บททั้งหมดของ 愛し続けた彼を、私は手放すことにした: บทที่ 241 - บทที่ 250

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第241話

 最初に公開された記事には、紗月の名前はどこにも書かれていなかった。 ところが、いったいどこから情報が漏れたのか、源間の次回作で主演を務めるのが友枝紗月だという情報が、ほどなくして突然ネット上へ流れ始めた。 ドラマの宣伝用に撮影したはずの紗月のビジュアルまで流出している。 ただ、掲載されている写真は正式な宣材写真には見えなかった。 撮影中の紗月を少し離れた場所から狙い、本人に気づかれないよう密かに撮ったかのような、不自然な角度の写真だった。 騒動への注目が高まるにつれ、「友枝紗月」という名前にも急速に多くの視線が集まり始めた。 もっとも、紗月の名前が世間へ知られるのは、これがほとんど初めてだった。 これまで出演作もなく、女優としての経歴さえほとんど知られていない。そのため、ネット上で飛び交う話題の大半は、「友枝紗月とはいったい何者なのか」というものだった。 やがて、源間が自分の欲望を満たすために、後ろ盾も実績もない無名の素人を主演へ抜擢したに違いないと決めつける声まで増えていく。 枕営業で役を得たのではないか。 監督と特別な関係があるから主演に選ばれたのではないか。 根拠のない憶測は、いつしか事実であるかのように語られ始めていた。 あまりにも下劣だ。 画面に並ぶ言葉を追いながら、慎一の表情はますます険しくなっていった。 今回の記事について、慎一は本当に何も知らなかった。 昨夜、紗月の言葉に腹を立てていたことは認める。 紗月は何日も慎一を避け、電話にもろくに出ようとしなかった。慎一はわざわざ仕事の予定まで変更し、彼女の住むマンションの前で待っていた。 それなのに、ようやく目にした紗月は、自分ではない男の隣にいた。 親しげに寄り添い、何の警戒もなく言葉を交わし、楽しそうに笑っていた。 その光景を目にした瞬間に湧き上がった不快感を、慎一は今でもはっきり覚えている。 たとえ紗月を憎んでいるつもりでも、慎一が本当に望んでいたのは、何もかもが以前と同じままであることだった。 紗月が自分の傍にいて、変わらず自分だけを見つめていること。 どれほど冷たく扱っても、どれほど突き放しても、それでも最後には自分のもとへ戻り、以前と同じように自分を愛していること。 慎一にとって、それはあまりにも長く当たり前のことだった。 だからこそ、紗月の
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第242話

 慎一の言葉など、紗月にとってはとうの昔に信じる価値を失っていた。 どれだけ自分の仕業ではないと言われても、それすら紗月を騙すための新たな芝居にしか思えない。目の前にいる慎一を見つめても、胸の奥から込み上げてくるのは、果てしない無力感だけだった。 ひとしきり泣いたあとも、慎一は変わらず冷静なままだった。 乱れた呼吸をどうにか整えながら、その姿を見つめているうちに、紗月はふと気づく。 慎一の前で取り乱し、感情を抑えきれず、無様な姿を晒すのは、いつだって自分だけなのだ。 慎一はいつも冷静で、まるで何一つ傷ついていないような顔をしている。 今さら何を言ったところで、きっと無駄なのだろう。「慎一、あなたが契約上の夫婦でいることを望んだから、私は要求どおりにしてきた。もし昨日、私が言ったことに腹を立てているなら……仕返しがしたいなら、ドラマから降りてもいい。でも、源間監督は何も悪くないの。あの記事を取り下げてもらえない……?」「言っただろう。この件は俺とは無関係だ」「……」 紗月は何も答えられなかった。 慎一は苛立たしげに眉を寄せ、再びスマートフォンに表示された記事へ目を落とす。 こんな下劣なやり方を、自分なら使うと思われていること自体が不愉快だった。 慎一が誰かを追い詰める必要に迫られたとしても、わざわざこんな姑息な手段を選ぶ理由などない。 それなのに紗月は、自分なら平然とこんな真似をすると、本気で信じている。 その事実が、慎一の胸にざらついた苛立ちを残した。「この件は俺が対処する。誰が仕組んだのかも調べさせる」「……今度もそう言って私を助けて、代わりに欲しいものを手に入れるつもりなの?」「何……?」 慎一は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。 ここまで言えば、自分が関わっていないことも、今から対処するつもりでいることも十分伝わるはずだと思っていた。 それでも紗月は、頑なに彼を信じようとしない。 それどころか、慎一が差し出そうとしている助けさえ、何かを奪うための取引だと思っている。 紗月は涙に濡れた目を伏せたまま、ひどく疲れた声で続けた。「慎一、今度は何が欲しいの?」「……」 慎一は唇を固く引き結んだ。 何も言わず、ただ紗月の瞳を見つめる。 けれど、その目のどこを探しても、自分に向けられた信頼など欠片ほども見つからな
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第243話

 慎一の声には、隠しきれない苛立ちが滲んでいた。「源間程度の三流監督に、わざわざこんな手を使う価値があると思うか? 実績も名声もなく、ろくな代表作すらない。あんな経歴では、ヴァレンティス・プロダクションに企画を持ち込んだところで、俺のところまで話が上がってくることさえない。誰が見ても、提携する価値がないと判断するだろう」 そこで一度言葉を切り、慎一は冷たい眼差しを紗月へ向けた。「あんな男をそこまで高く評価しているのは、お前くらいだ」 なぜそんな言い方をしたのか、慎一自身にも分かっていなかった。 ただ、今回の件が自分の仕業ではないと証明したかっただけだ。 源間など、自分がわざわざ手を下す価値すらない人間なのだと、それを伝えれば紗月も納得すると思っていた。 それなのに、口から零れた言葉は、自分が意図したものとはまるで別の意味を帯びていた。 紗月の表情が、わずかに変わる。 彼女が何か言おうと唇を開くより先に、慎一はさらに言葉を重ねた。「紗月、俺なら源間程度の男が用意できるものより、千倍も万倍もいいものを与えられる。お前が望むなら、必要な仕事も役も、今すぐ全部用意してやる。源間の記事を消したいなら、それだってすぐに広報へ指示を出せる」「それで、私は何を差し出せばいいの?」 慎一が説明すればするほど、紗月には彼が新たな取引を持ちかけているようにしか聞こえなかった。 自分ならもっといいものを与えられる。 自分なら記事も消せる。 だから、その代わりに何を差し出せと言うのか。 紗月の中では、慎一の言葉はすべて、結局そこへ行き着いてしまう。 慎一は何かを言おうと口を開いた。 本当に欲しかったのは、今回の件が自分の仕業ではないと、紗月に信じてもらうことだった。 その言葉は、確かに喉元まで込み上げていた。 ただ、それを口にすることだけは、どうしてもできなかった。 なぜ紗月に信じてもらいたいのか。 なぜ、他の誰に誤解されても構わない自分が、紗月にだけはこんな人間だと思われたくないのか。 そこまで言葉にしてしまえば、自分でも見ないふりをしている何かに触れてしまうような気がした。 慎一はしばらく紗月の顔を見つめていた。 結局、その口から零れたのは、またしても紗月にとってひどく身勝手にしか聞こえない言葉だった。 そしてそれは、紗月が最初から予
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第244話

 事務所で会った源間は、ひどく憔悴していた。 どうやら一睡もしていないらしく、目の下には濃い隈が浮かび、いつもより血色の悪い顔には隠しきれない疲労が滲んでいる。 紗月が入ってきたことに気づくと、力なくソファへ身を預けていた源間はすぐに身体を起こした。疲れきっているはずなのに、それでもどうにか笑みを作り、いつもと変わらない調子で彼女を迎えようとする。「友枝さん、来てくれたんですね」 ローテーブルの上には、空になった紙コップがいくつも重なるように置かれていた。 昨夜から今朝にかけて、相当な数の人間がここを出入りしていたのだろう。 灰皿には吸い殻が山のように残され、換気をしても消えきらなかった煙草の匂いが、まだ薄く室内に漂っている。 紗月の記憶では、源間は煙草を吸わないはずだった。 ほかにも、少しだけ中身を残したままのテイクアウト用のコーヒーカップがいくつか並んでいる。蓋の隙間から見える色はどれも薄く、どうやらほとんどがアメリカーノらしかった。 この一晩、どれほど慌ただしい時間を過ごしていたのか。それだけでも十分に想像できた。「監督……」「昨夜はあんな時間に電話してしまって、迷惑じゃありませんでしたか? 本当なら朝になってから話すべきだったんですが、あの時は少し焦っていて……」 昨夜、自分が何度も電話をかけたことを思い出したのか、源間は少し気まずそうに眉を下げた。 あの時は、今回の騒動に紗月まで巻き込んでしまったのではないかという不安ばかりが先に立ち、時間のことまで気にする余裕がなかったのだろう。 あとになって冷静に考えれば、夜中に紗月へ電話をしたところで、心配する人間を一人増やすだけで、何かが解決するわけではない。「私は大丈夫です……。それより、今回のこと、本当に申し訳なくて……」 紗月がそう言いかけると、源間はすぐに小さく首を横へ振った。「実は、かなり前から何者かに妨害されていたんです。どうやら今回のドラマで、よほど権力のある誰かを怒らせてしまったらしいんです」 一度言葉を切り、源間は紗月をまっすぐ見つめた。「友枝さんまで巻き込んでしまって、本当に申し訳ありません」 そう言うなり、源間は深々と頭を下げた。「監督、やめてください……!」 まさか自分に謝られるとは思っていなかった紗月は驚き、慌てて彼を止めようと手を伸ばした。
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第245話

「監督、私は受け取れません……。私……お芝居ができる機会をいただけただけで、本当に十分だったんです。今回の記事で、何の落ち度もないのに被害を受けたのは監督のほうでしょう。なのに、私まで……」 声を詰まらせながら必死に訴える紗月を見て、源間は困ったように、それでもどこか柔らかく笑った。「友枝さん。仕事をするうえで、俺は役者に対して誠実でいたいんです」 宥めるような穏やかな口調で、ゆっくりと言葉を続ける。「契約は俺を守るためだけのものじゃありません。あなたを守るためのものでもあるんです。こちらの判断で契約を打ち切る以上、きちんと補償するのは当然ですよ」 紗月がなおも首を横へ振り、源間も譲ろうとしない。 二人の押し問答が続きかけた、その時だった。 不意に事務所の扉が開く。 誰かが中へ入ってくるのとほとんど同時に、ひどく疲れた千春の声が室内へ響いた。「俊行、食べもの買ってきたわ。眠らないつもりなら、せめて少しは何か口にしないと……」 そこまで言ったところで、千春は事務所にいる紗月の姿に気づき、わずかに目を見開いた。 一瞬だけ言葉が途切れる。 それでも、すぐに何事もなかったように表情を整え、普段どおりの調子で紗月へ挨拶をした。 源間はそんな二人の顔を交互に見つめた。 これ以上、違約金のことで紗月と押し問答を続けるつもりはないらしい。 彼女へ淡い笑みを向けると、やんわりと帰宅を促した。「友枝さん、今日お伝えしたかったのは、そのことです。こういう話は、やっぱり直接会って説明したほうがいいと思ったので」 そこで源間は、さすがに疲れを隠しきれなくなったのか、目元をわずかに伏せた。「すみません。さすがに少し疲れたので、休ませてください……。千春、友枝さんを送ってもらってもいいか?」「あ、ええ……もちろんよ」 源間の意図をすぐに察した千春は、手にしていたビニール袋を机の端へ置いた。 紗月へ向き直ると、いつものように柔らかな笑みを浮かべる。「紗月、行きましょう。下まで送るわ」 事務所を出てエレベーターで一階へ下りるまでの間、千春は何度か口を開きかけては、結局何も言わずに閉じるということを繰り返していた。 何か伝えたいことがあるのは明らかなのに、どう切り出せばいいのか決めかねているようだった。 一階へ到着し、エレベーターの扉が開いてから、千
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第246話

言い終えると、千春はどこか複雑そうな表情を浮かべ、慰めるように紗月の肩を軽く叩いた。そのまま何かを振り切るように足早に踵を返し、源間のいる上階へ戻っていく。 紗月は千春の言葉を頭の中で繰り返したまま、身動きすることさえ忘れて、その場に立ち尽くしていた。 もしかすると、自分は仕事や夢というものを、あまりにも簡単に考えていたのかもしれない。 離婚してからは、ただひたすらに、かつて自分がやりたかったことへもう一度近づこうとしてきた。 失った時間を取り戻すように。 一度は諦めたものへ、今度こそ手を伸ばしてもいいのだと、自分に言い聞かせるように。 けれど、立花の映画への出演を断ったあの時点で、紗月の運命はすでに決まっていたのではないだろうか。 あの機会を手放した瞬間に、自分にはもう二度と同じような道は開かれないと、最初から決まっていたのではないか。 今起きていることはすべて、それでも諦めきれずに手を伸ばそうとした、自分の欲深さが招いた結果なのかもしれない。 そんな考えに囚われているうちに、不意にすぐ傍から名前を呼ばれた。 ひどくためらいがちな声だった。 紗月の邪魔をしてしまわないかと恐れているようでありながら、それでも声をかけずにはいられなかったのだと分かるほど、隠しきれない心配が滲んでいる。 紗月がはっとして顔を上げると、いつの間に来たのか、篤司が三歩ほど離れたところに立っていた。 いつもと変わらない静かな佇まいのまま、深い眼差しだけがまっすぐに紗月へ向けられている。「篤司さん?」 驚きのあまり、紗月の声はわずかに裏返りそうになった。 まさかここに篤司がいるとは思わず、戸惑ったまま彼を見つめていると、その疑問を察したように、篤司はすぐに口を開いた。「姉さんから電話があったんです。ちょうど近くにいたので……。紗月さん、大丈夫ですか?」 どうやら千春が呼んでくれたらしい。 そのことに気づき、紗月はまた胸の奥に申し訳なさを覚えた。 篤司も、きっとあの記事を見たのだろう。 普段はほとんど表情を変えない彼の顔にも、今は珍しく、かすかな感情の揺れが滲んでいた。 眉間にはわずかな皺が寄り、紗月を見つめる眼差しには、隠しきれない心配の色が浮かんでいる。 何か慰めの言葉をかけようとしているらしく、篤司は何度か口を開きかけた。 それでも、どう言
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第247話

 曲がり角まで来たところで、紗月はふと足を止めた。「篤司さん、私は大丈夫です……。心配してくださって、ありがとうございます。千春先生にも、お礼を伝えてください。先生に頼まれて、私のところへ来てくれたんですよね?」 篤司は何か言おうと口を開いた。 けれど、すぐには否定しなかった。 そのわずかな沈黙だけで、紗月には十分だった。 もっとも、千春から連絡がなくても、篤司はもともと紗月へ連絡を取るつもりでいた。 記事を目にしてから、何度もスマートフォンを手に取っていた。 今はそっとしておくべきではないか。 下手に声をかければ、かえって負担になるのではないか。 そんなことを考えているうちに、結局、自分からは何もできないまま時間だけが過ぎてしまった。 そのせいで、まるで姉に頼まれたからようやく駆けつけたような形になってしまったことが、篤司には少しだけ歯痒かった。「紗月さん、僕は……」「私、千春先生に言われたことを、さっきからずっと考えていたんです」 篤司が言い終えるより先に、紗月は静かに口を開いた。「芸能界は、とても複雑な世界だって……。確かに私は、あまりにも簡単に考えていたのかもしれません。ただお芝居をする機会さえもらえれば、それでいいと思っていました」 紗月はどこか遠くを見るように視線を落とした。「でも、本当にこの世界へ入るのなら、きっと向き合わなければならないことが、数えきれないほどあるんですよね……。私はまだ、その覚悟ができていなかったんだと思います」 その声音に滲むものを感じ取ったのか、篤司はすぐには何も言わなかった。 しばらく黙って紗月を見つめたあと、やがて低い声で尋ねる。「……演じることを、諦めるつもりなんですか?」 その問いを聞いた瞬間、紗月はわずかに目を見開いた。 ほんの少し間を置き、やがて自嘲するような、淡い笑みを浮かべる。「篤司さん。自分の好きなことをするって、とても難しいんですね。私には、そんな幸運はなかったみたいです」 声は穏やかなのに、その響きはひどく寂しかった。 本来の紗月は、これほど悲観的でもなければ、簡単に何かを諦めるような人間でもなかった。 学生時代は何事にも懸命に取り組み、努力を続けさえすれば、いつか必ず結果へ辿り着けると信じていた。 頑張った分だけ前へ進める。 手を伸ばし続ければ、いつ
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第248話

 事情がまだよく飲み込めないまま、紗月は不思議そうに篤司へ視線を向けた。 その視線に気づいたのか、篤司はわずかに身じろぎする。 相変わらず表情はほとんど変わらない。 それなのに、耳だけがうっすらと赤く染まっているのが見えた。 珍しく、少し恥ずかしそうだった。「実は……僕の夢も、俳優になることだったんです」 そう告げる間も、篤司の視線は紗月ではなく、『陽光劇団』と書かれた看板へ向けられたままだった。 照れくさくて、紗月の顔をまともに見られないのかもしれない。 あるいは、自分の夢をこんなふうに誰かへ打ち明けること自体、ほとんどなかったのだろう。 普段の篤司は、どんな時でも落ち着いていて、自分のことを多く語ろうとはしない。 そんな彼の声に、今だけは珍しいほどのためらいと、自信のなさが滲んでいた。 それでも、その言葉を口にしたことだけは、どこか覚悟を決めたようにも聞こえた。「えっ?」 まさか篤司の口からそんな言葉を聞くとは思わず、紗月は驚いて目を見開いた。 彼も自分と同じ夢を抱いていたなど、考えたことさえなかった。 思いがけない告白に驚きを隠せず、ついその感情を顔に出してしまった紗月は、すぐに失礼な反応をしてしまったことに気づき、慌てて口元を手で覆った。「ごめんなさい……篤司さん、私……」 篤司はわずかに口元を緩めた。普段ほとんど笑わない彼らしい、少しぎこちなく、それでいて優しさの感じられる小さな笑みだった。「大丈夫です、紗月さん。僕自身、こんなことを言っても似合わないのはわかっています。でも……あなたには伝えたかったんです」 それ以上、自分の夢について語ることはなかった。篤司は紗月を促すように建物の入口へ向かい、そのまま彼女を連れて劇団の中へ入っていった。 この時間、建物内にいる人はそれほど多くなかった。 広い空間の一角では、まだ若く見える数人が台本らしきものを手に、互いに向かい合いながら台詞の練習をしている。 誰かが台詞を間違えるたびに小さな笑い声が上がり、すぐにまた真剣な声が響き始める。その賑やかさには、どこか学校の放課後を思わせる親しみやすさがあった。 篤司の姿を見つけた途端、彼らは練習の手を止め、一斉に嬉しそうな表情を浮かべた。どうやら皆、篤司とはかなり親しいらしい。「篤司兄さん! 今日はどうして来られたの? 現場
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第249話

  彼らは皆、近隣の高校に通う生徒らしい。 学校の演劇部が部員不足で廃部になってしまったため、それでも芝居を続けたいと願う生徒たちが、放課後になるとこの劇団へ集まり、自主的に稽古を重ねているのだという。「残念なんだよね。今年はたくさん芝居を練習したのに、文化祭で上演する許可が下りなかったんだ」「僕たち、もう正式な部活じゃないから仕方ないけどさ。せっかくみんなで頑張ったのになあ……」 それまで弾むように話していた彼らの声にも、さすがに寂しさが滲んだ。 紗月は思わず、生徒たちの顔を見つめた。 好きなことを続けたいという気持ちは、きっと誰も同じなのだろう。正式な部活動として認められなくなっても、こうして放課後に集まり、限られた時間を使って稽古を続けている。それほどまでに芝居を愛しているのに、練習の成果を誰かに見てもらう機会さえ与えられないのは、どれほど悔しいことだろうか。 篤司は一番近くにいた男子生徒の頭へそっと手を伸ばし、慰めるように軽く撫でた。 その仕草には、普段の無表情からは想像しにくいほど自然な親しみがあった。生徒も嫌がる様子はなく、少し照れくさそうに笑っている。 篤司はそんな彼らを見つめたあと、紗月へ顔を向け、静かに尋ねた。「仕事が終わったあと、僕もここで皆と一緒に稽古しているんです。……紗月さん、僕たちの芝居を見てくれませんか?」 紗月が「はい」と答えるより早く、生徒たちが一斉に目を輝かせた。 期待に満ちた眼差しが四方から注がれ、すでに椅子を運び出して、一番見やすい場所へ置こうとしている者までいる。その手際のよさがおかしくて、紗月はまた小さく笑ってしまった。「紗月姉さん、見ていってよ! せっかく練習したのに、僕たち、このままじゃ誰にも見てもらえないんだ」 そこまで熱心に頼まれては、断る理由などなかった。 紗月は快く頷き、生徒たちが用意してくれた椅子へ腰を下ろした。 舞台で演じる篤司を見るのは、これが初めてだった。 何度も稽古を重ねてきたらしく、彼は台詞をすべて正確に覚えていた。 相手役の言葉を受ける間合いも、舞台上での立ち位置や動線もきちんと頭に入っていて、演技の途中で迷う様子はない。 舞台へ上がるまでのぎこちなさが嘘だったかのように、与えられた役を最後まで演じきろうとする真剣さが、その一つひとつの動きから伝わってきた
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第250話

 目の前の男は、岡谷憲一と名乗った。 あれほど一方的に話し続けたあとになって、ようやく自分の名前を名乗っていなかったことを思い出したらしい。 篤司が誰かを連れてきたことがよほど珍しかったのか、それとも元から話し好きな性格なのか。自己紹介を済ませても紗月の名前を尋ねようとはせず、すぐに篤司の話へ戻っていった。「篤司の姉さんは、有名な女優なんだってね。賞も取ったことがあるんだろう? 本当に惜しいよ。篤司が今のような状態でなければ、きっと役者として素晴らしい成果を残せただろうに」 紗月は改めて舞台へ視線を向けた。 舞台上の篤司には、芝居において何より大切な感情表現が欠けていた。喜びも悲しみも、その表情や声からはほとんど伝わってこない。どれほど正確に台詞を口にしても、役の感情を観客へ届けるという点では、どうしても物足りなさが残ってしまう。 それでも、篤司がこの芝居に心から真剣に向き合っていることは、見ていれば十分に伝わってきた。舞台上での一つひとつの動きに迷いはなく、誰よりも懸命に、自分に与えられた役の中へ入り込もうとしている。「私……」 紗月は口を開きかけたものの、何と言えばいいのかわからず、そのまま言葉を呑み込んだ。 つい先ほど、自分は篤司に、芝居を諦めるかもしれないと打ち明けたばかりだった。その直後、彼は何も言わずに紗月をここへ連れてきた。 やはり、本気で引き留めようとしてくれているのだろう。 篤司はもともと、言葉で自分の気持ちを伝えることが得意な人ではない。紗月をどう説得すればいいのかわからず、それでも何とかして思いとどまってほしくて、こうして行動で示そうとしてくれたのかもしれない。 その不器用な優しさを思うと、胸の奥がじんわりと温かくなった。 紗月はもう一度、舞台上の篤司へ目を向けた。 自分に芝居を諦めてほしくないという気持ちもあるのだろうか。篤司はいつにも増して真剣に演じているように見えた。表情こそほとんど変わらないものの、舞台へ向けられた眼差しは一途で、最後まで役を演じきろうとする懸命さが伝わってくる。 紗月もいつしか、その姿に見入っていた。 傍らから、小さなため息が聞こえてきたのはその時だった。「惜しいな。あれほどいい芝居をするのに。子どもの頃にあんな事故に遭わなければ、篤司も今のようにはならなかっただろうに」 思いがけ
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