる。「……朝倉さん、今日はどうやって帰るんですか」「えっ?」「必要なら送ります。会社の車がありますから」おそらく現場用の車のことだろう。紗月は一瞬きょとんと目を瞬かせたあと、慌てて両手を振った。「い、いえ! そこまでしていただくのは申し訳ないです」「大したことじゃありません」 篤司はいつもと変わらない淡々とした口調で続ける。「あとで必要になったら、遠慮なく声をかけてください」 それ以上は勧めなかった。 無理に気を遣わせることも、断られた相手との距離を縮めようとすることもない。ただ必要だと思ったから声をかけ、それで終わり――そんな一線の引き方が、いかにも篤司らしかった。「こっちも片付きましたので」 それだけを告げると、篤司は振り返ることなく解体チームの輪へ戻っていく。 戻った途端、仲間たちが何か面白そうに声を掛けていた。 距離があったため、紗月には何を話しているのかまでは聞き取れなかった。 それでも、篤司は最後までいつも通りの無表情で、短く受け答えをするだけだった。からかわれても表情ひとつ変えず、淡々と受け流すその落ち着きぶりは、やはり彼らしかった。 * 立ち上がった瞬間、それまで意識の隅へ追いやっていた足首の痛みが、鋭く存在を主張する。 腫れ上がった右足をかばいながら、紗月は左足へ体重を預け、一歩ずつ引きずるように撮影現場へ戻っていった。 今日の仕事が終わったことを、美咲へ報告するためだ。 しかし、美咲の姿はどこにも見当たらない。 代わりに、ちょうど一つのシーンを撮り終えた由衣が、その場に立っていた。 足を引きずりながら近づいてくる紗月の姿を認めると、由衣は口元をほんのわずかに歪めた。 その笑みは一瞬で消えたものの、目だけはじ
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第125話

 まさか紗月が言い返してくるとは思ってもいなかった。 周囲にほとんどスタッフはいないとはいえ、由衣にとっては面子を潰されたも同然だった。 自分より下だと見下していた紗月に反論されるなど、これ以上ない屈辱だった。その怒りは、簡単には飲み込めそうになかった。「あんたっ――!」「綾瀬さん。私の今日の仕事はもう終わっています。汗を拭いてほしいのでしたら、ほかの方に頼んでください」 怒りが胸いっぱいに込み上げていたからこそ、紗月も珍しく一歩も引かなかった。 たとえこの子を無事に産めない未来が待っていたとしても、その命をどうするかを由衣のような人間に口出しされる筋合いはない。 ましてや、堕ろす薬などという言葉を平然と口にできる神経など、紗月には到底理解できなかった。 胸の奥で渦巻く怒りだけを支えに、紗月はその場を離れるように撮影スタジオの出口へ向かう。 しかし、ようやく建物の外へ出たところで、足首に鋭い痛みが走り、思わずその場で足を止めた。 視線を落とすと、腫れは朝よりもさらにひどくなっている。 それに気づいた途端、一歩踏み出すだけで先ほどまでとは比べものにならないほどの痛みが足首を貫き、前へ進むことも、引き返すこともできず、その場に立ち尽くしてしまった。 スタジオは人里離れた場所にあり、最寄り駅まで歩くだけでもかなりの距離がある。 今の足でそこまで歩けるとは、とても思えなかった。 紗月はスマートフォンを取り出し、タクシーを呼ぼうと配車アプリを開く。だが、画面に触れようとした、その瞬間――不意に背中へ強い衝撃が走った。「っ……!」 受け身を取る間もなく地面へ倒れ込み、手から離れたスマートフォンは勢いよく弾かれ、何度も地面を跳ねながら遠くまで転がっていく。 一瞬、何が起きたのか理解できなかった。 次の瞬間、足首を貫く激痛が紗月の意識を現実へと引き戻す。 誰かが、足を踏みつけていた。 幸い、一番ひどく腫れている場所は外れていたものの、それでも息が詰まるほどの痛みが全身を駆け巡る。「きゃっ、ごめんなさぁい、紗月さん。外に立ってるなんて気づかなくて。大丈夫かぁ?」 わざとらしく甘ったるい由衣の声が頭上から降ってくる。 その直後、手首を誰かに乱暴に掴まれた。 容赦ない力でぐいっと引き上げられ、紗月は痛む足などお構いなしに無理やり立たされた
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第126話

 篤司の言葉を聞いた瞬間、由衣は信じられないものを見るように目を見開いた。 みるみるうちに顔から血の気が引き、傷ついたように唇を震わせる。まるで、自分こそが理不尽な言葉を浴びせられた被害者であるかのように。 しかし、篤司は眉一つ動かさなかった。 冷えた眼差しは少しも揺らぐことなく、由衣の芝居がかった反応にも、一切心を動かされる様子はない。「私は……ただ親切にしただけなのに……」「もういいよ、由衣。こんな相手にこれ以上話す必要ない」 周囲にいたスタッフの一人が口を挟む。 その言葉に、由衣はすぐさま柔らかな笑みを浮かべ直した。 篤司へ向ける眼差しだけは、先ほど紗月へ向けていたものと同じように冷え切っている。「もう結構です。善意で手を貸しただけなのに、そんなふうに言われるなんて……私がお節介だったみたいですね」 穏やかな笑みを崩さないまま口にしたその声は、奥歯を噛み締めるような冷たさを帯びていた。 そう言い残すと、由衣は周囲のスタッフたちを連れてその場を後にする。 数歩進んだところで、不意に足を止めた。 ゆっくりと振り返ると、その視線が意味ありげに紗月の下腹部へと落ちる。「紗月さん。次は気をつけたほうがいいよ」 そう言うと、由衣は意味ありげに喉の奥でくすりと笑った。「……ふふっ。いえ、何でもない」 その含み笑いだけを残し、由衣たちの姿は遠ざかっていった。 ようやく辺りが静かになると、篤司はわずかに眉を寄せ、紗月のもとへ歩み寄る。 余計なことは何も言わず、まずしゃがみ込んで腫れがさらにひどくなった足首を確認し、それから静かに立ち上がった。「朝倉さん。この状態では歩けませんよね。送ります」 そう言って差し出されたのは、先ほど飛ばされた紗月のスマートフォンだった。「……ありがとうございます」 受け取った瞬間、画面に大きなひびが入っていることに気づく。 あの勢いで地面へ叩きつけられたのだから、無事では済まなかったのだろう。 紗月は小さく礼を言いながらスマートフォンを胸元へ抱えた。 心臓はまだ激しく脈打っている。 無意識に片手を下腹部へ添えた。 もう疑いようがなかった。 由衣は何度も自分へ危害を加え、この子を流産させようとしている。 そう思った瞬間、全身が小刻みに震え始める。 今はもう、一刻も早くこの場所を離れたい。
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第127話

 車内では、沈黙の時間のほうが長かった。 もともと篤司は口数の多い人ではないし、紗月も決して社交的な性格ではない。そのせいか、互いに無理に会話を探すこともなく、静かな時間が流れるまま、気づけば思っていたよりずっと早く目的地へ到着していた。 篤司が車を停めると、紗月はシートベルトに手を掛け、彼のほうへ向き直った。「今日は本当にありがとうございました、篤司さん」「いえ。……お手伝いしましょうか」 そう言って篤司も車を降りると、紗月が返事をする間もなく助手席のドアを開けた。 足をかばいながら降りようとする紗月をひと目見ると、何も言わず腕を差し出し、その身体を支えるように促す。「ありがとうございます……篤司さんって、本当にお優しいんですね」 申し訳なさそうに彼の腕へそっと手を添えながら、紗月はもう一度礼を口にした。 篤司は何度感謝されても照れた様子ひとつ見せず、相変わらず淡々とした表情のままだった。「大したことではありません。僕じゃなくても、きっと誰かが助けていました」 その口ぶりには、気負いも恩着せがましさもない。 本気でそう思っているのだと、紗月には分かった。 篤司はそのままマンションのエントランスまで付き添うと、それ以上中へ入ろうとはしなかった。「それでは」 短く別れを告げると、篤司は迷うことなく踵を返し、車へ戻っていく。 数秒後にはエンジン音が静かに響き、そのまま車は走り去っていった。 紗月はしばらくその場に立ち尽くしたまま、車の姿が完全に見えなくなるまで見送る。 ようやくマンションへ入ろうと振り返った。「……!」 冷え切った瞳と、真正面からぶつかる。 怒りを押し殺したような眼差しが、真っ直ぐ紗月を射抜いていた。 慎一だった。 いつからそこに立っていたのか分からない。 まるで最初からそこにいたかのように、静かに紗月を見つめている。 思わず息を呑んだ。 そういえば、もう何日も顔を合わせていなかった。 本当は一度、慎一ときちんと話をしなければと思っていた。 それなのに、いざ本人を前にすると頭の中は真っ白になり、何から話せばいいのか何ひとつ思い浮かばなかった。「慎一……」「はっ。紗月、お前も大したものだな」 慎一は皮肉げに口元を歪める。「たった数日会わなかっただけで、もう次の男を見つけたのか」 少し前まで
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第128話

 慎一は、この時ばかりは珍しく冷静さを失っていた。 少し前、由衣から電話がかかってきたのだ。 紗月は撮影現場でも男へ色目を使っていること、仕事もろくにできず、もっとまともな付き人へ替えてほしいこと――そんな不満を次々と訴えてきた。 もっとも、慎一本人は最初から本気にはしていなかった。 由衣が紗月を目の敵にしていることも、幼稚な嫌がらせを繰り返していることも知っていた。 だからこそ、あえて紗月を由衣のそばへ置いた。 由衣のやり方など、せいぜい紗月を精神的に追い詰める程度だ。 命に関わるような真似まではしない――慎一はそう高を括っていた。 それどころか、紗月が耐えきれなくなり、自分へ頭を下げて助けを求めてくることさえ期待していた。 電話を受けた時も、慎一は鼻で笑って取り合わなかった。 だが、由衣から「奥様が見知らぬ男と一緒に帰りましたよ」と聞かされた途端、半信半疑のままマンションへ急いで戻った。 そして実際に目にした。 紗月が見知らぬ男の車から降り、その男に支えられながら歩いてくる姿を。 しかも、あんな穏やかな笑顔まで浮かべて。 自分の前ではいつも眉を寄せ、疲れ切った顔しか見せなかった女が、他の男にはあんな表情を向ける。 その光景が、胸の奥で燻り続けていた得体の知れない苛立ちに、さらに火をつけた。 だから今は、その苛立ちを目の前の女へぶつけずにはいられなかった。 それなのに、紗月は言い訳ひとつしない。 ただ、静かで冷えた眼差しを慎一へ向けてくる。「慎一、一度ちゃんと話をしましょう」「俺とお前で、何を話すって?」 慎一は鼻で笑った。「ああ、男が欲しくて仕方ないって話か。……いいだろう、聞いてやる」 わざと紗月の言葉を歪めると、そのまま彼女の手首を乱暴に掴み、エレベーターへ向かって歩き出した。「きゃっ……!」 足首はまだひどく腫れたままだ。 無理やり引っ張られた紗月はたちまち体勢を崩し、そのまま床へ倒れ込んでしまう。 手に伝わる重みで慎一は足を止めた。 足元へ冷たい視線を落としたまま、数秒だけ黙り込む。「……ちっ」 小さく舌打ちすると、次の瞬間には紗月を横抱きに抱え上げ、そのまま大股でエレベーターへ向かった。 紗月は腕の中でもがき、必死に慎一の肩や胸を叩いた。「下ろして……! 慎一、お願い……下ろして!」 
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第129話

 紗月は、こんな形でこの事実を打ち明けることになるなんて、思ってもみなかった。 妊娠。 本来なら、もっと落ち着いた場所で、もっと穏やかな時間の中で伝えたかった。 そう願っていたのに。 その言葉を耳にした瞬間、慎一の動きが止まった。 ただ、それも――ほんの数秒だけだった。 次の瞬間、慎一はあまりにも馬鹿げた話を聞かされたかのように、喉の奥で低く笑った。 室内は暗く、その表情までは見えない。 それでも紗月には分かる。 今、自分へ向けられている視線が、どれほど冷たく、どれほど嘲りに満ちているのか。 ――見えなくてよかった。 あの目を真正面から見てしまえば、それだけで心が折れてしまいそうだったから。「妊娠? 紗月、お前もずいぶん何でも言えるようになったな」 そう言うと、左手を紗月の下腹部へ重ね、その上からゆっくりと押し込むように力を込めた。 その感触に、紗月の心臓が大きく跳ねる。「違う……慎一、本当なの。私、本当に――」「そんな安っぽい嘘を、俺が信じるとでも思ったのか?」 慎一は吐き捨てるように言った。「夢を見るな、紗月。止めさせたいなら、そんなくだらない嘘で俺を試すべきじゃなかったな」 二人の間に、信頼などとうの昔に失われていた。 まして、「妊娠」という言葉が二人の間で交わされたのは、これが初めてだった。 慎一は、自分と紗月の間に子どもができる未来など、一度たりとも考えたことがない。 避妊は完璧だった――そう信じて疑わなかった。 だからこそ、慎一は紗月の言葉を信じるどころか、最初から嘘だと決めつけていた。 その言葉を聞いても、父親になる実感はもちろん、喜びが胸をよぎることすらない。 紗月と子どもを育てる未来など、一度たりとも考えたことがなかった。「それとも、そこまで必死だったのか?」 慎一は口元を歪める。「妊娠まで利用して男を繋ぎ止めようとするなんて……いかにも、お前らしいな」 紗月はもう何も言い返せなかった。 何を言っても、この人は信じない。 慎一は紗月の言葉も想いも、すべて卑劣な企みだと決めつけ、一切ためらうことなく彼女を押さえつけ続ける。 下腹部へ重ねられた手には、先ほどよりもさらに強い力が込められた。 痛みが走るほど乱暴なその手つきは、まるで罰でも与えるかのようだった。 お腹を守ろうと伸ばした紗
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第130話

 慎一は、もう長い間紗月に触れていなかった。 その反動だったのか、それとも怒りに身を任せていたからなのか、一度身体を重ねただけでは到底収まらなかった。 ソファで終えても、慎一は乱れた呼吸を整えるようにしばらく紗月を抱き締めていただけだった。 だが、ほどなくして力の抜けきった彼女を横抱きにすると、そのまま寝室へ向かう。 ベッドへ下ろす手つきだけは、先ほどより幾分穏やかだった。 それでも次の瞬間には再び覆いかぶさり、焦燥にも似た激しさで紗月を求める。 同じ熱を帯びた身体が触れ合うたび、その熱は慎一の理性を少しずつ焼き尽くしていった。 何度も容赦なく紗月を追い詰め、その瞳からもっと涙を零させたい。もっと許しを乞わせたい。 そんな歪んだ衝動だけが、慎一を突き動かしていた。 紗月が負けを認め、自分へ縋る姿を見たかった。 けれど、泣き続けたあと、紗月はほとんど声を発しなくなってしまう。 慎一はその顎を指先で持ち上げ、無理やり自分のほうへ向かせた。その瞳はどこまでも昏く、何ひとつ映してはいなかった。 まるで、この世界には誰も存在していないかのように。「紗月。俺を見ろ」 理由も分からないまま胸がざわつき、慎一は思わずその名を呼んだ。 紗月は静かに目を閉じたまま、慎一へ視線を向けようともしなかった。 その拒絶に煽られるように、慎一はさらに乱暴に紗月を追い詰め、無理やり反応を引き出そうとする。 どれほど時間が過ぎたのか、自分でも分からなかった。 悪夢のような苦しみの中、紗月は一度意識を手放し、また浅い眠りから目を覚ます。 全身は汗に濡れ、喉は焼けつくように渇いていた。 岸へ打ち上げられた魚のように、ただ水だけを求める。「……みず……」 かすれたその一言に、慎一はすぐ気づいた。 動きを止めると、慎一はベッドを離れ、水を取りに部屋を出た。 グラスを手に戻ってきたものの、すぐには飲ませようとはしない。 しばらく紗月を見つめたあと、自ら一口だけ水を含むと、片手で紗月の後頭部をそっと支え、そのまま唇を重ねた。 口移しに流し込まれた水を、紗月は夢中で飲み下していく。 喉の渇きはあまりにも激しく、それが口づけであることすら意識する余裕はなかった。 水を含ませるためだけに重なっていた唇は、次の瞬間には慎一の深い口づけへと変わる。 容赦なく唇を
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