Se connecter「やだ真由美さん、失礼ね! これ、わざわざ『減塩醤油』をたっぷり使って煮込んできたのよぉ!」
節子は立ち上がり、キッチンにいる私に向かってドヤ顔で胸を張った。
「減塩醤油を使っているんだから、いくら食べても健康にいいでしょ? 男の人にはガツンと味がついたものが必要なのよ。あなたよりずっと和也の体を考えてるわよ!」
――マジか。
もう言葉が出ない。
その代わり、脳内ではツッコミの嵐が吹き荒れた。(減塩醤油だろうが、半分に減った塩分を30倍の量ドボドボ使って真っ黒になるまで煮詰めたら、トータルの塩分量は致死量超えだろうが!! 算数もできないのかこの人は!!)
「減塩醤油を使えば塩分ゼロ」と本気で信じているのだろうか。そんな馬鹿な!
あまりの思考の飛躍に、めまいと頭痛がしてきた。「聞いてるの、真由美さん? 和也はね、小さい頃から気管支が弱くて、私がつきっきりで看病して育てたのよ。あの子は本当に繊細で優しい子だから、お嫁さんにはしっかりとした人をもらってほし
和也の口から出たのは、泣き叫ぶ我が子を心配する言葉でも、暴走する母親をたしなめる言葉でもなかった。 完全に母親の肩を持ち、妻である私を非難する暴言だった。「せっかく母さんが俺たちの健康に気遣ってくれたのに、失礼な態度とってんじゃねえよ。早く母さんに謝れよ」 健康に気遣ってくれた。 健康に気遣ってくれた。 健康に気遣ってくれた……。 その言葉が、私の耳の奥で虚しくこだました。 大根の芯まで真っ黒に染まった、あの塩の塊が。 35歳の息子を「可愛い和也ちゃん」と呼ぶ義母のとどまるところを知らない愛情とやらが。 健康に気遣ったものだと?「謝る……? どうして私が……。陽菜が痛がって泣いているのに、和也さんは気にならないの?」 私の声は、かすれていた。「気にするわけないだろ。お前が甘やかすから、図に乗って好き嫌いして泣いてるだけだ」 和也は吐き捨てるように言うと、わざわざ席を立ち上がり、義母の元へ歩み寄った。「母さん、気にしなくていいからな。こいつの躾がなってないだけだ。この煮物、本当にうまいよ。俺は毎日でも食いたいもん」 和也は、泣いている陽菜には一瞥もくれず、義母の肩を優しくポンポンと叩いて慰め始めた。 義母も「和也ぁ……。母さん、一生懸命作ってきたのにぃ」と、悲劇のヒロイン気取りで顔を覆う。 被害者である陽菜を完全に放置し、加害者である母親をいたわるという、地獄のような構図が私の目の前で完成していた。 馬鹿と馬鹿が結託すると、ここまで無敵のバリアが張られるのか。「減塩醤油だから塩分ゼロ」と本気で信じている無知な義母。 そして、それに全乗っかりして妻を責め立てる35歳の息子。 地獄を通り越して混沌に満ちたこの光景を見た時。 私の心の中で、何かが一気に凍りつくのがわかった。(……ああ。
義母の真っ赤に塗られた口紅が怒りで歪み、丁寧に描かれた眉毛が吊り上がっている。 自分の自慢の料理を吐き出されたことに、プライドをズタズタにされたのだろう。「痛いわけないでしょ! わざわざ『減塩醤油』を使ってるんだから、体に優しい味のはずよぉ!」 減塩醤油。 その単語を盾にして、義母は喚き散らす。 痛いわけない? 体に優しい? 私の脳内で、一瞬だけ時が止まった。 そして、盛大なツッコミの鐘がゴーンと鳴り響いた。(いや、だから! 減塩醤油だからって、味がしないくらい真っ黒になるまで一瓶丸ごとぶちこんだら、トータルの塩分量は普通に致死量超えるだろうが!!) 掛け算。 小学校で習うあの基本的な四則演算が、この人にはできないのだろうか。 減塩醤油が普通の半分の塩分だとして、0.5。 それを30倍で、0.5×30=15。15倍だ!! そんな簡単な計算もできないくせに、自信満々に「健康によい」と言い切るその面の皮の厚さ。 無知とは、ある意味で最大の暴力である。「お義母さん、でも陽菜には……」「言い訳はいいのよぉ! 真由美さん、あなたが普段から味がしない病院食みたいなものばかり食べさせるから、この子の味覚がおかしくなってるのよ!」 義母は私の言葉を真っ向から切り捨てて、さらに理不尽な責任転嫁を始めた。「ばぁばの美味しい味付けを痛いなんて言うなんて、どういう食育してるの! 私の可愛い和也にだって、きっと粗末なものばかり食べさせてるんでしょ。これだからフルタイムで働く嫁は嫌なのよぉ!」 義母の罵声が、容赦なく私に降り注ぐ。 この状況で、どうして「私が悪かったわ、陽菜ちゃんごめんね」とならないのか。 3歳児の涙を見てもなお、自分の料理が否定された怒りの方が勝っている。 私の反論など聞きやしない。 私は泣きじゃくる陽菜の小さな背中をさすりながら、食卓の反対側に座る和也に視線を送った。
「陽菜! 食べちゃ駄目!」 私が慌てて止めようと伸ばした手は、間に合わなかった。 義母の箸に挟まれた真っ黒な大根の塊が、陽菜の小さな口元に強引に押し当てられる。 大根からは、どす黒い煮汁がぽたぽたと滴り落ちていた。 陽菜は戸惑うように私と義母の顔を交互に見比べたけれど、ばぁばの満面の笑みに逆らうことはできなかったらしい。 小さな口をぽかんと開けて、その黒い塊を受け入れてしまった。 私は思わず叫びそうになり、何とか声を飲み込む。(なんてこと! すぐに口から吐き出させなきゃ!)「そうそう、お利口さんねぇ。いっぱい噛んで、栄養をつけるのよぉ」 私の焦りとは裏腹に、義母は満足げに目を細める。自分の席にどっかりと座り直した。 陽菜の小さな顎が、モグッと上下に動く。 一口、二口と咀嚼した、次の瞬間。 陽菜の顔が、くしゃくしゃに歪んだ。「……っ、うぇ」 ペッ、という音とともに、噛みかけの真っ黒な大根が陽菜の口からお皿の上に吐き出された。(良かった、飲み込む前に自分で吐き出せた) そう安心する暇もなく。「お口、いたいっ……! いたいよう……っ!」 陽菜は顔を真っ赤にして、火がついたように泣き叫び始めた。 ……無理もない。 ただでさえ味覚が未熟な3歳児の舌なのだ。 大人でさえ喉が渇くような過剰な塩分と、煮詰まった醤油の濃すぎる塩辛味である。 幼児の舌には「塩辛い」どころではない。物理的な「痛み」という刺激になってしまった。「陽菜ちゃん! ペッして、これ飲んで!」 私は椅子を蹴立てて立ち上がり、陽菜のそばに駆け寄った。 泣きじゃくる陽菜の口元を急いで濡れタオルで拭い、プラスチックのコップに入った麦茶を口に含ませる。 陽菜はヒックヒックとしゃくりあげながら、必死に麦茶を飲み込んだ。
背筋がゾッとする。 毎日毎日、この地獄のようなマザコン劇場を見せつけられ、真っ黒な塩の塊を押し付けられるというのか。 冗談ではない。 私は膝の上に置いた手を、強く握りしめた。 爪が手のひらに食い込むくらいに。 足の裏の痛みが、私の怒りに同調するようにズキズキと激しく脈打っている。 目の前では、35歳のマザコン夫が嬉しそうに黒い大根を頬張っている。 それを目を細めて見守る義母。 醤油の海に完全に沈んでしまった、私のささやかな努力の結晶。 理不尽だ。 あまりにも理不尽すぎる。 なぜ私が、自分の独身時代の貯金から頭金を出したこの家で、こんな屈辱を味わわなければならないのか。 フルタイムで働き、家事も育児もこなしているというのに。 この男は、私の何を見ているというのか。 妻をなんだと思っているのか。 視界の端が、怒りでチカチカと明滅した。 マグマのようにドロドロとした苛立ちが、腹の底からグツグツと湧き上がってくるのを感じた。 喉の奥がヒリヒリと熱い。 吐き出したい言葉の塊が、出口を求めて渦巻いている。 言い返してやりたい。「ならお前が自分で作れ!」と、この醤油まみれの皿をひっくり返してやりたい衝動に駆られる。 しかしここで私が爆発すれば、陽菜を怖がらせてしまう。 陽菜は私の隣で、この不穏な空気を察知して小さく縮こまっていた。 スプーンを握る小さな手が、不安げに揺れている。「……ママぁ、お肉、黒いね」 陽菜がぽつりと呟いた。 和也が醤油をかけたお皿を見て、不思議そうに首を傾げているのだ。「ええ、そうね。パパはお醤油が好きなのよ。陽菜ちゃんは、ママが作ったお肉を食べてね」 私は努めて優しい声を作り、陽菜のお皿に醤油がかかっていない部分を取り分けた。「あら、陽菜ちゃん。そんな味のしないお肉より、ばぁばが作った美味しい煮物を食べなさいよ」
「あらあら、可哀想な和也。毎日こんな味気ないものばかり食べさせられているの? これじゃあ午後からの仕事の力が出ないわよねえ」 義母が和也の肩をポンポンと叩きながら、大げさに同情してみせる。「そうなんだよ。真由美の飯っていつも薄味でさ。飯食った気がしないんだよね。俺はもっとガツンとしたのが食いたいのに」 和也は私の顔を見ようともせず、食卓の端にある醤油のボトルに手を伸ばした。 嫌な予感がした。「和也さん、やめて。もう味がついているんだから」 私の制止など、彼には届かない。 和也は醤油のボトルのフタをパチンと開け、私が作った炒め物の上に無造作に傾けた。 トクトクトクッ。 いや。 ドボドボドボッ!! 真っ黒な液体が、豚肉と鮮やかな緑のブロッコリーの上を無残に覆い尽くしていく。 和也は手首を振って、これでもかとばかりに大量の醤油をかけ続けた。 お皿の底には、あっという間に黒い水たまりができた。「あーあ、これくらいかけないと味がしないんだよな。ったく、余計な手間かけさせやがって」 和也は悪びれる様子もなく、醤油まみれになった炒め物を箸でかき混ぜる。 元の料理の彩りも、出汁の風味も、すべてが台無しだ。 ただの醤油味の残飯のようになってしまった。「おい真由美、お前も母さんの味付け見習えよ。料理は愛情なんだからさ。減塩醤油使ってんだから、味付け濃くしたって健康にいいんだぞ」 和也は得意げに笑い、醤油の海に沈んだ肉を口に運んだ。 愛情だと? 私の健康に気を遣った愛情は薄味というだけで否定され、義母の致死量の塩分が愛情として称賛される。 このバカとバカが結託した無敵の論理の前では、私の正論など紙くず以下の価値しかないらしい。「減塩醤油なら、どれだけ(致死量でも)使っても塩分ゼロ」と信じる義母と、それに全乗っかりする夫。 彼らの頭の中の常識は、私とは全く別の次元にあるようだ。「本当にそうよねえ。私が若い頃は、夫の好みを一
「わあ、いい匂い! これ、母さんが作ったの?」 和也の目が、黒い沼のような煮物に釘付けになった。 その瞬間、疲れたと言っていた彼の顔がパッと明るくなる。「ええ、そうよ。和也が最近痩せちゃったみたいだから、栄養をつけてもらおうと思ってね。減塩醤油をたっぷり使って煮込んできたのよ。お肉も柔らかくしてあるから、たくさんお食べなさい」 義母が勝ち誇ったような笑みを私に向けた。「マジで!? やった! 俺、母さんの煮物、大好きなんだよなー!」 和也は子供のようにはしゃぎ、パイプ椅子に乱暴に腰掛けた。 陽菜も子供用の椅子に座り、プラスチックのスプーンを握りしめている。「いただきます」 私が手を合わせるのももどかしく、和也は真っ先に義母の煮物に箸を伸ばした。 真っ黒に染まった大根の塊を、一切れ口に運ぶ。「うっまっ! 味がしみしみじゃん! やっぱり母さんの飯が一番うまいわ!」 和也は目を細め、大げさに感嘆の声を上げた。 咀嚼するたびに、口の周りに黒い汁がついている。「真由美のメシはろくに味がしなくてさ。やっぱ料理は、こういうガツンとした味付けがうまいんだよ」 見ているだけで喉が渇きそうな塩分の塊を、彼は嬉々として喉の奥に流し込んだ。「そうでしょう、そうでしょう。たくさん作ってきたから、おかわりもあるわよぉ。お野菜もちゃんと食べなさいね」 義母は自分の料理を絶賛されて、満面の笑みを浮かべている。 このバカップルならぬバカ親子の光景を見せつけられる私の身にもなってほしい。 和也は次に、私が作った豚肉と野菜の炒め物を口に入れた。 モグモグと数回噛んだ後、彼の箸の動きがピタリと止まる。 そして、あからさまに顔をしかめた。「……何これ。味がしねえ」 冷や水を浴びせられたような言葉だった。「味がしないって……。お出汁をしっかり効かせて、塩分を控えているのよ。あなたの血圧が高いって、
冷たいと思いたくない。 だから私は出汁の旨味をしっかり効かせて、塩分を控えた味付けを心がけている。 薄味でも物足りなさを感じないように、片栗粉でとろみをつけて味を絡ませる工夫も忘れない。 塩分控えめの味付けは、まだ小さい陽菜にも優しい料理になる。 仕事でクタクタに疲れていても、家族の健康だけは守り抜く。 毎日の手作り夕食は、妻として母親としての私のささやかなプライドだった。「よし、完成だわ」 お皿にこんもりと盛り付けて、彩りに茹でたブロッコリーを添える。 茶色くなりがちな炒め物も
熱したフライパンに豚肉を落とすと、ジュウッと美味しそうな音とともに白い煙が立ち上った。 換気扇がぐるぐると回り、ごま油と生姜の香ばしい匂いがキッチンいっぱいに広がる。 菜箸で肉をほぐしながら、私はほうっと深く息を吐き出した。 今の時刻は、平日の午後7時を少し回ったところ。 今日は私が先に帰宅した。和也はまだ戻っていない。 地元の企業でフルタイムの仕事を終え、満員電車に揺られ、保育園で娘の陽菜をお迎えして帰宅する。 足がすっかり痛くなって、ほとんど感覚がなくなっている。 無理もない、朝から9時間以
30を過ぎた大人の男が、妻の負担を嘲笑って自由を求めて車を奪う。 3歳になったばかりの女の子が、母親の苦労を察して小さな手を貸そうとする。 あまりにも違う。違いすぎる。いっそ残酷なほどだ。 私は泣きそうになるのを必死に堪えた。ここで涙を流せば、この優しい子を不安にさせてしまう。「……ありがとう、陽菜ちゃん。すっごく軽くなったよ。陽菜ちゃんは、世界一力持ちだね」 私は精一杯の笑顔を作って答えた。 実のところをいえば、腕は千切れそうだった。 でも陽菜が添えてくれた手の温もりだけを支えにして、私は
2時間ほど公園で陽菜を遊ばせた後、私たちは帰り道にあるスーパーへと立ち寄った。 店内は夕食の買い出し客で混み合い、活気に満ちている。 ここでも家族連れの客は多い。 若い夫婦はお互いに助け合いながら、買い物かごに商品を入れている。(気にしちゃ駄目。よそはよそ、うちはうち) 私は陽菜を迷子にさせないよう手をつなぎながら、酒コーナーへと向かった。 金色のラベルのビールが山積みにされている。24缶入りのケースは、かなり大きい。 それを両手で抱え上げた瞬間、ずっしりとした質量が腕にのしかかった。