All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 121 - Chapter 130

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第121話

「病院には行かないのか?」洲人がニュースを眺めながら言った。「メディアによると、村上は足の骨にひびが入ったらしいぞ」あの高さから落ちたにしては、ひびだけで済んだのは不幸中の幸いだ。だが、千歳は村上家が手塩にかけて育てた箱入り娘であり、酒井家の未来の奥様候補だ。両家は騒然となった。摩美は海外の整形外科の専門医を呼び寄せ、千歳を診てもらうことにした。「……行きません」三久はまだ力の入らない両脚を動かしながら言った。「私と村上さんはそこまで親しい間柄でもありませんし、お見舞いに行く必要はないと思います」きっと千歳も、自分の顔など見たくないはずだ。「じゃあ、家まで送るよ」洲人が車の鍵を取り出した。「歩けるか?支えようか?」「結構です」三久は答えた。「一人で帰れますから、大丈夫です」彼女の顔色は青ざめたまま、声にはかすかな震えが残っていた。「そんな様子じゃ放っておけないな」洲人は譲らなかった。「安心しろ、もうみんな帰ったから、俺が君を送っていくところを見られる心配はない」婚約披露パーティーに集まった招待客たちにとって、三久は何者なのかすら知られていない存在だった。由樹にとっても、三久はただの部下に過ぎず、千歳とは比べものにならないほど取るに足らない存在だったのだ。だから、千歳と一緒に階段から落ちかけたはずなのに、その視線が三久に留まることは誰一人としてなかった。三久はそういうものだと慣れていた。ただ、胸の奥にこみ上げる失望だけは抑えられなかった。「お言葉ありがとうございます。今はただ、少し一人になりたいんです」三久は背を向けて歩き出した。まだ両脚に力が入らず、おぼつかない足取りだった。洲人はその後ろ姿を見送りながら、何度も首を横に振った。由樹の愚かさを内心で嘆きながら。ふと、彼の視線が階段の隅にある黒い物体を捉えた。近づいて拾い上げ、しばし眺めてから気づく。それは、折れたハイヒールのヒール部分だった。折れた断面には、接着剤の跡があった。洲人は眉を寄せると、身を翻して警備部へ向かい、防犯カメラの映像を確認するために急いだ。……病院。千歳はまだ検査を受けていた。隣にいる摩美と幸子たちが医師と話し込んでいる。由樹は窓辺でタバコをふかしていた。瞳は暗く沈み、顔つきも険しく張り詰めている。ポケッ
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第122話

ネット炎上の一件は、三久のせいだということにされていた。そして今回もまた、同じように三久のせいにされようとしていた。その一言に、摩美は黙り込んだ。事態はあまりに突然で、正確に何が起きたのかを見た者は誰もいなかった。「摩美さん、どうして黙ってるんですか?」幸子は語気を強めた。「千歳はあの階段のリハーサルを何度もしたんですよ。ここ数年、ずっとハイヒールを履き慣れてきたのに、うっかり足を滑らせるなんてありえないでしょう。絶対、三久に突き落とされたんですよ!」摩美は由樹のほうをちらりと見てから、ようやく口を開いた。「あの三久という女、本当に災いばかり持ち込んでくるんだから。千歳のために、私が必ずけじめをつけさせるからご安心を」幸子はもう、その台詞を何度聞かされたか分からなかった。三久が二人の仲を裂こうとしたという話から、今回のこの大事件まで、問題は一向に解決せず、厄介事ばかりが次々と積み重なっていく。「今回は、私自身が千歳のために動きますわ」前回は自身が片をつけようとしたのに、瑠美に邪魔されてしまった。今度こそ、直接三久と対決するつもりだった。「じゃあ、その時は私も一緒に行きますわ」摩美は幸子の手を軽く叩き、なだめるように言った。「安心してちょうだい。千歳ちゃんには指一本触れさせませんから」幸子は頷きながらも、その視線は由樹のほうへ向けられ、心の奥にはかすかな不安がくすぶっていた。三十分後、千歳が検査室から運び出されてきた。右脚にはギプスが巻かれ、顔色は蒼白で、唇には血の気がまるでなく、見るからに痛々しい様子だった。出てくるなり、彼女は由樹に向かって手を伸ばした。「……由樹さん」由樹が歩み寄り、大きな手を彼女の肩に添えた。「そばにいる。ゆっくり休め」「私たちの婚約披露パーティーが……っ」千歳は嗚咽混じりに言った。あれほど待ち望んでいた披露パーティーが、こんな形で台無しになってしまった悲しさを訴えるように。「今日は式こそ最後までできなかったけど、婚約自体はもう成立したも同然よ。あなたたちはもう、正式な婚約者同士なんだから!」幸子がすぐさま言った。「脚が治ったら、あらためて披露の場を設ければいいだけの話でしょう!」摩美も歩み寄って慰めた。「そうよ、あなたはもう酒井家の未来の嫁なんだから、披露パーティーの
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第123話

二人が病室を出て行くのと入れ違いに、幸子はすぐさま千歳を問い詰めた。「どうして転んだりしたの?」千歳は、泣くに泣けないやるせなさを滲ませて答えた。「私にも分からないの。急に、足元がふらついて」婚約成立まであと一歩なのに、よりにもよって自分の身に思いもよらない事態が降りかかるななんて。千歳の胸中は苛立ちと屈辱に支配され、脚の痛みなど、今の彼女にとってはさしたる問題ではなくなっていた。問題は、今この瞬間も三久が心の中で、ほくそ笑んでいるに違いないということだった。そう思い至ると、彼女は怒りの矛先を転じた。「あの時、私のそばには三久しかいなかったの。絶対に、あの女の仕業よ!」「ふん、やっぱりあの女ね!」幸子は冷ややかに鼻を鳴らした。「安心して療養しなさい。明日、摩美さんと一緒にあいつのところへ乗り込んで、決着をつけてくるから。今度こそ、由樹のそばから完全に追い出してやるわ!」千歳の悔恨は深い怨みへと変わり、胸の奥底に積もっていった。「そうよ、お母さん。絶対に私のために、きつく言ってやって!」幸子はしばらく、娘を優しくなだめた。傍らで、ずっと沈黙を守っていた誠一が口を開いた。「そもそも、お前たちの婚約披露パーティーの進行が、どうして早坂に任されることになったんだ?どうして彼女がお前の腕を支え、階段を下りる役目を務めたんだ?」千歳の胸が一瞬、どきりと跳ねた。婚約披露パーティーの進行は、本来ならば総務部に任せるべき仕事ではない。彼女の腕を支えて階段を下りる役目もまた、三久が務めるべきものではなかったのだ。だが、それもすべて、自分が三久に見せびらかしたかったからだ。三久の目の前で、自分と由樹が婚約するところをはっきりと見せつけ、由樹への未練を完全に断ち切らせてやりたかったのだ。まさか、こんな結末を迎えることになるなんて――「もう。こんな時に、何をそんなことを言い出すの?」幸子が誠一を睨みつけた。「娘がこんな目に遭っているのに、一言の慰めもなく、いきなり問い詰めるなんて。あなた、この子の父親でしょう?」誠一は娘のことを気にかけていないわけではない。だが彼にとっては、千歳の怪我以上に、婚約披露パーティーが台無しになったことのほうが、はるかに重大な問題に思えた。あと一歩、ほんのあと一歩というところだったのだ
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第124話

数多の視線が、一斉に三久へと集まった。同情の目、好奇の目、実に様々だった。意外だったのは、奈緒が一瞥しただけで、いつものように喜々とした様子を見せなかったことだ。応接室の窓は半分がすりガラスになっており、中に腰を下ろす摩美と幸子の姿がすぐに見て取れた。二人は身を寄せ合うようにして言葉を交わしながら、こちらの様子を窺っている。その様子は、まさにけんか腰そのものだった。やはり、逃げられなかったか。三久は一瞬、鼓動を高鳴らせたものの、静かに方向を変え、応接室へと向かった。ドアを開けると、二人の鋭い視線が、三久の顔へと突き刺さった。三久はドアを閉め、二人に軽く頭を下げた。「何かご用でしょうか?」摩美は冷ややかに笑みを浮かべた。「とぼけないでよ、あんたの仕業でしょう?」三久は首を横に振った。「何を言ってるかわかりません」幸子が三久と真正面からやり合うのは、これが初めてだった。幸子は三久を、上から下まで値踏みするようにじっくり見つめた。「昨日の披露パーティーで、あんたがわざと私の娘を階段から突き落としたのよね。私たちが何も知らないとでも思っているの?」「証拠はあるんですか?」三久は落ち着き払った声で問い返した。「そんなことに証拠が必要だとでも?」幸子は堂々と言い放った。「あれだけ大勢の人が、はっきり見ていたのよ!」彼女が一声かければ、披露パーティーに出席していた招待客の誰もが、「この目で見た」と証言するに違いない。三久は体の脇に垂らした手を、ぐっと握りしめた。やはり、この一件は自分に押しつけられようとしている。彼女たちが手を回すより先に、退職の手続きを済ませて離れたかったのに、まさかこれほど早く乗り込んでくるとは思いもよらなかった。「私は孤児ですが、決して愚かではありません。あれほど大勢の人がいる前で、村上さんを突き落とすような真似はいたしません」「あんたーッ!」幸子はその態度に、言葉を詰まらせた。三久はその隙を突いて続けた。「もし信じられないとおっしゃるなら、警察に通報してください」てっきり、寄る辺のない孤児だと高をくくっていたというのに、いざ言葉を交わしてみると、幸子の三久への評価はたちまち一変した。まったく、何としたたかな女なのだろう!「あんたはかつて由樹と二年間、結婚していた身よ。事
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第125話

その一言に、摩美はまるで平手打ちを食らったかのような、激しい恥辱を覚えた。そうだ、彼女がずっと三久一人を御しきれないことを恥だと思っている。「せっかく穏便に済ませてやろうとしたのに、聞く耳を持たないなんて。三久、これはあなたが招いたことよ」摩美は立ち上がると、ポケットから一枚の写真を取り出し、三久に向かって無造作に放り投げた。「あの施設を潰されたくないなら、私たちの言う通りにしなさい!」その写真は、施設の集合写真だった。当時の三久はまだ十五、六歳。あどけなく初々しい面影を残しながらも、その美しさははっきりと見て取れた。彼女は梨々香とともに、温子の両脇に立ち、さらにその両側には、施設の子供たち全員が並んでいた。施設の規模は小さく、西戸市の中でもほとんど誰にも知られていない存在だった。摩美の手腕をもってすれば、この施設を誰にも気づかれずに潰すことなど、造作もないことだった。三久はその写真を、強く握りしめた。同時に、見えない巨大な手で喉元を強く締め上げられているような、そんな錯覚に襲われた。無表情を装いながらも、頬の筋肉がわずかに震え、心の底から湧き上がる無力感を、どうしても抑えきれなかった。「どうしたの?急に強気じゃなくなったわね」三久が黙り込んだのを見て、幸子は胸のつかえがいくらか取れた気がした。「由樹と二年も一緒にいたのに、上流階級の礼儀も品性も身につかなかったみたいだけど、いっちょまえに態度だけは大きいのね!知らない人間が見たら、あんたの背後に大物でもついているみたいに見えるわね!」三久は沈黙したまま、圧倒的な権力の網にがんじがらめにされ、下唇を強く噛みしめた。口内に鉄錆びのような血の味が広がっても、少しも動じようとはしなかった。「もういいわ」摩美は蔑むような目で三久を見やると、幸子のほうへと向き直った。「記者会見のことは任せますわ。病院で開けばいいんじゃないですか?三久を病院まで呼びつけて、千歳ちゃんに直接謝らせましょう」幸子は目を光らせ、さらに尋ねた。「それで……この女を、まだ百栄に置いたままにするつもりなんですか?」ふと何かに思い至ったのか、摩美の顔色がわずかに曇った。「まずは、この件を片づけてからね」「ぼーっとしないで、あんたも一緒に来なさい!」幸子は察した。三久の去就は、どうやら摩美
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第126話

チン。エレベーターの扉が開く音がした。哲朗が降りてきて、三久のそばに立った。「摩美さん、村上幸子さん、申し訳ございませんが、社長が早坂さんにご用があるそうです」「用事なら後にしてちょうだい。私たち、今からこの女を病院へ連れて行くところなの」摩美はもう幸子の言葉に耳を貸す余裕もなく、三久のもう片方の手を掴もうと手を伸ばした。哲朗は表情ひとつ変えることなく、その手を制した。そのまま、幸子が握りしめていた三久の手も、するりと解いてみせた。「社長が今すぐ早坂さんに会いたいとおっしゃっていますので、先にお連れいたします」哲朗は三久の前に立ちはだかると、さりげなく手招きした。三久は身を翻し、そのままエレベーターへと乗り込んだ。「どきなさいよ!」摩美はエレベーターの扉を押さえ、上へ行かせまいとしたが、哲朗は壁のように微動だにせず立ちはだかっていた。エレベーターの扉がゆっくりと閉まり、最上階へとぐんぐん上がっていく。狭い箱の中、三久はひとり、わずかに膨らみを帯び始めたお腹を見下ろし、眉根を寄せた。お腹の膨らみは、もういつ隠しきれなくなってもおかしくないほどだったのだ。……十分前、社長室。潔子はテーブルを強く叩き、由樹を叱りつけていた。「あんた、まだ分からないの?あんたのお母さんも村上家も、三久ちゃんのことを絶対に認めないってこと!あんたの頭の中には、仕事のことしかないの?少しは人情ってものを考えなさい。千歳と婚約するからといって、元妻を放っておいていいとでも思っているの!」由樹は表情ひとつ変えずに座ったまま、潔子の叱責を聞いていた。その眉根が、次第に寄っていく。「いいわ。彼女をそばに置いておくつもりなら、なおさら守ってあげなさい。彼女が巻き込まれた面倒事は、全部あんたが引き起こしたものなんだから!」潔子はもう一度、テーブルを強く叩いた。依果はそのそばで潔子の胸を優しく撫でながら、由樹に向かって頷いた。「おばあちゃんの言う通りよ!」彼女たちがどれほど言葉を重ねても、由樹は眉をひそめたまま、一言も発しようとはしなかった。「あんたなんか、あの神崎家の坊やにも劣るわね」潔子は依果の手をぽんと叩いた。依果はすぐさま言葉を継いだ。「千歳が階段から落ちた件、絶対に事故なんかじゃないわ。それに、
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第127話

千歳のことで責め立てられる以外に、由樹が自分を呼び出す理由など、三久には到底思い当たらなかった。「後ろ盾ができると、口の利き方まで大きくなるものだな」由樹の声は低く、どこか意味ありげに響いた。だが、三久の視線はすでに潔子のほうへと向いていた。どうやら潔子は、摩美が幸子を連れて自分に文句を言いに来たことを知り、わざわざ駆けつけてくれたらしい。つまり由樹は、潔子から圧力をかけられたからこそ、哲朗を寄越して自分を「救い出した」というわけなのだろう。由樹の口調には、いかにも不本意そうな響きがこもっていた。おそらく、千歳の肩を持てなかったことが、腹立たしいのだろう。「三久ちゃん」潔子は由樹を一瞥してから、三久に向かって手招きした。三久はそちらへと歩み寄った。「おばあちゃん、依果ちゃん、お久しぶりです」三久が妊娠している事実を知っている潔子は、彼女のお腹をじっと見つめた。まださほど目立ちはしないものの、確かにお腹の膨らみが、少しずつ目立ち始めている。これ以上放っておけば、三久の身すら守りきれなくなる。潔子は、自分が三久のために、はっきりと立場を示さなければならないと強く決意していた。「おばあちゃんは信じているわ。千歳が階段から落ちたのは、あなたとは一切関係ないって」潔子の「信じている」というあたたかな一言が、三久の涙腺をゆるませた。さっきまで摩美と幸子の前で、ずっと張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。目頭を熱くして、掠れた声で言った。「……ありがとうございます」「これまでずっと、あなたには辛い思いをさせてきたわね。酒井家はずっと、あなたに申し訳ないことをしてきたのだから」潔子が指しているのは、最近、千歳のせいで巻き起こった一連の騒動のことだった。いつも不利益を被るのは三久のほうであり、潔子はそれを心から申し訳なく思っていたのだ。だがどう言われても、三久はただ首を横に振ることしかできなかった。「おばあちゃん、そんな大げさなことではありません。ただ、今後同じようなことが起きなければ、それでいいんです。ただ……」「安心なさい!」潔子がその言葉を遮った。「今日からは、おばあちゃんがあなたの後ろ盾になるわ。もう二度と、そんなことは起こさせないから!」由樹が冷ややかに言い放った。「こいつのために、あなたが
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第128話

「そ、そんな……駄目ですよ!」あまりに急な話の転換に、三久はすぐには反応できずにいた。だが「叔母さん」という言葉を聞いた瞬間、反射的にばっと立ち上がった。「おばあちゃんが私のことを思ってくださっているのは分かります。でも、こんなことをしたら、余計に事態がややこしくなってしまいます」潔子は三久の頑なな拒絶を目に留め、自分のこの突拍子もない考えが実現困難だと悟った。「仕方ないわね。それなら、義理の孫娘ということにしましょう」依果は苦笑いを浮かべた。仕方なくこのろくでもない案を受け入れたものの、本音を言えば、そんな案は最初からないほうがよかった。「じゃあ、これからみく姉って呼ぶね。お兄ちゃんにとっては妹ってことになるわけだし」潔子は濁った目を細め、心の中ではすでに次の手を考え始めていた。神崎家へと乗り込み、三久と洲人のことについて決着をつけに行かなければ。三久の義理の祖母にさえなれば、堂々と彼女のために前へ出ていけるようになるのだ。依果はその胸中に秘められた深い思いやりに気づき、こっそりと親指を立ててみせた。一方の三久と由樹は、二人とも表情を強張らせたまま、無意識のうちに互いを見つめ合っていた。兄と、妹?かつては法律上、夫婦であった二人が、今度は一転して兄妹になるというのか。しかも彼女のお腹には、由樹の子供が宿っているというのに。これでは、関係がますますややこしくなってしまう。「やっぱりそれも無理です」三久はきっぱりと拒絶した。「おばあちゃん、ご心配には及びません。私はもう会社に退職届を提出しています。百栄を離れさえすれば、すべての問題は解決しますから」自分が由樹のそばから遠く離れさえすれば――摩美も村上家の人間も、もう二度と自分を目の敵にすることはなくなる。妊娠の事実も、誰にも知られずに済むのだ。「私を義理の祖母として受け入れることと、退職とは何の関係もないでしょう」潔子は当然、これ以上彼女をこの会社で働かせ続けるつもりなどなかった。ましてや、今はもう秘書ではなく、総務部の一職員にすぎないのだ。その熱い善意と気遣いが、今の三久にはかえって大きな重圧となってのしかかっていた。「彼女が辞めるかどうかは、おばあちゃんが決めることではありません」由樹は不機嫌そうな顔つきで、変わらず冷ややかな
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第129話

そもそも三久は、由樹が摩美と幸子の魔の手から、強引に引き離して連れ戻した相手だった。由樹が三久を辞めさせれば、摩美と幸子は必ずまた、彼のところへとその責任を問いにやって来るだろう。「この騒動は、私が起こしたものではありません。ただ、私がここを去りさえすれば、すべての問題は解決へと向かうはずです」三久を百栄から追い出すこと。それこそが、摩美と幸子が求める最終的な着地点なのだから。「屁理屈だな」由樹は、彼女の白磁のような頬に浮かぶ強い意志を見据えながら、その身に凛とした冷ややかさをまとわせた。三久は静かに俯いたまま言葉を挟まず、彼の判断を待った。どれほどの時間が流れただろうか。由樹の深く沈んだ瞳の色が、次第に元の冷徹な落ち着きを取り戻していった。「ここに退職合意書がある。署名すれば、すぐに出て行っていい。ただ、お前の立場が特殊なことを考慮して、条項をいくつか追加した」彼は右手の引き出しから退職合意書を取り出し、三久の前へと無造作に差し出した。三久はそれを受け取り、ざっと目を通した。「ありがとうございます」紙面を埋め尽くす細かな条項は、その場で即座に読み解ける量ではない。持ち帰って、熟読する必要がありそうだ。「署名したら、人事部へ提出しろ。署名するかどうか、よく考えて決めろ……一度出たら、もう二度と戻れると思うなよ」由樹はペンを脇に投げ捨て、机の上の書類をまとめてカバンに詰め込むと、立ち上がって部屋を出て行った。三久も彼の後に続いて執務室を退出し、二人はエレベーターホールで別れた。彼女は一般社員用のエレベーターの前に立ち、由樹はそのまま、社長専用エレベーターへと乗り込んだ。扉が完全に閉ざされるその一瞬になって、三久はようやく顔を上げ、そちらを見やった。由樹が、まさか自分の退職をいとも簡単に認めるとは。まだ彼が提示した退職の条件に目を通していないものの、由樹という人間をよく知る彼女からすれば、それほど無理難題な内容ではないはずだった。下降していくエレベーターを見つめるうち、三久はふと、ぼんやりと物思いに沈んだ。不意に響いたスマホの着信音が、彼女の思考を現実の世界へと引き戻す。すぐさま端末を取り出し、電話に応じた。依果からだった。声を潜めて尋ねてくる。「どうだった?お兄ちゃん、あの件をどうやって片
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第130話

三久の足がピタリと止まり、無意識にそばの物陰へと身を潜めた。薄暗い駐車場の一角、一台のマイバッハの傍らに、酒井母子二人が立っている。車のドアは半ば開かれており、由樹が乗り込もうとしたところを、摩美に呼び止められたようだった。彼は車に片足を踏み入れ、片腕をドアの枠にかけたまま、三久のほうへと背を向けている。三久には彼の表情までは窺えない。ただ、その低く沈んだ声音だけが耳へと届いた。「あなたたちが目障りだと言うのなら、追い出さずにどうする気ですか」摩美は由樹をじっと見つめ返したが、しばらくの間、その気品ある端正な顔立ちからは何の感情も読み取れずにいた。それでもなお不安を拭いきれず、彼女は言葉を重ねた。「千歳ちゃんが甘やかされて育ったのは確かに事実よ。それについては私にも責任がある。しかし、たとえあの子は仕事の面であなたを支えられないでも、少なくとも三久よりずっといい家柄の娘なのよ。あなた……絶対に千歳ちゃんを裏切っては駄目よ!」しばしの沈黙の後、由樹の薄い唇から零れ落ちたのは、たった一言だった。「ああ」そのわずかな一言が、三久の胸の奥底へと重く沈み込み、彼女から息を奪い去った。息苦しさを覚え、彼女は冷たいコンクリートの壁に、ぴたりと身を寄せた。書類を持つ手が、思わずぐっと強張る。やがて、エンジン音が響き渡った。三久がそっと視線を上げると、摩美が自分の車に乗り込み、その場から去っていくのが見えた。一方の由樹はまだ乗り込む姿勢を保ったまま、片足をステップにかけた状態で動きを止めていた。三久はすぐさま気持ちを整え、物陰からゆっくりと歩み出た。「社長、これは小林さんからお預かりした書類です」由樹がゆっくりと振り返ると、彼の視界に入ったのは、彼女が差し出した手だった。すらりと伸びた、清潔感のある細い指先。白い紙の色に映えて、それがいっそう白磁のように美しく見える。だが書類を持つ指先からは血の気が失われ、彼女が握りしめた部分には、くっきりとしたしわが刻まれていた。由樹はわずかに眉根を寄せ、その書類を受け取ると同時に、彼女の顔をちらりと見やった。「もうすっかり心を決めたものと思っていたが」どこかからかうような口調だった。まるで、あんなにもここから出て行きたがっていたはずなのに、なぜ未だに去
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