Tous les chapitres de : Chapitre 181 - Chapitre 190

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第181話

 由衣は、顔色の悪さ以上に、その姿全体から痛々しいほどの憔悴が滲み出ていた。 顔には隙のない美しいメイクが施されている。 全身から漂う疲弊だけは、どれほど丁寧に化粧を重ねても隠しきれない。 いつも愛らしく、どこから見ても完璧に着飾っていた彼女とは、まるで別人だった。 ほんの数日しか経っていないというのに、ひと回りも痩せたように見える。 なめらかだった頬の輪郭はすっかり痩せ細り、もともと大きな瞳は、その痩せた顔立ちによってさらに大きく映っていた。 目だけが異様なほど印象に残り、見る者へ得体の知れない恐ろしささえ抱かせる。 慎一を囲んでいた人々の間から、小さなどよめきが広がった。 好奇心を隠しきれない男が一人、慎一の表情をうかがいながら遠慮がちに尋ねる。「朝倉社長、綾瀬さんはどうしてこちらに……?」 紗月も少し離れた場所に立つ由衣へ目を向けた。 由衣も会場にふさわしいカクテルドレスを身にまとい、手には招待状らしきものを握っている。 大きな瞳は慎一だけを真っ直ぐ見つめていた。 周囲から向けられる囁き声も視線も、何一つ意識していないようだった。 慎一は驚いた様子を見せない。 由衣へ向ける眼差しにも感情の揺らぎはなく、淡々と口を開く。「そうだな。どうやって来たんだろうな」 その一言だけだった。 由衣について語る気は微塵もない。 慎一の態度を見た人々も、それ以上この話題へ踏み込むことはしなかった。 話題は自然と最近進められている共同事業へ移っていく。 会場にいる誰もが示し合わせたように由衣の存在へ触れなくなり、その名が再び口にされることもなかった。 こうしたパーティーの目的は、何より人脈を広げ、新たな仕事へと繋げることにある。 こうしたパーティーの目的は、人脈を広げ、新たな仕事へ繋げることにある。  話題が資金調達へ移るにつれ、紗月は自分がここにいても慎一の邪魔になるだけではないかと思い始めた。  慎一も真剣に耳を傾けている。紗月は適当な理由を口にしてその場を離れ、風に当たろうとテラスへ向かった。  会場には大勢の招待客が行き交い、あちらこちらでグラスを片手に談笑する姿が目に入る。  夫人たちだけで集まっている一角もあった。  誰もがひと目で上質だと分かる華やかなドレスを身にまとい、気心の知れた者同士なのだろう、
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第182話

 近くまで来て初めて、紗月は由衣が頬の線まで浮き出るほど痩せていることに気づいた。 あれほど華やかで、自信に満ち溢れていた瞳からも、かつての輝きはすっかり消え失せている。紗月へ向けられる憎悪だけは、以前にも増して濃く、鋭さを帯びていた。 病院で涙を流し、何度も頭を下げながら許しを乞うていた面影は、もうどこにも残っていない。 由衣が本気で罪を償おうとしていたのかどうか、今の紗月にはどうでもよかった。 一言謝れば許されるのなら、そんな都合のいい話はない。 由衣が何を言いたいのかも分からない。 紗月に、その話を聞くつもりはなかった。これ以上彼女と言葉を交わす気もない。「あなたと話すことなんてない。さっきの話にも興味はない」 由衣は、何よりもおかしな冗談を聞かされたように、突然声を上げて笑い始めた。 笑い声も、歪んだ笑みも、どこか正気を失っているように見える。 紗月が耳を貸すかどうかなど、由衣には最初から関係なかった。 一歩、また一歩と距離を詰めるたび、細かなラインストーンを散りばめた華奢なハイヒールがテラスの石畳を打ち、高く乾いた音を響かせる。 紗月は眉をひそめ、迫ってくる由衣を見つめながら、無意識のうちに数歩後ずさった。「あなたは興味がなくても、私はすごく興味があるの。社長と離婚したいんでしょう?」 由衣の口元がゆっくりと吊り上がる。「社長ったら、あなたと離婚したくない一心で、本当に大掛かりなことをしたのよ。私にテレビで社長のことが好きだって言わせて、マスコミには社長から口説かれたって報じさせて……『奥さんを裏切る最低な男です』って、泣きながら訴えろって……あはははっ……」 笑いながら話す由衣の視線は、真っ直ぐ紗月へ向けられていた。 その瞳には、思わず背筋が粟立つような光が宿っている。「私、ちゃんと社長の秘書に言われたとおりにしたのに……会社は私の仕事を全部止めたの。自分が悪いことをしたくらい、私だって分かってる。もう社長を自分のものにしたいなんて思ってない。それなのに、あんなにあなたへ謝ったじゃない……何度も許してってお願いしたじゃない……どうして仕事まで全部奪われなきゃいけないのよ」「だったら、あなたの大好きな社長に言えばいいでしょう。私に話したところで時間の無駄よ」 由衣は後ずさる紗月より速く、一歩、また一歩と距離を詰めて
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第183話

「正気なの!?」 由衣の言葉を理解した途端、紗月は反射的に身をよじり、掴まれた手を振りほどこうとした。 由衣の力は想像をはるかに超えていた。 あれほど痩せ細っているというのに、紗月の手首へ食い込む指は骨を砕くのではないかと思うほど強く、全身の力を込めているのがはっきりと伝わってくる。 こんな由衣の姿など、おそらく誰も見たことがない。紗月も一瞬息を呑み、込み上げる恐怖に我へ返った。「綾瀬さん! しっかりして!」 何度も大声で由衣の名を呼ぶ。   少しでも正気を取り戻してほしかった。それと同時に、誰か一人でもテラスの異変に気づいてくれればと願い、必死に声を張り上げた。 けれど、テラスはもともと会場の奥まったところにある。  パーティーに集まった人々は皆、社交に夢中になっており、わざわざこちらへ注意を向ける者などほとんどいなかった。「綾瀬さん!」   心臓が激しく脈打っていた。 恐怖と焦りを隠せない紗月とは対照的に、由衣は不気味なほど落ち着いている。「奥様、私ね、今すごく冷静なの。初めてあなたを見たときから、ずっと嫌いだった。今になって、ようやく理由が分かったわ」 由衣はくすりと笑う。 紗月を見つめる瞳には、抑えきれない憎悪がじわじわと滲み、その色は見る間に濃さを増していった。「あなたなんて、何一つ私より優れてないくせに、私が欲しかったものを全部持ってる……。きっと私、本当にあなたが羨ましくて仕方なかったのね。私が小さい頃から必死になって追いかけてきたものが、あなたには生まれたときから当たり前に与えられていたんだもの。嫉妬しないほうがおかしいでしょう?」 由衣が紗月について、どこまで調べているのかは分からない。 慎一の居場所や予定を人づてに探り当てていたことを思えば、紗月のことを詳しく調べる手段くらい持っていても不思議ではなかった。 ここまで露骨な羨望と嫉妬を、真正面からぶつけられたのは初めてだった。 紗月自身、自分が恵まれた人生を歩んできたと思ったことは一度もない。 祖父には深い愛情を注いでもらった。 両親に捨てられ、他人の家で育った事実は変わらない。 由衣の目に映る紗月は、まるで別人なのだろう。 幼い頃から財閥で何不自由なく育ち、慎一とは幼なじみだった。 朝倉慎一ほどの男と結婚し、朝倉夫人になれた理由も、誰より優れてい
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第184話

 高層階を吹き抜ける風が耳元で唸り、前髪も頬へかかる髪も容赦なく乱していく。 押し合う二人は、テラスの扉が勢いよく開く音にも、こちらへ駆け寄ってくる慌ただしい足音にも気づかなかった。 由衣はただ、恐怖を隠しきれなくなった紗月の顔を、じっと見つめていた。 ふいに、由衣の手から力がわずかに抜ける。 その刹那、横から凄まじい勢いで腕を掴まれ、身体ごと乱暴に引き剥がされた。「きゃあっ!」 一瞬、身体が宙へ放り出されたような感覚に襲われ、由衣の甲高い悲鳴が夜空へ響く。 鈍い衝突音が鳴り響いた。 由衣の身体は床へ激しく叩きつけられ、そのまま勢いよく滑っていく。 あまりにも突然の出来事だった。 紗月は頭の中が真っ白になり、何が起きたのか理解できないまま、その場に立ち尽くす。 ゆっくりと顔を上げる。 目の前には、血の気を失った顔で自分へ駆け寄ってくる慎一がいた。 そんな表情を浮かべる慎一を、紗月は一度も見たことがなかった。 冷静さは消え失せ、普段の余裕も跡形もない。 理性より先に身体が動き、押し殺していた感情まで隠しきれなくなった――そんな顔だった。 紗月が落ちるかもしれない。 その一瞬が、慎一から平静を奪ったのだろう。慎一は紗月の目の前まで駆け寄ると、乱れた呼吸のまま彼女を見つめた。 唇を開く。 その声は、かすかに震えていた。「……大丈夫か?」 突然目の前に現れた慎一を見つめながら、紗月は真っ青な顔のまま、何が起きたのか理解できずにいた。 身体を押さえつけていた力が不意に消えたあの瞬間、本当に突き落とされたのだと思った。心臓は激しく脈打ち、その鼓動だけで胸が痛むほどだった。 頭の中はほんの数秒、真っ白になる。 自分がまだここにいると理解した途端、張り詰めていた糸がぷつりと切れたように脚から力が抜け、紗月はその場へ崩れ落ちるように座り込み、何度も大きく息を吸った。「紗月」 慎一はすぐに身を屈め、紗月を抱き起こした。まだまともに立てない身体を自分へ預けさせ、片腕でしっかりと支えながら、もう片方の手で背中をゆっくりと撫で、そのまま会場へ戻ろうとする。「紗月、帰ろう。もうここを出る」 慎一の声はひどく静かだった。これ以上少しでも紗月を怯えさせまいと、意識して声を抑えているようにも聞こえる。 その一方で、慎一自身の呼吸もまだ乱れた
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第185話

 由衣は必死に目を見開き、慎一を見上げ続けていた。 ここまで来てもなお、慎一が一度たりとも自分へ心を動かしたことなどない。その事実を、どうしても受け入れられなかった。 滑稽な話だった。 慎一が見せてくれた優しさも、特別扱いも、そのすべては紗月がいる前だけのものだった。 紗月へ見せつけるための芝居。 二人きりになれば、慎一が由衣との一線を越えたことは一度もない。 由衣は、いつしか自分自身まで騙していた。 いつか慎一も、自分を好きになるはずだと。 それほど自分に絶対の自信があったのか。紗月という女を、心の底から見下していたのか。 由衣は信じて疑わなかった。 慎一ほどの男が紗月と結婚したのは、きっと何か避けられない事情があったからだ。 そう思わなければ、自分の妻を苦しめるためだけに別の女を利用する理由など説明がつかなかった。「社長……私、本当にあなたが好きなの」 由衣の瞳から、とうとう大粒の涙が零れ落ちる。「もう演じなくていいっていうなら、やめるから……! 私、ちゃんと言うことを聞く。もう二度と……二度と奥様には何もしない。だから、お願い……」 さっきまで紗月へ向けていた凶暴さは、跡形もなく消え失せていた。 慎一を前にした由衣は、ただひたすら許しを乞うことしかできない。「社長、私を見て……お願いだから、許して……?」 その姿は、傍で見ていた紗月でさえ目を逸らしたくなるほど痛々しかった。 慎一は小さく笑う。 その顔に情けは欠片ほども浮かんでいない。「由衣。お前と契約したとき、俺は言ったはずだ。いい子にしてろ、と。約束を破った以上、その結果は自分で背負え」 そう言い終えると、慎一はもう由衣へ視線を向けることもなく、紗月を支えたままテラスを後にしようとした。慎一へ身体を預けるように歩く紗月、その腰をしっかりと抱いて支える慎一。ぴたりと寄り添う二人の姿が目に入った瞬間、由衣の胸へ渦巻いていた怒りも嫉妬も、あらゆる感情が一気に込み上げる。 本当に慎一は、自分を置いて行く。もう自分のことなど、どうでもいいのだ。そう思った途端、由衣の頭から理性が消えた。衝動に突き動かされるまま、どこにそんな力が残っていたのかと思うほど勢いよく立ち上がり、一気に手すりへ駆け寄る。「社長! 私を見捨てるなら……私をいらないって言うなら、ここから飛び降
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第186話

 慎一はもともと、由衣とこれ以上話すつもりなどなかった。紗月が足を止めなければ、そのまま何も言わず立ち去っていただろう。 今の慎一にあるのは、一刻も早く紗月をここから連れ出すこと、その思いだけだった。 由衣の存在そのものが、もう煩わしい。 今口にした言葉にも、一つの偽りもなかった。 由衣については、本当に自分の見込み違いだったと思っている。 最初からここまで執着の強い女だと分かっていたなら、慎一は決して彼女を利用しなかった。 紗月を傷つけるために利用した女は、由衣が初めてではない。 由衣をこれほど長く手元へ置いていた理由は、紗月に対して一切容赦がなかったからだ。 慎一の芝居にもよく付き合い、紗月が傷つく言葉をためらうことなく浴びせられる。 その役目を、最後まで忠実に果たしていた。 だから使っていただけだ。 それだけだった。「行くぞ」 慎一はそれ以上由衣を見ることなく、紗月を支えたまま歩き出した。 由衣が本当に飛び降りるとは思っていないのか。 それとも、本当に飛び降りったとしても構わないと思っているのか。 慎一は一度も振り返らない。 何度も後ろを気にしていたのは紗月だった。テラスを離れる間も何度となく由衣を振り返り、その姿を確かめずにはいられない。 本当に怖かった。 由衣がこのまま手すりを越えてしまうのではないか。その思いが頭から離れない。 ほんの少し前まで自分を殺そうとしていた相手だというのに、胸の奥には拭いきれない不安だけが残っていた。 幸い、由衣は手すりの前へ立ち尽くしたまま動かなかった。大粒の涙だけが次々と頬を伝い落ち、その視線は最後まで慎一の背中だけを追い続けている。 もしかしたら振り返ってくれるのではないか。 たった一度でも自分を見てくれるのではないか。 そんな叶うはずもない願いへ、なお縋り続けているようだった。 やがてテラスの扉が静かに閉まり、由衣の姿は見えなくなる。最後まで、由衣はその場から動かなかった。 紗月は無意識にほっと息を吐き、前を向いたところで、慎一が少し俯くように自分を見つめていることへ気づく。 さっきまで由衣へ向けていた冷え切った眼差しは、跡形もなく消えていた。紗月へ向けられた瞳には、言葉では言い尽くせないほど多くの感情が揺れている。 その眼差しを受け止めた瞬間、紗月はほんのわずか
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第187話

 慎一なりに、意識して声音を和らげているのだろう。紗月にもそれは伝わっていた。 それでも彼がこうした話を口にすると、また何かの取引を持ちかけられているようにしか聞こえない。 由衣に舞い込んでいた仕事は、質も量もヴァレンティス・プロダクションの中で群を抜いていた。 慎一ほどの立場にいる男にとっては、それらの仕事でさえ、大した価値はないのかもしれない。だから、こうして何のためらいもなく譲ると言えるのだろう。「……どうして?」 紗月が聞き返すと、慎一は喉の奥で小さく笑った。「綾瀬が芸能界から干されることは、最初から決まっていた。会社として正式に関係を切るには時間がかかる。手を出さずにいたのは、そのためだ」 慎一は紗月の手に自分の手を重ねたまま、淡々と言葉を続ける。「今の事務所には、ほかに重点的に売り出す予定のタレントはいない。紗月、お前は女優になりたいんだろう。その気があるなら、ヴァレンティス・プロダクションで引き受ける」 慎一が芸能事務所を立ち上げた理由には、もともと由衣が関係していたはずだった。 詳しい事情までは紗月も知らない。 朝倉グループは数多くの事業を展開していたが、芸能界へ進出したのはヴァレンティス・プロダクションが初めてだった。その事務所が最初に契約したタレントも由衣である。 当時、慎一はあれほど由衣を高く評価していた。 そう思うと、何もかもがひどく滑稽に思え、紗月は思わず小さく笑う。 重ねられた手を引こうとした。 慎一は逃がすまいとするように、反射的にその手へ力を込める。 紗月の心は、それでも少しも動かなかった。 確かに、かつて諦めた夢をもう一度追いかけたいと思っている。 紗月が望んでいるのは、自分の意志で、自分のやりたい芝居をすることだった。 有名なスターとして祭り上げられることではない。 由衣とは違う。 由衣が追い求めていたのは、人気と地位、誰もが羨む華やかな世界だった。 紗月が求めていたのは、眩いスポットライトでも、華やかな名声でもない。 ただ、自分が心から演じたいと思える役を演じ、その人生を生き抜くことだけだった。「慎一、私はヴァレンティス・プロダクションへ入ろうなんて、一度も思ったことはない。それに、あなたの力で仕事をもらうつもりもないわ」「そうか」 慎一は淡々と頷いた。 そのまま話を切り上
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第188話

「……」 短い沈黙が流れる。 紗月の胸に浮かんだのは、慎一はきっと、自分の身体だけは気に入っているのだろうという思いだった。 そうでなければ、母が彼へ金を借りようとしたあの頃から、どうして幾度となく、与える施しの代償として、自分の身体を求め続けたのだろう。 結婚していた三年間の記憶が、不意に脳裏へ蘇る。 あの頃の慎一は、紗月を心の底から憎み、嫌っていた。 抱くたび、その動きは鬱憤をぶつけるように荒々しく、そこに優しさなど欠片ほどもなかった。 紗月を辱める言葉を容赦なく浴びせ、顔を見るのも耐え難いと言わんばかりに、その顔へ布を掛けることさえあった。 それでも、慎一はいつも紗月を抱いた。 身体だけは、一度も彼女を拒まなかった。 一晩に何度も抱かれることさえ、決して珍しいことではなかった。 二人の心が重なり合うことは、一度としてなかった。 慎一の瞳に宿るのは、紗月への愛情ではなく、消えない憎しみと苛立ちばかり。それでも夜になれば、彼は何度でも紗月を求めた。乱暴に身体を重ね、容赦なく欲望をぶつけてくる。 そんな夜を幾度も繰り返してきた。 だからこそ紗月には分かってしまう。少なくとも身体だけは、慎一も満たされていたのだろう、と。「朝倉社長が綾瀬さんと契約したときも、同じことを求めたの?」 紗月は冷えきった眼差しを慎一へ向けた。 その瞳には、自嘲にも似た諦めと、わずかな皮肉が滲んでいる。「彼女にも、枕営業をさせたの?」 棘を含ませたその問いに、慎一は眉一つ動かさなかった。 腹を立てるどころか、喉の奥で低く笑い、面白そうにゆっくりと唇の端を吊り上げる。「何だ。そんなことが気になるのか?」 声音には、余裕と愉悦がわずかに滲んでいた。 紗月がそんなことを口にしたのが、意外だったのかもしれない。 あるいは――。 自分以外の女を気にするほどには、まだ自分への執着が残っている。慎一には、そんなふうに見えたのかもしれなかった。 少し機嫌がよくなったように目を細め、そのまま静かに言葉を続ける。「安心しろ。お前と結婚している間、ほかの女を抱くつもりはなかった」 その口調には迷いがない。まるで、それだけで十分誠実だったとでも言いたげだった。 たとえそこに愛情など欠片もない結婚だったとしても、この三年間、慎一がほかの女へ心まで許したことは一
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第189話

「知りませんでした。私の身体に、それほどの価値があったなんて。朝倉社長が、これだけ大きな利益を差し出してまで取引したいと思うほどに」「なら、今わかっただろう」 慎一は否定しなかった。 今の紗月の皮肉でさえ、抱き合う前の他愛ない駆け引き程度にしか受け取っていないのかもしれない。「朝倉社長がそれほど私を欲しいなら、わざわざ仕事を差し出して取引する必要なんてないでしょう。無理やり抱けばいいじゃない。どうせ……夫婦だからって理由をつけて」「それじゃ面白くない。紗月、俺は商人だ。俺が好むのは等価交換だ。一方的に何かを奪うことじゃない」「つまり、あなたにとって私は、取引に使う駒でしかないのね」 どうして話がこんな方向へ進んでしまったのか、紗月には分からなかった。 ほんの少し前まで、自分は由衣にテラスの手すり際まで追い詰められ、突き落とされそうになっていた。 慎一が駆けつけたときのあの血相を思い返せば、あの瞬間だけは、本気で自分を心配してくれていたのだと疑う余地はない。 それなのに今、二人が向き合って話しているのは、身体のことと、取引のことばかりだった。 あまりにも噛み合わないその現実が、ひどく滑稽で、ひどく虚しい。 紗月は思わず、小さく乾いた笑いを漏らした。「朝倉社長、言ったでしょう。もうあなたのことは好きじゃない。だから、そんな要求を受け入れることなんてできない」 そう言い終えた途端、紗月は全身の力が一気に抜け落ちていくような感覚に襲われた。 身体の隅々まで鉛のように重く、ひどい疲労だけがじわじわと押し寄せてくる。 もう慎一と言葉を交わしたくなかった。 ただ静かに目を閉じて、深い眠りへ落ちてしまいたい。 できることなら、そのまま二度と目を覚まさずに済めばいい――そんなことまで思ってしまうほどだった。 けれど今の紗月は、まだ慎一の車の中にいる。 窓の外を流れていく見慣れた街並みを眺めるうち、車が向かっている先が、慎一の寝泊まりしている場所だと気づいた。 紗月は残されたわずかな気力を振り絞り、前の座席にいる久我へ声をかける。「久我さん、車を止めてください」 久我は朝倉家に仕える人間だ。 長い付き合いではあるものの、紗月が彼に何かを頼んだことは、これまで一度もなかった。 今はもう、慎一の顔を見ることさえ耐えられない。 一刻も早く
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第190話

 慎一の言葉に、紗月はしばらく黙り込んだ。 車が止まらない以上、降りることはできない。重苦しい沈黙を乗せたまま走り続けていた車は、やがて朝倉グループ本社の前へ静かに滑り込んだ。「一緒に上がるぞ、紗月」 放っておけば、そのまま帰ってしまうと思ったのだろう。慎一は車を降りる前、逃げ道を塞ぐようにそう告げた。 久我はすでに車外へ回り、慎一のためにドアを開けて待っている。 それでも慎一は、紗月の返事を聞くまで動こうとしなかった。 紗月は慎一を一瞥し、しばらく考えた末、小さく首を横へ振る。「朝倉社長、私は自分の家へ帰りたい。もう送っていただかなくても結構だから……」 最後まで言い終える前に、慎一が小さく笑った。 何がおかしいのかは分からない。 あるいはまた、「朝倉社長」と呼ばれたことが気に入らず、呆れ半分に笑っただけなのかもしれなかった。「紗月。契約書には、必要と認められる場合、乙は甲の要求に従い、協力しなければならないと明記してある」 契約条項を持ち出され、紗月は眉を寄せた。「今がその『必要な場合』だとは思えない。契約書に書いてある協力って、人前で夫婦として振る舞う必要があるときとか、会社のイメージに関わる場合だけだと思ってた」「紗月。甲の欄に書かれているのは俺の名前だ。朝倉グループじゃない。つまり、俺が必要だと判断すれば、それが『必要な場合』になる」「……」 紗月はどうにか断る理由を探そうとした。 だが、その考えは慎一の次の一言であっさり断ち切られる。「俺は、お前が契約を破っても構わない。だが、お前の友人の縁談を白紙に戻せたように、もう一度進めることもできる。それでも――」「……もういいから、一緒に上がる」 ここまで来てしまった以上、これ以上厄介事を増やしたくはなかった。 最上階へ向かう途中、慎一は何本か電話に出た。 紗月の前で話を隠す様子もなく、相手は芸能事務所の広報チームらしい。すぐ隣にいた紗月の耳にも、そのやり取りが途切れ途切れに届いてきた。 どうやら、由衣を広告に起用している企業から抗議が入ったようだった。 今回のスキャンダルは由衣自身が招いたものだけに、契約を解除できないか、慎一の意向を探ろうとする広告主も少なくないらしい。「違約金……」 慎一が電話口の言葉を繰り返す。 告げられた金額は驚くほど高額で、紗月
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