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All Chapters of 100日後に離婚する嫁: Chapter 21 - Chapter 30

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21:小さな手の温もり

 公園へと続く緩やかな坂道は、春の気配に満ちていた。 見上げれば淡い色の青空が広がっている。 私は陽菜の手を引いて、公園への道を歩いていた。 3月の乾いたアスファルトを、1台の白いミニバンが軽快なエンジン音を響かせて駆け上がっていく。「あっ。パパ!」 陽菜が声を上げた。 私たちのすぐ脇を通り抜ける際、窓の向こうでハンドルを握る和也の横顔が一瞬だけ見えた。 彼は一度もこちらを振り返ることなく、あっという間に視界の先へと消えていった。 排気ガスの匂いが、肺の奥まで入り込む。私は立ち止まり、その不快な匂いを追い出すように、深く息を吐いた。 走り去ったあの車は、私が地元の企業でフルタイムで働き、貯めたボーナスを頭金にして購入したものだ。 私の年収は400万円、和也は450万円。 共働きといえど、家計は楽ではない。 陽菜の将来の教育資金は貯めておきたいし、住宅ローンも残っている。 車の月々のローンだって、私の給与口座から引き落とされている。 それなのに、私には重いビールの買い出しを命令しておきながら、和也は自分勝手に車を使っている。「ママ、パパ、いっちゃったね……」 私の手を握る陽菜が、不安そうに顔を見上げてくる。 私は「そうね」とだけ答えて、彼女の小さな手を握り直した。 脳裏に、数分前の玄関での光景が蘇る。 私が「車を出す」と言った瞬間、彼は鼻で笑った。そして私が手を伸ばそうとした棚の上から、見せつけるようにひったくったのだ。 あの、金属のキーが擦れ合う冷たい音。「俺は一日中、外で戦ってんだよ。少しくらい自由を寄越せよ」 そう怒鳴った彼の体からは、ふだんの彼からは想像もできない、不自然に甘ったるい香水の匂いが漂っていた。 大学の友人に会うだけで、なぜあんなに準備万端でなければならないのか。 すれ違いざまの残り香が、今は何よりも不快な重荷となってまとわりついている。 
last updateLast Updated : 2026-04-03
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22

 以前の私なら、1人で公園にいる状況に惨めさを感じていただろう。 けれど今の胸にあるのは、もっと冷たい感覚だ。(和也が「疲れている」というのは嘘ではないのかもしれない) 私は思う。 けれどその疲れは「家族と過ごすために使うエネルギーを出し惜しみした結果」でしかないのだ。 自分の欲望や、何やら怪しい「予定」のためなら、彼はあんなにも軽やかに車を走らせることができる。 私は地元の会社で毎日数字と向き合い、上司の顔色を窺い、定時に滑り込んで陽菜を迎えに行く。 年収400万円という報酬は、私の自由と時間を切り売りした対価だ。 その対価で購入した車すら、私には使う権利がないときた。(……いいわ、和也) 私は、膝の上に置いた拳を強く握りしめた。(あなたがその車でどこへ行き、誰と会っていようが、今はもう構わない) 今はまだ、根拠のない疑惑にすぎない。 だから今すぐに何かをするわけじゃない。 ただ私の心が冷えていくのを、あえて止めないだけだ。「ママー! おすべりするよー!」 陽菜がすべり台の階段の下で手を振っている。「はいはい、今行くからね」 私は笑顔を作って、娘に歩み寄った。 小さな体を抱き上げてやる。体重がずしりと腕にかかった。(陽菜は毎日成長しているなあ) 重さは成長の証だ。そのうちこうして、抱き上げてやるのが難しくなるのだろう。 すべり台の上に乗った陽菜は、「きゃあー!」と歓声を上げながら滑り降りた。 私は先回りして、降りてきた陽菜を受け止めてやる。「もういっかい! もういっかいやる!」「よし、次もうまく滑れるかな?」 楽しそうな陽菜の姿は、私の癒やし。 すべり台は私にとっては肉体労働だが、娘の笑顔には代えられない。(こりゃあ、明日は筋肉痛ね) 内心で苦笑しながら、私は陽菜が満足するまですべり台に付き合った。
last updateLast Updated : 2026-04-04
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23

 2時間ほど公園で陽菜を遊ばせた後、私たちは帰り道にあるスーパーへと立ち寄った。 店内は夕食の買い出し客で混み合い、活気に満ちている。 ここでも家族連れの客は多い。 若い夫婦はお互いに助け合いながら、買い物かごに商品を入れている。(気にしちゃ駄目。よそはよそ、うちはうち) 私は陽菜を迷子にさせないよう手をつなぎながら、酒コーナーへと向かった。 金色のラベルのビールが山積みにされている。24缶入りのケースは、かなり大きい。 それを両手で抱え上げた瞬間、ずっしりとした質量が腕にのしかかった。「……重い」 思わず独り言が漏れた。 片方の肩には陽菜の着替えや水筒、遊び道具が詰まったバッグ。もう片方の手では陽菜の手を引かなければならない。その状態で、このビールケースを運ぶ。 苦肉の策で、バッグを肩から下げた方の手で陽菜と手を繋ぎ、空いた方の手でしっかりとビールケースを抱えることにした。 レジを抜けてスーパーを出ると、3月の夕方の風は思いのほか冷たかった。 一歩踏み出すたびに腕の感覚が麻痺し、肩の筋肉が悲鳴を上げるようだ。 指先に食い込む段ボールの感触が、じわじわと私の体力を削り取っていく。『歩くくらい運動になっていいだろ』 和也のあの声が、耳の奥で何度もリピートされる。 彼は今、エアコンの効いた車内で、お気に入りの音楽を聴きながらどこかへ向かっているのだろう。 私がこうして陽菜を連れて重いビールを運んでいることなど、少しも想像していない。 たとえ想像したとしても、「それがお前の役割だ」と切り捨てるだけだろう。 腕が棒のようになり、足取りが鈍る。 住宅街の緩やかな登り坂が、果てしなく遠く感じられた。 あと少し、あと数十メートル。自分を鼓舞しようとするけれど、足取りはのろのろとして進まなかった。 と、その時。 繋いでいた陽菜の手が、ふっと離れた。「陽菜?」 私は内心で焦る。
last updateLast Updated : 2026-04-04
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24

 30を過ぎた大人の男が、妻の負担を嘲笑って自由を求めて車を奪う。  3歳になったばかりの女の子が、母親の苦労を察して小さな手を貸そうとする。 あまりにも違う。違いすぎる。いっそ残酷なほどだ。  私は泣きそうになるのを必死に堪えた。ここで涙を流せば、この優しい子を不安にさせてしまう。「……ありがとう、陽菜ちゃん。すっごく軽くなったよ。陽菜ちゃんは、世界一力持ちだね」 私は精一杯の笑顔を作って答えた。  実のところをいえば、腕は千切れそうだった。  でも陽菜が添えてくれた手の温もりだけを支えにして、私は最後の一歩を踏み出した。 ようやく辿り着いた自宅の駐車場には、やはり白い車はなかった。  コンクリートの地面が剥き出しになったその場所は、和也の心の不在を象徴しているようだった。 ◇  玄関に入り、ビールケースをタイルに下ろす。  指先が解放された瞬間、痺れのような感覚が腕全体に広がった。「ただいま!」 陽菜が元気よく言う。「陽菜ちゃん、ただいま、よく言えました。さあ、麦茶を飲もうね」「はーい!」 私は陽菜をリビングへ促し、冷えた麦茶を飲ませた。  私も一緒に飲む。疲れ切った体に麦茶の冷たさが染み渡るようだ。 一息ついてから、私はスマートフォンを取り出した。  鏡を見る。私の髪は乱れ、腕には段ボールの跡が赤く残っている。その被害を忘れないうちに、私はいつものメモアプリを開いた。 もう整った文章なんて必要ない。指先が動くままに、事実だけを打ち込んでいく。---3/14(土)16:15 ・公園、結局陽菜と二人だけで行く。和也の車に追い越された。 ・棚から鍵を奪い取った時のあの顔、絶対に忘れない。私のボーナスで買った車なのに。 ・あんな香水つけてどこ行った。大学の友達?怪しすぎる。 ・ビールケース、徒歩で運んだ。腕が上がらない。 ・陽菜が「もってあげる」と
last updateLast Updated : 2026-04-04
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25:アポ無しの突撃者

 熱したフライパンに豚肉を落とすと、ジュウッと美味しそうな音とともに白い煙が立ち上った。  換気扇がぐるぐると回り、ごま油と生姜の香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がる。  菜箸で肉をほぐしながら、私はほうっと深く息を吐き出した。 今の時刻は、平日の午後7時を少し回ったところ。  今日は私が先に帰宅した。和也はまだ戻っていない。 地元の企業でフルタイムの仕事を終え、満員電車に揺られ、保育園で娘の陽菜をお迎えして帰宅する。  足がすっかり痛くなって、ほとんど感覚がなくなっている。  無理もない、朝から9時間以上もパンプスを履いて働いていたのだから。 足の裏がジンジンと痛い。  ふくらはぎはパンパンで、もう限界だと悲鳴を上げているのが分かった。 会社を出てから今まで、ただの一度も座っていない。  肩には見えない漬物石でも乗っているかのように重い。 疲れ切った状態で料理を作るのは、正直に言えばしんどい。  スーパーのお惣菜や冷凍食品で済ませられたら楽だろうなと思う。 けれどそんなことをすれば、また和也がうるさいだろう。「主婦なんだから料理くらいしろよ」と。  あぁ、全く想像するだけで腹が立つ。 ――でも、それよりも何よりも。「ママぁ、きょうのごはん、なにー?」 リビングから、陽菜が顔をのぞかせた。  手にはお気に入りの、ピンク色のウサギのぬいぐるみを抱きしめている。「今日はね、豚肉とお野菜の炒め物だよ。陽菜ちゃんの大好きな、少し甘めのお味にしてあるからね」「わぁい! お肉! お肉ー!」 3歳になったばかりの陽菜が、小さい手足をパタパタとさせて喜んでいる。  ぽやぽやの柔らかい髪の毛が、ジャンプするたびに揺れる。 この子の無邪気な笑顔を見ると、料理を頑張ろうという気持ちになる。  この小さなオアシスがあるからこそ、私は毎日の過酷な戦場を生き抜くことができるのだ。 一方、夫の和也は、先月の会社の健康診断で「血圧が少し高め」だと指摘さ
last updateLast Updated : 2026-04-05
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 冷たいと思いたくない。  だから私は出汁の旨味をしっかり効かせて、塩分を控えた味付けを心がけている。  薄味でも物足りなさを感じないように、片栗粉でとろみをつけて味を絡ませる工夫も忘れない。  塩分控えめの味付けは、まだ小さい陽菜にも優しい料理になる。 仕事でクタクタに疲れていても、家族の健康だけは守り抜く。  毎日の手作り夕食は、妻として母親としての私のささやかなプライドだった。「よし、完成だわ」 お皿にこんもりと盛り付けて、彩りに茹でたブロッコリーを添える。  茶色くなりがちな炒め物も、緑が入るだけでぐっと食欲をそそる見栄えになる。  完璧な仕上がりである。 あとは和也が帰ってくるのを待って、お豆腐とわかめの温かいお味噌汁をよそうだけだ。  エプロンの裾で濡れた手を拭き、冷蔵庫から麦茶のピッチャーを取り出す。  グラスに冷たい麦茶を注ぎ、乾いた喉を潤そうとグラスに手を伸ばした。(やれやれ。ようやくひと息つける) その時だった。 ピンポーン。 突然、玄関のインターホンが鳴った。 私はグラスに向けた手を止め、首を傾げた。 宅配便かしら。でも、こんな時間に何か頼んでいた記憶はない。ネット通販の荷物は、休日の時間指定にしているはずだ。  不審に思いながら、リビングの壁にあるモニターを覗き込んだ。 画面に映っていたのは、見慣れた人物。 けれど今世界で一番見たくない人物の顔だった。「……お義母さん」 モニター越しでもはっきりと分かるくらい、バッチリと濃いメイクを決めた義母の節子(せつこ)が、玄関のカメラに向かって手を振っている。  紫色の派手なカーディガンを羽織り、手にはスーパーのビニール袋がぶら下がっていた。 袋の中には、何やら大きなタッパーが見える。(うげ……) 私は思わず、内心でげんなりした。 姑はこの家から15分ほどの距離に済んでいる。  家が近いため、こうやってちょ
last updateLast Updated : 2026-04-05
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「ママ、だぁれ?」 陽菜が不思議そうに首を傾げて、私のエプロンの裾を引っぱった。「えっとね、ばぁばが来てくれたみたい。陽菜ちゃんはちょっと待っててね」 私は努めて明るい声を出して、玄関へ向かった。  いくら迷惑な姑であっても、陽菜にとっては祖母。悪く言うわけにはいかない。 ドアノブに手をかける。大きく息を吸い込み、口角を物理的にぐいっと上へと引き上げた。  笑顔だ。完璧な笑顔を作るのだ、私。「こんばんは、お義母さん。どうされたんですか、突然」 ガチャリとドアを開けた瞬間。「あーら真由美さん! こんばんはぁ! いやだわ、突然だなんて。近くのスーパーの特売日だったから、ついでに寄っただけよぉ」 義母は私の挨拶をさえぎるようにして、ずかずかと玄関に上がり込んできた。  同時に、強烈なフローラル系の香水の匂いが、狭い玄関の空間に充満する。  むせ返るような甘ったるい匂いが鼻の奥を激しく突き刺し、私は思わず息を止めた。「あの、和也さんはまだ帰ってきていないんですけど……」「いいのよぉ、今日は真由美さんにプレゼントをしにきたんだから。はい、これ!」 義母は手の中のビニール袋を、私の胸元にぐいっと乱暴に押し付けてきた。 受け取った袋は、ずしりと重い。  足の痛みに耐えながら立っている今の私には、その重みがひどく堪えた。「これは……?」「煮物よ、煮物! 和也の大好物の、大根と豚バラの煮物! 真由美さん、毎日遅くまで外で働いてるんでしょ? 共働きだと、どうしても食事の準備がおろそかになるじゃない。うちの可愛い和也が栄養不足で倒れでもしたら大変だから、私が腕によりをかけて作ってきてあげたのよぉ」 恩着せがましい言葉が、マシンガントークとなって私に襲いかかった。『食事の準備がおろそかになる』という決めつけに、私のこめかみがピクリと跳ねた。 私は毎日、自分の睡眠時間を削ってでも手作りのご飯を用意している。  出来合いのお惣菜やレトルト食品に頼ることだって、極
last updateLast Updated : 2026-04-05
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「……ありがとうございます。助かります」 私は引きつりそうになる作り笑いを顔に貼り付けたまま、重いタッパーを受け取った。「さあさあ、上がらせてもらうわね。あ、陽菜ちゃーん! ばぁばが来たわよぉ!」 節子は靴を脱ぎ散らかし、私の返事も待たずに勝手にスリッパを引っ掛けてリビングへと進んでいく。 私のささやかな平穏な夕食の時間は、見事に打ち砕かれたのだ。 キッチンに戻り、押し付けられたタッパーの蓋を開ける。  その瞬間、むわっと強烈な醤油と砂糖の匂いが鼻を突いた。「うわ……」 思わず声が漏れた。  タッパーの中に入っていたのは、確かに大根と豚肉の煮物だった。 しかし、その色が尋常ではない。 大根の白い部分は一切残っておらず、芯の芯までどす黒く染まりきっている。  豚肉も原型を留めないほど煮崩れていて、黒い泥の塊にしか見えない。  底の方には、ドロドロとした黒い液体が不気味に溜まっている。 これを作った鍋は、一体どれだけの醤油を注がれたのだろうか。 一目見ただけで、致死量の塩分が含まれていることがわかる。  こんな塩の塊のようなものを、高血圧予備軍の和也に食べさせるわけにはいかない。  ましてや、まだ3歳の陽菜の小さな体には、完全なる毒だ。「真由美さーん、お茶淹れてちょうだいな。あ、それからその煮物、温め直してね。和也は熱々じゃないと文句を言う子だから。お肉は多めによそってちょうだいねぇ」 リビングのソファにどっかりと腰を下ろした義母が、自分の家のようにくつろぎながら指示を飛ばしてくる。 私は真っ黒な煮物を見つめたまま、強く目を閉じた。(いや、これをどうしろと……?) これを食卓に出せば、私が丹精込めて作った減塩料理は、和也に無視されるだろう。  それどころか、この塩の沼のような煮物を「やっぱり母さんの味が一番だ」と絶賛する和也の姿が、容易に想像できた。「ねえ真由美さん。和也、最近少し痩せたみたいじゃない? ちゃんとご飯食べさせてる
last updateLast Updated : 2026-04-06
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「やだ真由美さん、失礼ね! これ、わざわざ『減塩醤油』をたっぷり使って煮込んできたのよぉ!」 節子は立ち上がり、キッチンにいる私に向かってドヤ顔で胸を張った。「減塩醤油を使っているんだから、いくら食べても健康にいいでしょ? 男の人にはガツンと味がついたものが必要なのよ。あなたよりずっと和也の体を考えてるわよ!」 ――マジか。 もう言葉が出ない。  その代わり、脳内ではツッコミの嵐が吹き荒れた。(減塩醤油だろうが、半分に減った塩分を30倍の量ドボドボ使って真っ黒になるまで煮詰めたら、トータルの塩分量は致死量超えだろうが!! 算数もできないのかこの人は!!)「減塩醤油を使えば塩分ゼロ」と本気で信じているのだろうか。そんな馬鹿な!  あまりの思考の飛躍に、めまいと頭痛がしてきた。「聞いてるの、真由美さん? 和也はね、小さい頃から気管支が弱くて、私がつきっきりで看病して育てたのよ。あの子は本当に繊細で優しい子だから、お嫁さんにはしっかりとした人をもらってほしかったのに……」 ため息交じりに放たれたその言葉の裏には、「あなたみたいな気の利かない嫁はふさわしくない」という強烈なメッセージが込められていた。 この人はいつもこうだ。 35歳のおっさんを捕まえて「繊細で優しい子」とは。 その繊細で優しい子は、パパを慕って話しかけた娘を無視しますけど? 何なら突き飛ばしますけど?  仕事で疲れ切った妻に家事と育児を全部押し付けて、自分はソファでスマホやってますけど? 義母は何も見えていない。  ただただ、息子を溺愛しているだけだ。35歳にもなって、精神的に自立しようとしない息子を。(親が親なら、息子も息子。……疲れた。もう勝手にして) 言い返す気力は、もう残っていなかった。  何を言っても、この人の中では「かわいそうな息子」と「至らない嫁」という構図が強固に完成しているのだ。 真正面から反論したところで、言葉の通じない宇宙人と会話しているようなものである。  完全に無駄、徒労というやつ
last updateLast Updated : 2026-04-06
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30:マザコン夫の帰還

 ――ガチャッ。 玄関のドアが開く音が、リビングにまで響いた。「ただいまー。あー疲れた」 間延びした声とともに、夫の和也が帰宅した。 スーツのネクタイをだらしなく緩めながら、だらだらとした足取りでリビングに姿を現す。 彼の手には、いつものようにスマートフォンが握られている。薄暗い廊下で画面の光が彼の顔を青白く照らしていた。「あーら和也! おかえりなさい!」 ソファでくつろいでいた義母が、張り切って立ち上がった。 先ほど私に見せていた不機嫌そうな顔はどこへやら、声のトーンが2段階ほど跳ね上がっている。「おっ、母さん? なんで来てるの?」 和也がスマホから顔を上げて、義母を見た。 それまでのつまらなさそうな表情から、ちょっと嬉しそうになっている。「近くのスーパーまで来たからね。うちの可愛い和也の顔が見たくなって、つい寄っちゃったのよぉ。お仕事、疲れたでしょう? 毎日毎日、本当に偉いわねえ」 35歳の立派なおっさん、それも既婚者で1児の父を捕まえて「可愛い」だの「偉い」だの、幼稚園児を褒めるような言葉の数々ときた。 和也も和也で、それを少しも恥ずかしがる様子も嫌がるそぶりを見せず、当然のように受け入れている。 むしろ嬉しそうですらある。「いやー、今日の会議マジで長くてさ。部長がまた理不尽なこと言うんだよ。ほんと疲れたわー。肩凝った」「まあまあ、可哀想に。和也はいつも一生懸命働いているのに、上司が分かってくれないのねえ。さあ、こっちに座って。今、真由美さんに温かいお茶を淹れさせているからね」 義母は甲斐甲斐しく和也のスーツのジャケットを受け取り、ハンガーにかける。 和也はどっかりとソファに腰を下ろし、大きくため息をついた。 まるで自分がこの世のすべての苦労を1人で背負っているかのような態度だ。 私はキッチンで小鍋の中でグツグツと煮えたぎる煮物、もとい醤油の原液を見つめながら、奥歯をギリリと噛み締めた。 フルタイムで働き、保育園の迎えに走り、足
last updateLast Updated : 2026-04-07
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