Tous les chapitres de : Chapitre 151 - Chapitre 160

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第151話

 慎一の声は低く、電話越しだからなのか、その問いかけにはどこかためらいと遠慮が滲んでいた。 けれど今の紗月には、そんな慎一の微かな変化に気づく余裕などなかった。 頭の中は祖父のことでいっぱいだった。「おじいさまに何かあったんですか?」「……」 慎一は答えない。 返ってきたのは沈黙だけだった。その静けさがかえって不安を募らせ、紗月の顔からみるみる血の気が引いていく。「私、今すぐ向かいます」「俺が迎えに行く」「大丈夫です。タクシーで向かいますから」 紗月はそう言ってエレベーターの下行きボタンを押し、到着を待ちながら通話を切ろうとする。 数秒の沈黙のあと、慎一が静かに告げた。「もう下にいる。俺が連れて行ったほうが早い」「え……?」 そう言い残すと、慎一は返事を待つことなく電話を切ってしまった。 紗月は呆然とスマートフォンを見つめる。 オーディション会場へ入る前に見かけた、あの黒い車。ただよく似た車だと思っていた。 それが本当に慎一の車だったなんて。 どうして慎一がここにいるのだろう。 最初から、自分がここでオーディションを受けることを知っていたのだろうか。 次々と疑問が胸に浮かび、オーディションの準備に没頭することでようやく落ち着きを取り戻していた心が、再び静かに揺れ始める。 答えを求める思いばかりが募っていった。 それでも車の前まで来る頃には、その感情を胸の奥へ押し込み、紗月はいつものように冷静さを取り戻していた。 久我はすでに車の外で待っていた。 紗月の姿を見つけると、穏やかな笑みを浮かべて後部座席のドアを開く。「奥様、どうぞ」 慎一が相手なら断ることもできた。 けれど、昔から何かと気にかけてくれていた久我にそう言われると、無下にすることはできない。 紗月は困ったように久我を見つめ、小さく息をついて後部座席へ乗り込んだ。 車内へ足を踏み入れた瞬間、慎一と視線が重なる。 慎一はどこかぎこちない表情のまま小さく頷き、すぐに視線を逸らした。 その横顔は、どこか落ち着かない様子にも見えた。「おじいさまは、どうされたんですか」 紗月が尋ねると、慎一は一瞬言葉に詰まり、小さく息をついた。「……着けば分かる」 それ以上は何も語らない。 車は静かに走り出した。 窓の外では見慣れた街並みが一定の速さで流れていく
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第152話

 紗月は眉を寄せ、目の前の慎一を見つめた。あまりにも理不尽だと思うのに、言い返す言葉は一つも見つからない。 結局、俯いたまま足早に歩き出したものの、急ぎすぎたせいで玄関先の段差に足を取られそうになった。「危ない」 再び慎一に腕を掴まれる。 今度はただ、紗月を転ばせまいと咄嗟に手を伸ばしただけだった。 彼女の身体をしっかりと支え、体勢が整ったのを確かめると、すぐにその手を離す。 先ほど手を引かれたときも、今こうして腕を支えられたときも、慎一の手は昔と変わらず力強かった。 離されたあとも、その温もりだけが肌の上にかすかに残り、まるで彼の存在を忘れることを許さないように紗月の意識へ静かに触れてくる。 紗月は数歩先まで歩いてから玄関の扉に手をかけ、振り返ることなく、小さな声でぽつりと告げた。「……ありがとう」「気にするな」 背を向けたままだったため、慎一がどんな表情を浮かべていたのかは分からない。 それでも、その声は先ほどまでよりどこか柔らかく聞こえた。何をそんなに嬉しく思っているのか、紗月にはまるで理解できない。 これ以上考える気にもなれず、紗月はすぐに扉を開けると、慎一より一足先に家の中へ入った。 昼寝から目を覚ましたばかりの祖父は、機嫌も悪くなさそうだった。 午後は散歩がてら少し身体を動かそうと思っていたらしく、突然姿を見せた紗月と慎一を目にした瞬間、嬉しそうに顔をほころばせた。「紗月ちゃん! じいちゃんに会いに来てくれたのかい? 何かあったんじゃないだろうね。ほら、こっちへおいで。ちょうど数日前、古い友人から手土産をもらったんだ。甘いお菓子だから、紗月ちゃんもきっと気に入るよ。今持ってきてあげよう」 その視線が慎一へ移った途端、祖父の表情は露骨に曇った。「お前までどうして来た。会社はそんなに暇なのか?」 二人が揃って訪ねてきたことに、このときの祖父はまだ深く考えてはいなかった。 それよりも、紗月が顔を見せてくれたことの嬉しさのほうがずっと勝っていたのだ。 ひとしきり喜んだあと、祖父は心配そうに紗月の顔を覗き込み、そのまま身体へ視線を移した。「紗月ちゃん、まだ身体は痛むのかい? 退院したらここで暮らしなさいって言ったのに、どうしても外で暮らすなんて言い張って……。まったく、この子は少しもじいちゃんを頼ろうとしないんだから」
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第153話

 祖父のそばにいるだけで、紗月の心は少しずつ落ち着きを取り戻していった。 慎一も同じ家にいるというのに、祖父が隣にいてくれるだけで、不思議と張り詰めていた気持ちがほどけていく。 紗月が来てくれたことがよほど嬉しかったのだろう。 祖父は数日前にもらった手土産のお菓子を嬉しそうに取り出しては、「これも食べなさい」「あれも食べなさい」と次々に勧めてくる。 それだけでは足りないと言わんばかりに、「若い子はこういうのが好きなんだろう」と笑いながら自らキッチンへ立ち、手作りのミルクティーまで淹れてくれた。 少し遅れて、慎一もダイニングへ姿を見せる。 だが、テーブルに並んでいたのは紗月と祖父の分だけ。慎一の分は、当然のように用意されていなかった。 あまりにも露骨な扱いに、慎一は思わず苦笑を漏らす。 それでも気にした様子はなく、何事もなかったかのように椅子を引いて腰を下ろした。 もちろん、祖父がそんな慎一を歓迎するはずもない。 顔を合わせるたび、「さっさと帰れ」と言いたげな視線を向け、隙あらば追い返そうとしていた。 一方の紗月も、ほとんど口を開かなかった。 慎一とはできるだけ目を合わせないようにし、祖父に話しかけられたときだけ穏やかに受け答えをする。 それ以外は静かにカップへ視線を落としたまま、ただゆっくりとミルクティーを口に運んでいた。 三人で囲む食卓はどこか賑やかなのに、不思議とぎこちなさも漂っていた。 そんな時間が十五分ほど過ぎた頃、不意に玄関のチャイムが鳴る。 掃除を担当している家政婦が応対へ向かい、やがてスーツケースを引いた久我を連れて戻ってきた。「旦那様、こんにちは。奥様もこんにちは。社長、ご依頼のお荷物をお持ちしました」 久我の姿を目にした祖父と紗月は、そろって目を丸くする。 対照的に、慎一だけは当然と言わんばかりの顔で久我へ指示を出した。 祖父が紗月へ泊まっていくよう勧めた直後、慎一はすぐに久我へ連絡を入れ、自分の荷物を運ぶよう手配していたのだ。 もう少し時間がかかると思っていたが、久我の仕事は相変わらず早い。「俺の部屋へ運んでくれ」「かしこまりました」 久我は慣れた足取りで二階にある慎一の部屋へ向かっていく。 その背中を見送りながら、祖父はようやく状況を察したのか、何とも言えない顔で慎一を見た。「慎一、お前まで
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第154話

 慎一は紗月と話したいと言った。けれど、彼の口から続く言葉はなかった。 紗月はしばらく待ってみたものの、慎一が何かを話し出す気配はない。 やがて何も言わず、顔を上げることもないまま、その場を離れて自分の部屋へ戻った。 自分では、慎一の前で十分に冷静に振る舞えたと思っていた。 未練など、もう何一つ残っていないのだと。 それなのに、部屋へ戻る足取りは思っていたよりもずっと速く、扉を閉めた途端、胸の鼓動がさっきよりも速くなっていることに気づく。 その夜は、珍しくなかなか寝つけなかった。 理由はいくつも思い浮かぶのに、どれ一つとして答えにはならない。 紗月はベッドへ横になり、闇に溶け込んだ天井をぼんやりと見つめる。 頭の中ではさまざまな思いが渦巻いているのに、自分が何を考えているのかさえ分からなかった。 何度も目を閉じて眠ろうとする。 それでも眠気は一向に訪れず、胸の奥だけが落ち着きなくざわついていく。 このまま横になっていても眠れそうにない。 そう思った紗月は身体を起こし、温かいミルクでも淹れようとキッチンへ向かうことにした。 少しでも気持ちが落ち着けば、眠れるかもしれない。 時刻は、もうかなり遅い。 普段なら祖父はとっくに休んでいる時間だった。 ところが階段を下りかけた紗月は、リビングの灯りがまだ点いていることに気づく。 思わず足を止め、そっと階下を覗き込んだ。 祖父と慎一が、向かい合うようにソファへ腰掛けている。 紗月は階段の途中で立ち止まり、そのまま息を潜めた。 二人の声は決して大きくはなかった。 それでも静まり返った家の中では、途切れ途切れに交わされる会話まで耳に届く。「慎一。紗月はもう十分につらい思いをしたんだ。これ以上、あの子を苦しませるようなことはするな」「……」「流産させてしまったことを後悔して、今さら償いたいと思っておるのかもしれん。だがな、お前がもっと早く紗月を大切にしておれば、あの子が離婚を望むことなどなかった」 祖父の声には、抑えきれない怒りと、長い年月を背負ってきたような深い疲労が滲んでいた。「昔、紗月がお前を好きだと言ったとき、二人を結婚させようと決めたのは、このわしじゃ。だが、お前がわしの前でどれだけ仲睦まじい夫婦を演じたところで、気づかんとでも思っておったのか。わしはまだ、何も見えんよ
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第155話

 思い返せば思い返すほど、あの頃の記憶が次々と胸の奥から溢れ出してくる。 そのたびに胸の奥が重く塞がれたように苦しくなり、息苦しさだけが募っていく。 けれど、何がこんなにも苦しいのか、自分でもうまく言葉にはできなかった。 ようやく眠りについたものの、その夜も安らかな眠りにはならなかった。 ここ数日と同じように、何度も悪夢にうなされ、そのたびに夜中に目を覚ます。 久しぶりにこの家へ戻ってきたせいなのかもしれない。 家政婦がいつもきれいに掃除をしてくれていたおかげで、結婚前に使っていた自室は、あの頃とほとんど変わらないままだった。 紗月はこの家で慎一と共に育った。 この部屋の隅々には、慎一との思い出が今もなお残っている。 家具も、棚に飾られた小物も、本棚に並ぶ本も。 棚の片隅に置かれた目立たない小さな置物でさえ、慎一と一緒に選んだものだった。 眠っては目を覚まし、また眠っては眠りにつく――そんな夜を何度も繰り返し、翌朝、家政婦に朝食の時間だと呼ばれて部屋を出る頃には、紗月は寝不足ですっかり体が重くなっていた。 部屋を出ると、ちょうど隣の部屋から慎一も姿を現した。 彼の部屋は昔から紗月の部屋のすぐ隣にある。 慎一も紗月と同じようによく眠れなかったのだろう。顔色は決して良いとは言えなかった。 それでも、口元にはかすかな笑みが浮かんでいて、その機嫌の良さだけは隠しようがなかった。「おはよう」 慎一が先に声をかける。 紗月は一瞬だけ慎一へ視線を向けると、すぐに俯き、そのまま彼の脇を通り過ぎようとした。 だが、どれほど距離を置きたいと思っていても、幼い頃から身についた礼儀が、挨拶を完全に無視することだけは許さなかった。 慎一の横を通り過ぎる際、小さく「……うん」とだけ返し、そのまま足を止めることなく歩いていく。 もちろん、「おはよう」と返したわけではない。 紗月なりに示した、ささやかな拒絶だった。 朝食の席では、慎一が珍しくテレビをつけ、芸能情報を扱う情報番組へチャンネルを合わせた。 彼には食事中にテレビを見る習慣などない。 まして、自分から芸能番組を流すなど、これまで一度もなかった。 その様子に祖父も紗月も不思議そうな顔をする。 だが、番組へ由衣がゲストとして出演している姿が映った瞬間、紗月は小さく眉を寄せ、胸の奥に言いよ
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第156話

 バンッ、と食卓を叩く音が響いた。「何を考えとるんじゃ!」 祖父はもともと芸能番組には興味がない。テレビがついていても、祖父にとってはせいぜいBGM代わりだった。 朝倉家では昔から、食卓での厳しい決まりごとはない。子どもたちがテレビを見ながら食事をしていても、祖父は咎めるような人ではなかった。 もっとも、慎一も紗月も、幼い頃からそんな習慣はなかったが。 今日は慎一が珍しくテレビをつけたものだから、祖父も少し不思議に思っていた。 まさか、こんな番組を見るためだったとは。 紗月の表情がみるみる曇っていくのを見ていると、慎一を一発殴ってやりたい気持ちさえ込み上げてきた。 祖父が怒りを露わにしても、慎一はほとんど表情を変えなかった。「由衣が会社に無断で出演を決めた。社長として確認するのは当然だ」 由衣が会社に無断で出演を決めることは、慎一の予想どおりだった。 いや、正確には――慎一自身が社内の人間を通じて、「話題になるような発言を求めている番組がある」という情報を、それとなく由衣へ流していたのだ。 由衣なら、必ず食いつく。 そして、彼女が何を狙っているのかも、慎一には最初から分かっていた。 テレビの中では、由衣がなおも笑顔で話し続けている。「もちろん、私は社長には離婚なんてしてほしくありません。社長は私にとって、大切な理解者であり、恩人でもあります。私の可能性を見つけてくださって、もっと大きな舞台へ立たせてくださいました。本当に感謝していますし……社長がいてくださるだけで、私はいつも安心できるんです」 その口ぶりは、慎一を心の底から慕っているようだった。 言葉を紡ぐたび、恋する少女のようなはにかみが頬に滲み、ふと目元を潤ませる。 何かを思い出したように伏せる視線も、寂しさを隠すように浮かべたかすかな笑みも、カメラは逃さず映し出していた。 その一つひとつの仕草が計算され尽くしているかのようで、それでいて、見る者には思わず守ってあげたくなるような儚さだけが残る。 紗月はそれ以上見ていられず、静かにカップを置いて席を立とうとした。 そのとき、不意に慎一の喉から、くすりと小さな笑いが漏れた。 思わず顔を上げる。 けれど慎一は、いつの間にか視線をテレビへ戻していて、もう紗月のほうを見てはいなかった。 由衣が出演したその番組は、午前中の
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第157話

 紗月は、慎一と由衣のことにこれ以上首を突っ込むつもりはなかった。 もう離婚している以上、慎一が由衣と結婚し、新しい家庭を築こうと、それは慎一自身が選ぶ人生だ。自分にはもう何の関係もない。 芸能人のゴシップなど、どうせ長くは続かない。 毎日のように新しい話題やニュースが生まれては消えていく。 由衣は人気女優ではあるものの、国民的な知名度を持つほどではない。週刊誌や芸能記者にとっても、もっと追いかける価値のある相手はいくらでもいるはずだった。 ところが、その騒動は紗月の予想に反し、いつまで経っても収束する気配を見せなかった。 まるで誰かが裏で糸を引いているかのように、由衣に関する記事は連日のように配信され、世間の関心は日を追うごとに過熱していく。 芸能界に興味のない紗月でさえ、スマートフォンを開けば、おすすめ記事やニュースアプリの通知には由衣の名前が並んでいた。 騒動は朝倉グループや慎一にも飛び火し、世間の注目はますます大きく膨れ上がっていく。 やがて一部のゴシップ誌は慎一本人の写真まで入手し、「立場を利用して女優に枕営業を強要した」「利用するだけ利用して捨てた」など、事実無根の記事を次々と書き立て始めた。 これまで慎一が築き上げてきた愛妻家のイメージまで、「すべて世間向けの芝居だった」と厳しく非難されるようになる。 その影響は株式市場にも及び、朝倉グループの株価は連日のように下落を続けた。 事態は、紗月の想像をはるかに超える深刻さへと発展していった。 そんな日々が数日続いた、ある夜。 慎一から一本の電話がかかってきた。『紗月。少しだけ、会えないか』 受話器越しに聞こえてきた声はひどく疲れ切っていて、いつもの張り詰めた響きはない。 時計を見ると、時刻は夜九時を回っていた。 紗月は気が進まなかった。 離婚した今となっては、慎一と二人きりで会う理由など、どこにもない。 だが、その声からは珍しく焦燥が滲んでいた。『少し話すだけでいい。話が終わったら、すぐ帰る』 その電話をかけている時点で、慎一はすでに紗月の住むマンション近くの駐車場に車を停めていた。 あとは、紗月が頷くのを待つだけだった。 受話器越しに伝わる紗月のためらいを感じ取りながらも、慎一は膝の上で指先を一定のリズムで静かに叩いていた。 焦る様子はない。 紗月は根
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第158話

 結婚する前の紗月は、自分が朝倉家でどんな存在なのか、最後まで分からずにいた。 祖父は何度も「家族だ」と言ってくれた。 慎一もまた、同じような言葉を口にしたことがある。 それでも紗月は、自分が本当の意味で朝倉家の一員になれたとは思えなかった。 自分の身体には、朝倉家とは違う血が流れている。 名字だって、朝倉とは何の縁もない。 ――友枝。 それが、実の父親の姓だった。 もっとも、紗月には父親の記憶などほとんどない。 祖父から、学者だったと聞かされただけで、生きているのか、それとももうこの世にいないのかさえ分からなかった。 だから結婚し、戸籍上の姓が「朝倉」へ変わった時。 これでようやく、自分も本当の意味で家族になれたのだろうか――そんなことを初めて考えた。 少なくとも、朝倉家に堂々と居場所を持ち、「朝倉家の人間」としてここにいてもいいのだと、そう思えた。「……」 けれど今、慎一の口から再び「家族」という言葉を聞いても、胸に込み上げるのは、どうしようもない悲しさだけだった。 慎一の態度が少しずつ変わったのも、もう夫婦ではなくなったからなのだろうか。 婚姻という繋がりさえなくなれば、二人はまた昔のように、兄妹にも似た関係へ戻れる。 ――慎一は、そんなふうに思っているのだろうか。 もっとも、その変化も、紗月を流産させてしまったことへの罪悪感から来るものなのかもしれない。 この三年間、慎一が紗月にしてきたことは、あまりにも残酷だった。 それでも彼は、人の痛みを楽しむことに喜びを覚えるような人間ではない。 だからこそ、今さらになって償いたいと思う気持ちが芽生えたとしても、不思議ではなかった。 けれど―― 慎一がどんな思いを抱えていようと、紗月には滑稽にしか思えなかった。「離婚した以上、もう家族ではありません。朝倉社長」「……その言葉、祖父さんの前でも同じように言えるか」 その一言に、紗月は言葉を失う。 反論したいのに、何も言い返せなかった。 開いていた資料を静かに閉じ、膝の上へ揃えて置くと、慎一を真っ直ぐ見つめる。 その瞳には、隠し切れない警戒が宿っていた。「……結局、何が言いたいんですか」 慎一はわずかに口元を緩める。 そしてポケットから小さな箱を取り出し、そっと紗月の手のひらへ載せた。 紗月は戸惑いながら箱を
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第159話

 慎一が突然そんな理不尽な提案を口にしたことに、紗月は理解が追いつかなかった。 離婚したばかりなのだ。 三年間続いた結婚生活は、紗月にとって苦しみしか残らないものだった。ようやく目を覚まし、その関係から逃れられたというのに、慎一は今さらこんな馬鹿げた形で、二人の繋がりを続けようとしている。「……私には――」「契約上の夫婦でいい、紗月」 紗月の言葉を遮るように、慎一は淡々と言った。「お前の望む条件は用意する。承諾するなら、すぐにでも秘書に契約書を作らせよう」 まるで、ごく当たり前の取引を持ちかけるような口調だった。 慎一は紗月の近況まで把握している。「紗月。最近オーディションを受けただろう。結果はあまり良くなかったらしいな」 その一言に、紗月の肩がわずかに震えた。「その監督についても調べた。実力は二流止まりだ。仮に出演が決まったとしても、その作品一つで、お前の女優としての未来が大きく変わることはない。お前が望むなら、専属の事務所を立ち上げてもいい。芝居がしたいなら、一番いい脚本を用意する。賞が欲しいなら、受賞できるように手を回すこともできる」 慎一が提示する条件は、あまりにも現実離れしていた。 夢物語のような話だった。 紗月は、それが決して空想では終わらないことを知っている。彼には、それだけの力がある。 胸の奥に浮かんだ考えを、紗月は振り払うことができなかった。 由衣を傍に置いていた頃も。 慎一は彼女に、同じような未来を約束していたのだろうか。「……そんなもの、必要ありません。確かに私は演技がしたい。でも、あなたがいなくても、自分の力で前へ進んでいけます」 慎一は喉の奥で低く笑った。「紗月。俺はお前に近道を与えることもできる。芸能界で二度と仕事が来ないようにすることもできる」 感情を交えない声音だった。 淡々としているからこそ、その言葉には逃げ場のない重みがあった。「せっかく役者を目指すなら、楽な道を選べばいい。わざわざ苦労する必要があるのか」「……それでも構いません」 紗月は視線を逸らさなかった。 真っ直ぐ慎一を見つめ返し、静かな声で答えた。「朝倉社長。私は綾瀬さんと違って、芸能界に執着しているわけではありませんから」「……」 一瞬だけ、慎一の表情がわずかに固まる。 短い沈黙のあと、彼はふと何かを思い出
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第160話

「文字どおりの意味だ。紗月。契約夫婦であっても夫婦であることに変わりはない。人前で仲のいい夫婦を演じる必要がある以上、お前に一切触れないわけにはいかないだろう」 あまりにも堂々とした口ぶりだった。 後ろめたさなど微塵も感じさせない。 その条項も当然必要なものだと言わんばかりで、こんなにも動揺している紗月のほうが、余計なことを考えすぎているようにさえ思えてしまう。「……嫌です」 紗月は契約書を静かに閉じた。 こんなことをするために離婚したわけではない。 ようやく決心した。 ようやく慎一への想いを手放そうとした。 ようやく苦しみから抜け出そうとしている。 もうこれ以上、慎一と縛られ続ける人生だけは望んでいなかった。「条項は修正してもいい」 慎一は表情一つ変えずに答える。 紗月はゆっくりと首を振った。「慎一……私は、本当にあなたといることが苦しかったから離婚したの」 声は震えていた。「情報が漏れることを心配しているなら、私はこの街を離れます。別の場所で暮らします。あなたの目につくこともありません。会社の脅威になるようなこともしません」 そう言って、契約書を慎一のほうへ押し返す。 署名するつもりはない。 その意思は誰の目にも明らかだった。 慎一は契約書へ静かに視線を落とし、やがて何事もなかったようにそれを手元へ引き寄せる。「紗月」 穏やかな声が響いた。「お前が望まないことを、俺は強要しない」 その言葉に、紗月は胸の奥でそっと息をついた。 拒絶を受け入れてもらえたことに、張り詰めていた緊張が少しだけほどけていく。 席を立ち、このまま帰ろうとした、その時だった。 背後から慎一の声が追いかけてくる。「ただ、紗月。俺と条件を交渉できる機会は、これが最初で最後だ。次にお前から取引を持ちかける時、お前はもう主導権を持てない」 穏やかな声だった。 感情を荒らげることも、脅すような口調になることもない。 それでも、その言葉は静かに紗月の胸へ沈み、逃げ場のない重さだけを残していく。 紗月は足を止めた。 ゆっくりと眉を寄せ、小さく笑う。 その笑みには、呆れと諦めが滲んでいた。「そんな日は来ません、朝倉社長。私が望むのは……必要な時以外、これから先、あなたとはもう二度と会わないことです」 * 午後になると、凛子から電話が
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