Tous les chapitres de : Chapitre 161 - Chapitre 170

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第161話

 凛子の反応は、明らかにどこかおかしかった。 普段は何があっても動じない彼女が、こんなふうに取り乱した表情を見せることなど滅多にない。紗月は心配そうに眉を寄せ、そっと手を伸ばして凛子の手に触れた。 そのまま優しく包み込むように握り、小さく微笑む。「凛子。私たち、友達でしょう? 凛子が私を心配してくれるように、もし何かあったなら、私にもちゃんと話してほしい」 紗月が思いのほか真剣な表情をしていたからだろう。 凛子は一瞬、きょとんとしたように目を瞬かせた。 思いがけない言葉だったのだろう。 すぐに大げさなくらい明るい笑みを浮かべると、今度は自分から紗月の手を握り返した。 温かな掌が紗月の手を包み込み、ほんの一瞬だけ、ぎゅっと力がこもる。 その温もりはすぐに離れ、凛子は照れ隠しをするように笑った。「大丈夫。さっき父からメッセージが来ただけなの。だから、ちょっと驚いちゃって……ごめんね、心配させちゃった。知ってるでしょう? 私、お父さんとはちょっと複雑だから」 困ったように肩をすくめ、小さく息をつく。 凛子の父親は、数年前に会社を上場させた経営者だった。 上場を果たしてからというもの、会社を背負う責任や重圧が一気に増したせいなのか、以前よりも短気で独善的な性格になり、家族との関係も少しずつ変わってしまったらしい。 紗月もこれまで、凛子から家のことを少しずつ聞かされてきた。 母親もまた経営者で、幼い頃から夫婦そろって家を空ける日が多く、凛子は両親と一緒に過ごす時間がほとんどなかったという。 家族で食卓を囲むことも少なく、忙しい両親に代わって、幼い凛子の成長を一番近くで見守ってきたのは、いつも家の使用人たちだった。 そんな家庭で育ったからだろうか。 優介が自分に優しくしてくれる紗月へ、人一倍懐いている理由も、少しだけ分かる気がした。「何でもないならよかった……でも、さっきの凛子、本当にすごく怖い顔をしてたよ」 紗月がそう言うと、凛子は照れ隠しをするように肩をすくめ、小さく笑った。「ごめん、ごめん。さっちゃんも知ってるでしょう? お父さんから連絡が来る時って、大体ろくな話じゃないのよ。何年か前なんて、お見合いしろって言われたこともあったんだから。あの時はちょうど海外留学が決まって、そのまま逃げちゃったけど……まさか今さらまた――」「
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第162話

 優介の言葉を聞いた瞬間、紗月は何を言われたのか理解できなかった。 慌ててソファから立ち上がる。 心臓が嫌な音を立てるように激しく脈打ち、胸の奥から不安が込み上げてくる。「優介くん、閉じ込められたって……どういうこと? それより、今どこにいるの? 私が迎えに行こうか?」 紗月の声を聞いて少し落ち着いたのだろう。 優介は今いる場所をすぐに教えてくれたものの、すぐにその言葉を打ち消すように小さく首を振った。「紗月お姉さん……僕がそっちに行ってもいい?」 震える声のまま、言葉を続ける。「姉ちゃん、自分の部屋に閉じ込められてるんだ。父さんも母さんも、僕を部屋に入れてくれなくて……」「もちろん。迎えに行こうか?」「ううん、大丈夫。タクシーで行きますから」 凛子は帰国してから実家で暮らしている。優介が言っている部屋とは、おそらく凛子の自室なのだろう。 優介が来るまでの間、紗月は何度も凛子へメッセージを送り、電話も繰り返しかけてみた。 けれど、返信は一つも返ってこない。 電話も何度鳴らしても繋がることはなかった。 携帯電話を取り上げられてしまったのかもしれない。 午後、父親から届いたメッセージを見た途端、凛子の表情が一変したことを思い出す。 あの時には、すでに何かが起きていたのだ。 そう考えると、胸騒ぎはますます大きくなるばかりだった。 幸い、優介は思っていたより早くやって来た。 インターホンが鳴ると、紗月は急いで玄関へ向かい、扉を開ける。 そこに立っていた優介は俯いたまま、ひどく心細そうな様子だった。 目元は赤く腫れ、紗月の顔を見た途端、堪えていた涙がまた瞳いっぱいに滲んでいく。 泣きそうになりながら、それでも必死に涙をこらえていた。 まだ成人にも満たない少年なのだ。そんな姿を目の当たりにした瞬間、紗月の胸はぎゅっと締めつけられた。 紗月は何も言わずに優介の手を取り、そのままリビングへ案内する。 ティッシュを手渡し、それからキッチンへ向かって温かいココアを淹れた。 優介の好きな飲み物だった。「紗月お姉さん……お父さんが、姉ちゃんを年上のおじさんと結婚させるって……」 紗月もソファへ腰を下ろし、何があったのか静かに尋ねる。優介は両手でマグカップを包み込み、しばらく俯いたまま黙っていた。 ようやく覚悟を決めたように、小さ
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第163話

 耳元では、姉のことを口にしたせいで再び悲しくなったのか、優介が小さくすすり泣いていた。 紗月は優介の背中へそっと手を添え、心配しなくても大丈夫だと静かに宥めながら、その名前について知っていることを頭の中で一つひとつ辿っていく。 男の名前は、早出明。 傘下にはいくつもの上場企業があり、いずれも国境を越えて事業を展開している。グループ全体の企業価値も相当なもので、経営破綻寸前の会社を救えるだけの資金力は十分にあるはずだった。 どこかで聞いたことのある名前だと思い、紗月は記憶を探り続ける。 しばらくしてようやく、慎一の口から早出社長という名前を聞いたことがあるのを思い出した。 早出グループと朝倉グループは、確か密接な協力関係にあったはずだ。 胸騒ぎを覚えた紗月は、慌ててスマートフォンを取り出し、二つの企業名を並べて検索する。 案の定、簡単に調べただけでも、両社が共同で進めている事業について報じた経済記事がいくつも表示された。 紗月の顔から、さっと血の気が引いた。 全身の血が一気に頭へ上ったような感覚に襲われ、指先まで冷たくなっていく。「紗月お姉さん、大丈夫ですか?」 紗月の表情が変わったことに気づいた優介は、泣くのを止め、今度は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。「あ……うん。大丈夫よ、優介君」 そう答えながらも、紗月の両手はスマートフォンをきつく握りしめていた。 画面に映っているのは、早出グループと朝倉グループの共同事業に関する最新の記事だった。 そこには、その事業の中核となる研究開発を両社が共同で担っていると書かれている。つまり、二つの企業の利害は、今後さらに深く結びついていくということだ。 紗月には、専門的な経営や投資の話までは分からない。それでも、胸の奥で膨らみ続ける不安を抑えることはできなかった。 今朝、慎一から持ちかけられた、契約夫婦などという馬鹿げた取引を断った。 そのとき慎一は、あとで後悔するなと言わんばかりの言葉を残している。 そしてその日の夜、凛子の身にこんなことが起きた。 もしこれがすべて偶然なのだとしたら、あまりにも出来すぎているのではないか。「……優介君。縁談の話が決まったのは、いつ頃なのか分かる?」 紗月に尋ねられ、優介は事情が飲み込めないような顔で首を横に振った。「父さんがずっと、姉ちゃんの結婚
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第164話

 紗月はスマートフォンを手にしたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。 手の中では着信を知らせる振動が途切れることなく続いている。 それでも出ることができずにいるうち、やがて呼び出し時間が長すぎたためか、震えはようやく止まった。 もう慎一からかかってくることはないだろう。 そう思ったのも束の間、数秒もしないうちに再びスマートフォンが鳴り始めた。 今度、画面に表示されていたのは見覚えのない番号だった。「……もしもし?」 紗月はわずかにためらいながらも、通話ボタンを押した。すると電話の向こうで、相手が明らかに安堵したように息をつく。 聞こえてきた声には覚えがあった。 しばらく顔を合わせていなかった、湊斗の声だった。 紗月が電話に出たことがよほど嬉しかったのか、湊斗の声は少し弾んでいる。「よかった。さっき慎一のスマホから一度かけたんだけど、出なかったから、今度は俺の番号からかけてみた。変に思わないでね」「……桐生さん?」「覚えててくれたんだ。よかった。紗月さんがあのプロジェクトを外れてから、ずっと残念だったんだ。最近はどうしてる? 会社も辞めたって聞いたよ。本当はうちに来てもらえたらって思ってたんだけど、慎一から別の仕事が決まってるって聞いてさ」 思い出したように「あ」と声を漏らし、続ける。「それより、紗月さんが慎一の奥さんだったなんて、本当にびっくりしたよ。もっと早く知ってたら、あの時ちゃんと挨拶したのに」 湊斗と慎一は昔から親しい仲だった。 それでも慎一が紗月のことを口にしたことは、一度もない。 湊斗が知っていたのは、慎一が結婚しているという事実だけだった。 何気なく夫婦の話題に触れようとするたび、慎一は露骨に機嫌を悪くし、表情まで険しくなる。 そんなことが何度か続き、湊斗も夫婦のことだけは慎一にとって触れてはいけない話題なのだと悟った。 それ以来、自分からその話を持ち出すことはなくなっていた。 紗月が慎一の妻だったと知ったのは、今日になってからだ。 慎一に誘われ、二人で酒を飲んでいた席で、ようやく本人の口から打ち明けられた。 最初は、ここまで徹底して隠していた慎一に文句の一つでも言ってやろうと思っていた。 湊斗は紗月と一緒に仕事をしたことがある。それなのに、慎一は一言も教えなかった。 責められて当然だと思った。
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第165話

 そこまで一気に言い終えると、湊斗は返事を待たず、そのまま電話を切ってしまった。 本当に急いでいたのだろう。 紗月はスマートフォンを耳に当てたまま、通話の切れた無機質な電子音をしばらく呆然と聞いていた。 湊斗の言う「送る」が、自分の家まで慎一を送り届けるという意味だったとは思ってもいなかった。 半信半疑のまま待っていると、ほどなく玄関のチャイムが鳴る。 扉を開けた先には、酒に酔って足元もおぼつかない慎一を支える湊斗の姿があった。 その光景を目にして初めて、湊斗が口にした「帰る場所」が、この部屋のことだったのだと理解する。 湊斗は見るからに焦っていた。 少し前に結婚したばかりの彼は、本当なら今夜も早く帰宅し、妻と穏やかな時間を過ごすはずだった。 慎一に付き合って酒を飲んでいなければ、とっくに家へ帰っていたに違いない。 そのため、紗月が不本意そうな顔で扉を開けても、湊斗は短く素早く挨拶をしただけだった。 そして慎一の身体を紗月へ預けると、逃げるような勢いでその場をあとにする。 廊下の向こうへ消えていく湊斗の背中は、あっという間に見えなくなった。 慎一の身体からは濃い酒の匂いが漂っている。 相当飲んだのだろう。湊斗から引き渡された途端、慎一は全身の体重をそのまま紗月へ預けてきた。 酒の匂いと体温が一気に押し寄せ、空気まで熱を帯びてしまったように感じる。 胸の奥までむせ返るような酒気に包まれ、息をすることさえ苦しかった。「朝倉社長……ちょっと……!」 どこへ連れて行けばいいのか分からない。 だからといって、このまま部屋へ上げることにも強い抵抗があった。 紗月は玄関先で慎一を支えたまま、途方に暮れて立ち尽くす。 迷っている間にも、慎一の身体は少しずつ重さを増していくようだった。 やがて支えきれなくなり、紗月は慎一を抱えたままずるずると床へ崩れ落ちる。 二人はそのまま玄関へ座り込むような格好になった。 倒れた拍子が悪かったのか、慎一はなおも紗月へ覆いかぶさるようにもたれかかったままだ。 紗月は何とか抜け出そうと、身をよじった。けれど、慎一の体重に押さえつけられ、思うように身動きが取れない。  何度も抜け出そうともがくうちに、腕も身体も少しずつ力が抜け、疲労ばかりが募っていく。 不意に、耳元で小さな笑い声がした。 紗月はは
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第166話

「あなた、酔ってないじゃない……! どいて!」 紗月が必死に抵抗すると、慎一はようやく少しだけ身体を引いた。 頬はうっすら赤く染まっている。酒を飲んでいたのは間違いないのだろう。「悪い。バーで少し寝ちまったみたいでさ。気づいたら湊斗がここまで連れてきてた」「だったら、もう帰って」「酒を飲んでるんだ、紗月。運転なんてできない。一晩くらい泊めてくれてもいいだろ」 まるでそれが当然だと言わんばかりの口ぶりだった。 朝倉グループを率いる若き社長。 社内では誰もが一歩引いて接し、その一言一言で空気さえ変えてしまう男が、高級なスーツ姿のまま玄関へ座り込み、「一晩くらい泊めてくれてもいいだろう」と平然と言っている。 その姿には、普段の威圧感も冷徹さもない。 あるのは、自分の思いどおりになるまで帰るつもりのない、子どものような頑固さだけだった。「嫌。早く帰って」 紗月は考える素振りも見せず、迷いなく言い切った。 あまりにもあっさりとした拒絶だった。以前の紗月なら、困ったように眉を下げながらも、最後には自分の言葉を受け入れていたはずだ。 そんな変化がどこかおかしくて、慎一の口元がわずかに緩む。 そのまま何気なく玄関へ目を向けた慎一は、視線を止めた。 玄関の隅には、見覚えのない若い男物のスニーカーが一足、きちんと揃えて置かれている。 その靴へ吸い寄せられるように視線が留まり、かすかに浮かんでいた笑みは音もなく消えていく。 代わりに宿ったのは、冷え切った静かな眼差しだった。「……誰のだ」 不意に問われ、紗月は一瞬きょとんとする。 だがすぐに、慎一が見ているのは玄関へ揃えて置かれた優介のスニーカーだと気づいた。「誰の靴かなんて、朝倉社長には関係ありませんよね」「関係ないから、泊められないのか」 慎一は靴から目を離さないまま、低く問い返す。「もう、別の男がいるから?」 責めるような口調だった。 紗月は、その声音に一瞬だけ息を詰める。 まるで時間が巻き戻ったようだった。まだ夫婦だった頃でさえ、慎一がこんなふうに問い詰めてきたことは一度もない。 束の間、思考が止まる。 けれどすぐに現実へ引き戻された。 もう自分たちは夫婦ではない。 慎一に、自分のことを問い質す資格などない。「ええ、そうだと言ったら?」 紗月はまっすぐ慎一を見返し
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第167話

 紗月は大きく目を見開いた。慎一の口から告げられた言葉が信じられないというように、顔から血の気が引いていく。「あなた……本当に、あなたが……」 早出明と慎一に仕事上の繋がりがあると知ったとき、紗月も一度は、慎一が裏で糸を引いていたのではないかと疑った。 あまりにも出来すぎた偶然が重なり、そう考えずにはいられなかったのだ。 それでも、証拠は何一つなかった。だからこそ心のどこかでは、慎一だけは違っていてほしいと願っていた。 どんな理由があったとしても、こんなやり方はあまりにも卑劣だ。 かつて心から愛した男が、そこまで人の人生を弄ぶような人間だったとは信じたくなかった。 だが、その慎一自身がこの話を切り出したことで、最後の希望さえ音を立てて崩れていく。「あなたが仕組んだんでしょう……!? どうして、こんなことを……!」 紗月の詰問を受けても、慎一は認めようとはしなかった。 かといって、きっぱり否定することもない。 玄関の灯りを受けた瞳はどこまでも昏く、その口から紡がれる言葉も、弁明なのか、責任逃れなのか、紗月には判別できなかった。「早出社長は以前から、新しい妻にふさわしい女性を探していた。俺は候補を何人か挙げただけだ。その中でお前の友人に目を留めたのは、たまたま早出社長の好みに合ったからだろう。運がよかったと言うべきか、それとも不運だったと言うべきかは分からないが」 慎一はそう言って、口元だけをわずかに歪める。「嘘よ……! あなたが仕組んだくせに!」「紗月、事情がどうであれ、もう話は決まっている。俺は他人の縁談になど興味はない。それでも相手がお前の友人だから、手を貸してもいいと言っているんだ。ただし、結婚はあくまで他人の私事だ。俺が介入すれば、当然こちらにも損失が出る。それに見合う対価をお前が差し出せるのなら、その損失を俺が引き受けてもいい。ただそれだけの話だ」 慎一は完全に交渉人の顔になっていた。理路整然と並べられた言葉を前に、紗月は何一つ言い返せない。 二人はもう離婚していて、何の関係もない――そう繰り返してきたのは紗月自身だ。だからこそ、慎一に何かを求める資格など、自分にはない。 重苦しい沈黙が流れる。 やがて慎一が静かに口を開いた。「紗月、今朝提示した契約条件はまだ有効だ。お前が署名さえすれば――」「出ていって……!」 
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第168話

 優介は目に見えて焦っていた。紗月に頼まれると、すぐにスマートフォンを取り出し、父親へ電話をかける。 何度かけても途中で切られてしまう。それでも優介は諦めることなく、何度もリダイヤルを繰り返した。そして何度目かの着信で、ようやく電話がつながる。「……もしもし」 おずおずと受話口へ声をかける優介は、怯えた小動物のようだった。 普段の明るく屈託のない姿からは想像もつかないほど弱々しい。その様子に胸を締めつけられた紗月は、「代わる」と声をかけようと手を伸ばす。 だが、優介はスマートフォンを渡そうとはしなかった。紗月へ小さく笑みを向け、「ちょっと向こうで話してきます」とだけ告げると、そのまま客間へ駆け込んでいく。 きっと、実の父親に頭を下げ、必死に頼み込む姿を紗月には見せたくなかったのだろう。 リビングで待つ時間は、ひどく長く感じられた。 ようやく客間から出てきた優介は、どこか安堵したように笑った。「紗月姉さん! 父さん、今日なら会社で時間を作って会ってくれるって」「今日? ありがとう。すぐに支度するね」「僕も一緒に行きます!」 優介は迷うことなく後を追おうとする。 無理をしなくてもいいと言いかけた紗月だったが、彼の赤く腫れた目を見て、その言葉を飲み込んだ。 これは優介にとっても、大切な姉の人生が懸かった問題なのだ。「ええ。優介くん、一緒に行きましょう」 凛子の父親が経営する会社を訪れるのは、紗月にとって初めてだった。  上場企業とは聞いていたものの、社内の設備も雰囲気も、どこか寂れて見える。 社屋も建てられてから数十年は経っているような古い建物で、確かに資金に余裕があるようには思えなかった。 優介も、この会社へ来たことはほとんどないらしい。なぜか父親は、子どもたちが自分の仕事や会社に関わることをひどく嫌い、将来も会社を継がせるつもりはないのだという。 もっとも、凛子も優介もそれを気にしてはいなかった。 両親との関係がそれほど希薄だったからなのか、二人とも家業に対して何の執着も持っていないようだった。 受付は紗月たちの来訪理由を聞くと、訝しげな表情を浮かべながら、どこかへ確認の電話を入れた。その後、二人を三階の応接室へ案内する。 応接室の扉はガラス張りになっており、中からでも廊下の様子がよく見えた。この階にどの部署が入っている
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第169話

 慎一の言葉には、高瀬社長への遠慮など微塵もなかった。 それでも高瀬社長は気分を害した様子ひとつ見せず、慎一へ何度も頭を下げる。 その一方で、優介へ向ける眼差しだけは鋭く、あからさまな不快感が滲んでいた。 優介は思わず紗月の後ろへ身を寄せる。 すぐに気を取り直したように紗月を庇うよう一歩前へ出て、再び彼女の前へ立った。 その姿を目にした慎一は、嘲るように鼻を鳴らした。「優介。話があると言っていたのは、そこの女か」 高瀬社長の声は、優介へ向けられた途端に冷え切ったものへ変わった。紗月を見る目にも、隠そうともしない敵意が浮かんでいる。「高瀬社長、私は凛子の――」 紗月が一歩前へ出て名乗ろうとしたところで、高瀬社長が言葉を被せた。「凛子の友人だろう。君のことは知っている。高校時代の同級生だったな」 高瀬社長は紗月を見据えたまま、冷ややかに言葉を続ける。「俺が凛子の交友関係を放っておいたせいで、魂胆のある人間につけ入る隙を与えたらしい。もう帰りなさい。優介がどうしても一度会ってほしいと頼むから話くらいは聞いてやろうと思ったが、その必要はなかったようだ」 高瀬社長は不快そうに眉をひそめると、改めて紗月を頭の先から足元まで値踏みするように眺めた。 先ほど優介と寄り添うように立っていた姿を見て、二人の関係を勘違いしたのだろう。「君。うちの息子は世間知らずだ。取り入れば高瀬家へ嫁げるとでも思ったのかもしれないが、高瀬家は誰もが身の程知らずな夢を見られる家じゃない」 どうやら、高瀬社長は紗月と優介の関係を完全に誤解しているらしい。「違います。私と優介くんは――」 紗月が言葉を続けようとした声を、高瀬社長が遮る。 聞く耳を持つつもりはないのだろう。そのまま顔を上げ、秘書へ二人を追い返すよう命じようとした。 秘書が一歩前へ出る。「高瀬社長」 慎一が穏やかな声で口を開く。「娘さんの友人なんだろう。わざわざここまで来たんだ。それなりに事情はあるんじゃないか」「それは……朝倉社長のおっしゃるとおりですな」 慎一の一言で、高瀬社長はあっさり態度を改めた。 紗月へ顎をしゃくり、「話だけなら聞こう」* 秘書のあとについてオフィスへ向かう途中、紗月は嫌というほど思い知らされた。 慎一なら、本当に凛子を簡単に救うことができる。 たったひと言
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第170話

 紗月は何も言い返せなかった。 社長室には、たちまち気まずい空気が流れる。 勢いに任せて紗月を罵倒していた高瀬社長も、その沈黙でようやく慎一の存在を思い出したのだろう。 慎一へ視線を向けた途端、先ほどまでの険しい表情は跡形もなく消え、愛想のいい笑みを浮かべた。「申し訳ございません、朝倉社長。身内の恥をお見せしてしまいましたな」「気にするな、高瀬社長。そちらの……彼女も、令嬢を思って口を出しただけのようだ」 高瀬社長は鼻で笑った。「しょせん、世間知らずの野育ちですよ。早出社長のもとへ嫁げるなど、娘にはもったいないほどの幸運だというのに、見識のない人間には、そのありがたさすら分からないのでしょう。……ですが、朝倉社長ならお分かりいただけますよね。親というものは、子どものために身を粉にして尽くしても、その苦労を当人たちは少しも理解してくれないものです」 その言葉に、紗月の背後に立つ優介の拳がぎゅっと握り締められた。 怒りに顔を真っ赤に染めながらも、それをぶつければ事態をさらに悪化させるだけだと分かっているのだろう。 紗月の後ろに身を寄せたまま、必死に感情を押し殺していた。「だが、高瀬社長。ご子息は、あまりご納得されていないようだな。せっかくの親心も、本人にはまるで伝わっていないらしい」「お恥ずかしい限りです。うちの子どもたちは揃いも揃って親の恩も分からない薄情者でして。朝倉社長、こんな身内の問題が、両社の提携に影響を及ぼさないことを願っております」 高瀬社長の言葉を聞きながら、慎一の視線がふと優介の足元へ落ちた。 部屋へ入った瞬間から気づいていた。 昨日、紗月のマンションに残されていた靴――あれは、この男のものだったのだと。 その事実が頭の片隅に引っかかったままだからなのか。 優介へ向ける慎一の声音には、本人ですら気づいていないほどかすかな棘が、知らず滲んでいた。 そして、高瀬社長の口から「提携」という言葉が出た瞬間、慎一は鼻で笑うように口元を歪めた。 取るに足らない利益しか生まない案件に、ここまで執着するとは。 高瀬の会社が危機的な状況に陥っているという噂は、どうやら事実らしい。そうでもなければ、実の娘まで取引の駒にして、この提携にしがみつこうとはしないはずだ。 もっとも――。 慎一にとっては、それこそ願ってもない好機だった
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