Lahat ng Kabanata ng 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: Kabanata 131 - Kabanata 140

199 Kabanata

第131話

 慎一の口調はどこか妙だった。まるで紗月の反応を探るような響きが滲んでいる。 紗月は静かにコップを置き、しばらく黙り込んだあと、小さく口を開いた。「……あなたが約束を守ってくれることだけを願っている」 その言葉を聞いた瞬間、慎一の口元がわずかに吊り上がる。 瞳の奥にも、一瞬だけ何かを思いついたような光がよぎったが、それはすぐに消え、何事もなかったかのように短く言い放った。「当然だ」   足首の痛みはまだひどかった。 それでも紗月は助けを求めようとはしない。慎一もそんな彼女の意思など意に介さず、半ば強引に車へ乗せた。 昨夜の出来事があまりにも激しかったせいで、今は足首よりも全身の痛みのほうが勝っている。 それでも朝目を覚まして足首へ視線を落とすと、腫れた患部には厚く湿布薬が塗られていた。 眠っている間に慎一が手当てをしたのだろう。 けれど、そんな優しさは今の紗月には何の意味もなかった。 撮影現場までの車内は、息が詰まるほど静まり返っていた。 今日は久我を呼ばず、慎一自身がハンドルを握っている。しかも紗月は助手席へ座らされていたが、その理由は分からない。 紗月は一度も慎一へ視線を向けることなく、ただ窓の外だけを見つめ続けた。 やがて車がスタジオの駐車場へ滑り込むと、紗月は慎一より先にドアを開け、そのまま何も言わず立ち去ろうとする。 しかし車を降りたその瞬間、スタジオの入口で待っていた由衣と目が合った。 由衣の手にはテイクアウトのコーヒーが二つ。誰かを待っていたことは、一目で分かる。 紗月を見つけた途端、由衣の笑顔は一瞬で消え失せた。さらに、紗月が慎一の車から降りてきたと気づいた瞬間、その瞳には隠そうともしない怒りが燃え上がる。 大股でこちらへ歩いてくる由衣を見て、紗月は反射的に下腹部を庇うように一歩後ずさった。 だが、由衣の視線はすぐに紗月から外れ、車を降りてきた慎一へ向けられる。「社長~!」 満面の笑みを浮かべて駆け寄る。「今日いらっしゃるって聞いてたので、ずっとお待ちしてたんですよ! 本当はこんなに早く来る予定じゃなかったんですけど、社長にお会いしたくて……昨日なんてほとんど眠れなかったんです。褒めてくれませんか?」 慎一は由衣を見るなり、露骨に眉をひそめた。 その声にも、隠そうともしない苛立ちが滲んでいる。
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第132話

 朝倉グループは、今回の映画の最大出資会社だった。 慎一が撮影現場へ姿を現した途端、その姿をいち早く見つけたプロデューサーが満面の笑みで駆け寄ってくる。 大げさなほど愛想よく頭を下げながら、この大口スポンサーを相手に終始機嫌をうかがうような口調で話しかけた。「朝倉社長、お待ちしておりました。本日も進捗のご確認でしょうか? 綾瀬さんの撮影は午後からの予定ですが、その前にこれまで撮影したシーンをご覧になりますか?」 慎一の意識は、そんな話にはまるで向いていなかった。 ただ紗月の姿を探して、視線だけが現場のあちこちをさまよう。 目に入るのは慌ただしく行き交うスタッフや出演者ばかりで、肝心の紗月の姿はどこにも見当たらない。 しかもプロデューサーに捕まってしまえば、無下に振り払うわけにもいかなかった。 慎一は適当に相槌を打ちながら話を合わせていたが、そのうち由衣まで懲りずにまとわりつき、気づけばその場を離れることもできなくなっていた。 それでも視線だけは無意識のうちに紗月を追い続けてしまう。 どこにも見つからない。その事実が、なぜか胸の奥をひどく苛立たせた。 ――何をしている。 そう思った途端、自分でも馬鹿らしくなった。 紗月を探してどうする。 気に掛ける理由など、もう何一つない。 慎一は胸に浮かんだその感情を無理やり押し込めるように、由衣やプロデューサーとともに数日前の撮影映像へ視線を落とした。* 紗月は今日も大道具チームの手伝いを任されていた。 美咲から直接指示された仕事だ。 由衣が紗月の顔を見たくないと言い出したため、付き人としての仕事は美咲が引き継ぎ、紗月は大道具チームの補助へ回されていた。 美咲としては、撮影現場で一番きついのは大道具の仕事だと思っていたのだろう。だからこそ、わざと紗月をこちらへ回したのだ。 けれど実際は違った。 大道具会社のスタッフたちは皆気さくで親切で、足を引きずりながら現れた紗月を見るなり、すぐに椅子を運んできてくれた。 篤司は資料を手に何かを確認していたが、紗月に気づくと一度だけ顔を上げ、いつもと変わらない淡々とした口調で声を掛ける。「おはようございます、朝倉さん」 それだけ言うと、また資料へ視線を落とした。 すると隣にいた年上のスタッフが、勢いよく篤司の背中を叩く。「篤司、お前も朝倉さ
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第133話

 こんなにも真っ直ぐな言葉で褒められたのは、祖父や凛子、優介くらいだった。 まして相手は、自分と歳の近い、まだほとんど知り合ったばかりと言っていい男性だ。 篤司の言葉に、紗月は思わず目を瞬かせた。 何度か口を開きかけるものの、何と返せばいいのか分からない。 篤司は励まそうとしているわけでも、優しい言葉を掛けようとしているわけでもなかった。 ただ、自分がそう思ったから口にした。 それだけなのだと、その変わらない表情が物語っている。 だからこそ、その一言には嘘も飾りもなかった。 紗月は小さく笑みをこぼし、少し照れくさそうに呟いた。「……ありがとうございます」 それだけ言うのが精一杯だった。 一瞬だけ、結婚していることを伝えた方がいいのではないかと思う。 左手の薬指にあった指輪は、とっくに外していた。そもそもあの指輪は、最初から紗月だけが身につけていたものだ。 慎一は一度たりとも指にはめてくれなかった。 あの結婚において、あの指輪は最初から何の意味も持っていなかった。 それに、篤司の態度からは恋愛感情などまったく感じられない。 ここで自分から「結婚しています」と切り出したら、かえって自意識過剰な人間だと思われてしまいそうだった。 喉元まで込み上げた言葉は、結局そのまま飲み込む。 足を痛めていることもあり、この日も紗月は大道具の確認や簡単な事務作業を任されていた。 どれも篤司が、座ったままでもできるよう気を遣って残してくれた仕事だった。 前の会社でも事務や資料作成を担当していたため、こうした作業は紗月の得意分野だ。 篤司が細かく教えなくても、説明を聞くだけですぐに要領をつかみ、手を動かすことができた。 午前中も、篤司は何度か足場から降りてきては、紗月の様子を見に来た。 困っていることがないと分かれば、それ以上は何も言わず、また自分の持ち場へ戻っていく。 任された仕事量も無理のない程度で、紗月はほどなくして一通り終えた。 ふと顔を上げると、目の前ではセットが少しずつ形になっていく。 朝、篤司が話していた通り、組まれているのはマンションの共用廊下だった。 台本では高層マンションという設定だが、実際に作られるのは二階部分まで。その先の景色はグリーンバックで撮影し、後から映像で合成するらしい。 最初は出来上がっていくセットを
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第134話

 大道具会社のスタッフの中には、慎一の顔を知っている者もいた。 その立場も理解していたのだろう。 紗月を助けようと駆け寄り、状況を確かめようとしていた先輩たちも、慎一のその一言を耳にした途端、思わず動きを止めた。 互いに顔を見合わせると、篤司が何か言おうとするより早く、その腕を掴んで半ば強引にその場から引き離してしまう。 連れて行かれる直前、紗月の耳に先輩が篤司を諭す声だけが届いた。「……夫婦のことなんだから、お前は首を突っ込むな」 先輩の声はよく通り、少し離れても途切れ途切れに聞こえてくる。「……まったく……結婚してるって分かってたら……お前らをくっつけようなんてしなかったのに……」 それ以上は距離が離れてしまい、篤司が何か答えたのか、それとも最後まで何も言わなかったのか――もう紗月には分からなかった。 慎一は苛立ちを押し殺したまま、まるで「払った金の分は働いてもらう」とでも言うように紗月の腕を掴み、そのまま強引に撮影エリアまで連れて行く。 紗月は抵抗することもできず、痛む足を引きずりながら慎一の後を追った。 ようやく足を止めた頃には、息を整える余裕すらない。 それでも休む間もなく背中を押され、メイク直しをしていた由衣の前へ突き出された。 慎一と並んで現れた紗月を見た瞬間、由衣の顔に嫌悪がよぎる。 だが慎一がいることに気づくと、その表情はすぐにいつもの愛らしい笑顔へと塗り替えられた。「社長~。さっき探してたんですよ。今の撮影、すごく上手くできたんです。助監督にも褒めてもらえたんですよ?」 慎一の意識は終始紗月へ向けられたままで、由衣の話などほとんど耳に入っていない。「そうか」「次は追いかけられるシーンなんです。犯人に襲われそうになる場面で、昨日も遅くまで練習したんですよ。社長も――」「追いかけられるシーン?」 何か思いついたように、美咲が手にしていた台本を取り上げると、慎一は素早くページをめくった。 内容を確認したあと、今度は紗月の腫れた足首へ視線を落とし、そのまま少し離れた場所にいる助監督を見る。 立花は午前中ほかの予定が入っており、この時間帯はエキストラ中心のカットを撮影していた。 重要なシーンではないため、現場は助監督へ任されている。 慎一の視線に気づいた助監督は、慌てて駆け寄ってきた。 揉み手でもしそうな
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第135話

 十分という準備時間は、ひどく長く感じられたかと思えば、振り返ればあっ という間に過ぎ去ってしまったようでもあった。 慎一は最後まで、紗月が折れる瞬間を待っていた。 けれど、助監督が「全員、スタンバイお願いします!」と声を張り上げた瞬間、紗月はもう迷わなかった。 準備を終えたエキストラたちとともに歩き出し、腫れ上がった足を引きずりながらも歩調を緩めることなく、監督が彼女のために用意した立ち位置へ向かう。 由衣の斜め後ろ。 その位置に立った紗月を、由衣はわずかに振り返って見た。 その目に浮かぶ嫌悪と嘲りは隠そうともせず、紗月の足へ視線を落とすと、小さく喉を鳴らすように笑い、それ以上は興味を失ったように前を向く。 ――本番まで、あとわずか。 助監督が「本番いきます!」と声を上げる直前、紗月は真っ直ぐ自分へ注がれる視線を感じていた。その視線の主は、撮影エリアの脇からこちらを見つめる慎一だった。紗月は気づかないふりをして、ただ前だけを見つめ続ける。慎一が何を考えているのかくらい、薄々分かっていた。それでも決して振り返ろうとはしなかった。 こうして自分を傷つけ、耐えきれなくなったところで助けを求めさせたいのだろう。 それでも負けたくはなかった。 足が痛むくらいなら、まだ耐えられる。 絶え間なく押し寄せる痛みを押し殺しながら、紗月は決められた位置で静かにスタンバイする。 助監督の飛ばす指示を聞いているうち、不意に胸の奥で懐かしい感覚が蘇った。 まるで、夢だけを追いかけていたあの頃へ戻ったような気がした。 女優を目指そうと思ったきっかけは、本当に些細な偶然だった。 高校時代、文化祭の舞台で欠員が出たことから、人数合わせのために急きょ舞台へ立つことになった。 その時初めて、自分には演技の才能があるのかもしれないと思った。 台本を読めば、自分の台詞だけでなく、相手役の台詞までするすると頭に入ってくる。 登場人物の感情も自然と理解でき、思い描いた人物像を、そのまま舞台の上で表現することができた。 何より、舞台へ立ち、熱い照明を全身に浴びた瞬間――胸の奥から、抑えきれない高揚感が込み上げてきた。 それまで一度も味わったことのない、心が震えるような熱だった。 文化祭で演じたのは、ほんの小さな役だった。 真剣な眼差しで舞台を見つめていた慎一
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第136話

 混乱していたのは撮影エリアの中だけではなかった。 現場の周囲にいたスタッフたちも一斉に駆け出し、必死に声を張り上げながら人の流れを止めようとする。 だが、一人が倒れた瞬間、それはまるでドミノ倒しのようだった。 一度崩れた流れはもう止められない。 次々と足を取られ、連鎖するように人が倒れていく。「な、何だこれは……!」 助監督は頭を抱えそうな勢いで叫ぶと、慌ただしくスタッフたちへ指示を飛ばした。「全員引き離せ! 早く! 急げ!」 折り重なるように倒れていた人たちは、ようやく少しずつ引き離されていく。 後方で転倒した者たちは比較的軽傷で、自力で立ち上がると、そのまま撮影エリアの外へ避難し、不安そうな表情で現場を見守っていた。 一方、先頭を走っていた由衣だけは、かすり傷一つ負っていない。 人波に飲み込まれた紗月へ視線を向けると、誰にも気づかれないよう口元だけで小さく笑う。 そして次の瞬間には怯えた表情へ切り替え、そのまま慎一のもとへ駆け寄った。 慎一の表情は険しかった。 助監督のすぐそばで一部始終を見ていたため、混乱が起きたのはほんの一瞬の出来事だったにもかかわらず、由衣がわざと紗月を躓かせた瞬間まで、はっきりと目にしていた。 駆け寄ってきた由衣へ向ける眼差しは、氷のように冷え切っている。「由衣。今回はやりすぎだ」 その一言で、由衣の顔からさっと血の気が引いた。 それでも次の瞬間には、今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、縋るように慎一を見上げる。「社長ぉ……ごめんなさい。本当にわざとじゃないんです。私も転びそうになっちゃって……こんなことになるなんて思わなくて。でも奥様だって大丈夫ですよ! ほら、皆さんもそんなに大きな怪我はしてないじゃないですか」 由衣が指差した先では、何人かのエキストラがすでに立ち上がり、自力で撮影エリアの外へ歩いていく姿が見えた。 その様子を見て、慎一は張り詰めていた息をわずかに吐き出す。 胸の奥の焦りは消えなかったものの、これくらいなら紗月にもいい教訓になっただろう、とどこかで考えていた。 あれだけ派手に転んだのだ。足首の怪我も、きっとさらに悪化しているはずだ。 これで少しは、自分の前で意地を張ることもやめるだろう――。 少なくとも、この時の慎一はそう信じていた。 現場の混乱は少しずつ収まり始め
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第137話

 慎一は救急車へ乗り込み、そのまま紗月とともに病院へ向かった。 車内では医療スタッフが慌ただしく応急処置を続けている。 紗月はすでに意識を失っており、慎一はただ、その冷え始めた手を強く握ることしかできなかった。 出血量はあまりにも多い。 敷かれていたシートは瞬く間に赤く染まり、その光景は目を逸らしたくなるほど痛々しかった。 救急救命士は緊張した面持ちで紗月の血圧や脈拍を確認しながら、慎一へ鋭く問いかける。「ご主人ですか?」「……はい」 慎一は低く答えた。 救急救命士は頷くと、紗月の腹部へ視線を落としながら、さらに質問を重ねる。「現在の出血量から見て、流産の可能性があります。奥様は妊娠何週目ですか?」「……」 慎一は答えられなかった。 沈黙が流れる。 救急救命士は慎一の返事を待ちながらもう一度確認する。「病院は受診されていますか? 母子手帳は? 妊娠経過について何か分かることはありませんか?」 それでも慎一は何一つ答えられない。 唇を強く結んだまま、握り締めた紗月の手だけを見つめていた。 昨日初めて、紗月の口から妊娠のことを聞いた。 だが、あの時の自分は怒りに支配され、紗月の言葉を最後まで聞こうともしなかった。 ――いや。 昨日だけではない。 たとえ普段の自分だったとしても、紗月から「妊娠した」と告げられれば、きっと簡単には信じなかっただろう。 どうせまた、自分を引き留めるための嘘だ。そう決めつけ、紗月の言葉に耳を貸そうともしなかった。 それほどまでに、自分は紗月を信じていなかったのだ。 その事実を、慎一は今になって初めて突きつけられる。 青白い顔で横たわる紗月を見つめながら、自分がどれほど愚かだったのかを思い知らされた。 もし昨夜、あの時。 自分が手を止めていたら。 紗月の話を最後まで聞いていたら。 今さらになって押し寄せる後悔が、初めて慎一の心を、思考を、感情を少しずつ蝕んでいく。 強く握り締めた紗月の手はあまりにも軽く、その温もりさえ今にも消えてしまいそうで、まるで何も掴めていない空気だけを握っているようだった。 慎一が答えられないまま黙り込むと、救急救命士は小さく眉を寄せる。「……妊娠初期で、ご本人もまだ気づいていなかったのかもしれませんし、ご主人へ伝える前だった可能性もあります」 今は、慎
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第138話

 紗月は、自分がとても長い眠りについていたような気がしていた。 夢の中の自分は、あらゆる苦しみや悩みから解き放たれたように、身体が驚くほど軽かった。このままどこへでも行ける気がしたし、もう何かや誰かのために立ち止まることもない。 二十年以上、自分で自分へ掛け続けてきた枷が、ようやく鍵で解かれたような、そんな感覚だった。 あまりにも心地よくて、紗月は目を覚ましたくなかった。 そんな夢の中で、一筋の白い光がずっと紗月のそばに寄り添っていた。 その光は、優しい温もりを纏いながら、いつも紗月の手元を離れない。 時折、いたずら好きな子どものように急に前へ飛び出しては、あちこちを跳ね回る。 そのたびに紗月は足を止め、微笑みながらその姿を見守った。 遊び疲れると、白い光はまた紗月のそばへ戻ってくる。 そして再び、紗月と並んで歩き出した。 どれほど歩いただろう。 夢の中の道は果てが見えず、どれだけ歩いても景色は少しも変わらなかった。 それでも紗月は、このままここへ残りたいと思った。 夢の温もりも、その穏やかな時間も、あまりにも愛おしかったからだ。 けれど、白い光は少しずつ輝きを失い始める。まるで、避けることのできない別れを静かに告げるように。 紗月は最後の最後まで、その白い光とともに歩き続けた。 白い光が完全に消えた瞬間――紗月の意識もまた、自分の身体へと引き戻された。 ゆっくりと瞼を開いた途端、夢の中では感じることのなかった痛みが、一気に全身へ押し寄せてくる。 紗月は身じろぎひとつできないまま、真っ白な天井を見つめた。気づけば涙が目尻から絶え間なく零れ落ち、髪も枕も濡らしていく。 夢の中では分からなかった。 目を覚ました今なら分かる。 あの白い光は――自分の子どもだった。 その子は、もういない。 音もなく流れていた涙は、やがて小さな嗚咽へと変わる。 悲しみは次第に胸いっぱいに広がり、身体では抱えきれなくなって、ついには堪え切れず、紗月は声を上げて泣き出した。 幼い頃から朝倉の祖父の家へ預けられて育った紗月は、いつも自分を抑え、身の程をわきまえて生きてきた。 自分の欲しいものも、本当の気持ちも、感情のままに表へ出したことはほとんどない。 唯一、自分を抑えきれなかったのは、祖父へ慎一が好きだと打ち明けた、あの時だけだった。 け
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第139話

 その間も、慎一は一言も口を開かなかった。ただ、病床の紗月だけを見つめ続けていた。 二人が病室へ入ってきた時には、紗月はすでに泣き止んでいた。 今、目の前で由衣が必死に許しを乞う姿を見ても、その心はもう何一つ揺れなかった。胸の奥は凍りついたように冷え切り、誰に対しても何の感情も湧いてこない。 由衣がどれほど頭を下げ続けたのか分からなくなった頃、紗月はようやく静かに口を開く。「綾瀬さん」 その声には何の温度もなかった。「私の子どもを返してください。……そうしたら、あなたを許します」 紗月の言葉を聞いた瞬間、慎一は深く眉を寄せた。その表情には、痛ましさを押し殺すような色が滲む。 何か言おうとして唇を開きかける。だが結局、何一つ言葉は出てこなかった。 紗月は何も間違ったことを言っていない。 否定することなどできなかった。 由衣は呆然とその場に固まっていたが、数秒後、再び床へ額を打ちつけ始めた。 もう止まれなかった。 泣き声はさらに大きくなり、感情は完全に崩れ落ちている。 紗月の願いを叶えられない以上、自分にできることは謝り続け、許しを乞うことだけだった。「奥様……お願いします……! 本当にお願いします……! 私、何でもします! 私にできることなら何でもしますから……! お願いです、許してください……! 私、芸能界を辞めるわけにはいかないんです……! お願い……! 両親が病気なんです……! 治療費を稼がなきゃいけなくて……だから芸能界に入ったんです。ここなら早くお金を稼げると思って……お願いです、奥様……!」 最後には自分の境遇まで持ち出し、借金を抱えた家族や病気の両親のために、自分が働かなければならないのだと涙ながらに訴え始めた。 その話にはあまりにも不自然な点が多かった。紗月は聞いていられず、慎一の表情にも苛立ちが滲む。「借金だと?」 慎一は鼻で笑った。「綾瀬。嘘だけは、お前の右に出る者はいないようだな」 その一言で、由衣の身体がびくりと震えた。 ――慎一がそこにいることを、完全に忘れていたのだ。 泣き声はぴたりと止まり、俯いたまま身じろぎ一つできなくなる。 慎一は契約を結ぶ前に、由衣の身辺を徹底的に調べさせていた。 追い詰められた由衣は、少しでも紗月の同情を引こうと、咄嗟に嘘を重ねたのだろう。 その場しのぎの浅はか
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第140話

 慎一の予想は外れなかった。 紗月は確かに彼と言葉を交わしたくなかった。 慎一だけではない。今は誰とも顔を合わせたくないし、誰かと話す気力も残っていなかった。 紗月は再び布団の中へ身を潜り込ませ、厚い掛け布団で身体をすっぽりと包み込む。 少しでも、この苦しさから逃れられるような気がした。 視界が闇に閉ざされると、先ほど見た夢と、ほんの数週間だけ自分のもとへ来てくれた我が子の姿が、再び脳裏によみがえる。 涙はまた静かに溢れ出した。 嗚咽だけは漏らすまいと必死に堪えたせいで、肩は小刻みに震え続ける。 そうして涙を流し続けるうちに、紗月はいつしか再び眠りへと落ちていた。 今度の夢に、あの会いたかった白い光はもう現れなかった。 あるのは、どこまでも続く深い闇だけだった。 次に目を覚ましたときには、窓の外はすっかり夜の帳に包まれていた。 病室の照明も眠りを妨げないよう明るさが落とされ、室内は淡い灯りに静かに照らされている。 眠ったはずなのに身体は鉛のように重く、疲れは少しも取れていなかった。 泣きながら眠ってしまったせいだろうか、全身が痛い。 瞼も頬も熱を帯びたように痛み、どこにも痛くない場所など残っていないようだった。 病室には自分しかいないものだと思っていた。 ゆっくりと身を起こしたその瞬間、ベッド脇の椅子に座る慎一の姿が目に入り、紗月は小さく肩を震わせた。 慎一はいつからそこにいたのだろう。 手にはスマートフォンも資料もない。 紗月が二度目に眠りについてからずっとここにいたのだとすれば、もう何時間もこうして座り続けていたことになる。「……」 慎一の姿を認めた途端、ただでさえ重かった身体がさらに沈み込んでいくような気がした。 紗月は唇をきゅっと結び、そのまま顔を背ける。 一言も話したくなかった。 慎一もまた、ひどく疲れた顔をしていた。 その表情は痛々しいほど憔悴しきっていて、普段の彼からは想像もできないほどだった。 紗月が一度だけ自分へ視線を向け、すぐに逸らしたことに気づくと、慎一は長い沈黙の末、ようやく口を開く。「紗月、その……」 呼びかけたものの、その先の言葉が続かない。 何度も口を開いては閉じ、ようやく絞り出したのは、「……水、飲むか」 ただ、それだけだった。 これほど誰かに許してほしいと願ったこと
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