Tous les chapitres de : Chapitre 141 - Chapitre 150

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第141話

 慎一は眉をきつく寄せた。 紗月の言葉は予想していた。それでも、いざ本人の口から告げられると、どうしても受け止めることができず、しばらく黙り込んだあと、ぎこちなく話題を逸らす。「……紗月。目が覚めたばかりだし、先生を呼んでくる」 そう言うと、慎一はふらりと身体を揺らしながら立ち上がり、おぼつかない足取りのまま病室を後にした。 その足取りはどこか逃げるように慌ただしく、まるでこの場所にいることに耐えられないかのようだった。 紗月は病室の扉が静かに閉まるのを見届ける。慎一がいなくなっただけで、もともと広かった個室はさらに広く感じられ、静けさだけが痛いほど胸に染みた。 やがて、その静寂に包まれているうちに耳の奥では耳鳴りのような音まで響き始め、紗月は深く息を吐いてそっと目を閉じ、そのまま顔を布団へ埋めた。 その夜、慎一は付き添おうとしていた。 だが、紗月のあからさまな拒絶が浮かぶ表情を目にすると、これ以上彼女の心を乱したくはないと思ったのか、一度言葉を飲み込み、しばらく俯いた末、ようやく静かに口を開いた。「……また明日、来る」「離婚の話じゃないなら、もう来ないで」 もっと残酷な言葉をぶつけようとも思った。 もっと冷たく突き放し、二度と立ち直れないほど傷つけてしまいたいとさえ思った。 けれど、紗月にはもうそんな力すら残っていなかった。 その疲れは、慎一と結婚した日から少しずつ胸の奥へ積み重なり、気づけば息をすることさえ苦しくなるほど、自分を蝕んでいた。 あの日から今日まで、心から安らげた瞬間など一度もない。 ……いや、もしかすると。 母に見捨てられた、あの日からずっと。 誰かの顔色を窺い、嫌われることを恐れ、捨てられないよう必死に息を潜めて生きることが当たり前になっていた。 その張り詰めた緊張さえ、自分では気づかないうちに人生の一部となり、肩の力を抜いて生きる方法すら忘れてしまっていたのかもしれない。 だから今は、ただ眠りたかった。 何もかも忘れて。 誰のことも思い出さずに。 そうでもしなければ、一秒一秒があまりにも苦しく、このままでは本当に壊れてしまいそうだった。「……」 慎一は最後まで「離婚」という言葉を口にしようとはしなかった。 目を閉じたまま、自分を見ようともしない紗月をしばらく見つめ続け、やがてどうしようもない
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第142話

 紗月は、慎一が返済を求めたのは、自分への最後の報復なのだと信じていた。 そもそも、美沙子が慎一に頭を下げて金を借りたのは事実だ。 慎一がその金を貸したのも、少なからず自分への情があったからだろう。せめて美沙子に恥をかかせないように――その程度の情けくらいは残っていたのだと思っていた。 結局のところ、紗月は無意識のうちに、慎一という人間をまだどこかで信じてしまっていた。 だからこそ、慎一が最初から離婚するつもりなど一度もなかったことにも気づけなかった。 たとえ美沙子が金を借りに来なかったとしても、慎一は別の理由を作り、何としてでも紗月を自分のそばへ繋ぎ止めていただろう。 美沙子の借金は、慎一にとってあまりにも都合のいい口実だった。 彼女が借金を申し込んだ途端、慎一は「これ以上都合のいい口実はない」と直感した。 自分にとっては取るに足らない金額で、紗月の尊厳も、自由も、そして自分のそばにいられる時間までも買うことができる。 たとえ約束どおり紗月が借金を返済したとしても、その気になれば、美沙子へまた金を貸せばいい。 慎一なら、それくらい平然とやってのける。 ……いや。 最初から、そのつもりだった。 藤崎家の会社は、すでに崩壊寸前だった。社内は混乱し、競合他社からの圧力も日増しに強まっている。 慎一が貸した程度の金では、一か月持つかどうかさえ怪しかった。 慎一は、自分の計画は完璧だと思っていた。 だが、ここまで来てようやく気づく。 なぜ、自分はここまでして紗月を繋ぎ止めようとしていたのか。 答えは、最初から決まっていた。慎一は、一度たりとも紗月と離婚するつもりなどなかったのだ。 紗月が自ら「離婚」と口にしたあの瞬間、初めて心の底から恐怖を覚えた。 思い返せば、慎一には最初からこの結婚を断ることだってできた。 それでも断らなかった。 憎しみに目を曇らされ、結婚という枷を復讐の道具に選び、紗月だけでなく、自分自身までその鎖で縛りつけた。 紗月が惜しみなく注いできた愛情を当然のように受け取り、それさえも復讐の代償として踏みにじってきた。 そうして憎しみに囚われ続けるうちに、自分の本当の気持ちすら見失い、気づけば、自分の手で紗月をここまで追い詰めてしまっていた。 慎一は、生まれて初めて後悔という感情に呑み込まれていた。「……紗
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第143話

 結局、最後まで慎一は何も答えなかった。 紗月ももう、愛しているだとか、愛していないだとか、そんな話を続ける気にはなれなかった。 慎一が自分を愛していようと、愛していまいと、今となってはもう何の意味もない。「慎一……もう疲れたの。これ以上、私を疲れさせないで。離婚届には、とっくに署名してあるから……あなたも署名したら、そのまま提出して。お願い」 紗月の顔にも、慎一に負けないほど濃い疲労の色が浮かんでいた。 その姿を目にするだけで、慎一の胸は締めつけられる。 後悔という感情を知った今になってようやく、自分が紗月を見て心を痛めていることも認められるようになっていた。 慎一は耐えきれず視線を逸らし、部屋の隅に飾られた花束へ目を向ける。「……紗月。ゆっくり休んでくれ。何かあったら呼んでほしい。俺は外にいるから」 仕事の大半はキャンセルしたものの、紗月があれほど露骨に拒絶している以上、病室に居続けることはできなかった。 慎一は地下駐車場へ戻ると、急ぎの電話を数件受け、そのまま車内で各部署の部長から送られてきた書類に目を通し、最低限の決裁だけを済ませていく。 気づけば、時刻はもう昼近くになっていた。 慎一は後部座席へ深く身を預けたまま、ぼんやりと窓の外を眺める。病院の前では、さまざまな人々が行き交っていた。 足早に病院へ駆け込んでいく人。 支え合うようにゆっくり歩く老夫婦。 幼い子どもを抱きかかえ、不安げな表情で院内へ急ぐ親。 そんな光景を眺めているうちに、頭の奥がじわりと痛み始めた。 運転席では、久我が黙ったまま待機している。 慎一は普段から車内で音楽を流すことはない。 だからこそ、静まり返った車内は息苦しいほど重苦しく、その沈黙が胸にまでのしかかってくるようだった。「……久我」 慎一が低く名を呼んだ。「社長、お戻りになりますか」「……俺は、本当に――」 そこまで口にして、慎一は言葉を飲み込んだ。 一瞬だけ、久我に胸の内を吐き出したい衝動に駆られた。だが、そんなことを考えた自分が、ひどく滑稽に思えた。 返事を待っても続きがないことに気づき、久我が静かに声をかける。「……社長?」 慎一は小さく首を横に振った。「いや、何でもない。今日はもう戻っていい。俺はしばらく病院にいる」「かしこまりました」 午後になってしばら
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第144話

 離婚の話は、慎一が向き合おうとしないまま、ずるずると先延ばしになっていた。 紗月には、慎一が何を考えているのか分からない。 知ろうとする気力も、もう残っていなかった。 それでも慎一は毎日のように病室へ通い、当たり前のように紗月のそばに居続ける。 その献身的な振る舞いが、紗月には滑稽で、ひたすら鬱陶しかった。 視線を向けないようにしても、話しかけないようにしても、慎一という存在はあまりにも大きすぎる。 意識しないよう努めても、気づけば頭の中にいるのは、結局また慎一だった。 もう愛していない。 そう何度も自分に言い聞かせても、それだけで積み重ねてきた苦しみや悔しさ、恨みまで消えるわけではない。  紗月は、結婚という名のガラス片が敷き詰められた場所へ、自ら足を踏み入れた。 全身を傷だらけにしながら、それでもようやく自分の力でそこから抜け出そうとしている。 けれど、身体に突き刺さったガラス片は、まだ一つ残らず抜け落ちたわけではなかった。 傷口は今も生々しく開いたまま、血を滲ませ、癒える気配さえ見せていない。  慎一が病室へ通うようになって、何日か経ったある日のことだった。 薬を飲み終えた紗月は、病室へ入ってくる慎一へ何気なく視線を向ける。 窓から差し込む柔らかな陽射しが慎一の肩へ降り注ぎ、その姿を、記憶の中にある優しかった頃の面影と重ねてしまった。 その瞬間だった。 胸の奥へ押し込めていた悲しみが、一気に堰を切ったように溢れ出す。 紗月は呆然と慎一を見つめたまま、次の瞬間には涙が止まらなくなっていた。 慎一が慌てて駆け寄ってくる姿がぼやけて見える。 紗月は堪えきれず嗚咽を漏らし、そのまま子どものように声を上げて泣き出した。 悲しみはあまりにも突然だった。 紗月自身でさえ、どうして急にこんなにも涙が溢れるのか分からない。 ただ、言葉にできないほど大きな悲しみだけが胸を締めつける。 苦しかった。 ただ、ひたすら苦しかった。 この病室へいることさえ、どうしようもなく苦しかった。  どうして自分だったのだろう。 どうして、自分だけがこんな目に遭わなければならなかったのだろう。 紗月は、ごく普通に生きてきただけだった。 誰かを傷つけたこともない。 悪いことだって、一つもしてこなかった。 それなのに、どうして自分だけが、
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第145話

 慎一の謝罪は、紗月を少しも救わなかった。 むしろ、その一言を聞けば聞くほど恐ろしくてたまらず、最後の最後まで求め続けた答えさえ、結局慎一は何一つ返してはくれなかった。 その姿があまりにも悲しく、惨めで、悔しくて、涙は止まるどころか次々と溢れ出す。堪えきれなくなった紗月は背中にあった枕を掴むと、そのまま慎一へ投げつけた。 慎一は避けなかった。柔らかな枕は胸へ軽く当たり、そのまま床へ落ちる。「紗月……もう泣かないでくれ。頼む」 慎一は途方に暮れたまま紗月を見つめることしかできなかった。 泣きじゃくる姿を前にしても、どうすれば彼女を救えるのか分からない。 やがて紗月は泣きすぎたせいで呼吸まで乱れ始め、その苦しそうな様子に耐えられなくなった慎一は、慌てて病室を飛び出して看護師を呼びに行く。 看護師はすぐに駆けつけると、優しい声で紗月へ話しかけながら、そっと背中をさすり続けた。 その温かな手と言葉に包まれるうち、激しかった嗚咽は少しずつ落ち着いていく。 第三者がそばにいたからなのか、慎一と二人きりで向き合うよりも、紗月はずっと早く感情を静めることができた。 慎一は、涙こそまだ頬を濡らしていたものの、先ほどのように泣き崩れてはいない紗月を見て、小さく安堵の息を吐く。「紗月……」 声をかけながら一歩踏み出した、その瞬間。「出ていって!」 紗月の鋭い声が病室に響いた。 慎一はぴたりと足を止める。 苦しみも、迷いも、諦めきれない想いも、その表情にはすべて滲んでいた。 看護師も心配そうに二人を見つめている。 慎一は唇を固く結ぶと、何も言わないまま紗月の望みどおり病室を後にした。 子どもを失ったばかりなのだから、情緒が不安定になるのも無理はない。 今はまだ心が追いついていないだけで、時間をかければ少しずつ落ち着いていくはずだ。焦る必要はない。自分には、まだ時間がある――慎一はそう信じていた。 だが、その日の夜、再び病室を訪れた慎一は、思いがけない人物の姿に思わず足を止める。「……じいさん?」 病室にいたのは祖父だった。 それまで紗月へ向けていた心配そうな表情は、慎一の姿を見た途端、痛ましさと怒りの入り混じったものへ変わった。「慎一、お前というやつは……! 紗月が妊娠していたのに、どうしてちゃんと見てやらなかった! あんな危ない現場へ
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第146話

 三年前の出来事が、不意に慎一の脳裏へ蘇る。 あの日も、同じ病院だった。 心臓を押さえ、苦しそうに息を繰り返す祖父は、病室で慎一を真っ直ぐ見据え、紗月との結婚を考えるよう命じた。 慎一は激しい怒りを覚えた。 それでも祖父の容体をこれ以上悪化させたくなくて、その怒りを無理やり胸の奥へ押し込めた。 あのとき、紗月も病室にいた。 まるで大きな過ちを犯してしまった子どものように部屋の隅へ立ち尽くし、俯いたまま祖父を見ることも、慎一を見ることもできず、一言も口を開かなかった。 慎一は何度か紗月へ視線を向け、長くはない沈黙の末、結婚を受け入れた。 ほんの数秒の出来事だった。 紗月にとっては、その数秒が息もできないほど長く、苦しい時間だった。 本当は止めなければならなかった。祖父へ、そんなことは望んでいないと伝えなければならなかった。 それでも心のどこかでは、その願いが叶うことを望んでしまった。 だから最後まで、何も言えなかった。 そして三年後――。 同じ病院で、今度は紗月自身が祖父へ離婚を願っていた。 慎一の頭は真っ白になる。 病室を静かな沈黙が包み込んだ。 ほんの数秒。 それなのに、その沈黙はどこまでも長く感じられた。 祖父は紗月の手をしっかりと握ったまま、静かに目を閉じた。 短い沈黙だった。 そのわずかな間に、どれほどのことを思ったのだろう。 やがてゆっくりと目を開けると、祖父は慎一へ視線を向け、迷いのない声で告げる。「慎一……離婚しなさい」「じいさん……!」 慎一は思わず一歩踏み出した。だが、祖父と視線が重なった瞬間、その足はそこで止まる。 その瞳に宿っていたのは、怒りでも、責める気持ちでもなかった。 ただ、慎一には理解できないほど深い悲しみだけだった。「慎一……わしが間違っておった。お前たちは小さい頃から一緒に育った。だから、きっと情も育っていくものだと信じておった。……じゃが、合わん者同士を無理に結びつけても、幸せにはなれんのだな」 その言葉の意味を、慎一はすぐには理解できなかった。紗月だけは、胸の奥が締めつけられるように痛んだ。 二人は祖父の前で、ずっと仲のいい夫婦を演じ続けてきた。だから祖父は何も疑っていないのだと、そう思い込んでいた。 けれど違った。 どれほど笑顔を作っても、幸せだけは演じきれなか
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第147話

 離婚にあたり、慎一が紗月へ渡した財産は、あまりにも多かった。 この先、一生働かなくても何不自由なく暮らしていけるほどの額だった。 紗月は思わず苦笑する。 三年間の結婚生活で、愛情も、望んでいた幸せも、何一つ手にすることはできなかった。 それなのに、離婚した途端、皮肉にも経済的な自由だけは手に入れてしまったのだから。 離婚協議書の内容は、祖父が自ら細かく確認していた。 最初に慎一がどのような条件を提示していたのか、紗月は知らない。 だが祖父はその内容に納得せず、朝倉グループの株式や複数の不動産まで財産分与へ加えるよう求めた。 慎一も異を唱えることはなく、祖父の言葉どおり、弁護士へすべてを書き加えさせていた。 その迷いのない態度を見ても、紗月はそこに愛情や未練を見いだすことはできなかった。 きっとこれは、慎一なりの償いなのだろう。  けれど、その気持ちも時が経てば少しずつ薄れていく。 いつか何も感じなくなれば、慎一はまた昔のように、自分を疎ましく思うようになるだけだ――紗月はそう思っていた。  離婚が成立する前日、紗月は一日かけて荷物をまとめ、家を出た。 新しく暮らすことにしたのは、財産分与で譲り受けた別のマンションだった。 結婚後に暮らしていた家も、そのまま紗月の名義になっている。 あの家には二人で過ごした時間の痕跡が、あまりにも多く残っていた。 慎一が帰ってくることはほとんどなかった。 それでも、家具も、食器も、何気ない景色も、そのすべてが慎一を思い出させた。 もうこれから先の人生で、彼を思い出すきっかけなど、一つも残したくなかった。 そう思った紗月は、迷うことなく引っ越しを選んだ。 引っ越しの日、慎一も家にいた。 梱包された段ボールが次々と運び出されていく様子を黙って見つめながら、長い沈黙の末、慎一はようやく小さく口を開いた。「……無理に引っ越さなくてもいい。この家に住み続けても構わない。お前が嫌なら、俺はもうここへ帰らない」 紗月は一瞬だけ手を止めた。 振り返ることはせず、荷物を整理する手を動かしたまま、静かに首を横へ振る。「大丈夫です。この家は広すぎますし、一人で住むにはもったいないので。……この三年間、私のせいであなたはずっとホテル暮らしでした。これからは、ちゃんと家へ帰ってください。そのほうが、お互
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第148話

 立花には、宇原真之という大学時代からの友人がいた。 立花ほどの知名度こそないものの、若くして頭角を現し、いくつもの映画賞を受賞してきた実力派の映画監督だ。手がけた作品も高く評価されている。 その宇原が今、新作映画のキャストを探していた。 だが、何度オーディションを重ねても、理想にかなう役者が見つからない。そんな折、立花と会う機会があり、何気ない雑談の中でその話になった。 「誰か、いい人はいないか」 宇原は気軽にそう尋ねた。 立花自身も新作映画の準備に追われており、その場では思い当たる人物はいなかった。 だが、紗月と出会ってから考えが変わった。 彼女なら、一度挑戦してみる価値がある。 自然と、そう思えた。 紗月が自分の撮影現場で事故に遭ったことは、立花も聞いていた。 現場へ戻るなり、副監督を厳しく叱責する。 勝手にシーンを書き換え、配役まで増やしていたからだ。たとえエキストラであっても、一つひとつのシーンには意味がある。 脚本は何度も検討を重ねた末に完成したものだ。 立花は撮影に関して妥協を許さない。 一度決めた脚本を、その場の判断だけで変えられることを何より嫌っていた。 長年ともに仕事をしてきた副監督なら、それを知らないはずがない。それでも独断で変更したことが、立花には許せなかった。 同時に、紗月への申し訳なさも募っていく。 どう償えばいいのか分からない。 連絡先を手に入れてからもしばらく迷った末、せめてこのオーディションだけは彼女へ伝えようと決めた。 立花から電話がかかってくるとは、紗月も思っていなかった。 ましてや、オーディションの話だとは夢にも思わない。「ただ……彼はかなり厳しい人です。ですから、必ず受かるとは言えません。それでも、僕は紗月さんなら可能性はあると思っています。もし挑戦してみたいと思われるなら、資料を送ります」 紗月はスマートフォンを握ったまま、小さく息を呑んだ。泣き続けたせいで熱を帯びた目元へ、そっと指先を添える。 窓の外では、車のヘッドライトが途切れることなく流れていた。 自分がどれほど深く悲しんでも、世界は変わらない。 時間は止まることなく流れ、人も街も、何事もなかったように動き続けている。 この数日間の自分を思い返し、紗月は思わず唇を噛んだ。 離婚したというのに、まだ慎一の影から
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第149話

 紗月は、自分の考えに思わず息を呑んだ。 ここからでは車内の様子までは見えない。運転席に誰が乗っているのかも分からない。慎一なのかどうかさえ確認することはできなかった。 それでも、「慎一かもしれない」という考えが頭をよぎった瞬間、紗月は反射的に窓際から身を引き、柱の陰へ身体を隠すように立った。 だがすぐに、自分でもそんな行動が可笑しくなり、小さく苦笑する。 慎一がこんな場所へ来るはずがない。 こんな偶然があるわけない。 ただ車が似ていただけかもしれないのに。 そう自分へ言い聞かせても、気になって仕方がなかった。 視線は何度もあの車へ吸い寄せられ、車内の様子を確かめようと目を凝らす。 もう少し近ければ見えるのに――。 そう考えた矢先だった。 「──○○番の方、お入りください」 スタッフに番号を呼ばれ、紗月ははっと我に返る。 慌てて手元の番号札を確認すると、小さく息を整え、オーディション会場へ足を踏み入れた。  会場は、一面が鏡張りになった、決して狭くはない部屋だった。 宇原監督が俳優選びに一切妥協を許さないことで知られているのは、業界では有名な話だ。 その厳しさは以前からたびたび話題になっており、知名度のわりに選考基準が厳しすぎるとして、役を逃した有名俳優が不満を口にしたという記事が出たこともあった。 オーディションは一人ずつ行われる。 会場には五人の審査員が並び、その視線が一斉に紗月へ向けられた。 胸が緊張で大きく高鳴る。 それでも表情だけは崩さず、部屋の中央まで歩み出ると、丁寧に一礼し、自分の名前とこれまでの経歴を簡潔に伝えた。 宇原は立花と大学時代の同期で、年齢もほとんど変わらない。若くして才能を認められ、監督として成功を収めた人物だった。 自己紹介を聞き終えても、宇原の表情はほとんど変わらない。 ただ静かに紗月を見つめ、そのままオーディションの開始を促した。 今回渡された台本は、映画の一場面だけを切り取った内容だった。 誰が主人公で、誰が脇役なのかさえ分からない。 登場人物の設定も最低限しか書かれておらず、おそらくは俳優自身がどこまで役を理解し、表現できるかを見るためなのだろう。 紗月は台本を受け取ってから、この一週間、何度も何度も読み返した。 人物の心情を考え、台詞を繰り返し口にし、身体へ染み込ませ
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第150話

 この結果は、紗月もある程度は予想していた。 結果そのものに悔いはなかった。けれど、自分を信じて推薦してくれた立花の期待に応えられなかったことだけは、申し訳なくてならなかった。 会場の外にある人の少ない片隅で立花へ結果を報告しようとスマートフォンを取り出すと、声をかけられた。「すみません」   紗月は顔を上げると、一人の女性が立っていた。「初めてお見かけしますが、オーディションを受けに来られた方ですよね?」 声をかけてきた女性は、カジュアルながらも洗練されたパンツスーツを着こなし、耳にかけたショートヘアはワックスできれいに整えられていた。 仕事のできる人特有の引き締まった空気をまとい、一つひとつの所作にも無駄がない。「あ……はい。オーディションを受けに来ました」 女性はふっと柔らかく微笑む。 紗月の表情を見て何か察したのか、慰めるような口調で続けた。「宇原監督、厳しかったでしょう? 一見すると穏やかそうに見えますけど、役者を見る目は本当に厳しくて、泣きながら出てくる人も少なくありません。でも、あなたはずいぶん落ち着いていたので、もしかしていい結果だったのかなと思ってしまって」 紗月は慌てて首を横に振った。「い、いえ……私も落ちました」「そうだったんですね。でも、あまり落ち込んでいるようには見えませんね」 女性は少し首を傾げると、ふと思い出したように尋ねた。「ちなみに、もうどこか芸能事務所には所属されていますか?」  突然の質問に、紗月は戸惑い、思わず目を瞬かせた。 すると女性は一枚の名刺を取り出し、紗月へ差し出す。 ――永長千尋。 見慣れない芸能事務所の名前と、「芸能マネージャー」という肩書が記されていた。「えっ……永長さん、ですか?」 千尋は穏やかな笑みを浮かべ、小さく頷く。「うちは決して大きな事務所ではありません。でも、所属している俳優やタレントはそれなりに知名度がありますし、待遇も悪くありません。新人向けの育成プログラムも整えています。もしまだ所属先がお決まりでなければ、一度お話ししませんか?」 突然の誘いに、紗月は戸惑うばかりだった。 受け取った名刺を見つめたまま、どう返事をすればいいのか分からない。 千尋が挙げた所属タレントの名前は、どれも紗月も知っている人ばかりだった。 最近人気を集めているアイドル
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