All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 111 - Chapter 120

191 Chapters

第111話

やはり、千歳の仕業だった。昨日の三久の話が、まさに図星を突いていたのだ。由樹に関することとなれば、千歳はいつでも真っ先に三久を思い浮かべる。悪いことなら責任を押しつける相手に、良いことなら見せびらかす相手にしていた。「部長、申し訳ありませんが、私にはお引き受けできません」三久は申し訳なさそうに頭を下げた。「辞めるつもりでいますので。月末には退職します」部長の顔色がわずかに変わった。三久が辞めることそのものは驚くにあたらない。秘書職から総務部への異動など、誰であっても受け入れがたいものだ。辞めるのは時間の問題だと分かっていた。問題は、三久があえて千歳の顔を潰すような真似をしたということだ。もしかすると、どうせ辞めるのだからと開き直っているのかもしれない。だが三久が去れば、千歳が黙っているはずがない。部長は自分に火の粉が飛んでくるのを恐れた。「早坂さん、酒井社長と村上さんの婚約の準備が終わったら、すぐに退職を認めるから!あと数日だけ残ってくれないか!」部長の口調には、有無を言わせぬ響きと、いくらかの懇願とが入り混じっていた。三久はもはや秘書ではない。退職を認めてもらえるかどうかは部長次第で、彼女自身に選択の余地はなかった。「分かりました。よろしくお願いします」部長はほっと息をついた。「君のチームの新しいメンバーは、もう配属が済んでいる。顔を出してみてくれ」三久は頷き、部長室を後にした。急遽編成された第十六グループには、他のグループから異動してきた者が二人、新たに加わった者が二人いた。そのうちの一人は、三久にとって見覚えのある顔だった。奈緒だ。「私たち二人が、村上さんとのやり取りを主に担当することになったの」奈緒は顎をわずかに上げ、居丈高な態度で言った。「三久、あなたはまず予算案を作って。いくつか案を出して、私に提出しなさい」百栄を辞めてから、奈緒はずっと三久の悪評をあちこちに広めていた。三久は、退職した腹いせに自分へ嫌がらせをしているだけだと思っていた。だが今ようやく分かった。千歳が仕組んだことだったのだ。千歳がどんな手を使って奈緒を呼び戻したのかは知らない。三久はただ、自分の仕事をこなすことに徹した。三久は奈緒を除く全員に、それぞれ仕事を割り振った。式場探し、花の手配、招待状のデザイン
Read more

第112話

奈緒はたちまち媚びへつらう笑みを浮かべ、千歳のもとへ駆け寄った。「村上さん、婚約披露パーティーの進行のことでしたら、三久を上の階まで報告に行かせればよかったのに。わざわざこんなところまで足を運ばれるなんて、お手数をおかけしました!」エレベーターを降りたその瞬間から、奈緒はまるで鬼の首を取ったかのように意気揚々としていた。一言も発さない三久の姿は、まるで敗北者のように、ただなすがままになっていた。千歳はそれを見て、胸のすく思いだった。口元にこみ上げる笑みを抑えきれないまま、奈緒に目配せする。「別に手間じゃないわ」奈緒はすぐさま用意していた資料をすべて取り出した。「社長、村上さん、お選びいただくための資料は、こちらにすべて揃っています。どうぞご覧ください」「由樹さん、どう思う?」千歳は資料を受け取りながら、由樹を見た。「お前が決めればいい」由樹は静かにそう告げると、深い闇を宿した瞳を、ふと三久へと向けた。千歳は椅子に腰を下ろし、資料を開いて式場を選び始めた。「村上さん、三久には実際にそれぞれの式場まで足を運んでもらったほうがいいと思います。日にちもありませんし、できれば今夜中にでも」奈緒は身をかがめ、千歳のそばに寄り添うように媚びた声で言った。千歳は「あら」と声を上げ、わざとらしく物分かりのいいふりをした。「それはちょっとかわいそうじゃない?もうこんな時間なのに」「全然かわいそうなんかじゃないですよ。会社が早坂さんに給料を払ってるんですから、お二人が何を言っても、その通りにするのが当然です!」奈緒は意味ありげに三久へ視線を投げた。三久はその間ずっと、身じろぎひとつせずに立っていた。由樹の体からうっすらと漂う、香木を思わせる香りが鼻先をかすめる。三久はふと目を伏せ、彼のすらりと伸びた脚を見た。由樹は窓辺に立ち、タバコに火をつけてゆっくりと吸いながら、薄く漂う煙の向こうから深い眼差しを千歳に向けていた。三久にはその瞳の奥にある感情までは読み取れなかった。だが、きっと優しさと甘やかすような愛情に満ちているのだろうと思った。「早坂さん」千歳が目を上げ、三久のほうを見た。「悪いけど、あなたに直接回ってもらうわ」候補の式場はそれぞれ西戸市のあちこちに点在している。すべてを自分で回るとなれば、今夜は一睡もでき
Read more

第113話

ただ、いじめているのが千歳だからというだけで、今まさに彼の目の前で起きているというのに、由樹はそれを見て見ぬふりをしていた。由樹はどこまでも、彼女を大目に見ていた。三久がタクシーで最初の式場に着いた時には、すでに夜十時半を回っていた。奈緒にビデオ通話をかけると、たった一言指示されただけで、宴会場から式場の外観まで撮影させられた。「はい、もういいわ。次の式場に行って」奈緒は本気で三久を疲れさせるつもりで、自分は適当に指示するだけだった。三久が次の式場へタクシーで向かう道すがら、由樹と千歳の婚約のニュースが次々と別の見出しでトレンド入りしていた。つい魔が差したように、一つ、また一つとタップして開いてしまった。画面の中の記事は華やかでロマンチックな言葉に埋め尽くされ、目に飛び込んでくるたびに、ちくちくと胸に突き刺さった。心の奥にまで、深く食い込んでくるかのように。タクシーの中では、由樹と千歳の婚約のニュースがラジオで繰り返し流れていた。三久は窓ガラスに頭を預けた。隙間から吹き込む風が額に当たり、その冷たさが胸の内をなおさらかき乱していく。その後さらに二軒を回り、三軒目のホテルに着いた時には、すでに午前三時を過ぎていた。三久がまだ音を上げないうちに、先に音を上げたのは奈緒のほうだった。奈緒に二度ビデオ通話をかけたが、出なかった。三久はホテルの休憩室のソファで、そのまま休むことにした。いつの間にか、ソファの上で体を丸めてうとうとしていた。再び目を開けた時には、もうすっかり日が昇っていた。三久は慌てて立ち上がったが、足元がふらついて、危うく転びそうになった。節立った大きな手が、素早く彼女を支えた。三久は無意識にその手首を掴み、力強い腕の主を見上げようと、視線をたどらせた――そこには、にこやかに笑う洲人の顔があった。「神崎社長?」三久はすぐさまその手を離し、体勢を立て直した。「そんなに驚くことないだろう」洲人は手を離すと、一人掛けのソファに戻って座った。「ここで俺を待ってたんじゃないのか?」三久は身なりを整えながら、その言葉を聞いて一瞬手を止めた。「あなたを待ってた、ですか?」洲人は頷き、足元を指差した。「ここはうちの所有する物件だからな」「ああ」三久は思い出した。このホテルは九洲グループ
Read more

第114話

「これから取材に行くから、あとは適当にやってくれ。それと、酒井に伝えといて。うちのホテルを使うなら、一割増しにしてやるってな」洲人は立ち上がり、スーツを整えると、帰りを促すような素振りを見せた。三久の胸には、ますます嫌な予感が広がっていく。彼女は立ち上がって後を追った。「婚約は遊びじゃないんです!冗談で済まさないでください!」三久にとって何より厄介なのは、良いことも悪いことも、いつも千歳が自分に押しつけてくることだった。この婚約が成立しなければ、自分が会社を去る話も、そう簡単には進まなくなる。「おっと、これはまずい」洲人は腕時計に目をやると、風を切るほどの早足で歩き出した。「取材に遅れちまう!」彼が前を行き、三久が後を追う。エレベーターホールまで追いついたところで、ボディガードに止められた。「神崎社長!」三久は真剣な顔で彼を見つめた。「取材の原稿を確認しないと」洲人は分厚い書類の束を手に、いかにも忙しそうな素振りを見せた。「早く頭に入れないとな。このあとの生配信でしくじるわけにはいかない」三久はエレベーターの扉が完全に閉まるのを、なす術もなく見つめるしかなかった。閉まりきる直前、洲人はふざけたようにこちらを一瞥した。嫌な予感が、三久の胸を鋭くよぎった。呆然としている間もなく、スマホが鳴った。奈緒からのビデオ通話だった。三久は宴会場のほうへ向き直りながら電話に出て、大急ぎで会場全体を撮り終えた。「残り二軒の式場は、あなた一人で行ってください。私は今日一日休みますから」三久が休みでも、婚約披露パーティーの準備を止めるわけにはいかない。奈緒の頭に、ふとある考えがよぎった。今こそ、三久を蹴落として「昇格」する絶好の機会かもしれない。それでも、あえて意地悪な言葉をぶつけた。「式場の件は最後まであなたの責任よ。残りの二軒も撮り終わってから連絡して」「そちらがビデオ通話に出てくれさえすれば、とっくに撮り終わっています。村上さんに、あなたのせいで進行が遅れているって知られたくないなら、余計な口出しはしないでください」三久はそのまま電話を切り、奈緒の番号を着信拒否にした。彼女はホテルの入口でしばらく待ち、洲人を捕まえようとした。だが洲人はそれを見越していたのか、取材が終わるとすぐに裏口から立ち去ってしまった。
Read more

第115話

「それじゃ、今日はドレスの試着と招待状のデザインの確定にも行かなきゃ……」千歳は些細なことまで一つひとつ由樹に報告していく。そして最後に返ってきたのも、「好きにしていい」の一言だった。いくら鈍い千歳でも、由樹の醸し出す空気がひどく重苦しいことには気づいていた。近づくだけで、冷たさに肌が粟立つほどに。「ねえ、もしかして私と婚約するの、嫌なの?」由樹はスマホを手に取り、メッセージと写真をすべて削除した。目を上げて千歳を見た時には、寄せていた眉間の皺がふっと解けていた。「そんなことはない。ただ仕事が忙しいだけだ。婚約のことはお前に苦労をかけるが、好きなようにやってくれ。誰に任せてもいい」千歳はたちまち得意になった。自分はもう、名ばかりの百栄の社長夫人候補ではない。実権を握った女なのだと。すると、彼女はすぐさま階下へ向かい、総務部で指示を飛ばした。奈緒を三久に代わる第十六グループのグループ長に据え、婚約の準備を一手に任せる、と。奈緒は喜びと不安が入り混じった気持ちだった。嬉しいのは、昇進して三久の直属の上司になれたこと。不安なのは、これほど大きなイベントを取り仕切った経験も、チームを率いた経験もなく、内心びくびくしていることだった。「安心して。私の指示通りに動いてくれれば、あなたにもたっぷりといい思いをさせてあげるから」千歳はもちろん、奈緒に大した能力がないことは分かっていた。だが、彼女に必要なのはこういう、言いなりになる駒だった。指し示した方向へ、忠実に突進してくれる存在。「村上さん、私、やっぱり自分の選択は間違ってなかったって思いました!」奈緒はすぐさま機嫌を取るように続けた。「安心してください。これからは村上さんのためなら、火の中だろうが水の中だろうが、どこへだってついていきます!」「そこまでしなくていいわ」千歳は、三久が座っていた空席をじっと見つめた。「あなたが三久に、誰が本当の酒井社長夫人になるのか、分からせてくれればそれでいいの」奈緒は、千歳がなぜそこまで三久に執着するのか、あえて尋ねなかった。すでに昇進という甘い汁を吸ったこともあり、ただひたすら頷くだけだった。「お任せください……」……三久は丸一日眠り、睡眠不足を埋め合わせたが、眠りは浅く、何度も背筋に冷たいものが走った。どうしても嫌
Read more

第116話

一枚、また一枚と、由樹の名前を、三久は迷いなく書き綴っていった。もともと達筆で、力強く美しい筆跡だった。書き疲れた指をさすりながら、彼女は目にちくちくと突き刺さるような招待状の山を、淡々と見つめた。百枚を超える招待状は、少なくとも丸一日はかかる作業だった。奈緒はデスクでぼんやりと、渡された予算案を前に頭を抱えていた。これまでの金銭感覚が揺らぐほどの金額だった。九桁にのぼる婚約披露パーティーの予算。その端数だけでも、自分が一生かかっても稼げないほどの額だった。しかも、その中にいくつも不正ができそうな抜け穴を見つけてしまった。少し数字をいじるだけで、得られる利益は計り知れない。奈緒はごくりと唾を飲み込み、後ろを振り返って三久を見た。それから他のメンバーを見回し、誰にも見られていないことを確認すると、素早くその予算書のページを一枚破り取り、ポケットにしまい込んだ。欲に目がくらんだものの、心の底ではじわりと不安が募り、彼女はいつになく口数が少なくなっていった。三久は昼休みまで黙々と作業を続けていた。昼食は適当にデリバリーでも頼んで済ませようと思っていた三久は、奈緒の様子がおかしいことにはまるで気づかなかった。何を食べようか決めかねているうちに、亜衣里がエレベーターから降りてきて、こっそりと三久のそばに寄ってきた。「早坂さん、お昼御飯はまだ?」「はい、まだです。デリバリーで適当に済ませようと思って」三久は亜衣里を見た。「一緒にどうですか?」亜衣里は三久の手首を掴んで立たせた。「デリバリーなんて体にも良くないし。行こう、外で食べましょう」三久は引っ張られるように立ち上がると、上着とバッグまで亜衣里に取り上げられてしまった。仕方なく後についていくしかない。「午後にもまだ処理する仕事があるんですが……」「大丈夫、ご飯食べるだけだから、すぐ済むわ」亜衣里は茶色のコートを彼女の肩にかけてやった。「昼休みに仕事をしたって手当なんて出ないんだから。終わらなかった分は夜にやればいいのよ!」三久は残業代など気にしていなかった。ただ一刻も早く、すべてを片付けてしまいたいだけだった。数分後、亜衣里は三久を商店街の洋食レストランへ連れて行った。「どうして急に洋食に?」三久は亜衣里に引っ張られるまま、窓際の4番テーブルに座
Read more

第117話

「お答えしづらいんです」三久はゆっくりと首を横に振った。「申し訳ありません」「いいえいいえ」三久が総務部へ異動になったことは、亜衣里は研に話していなかった。それでも、美しい容姿と名門大学卒という経歴、そして秘書時代には業界内でも名の知れた存在だったことが、研の関心を引くには十分だった。「私は相手の職業にはこだわらないタイプです。気が合うかどうか、それが何より大事だと思っていますから」思いがけない言葉に、三久は唇を軽く引き結んで言った。「すみません、今は彼氏を作る予定がないんです」研は淡く笑った。「それなら、まずは友人から始めましょうか」「私たちは、あまり合わないと思います」「まだお話ししてもいないのに、早坂さんはそんなに決めつけないほうがいいですよ」研は表情ひとつ変えず、粘り強く距離を縮めようとしてくる。三久は仕方なく小さな嘘をついた。「実は……私には、彼氏がいるんです」研は一瞬驚いた顔をした。「なるほど、本当に私のことがお気に召さないんですね。次々と断る理由を出してくるんですから」「すみません」三久は頭が痛くなる思いだった。「私……」「大丈夫ですよ」研はしばらく黙り込んでから、スマホを取り出しラインを開いた。「よければ、友達にはなってください」三久はすぐさまスマホを取り出し、ラインを交換した。食事にも手をつけないまま、彼女はその場を後にした。戻ってから亜衣里にメッセージを送り、今の自分では研には釣り合わないという理由を伝えて、縁談の話を諦めてもらうよう頼んだ。さんざん振り回された挙句、まともな昼食すら食べそびれた彼女は、ビルの下でサンドイッチを買って空腹を満たした。午後もずっと机に向かい、指がつりそうになるほど書き続け、夕方になってようやくすべての招待状を書き終えた。翌日、今度は招待状の配達に回された。酒井家や村上家と親しい旧家宛てを除くすべての配達が、三久に押しつけられた。西戸市中を何周も駆け回り、朝から晩まで丸一日かけて、ようやく全部の招待状を配り終えた。宴会場の設営から花束作りまで、面倒で骨の折れる仕事はすべて、千歳が奈緒の手を借りて三久に押しつけてきた。だが三久は、千歳が思い描いていたように投げ出したりはしなかった。むしろ、まるでこれが自分自身の披露パーティーであるかのよう
Read more

第118話

それは、由樹に洲人の子供の父親になる資格がない、という意味ではない。もう二度と、三久と一緒になる資格がない、ということだ。何しろ由樹は今や、千歳と婚約するところまで来てしまった。もう誰とも約束のない身ではない。「おばあちゃん、私たち、どうすればいいの?」依果は潔子の腕を揺さぶった。「みくさんを助けてあげてよ!」潔子は、険しく思案するような表情を浮かべた。額には深い皺が幾重にも刻まれている。「由樹はもうすぐ婚約するんだから、この件はしばらく伏せておくの。婚約が終わったら、私が神崎家に話をつけに行くから!」三久の後ろ盾になってやると、潔子は心に決めていた。依果は胸を力強く叩いた。「私も行く!」……ついに、由樹の婚約披露パーティー前日となり、三久にはようやく仕事が一段落し、ようやく一息つけた。彼女は梨々香と会う約束をし、西戸市を離れた後の行き先について真剣に相談した。鳴瀬市は候補から外すしかない。洲人の側で何か問題が起きた時の用心のためだ。梨々香は、久しぶりに施設で会おうと提案した。二人とも最近忙しく、しばらく施設に顔を出していなかったのだ。仕事を終えて施設に着くと、ちょうど夕食の時間だった。三久と梨々香は子供たちにご馳走を作り、一緒に食卓を囲んだ。「あの南海市も悪くないと思うのよね」梨々香は候補の一つだった南海市を第一候補に挙げた。「ただ、西戸市からはちょっと遠いけど」「遠いくらいがちょうどいいわ」三久が静かに言葉を継いだ。梨々香は口をとがらせた。「確かに。みくちゃんが降格してからまだ日が浅いし、そこまでは噂も届かないだろうから。今後の仕事探しに支障がなければいいんだけど」三久は首を横に振った。「隠しきれるものじゃないと思う。だから、これから先の仕事はきっと不安定になるでしょうね」もし百栄の秘書という立場のまま円満に退職できていたなら、次の仕事に困ることはなかっただろう。だが今となっては、すべてが不確かなものになってしまった。「不安定なら、行かなきゃいいじゃない」温子が不満そうな顔で話に割って入ってきた。「そんな遠くまで行って、苦労するだけでしょう?」梨々香は浅野に向かって笑いかけた。「貯金はあるんです。心配しないでください。子供たちにも、浅野さんにも、ちゃんと分けますから」それを聞
Read more

第119話

由樹の彫りの深い顔立ちに、これまで見たこともないほど深い情愛の色が滲んでいた。千歳が彼のそばに寄り添い、幸せそのものといった、輝くばかりの笑顔を浮かべていた。招待客たちは写真の前で足を止め、口々に称賛の言葉を並べた。千歳にまとわりつく「魅力がない」という噂を完全に払拭するには、由樹との婚約こそが最も直接的で効果的な手段だった。由樹の婚約者へと立場を変えた瞬間、誰もが羨望の眼差しを向けるしかなくなる。もう誰が、千歳を悪く言えるだろうか。披露パーティーの開始が迫り、招待客はすでに全員揃っていた。人垣を縫うように見回していた三久は、その中に洲人の姿を見つけた。洲人は薄いピンクの派手なスーツに白い革靴を合わせ、艶やかに撫でつけた髪を一分の乱れもなく整え、余裕たっぷりに会場の中を歩き回っていた。いつの間にか、彼は三久のすぐそばまで来ていた。今回は避けることなく、まっすぐ歩み寄ってきて言った。「安心しろ、気が変わった。何もしないことにした」三久は警戒しながら彼を観察した。彼が騒ぎ立てて事を荒立てるのは怖くない。怖いのは、彼が黙って何か仕掛けてくることだ。「そんな目で見るなよ。ただ……酒井が婚約したほうが、話が面白くなると思っただけさ」洲人は他人の不幸を面白がっていた。由樹が婚約した上で、思いがけず父親になる話が明るみに出れば、事態はもっと混沌としたものになる――そう楽しみにしていたのだ。三久は冷たく彼から目をそらした。「はいはい、神崎社長のおっしゃる通りです」洲人の考えがこの数分でころころ変わることに、呆れながらもどこか可笑しさを感じた。とはいえ、気を変えてくれたのはありがたい。今日のこの披露パーティーは、注目を浴びながらも滞りなく進むはずだった。由樹と千歳の披露宴が終わった後、三久は部長のもとへ退職を申し出るつもりだった。彼女は、ようやくここを去れるのだ。「三久!」奈緒が息を切らして駆け寄ってきて、階上を指差した。「村上さんが呼んでるわよ、上まで来てって」その頃、千歳は二階でメイクの最中だった。披露パーティーの開始まで、残り五分もない。「何か用でしょうか?」三久は静かに尋ねた。奈緒は不機嫌そうな顔をした。「呼ばれたら行けばいいの、四の五の言わないで!」その顔には、隠しきれない嫉妬の色が
Read more

第120話

目の前の景色が目まぐるしく回る中、三久はとっさに手を伸ばし、手すりに強くしがみついた。その勢いで腕に激痛が走ったが、幸いにも体は宙づりのような状態で踏みとどまった。だが重心が下へと引っ張られ、どれだけ力を振り絞っても立て直すことができなかった。振り返ると、階段には誰一人いなかった。助けを求めるように視線を巡らせた三久の目に映ったのは、由樹の腕の中に倒れ込む千歳の姿だった。由樹は心配そうな顔をしており、その瞳には千歳の姿しか映っていない。すぐさま、VIP席から摩美と幸子が駆けつけ、他の招待客たちも押し寄せて、千歳を取り囲んだ。三久が無様な姿で手すりにしがみつき、今にも階段から転げ落ちそうになっていることに、気づく者は誰一人としていなかった。腕の力は、ほとんど尽きていた。十数段はある階段だった。もしここから転げ落ちたら、この子は一体どうなってしまうのか。声を上げようとしたが、恐怖で喉を塞がれたかのように声が出なかった。血の気の失せた両手が手すりを握りしめたまま震え始める。少しずつ力が緩んでいき、もう一かけらの力も残っていなかった。とうとう力尽き、手が離れ、体は後ろへと倒れていった。三久は目を閉じた。目尻から雫が一筋こぼれ落ちる。彼女は由樹との争いに負け、子供に会えなくなる未来も想像していた。けれど、この子を守りきれず、失ってしまうことだけは、一度たりとも想像したことがなかった。この世でただ一人、自分と血のつながる存在だというのに。「危ないーッ!」覚悟していた痛みは、いつまでたってもやって来なかった。三久の体は力強い両手に受け止められ、体勢を整えられると、そのまま階段の最上段に座らされた。ようやく体が安定し、彼女は腰を下ろしたまま、十数段下を見つめた。由樹は千歳を抱きかかえたまま去っていく。最初から最後まで、一度もこちらを振り返らなかった。人だかりが散っていくと、見下ろす階段はいっそう高く、がらんとして見えた。恐怖と冷たさに、三久は真冬の氷室の中よりも凍えているように感じた。「こっちまで肝が冷えた」洲人が三久の目の前で手を振ってみせた。「大丈夫か?魂が抜けちまったんじゃないだろうな?」三久は振り返り、自分を支えてくれたのが洲人だとようやく気づいた。「……ありがとうございます」「礼は
Read more
PREV
1
...
1011121314
...
20
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status