All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

注文を取りに来たウェイターをそっちのけで、梨々香はさっきから高崎家の話に夢中だった。真相を突き止めるまでは、食事どころではないようだ。見かねた三久が梨々香の腕を引いて立ち上がらせ、ウェイターに申し訳なさそうに告げた。「すみません。急用ができたので、これで失礼します」梨々香は引かれるまま素直に車へ乗り込んだものの、知り合いという知り合いに片っ端から連絡を入れ、高崎家について訊き回っていた。少し離れた物陰から、二人が車へ乗り込むのを温子がじっと見つめていた。やがて振り返り、四十歳前後の女に声をかけた。「聡子さん。あの二人、お見覚えがありませんか?」「一体どういうおつもり?」高崎聡子(たかさき さとこ)は信じられないという顔で温子を見た。「わざわざ私をここまで連れてきて、あの女たちを見せて、何の真似かしら」温子は迷いもせずに言った。「あなたが昔お産みになったあの子、本当は死んでなどいないんですよ」「何を馬鹿な!」聡子はますます信じられないという顔で遮った。「馬鹿な話かどうかは、調べてみればわかることです」温子はわざとらしく思わせぶりに言った。「もっとも、あの二人は私が手塩にかけて育てた子ですから。調べるおつもりなら、私を通さなければなりませんけれど」聡子は眉を寄せたが、ふっと表情を緩めた。「知らないとでも思っているの?あなた、昔は賭博で高崎家を追い出された身でしょう。それを今さらこんな出鱈目な作り話で、私からお金でも巻き上げようという魂胆?さっさと消えなさい。でないと警察を呼ぶわよ!」言い捨てて、聡子は踵を返した。車に戻ってからも、つい三久と梨々香の乗った車が去った方向へ目をやってしまう。温子の言葉など信じてはいなかった。けれど、あの二人のうち片方には、確かに見覚えのあるような妙な感覚があった。「さっきの二人の車を追って」聡子は運転手に命じる。「かしこまりました、奥様」温子が追いすがり、車の窓を叩いた。「どうか、信じてください。私の言ったことは全部本当なんです」車はゆっくりとその場を離れていった。置き去りにされた温子は、聡子の車が消えていった先をしばらく見つめたあと、身を翻して別の方角へと歩き去った。レストランの二階では、由樹が窓辺に立ち、その一部始終を見下ろし
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第432話

温子が選んだあの店と比べると、こちらはずいぶんと庶民的だった。二人は窓際の席に座り、料理をいくつか頼む。料理を待つあいだ、また先ほどの話に戻った。「そういえば浅野さん、今誰が施設を運営しているのか、結局言わなかったわね」梨々香は何か思いついたようにスマホを取り出す。「愛菜に訊いてみる」施設を出るとき、二人は愛菜にスマホを買ってあげていた。学校の寮にいるあいだは先生が預かってくれていて、休みで施設に帰ったときはいつでも連絡が取れるようになっている。今日はちょうど週末、愛菜も休みのはずだった。「あの子、他の子とはどこか違うのよね。誰に言われなくても、あまりスマホをいじろうとしない。今もきっと静かに勉強でもしてるんだわ。それにしても、こんなに時間が経っても返事がないなんて」梨々香がメッセージを送ってからしばらく待っても、愛菜からの返信は届かなかった。「電話してみたら?」三久が促す。かけてみると、電源が入っていないか、電波の届かない場所にいるというアナウンスが流れた。「何よこれ、電池切れ?」もう一度かけ直しても、答えは同じだった。「少し時間を置いてからにしましょ」子どもがスマホを電池が切れるまでいじり続けて、そこでようやく充電を思い出す。別に珍しいことでもない。そのとき、店の入り口が急にざわめいた。話の途中だった三久も、思わずそちらへ目をやる。黒いドレスをまとった貴婦人が立っていた。首元で真珠のネックレスが揺れ、身のこなしからしてどこか浮世離れした風格がある。その生まれ持った気品は、この気取らない店の内装とはどうにも噛み合っていなかった。「あら」梨々香が声をひそめる。「あのバッグ、百万円は下らないわよ。この店ごと買えちゃうくらい。深川のどこの名家の奥様が、こんな地味な店に迷い込んできたのかしら」そう言い終わるより早く、貴婦人の視線が二人のほうへ流れてくる。一瞬目を細めたかと思うと、すぐ近くの席へ腰を下ろした。すかさず店員が慌てて駆け寄り、ただならぬ気配を感じ取ったのか、店長までもが奥から出てきて自ら応対にあたった。「食べましょ」料理が運ばれてくると、三久は割り箸を割って梨々香に手渡した。「早く帰ってそうちゃんの世話を見てあげなさいよ。あなたの顔が見えないと、あの子、寝ないんでしょ」
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第433話

車内で、シートベルトを外そうとしていた由樹の手が、ふと止まる。沈んだ眼差しで、三久が身をかがめて車に乗り込むのを見つめる。振り返りもせずあっさりと去っていく、その後ろ姿を。薄い唇をきつく引き結ぶと、彫りの深い硬質な顔立ちに翳が差した。視線は、三久の消えていった方角にじっと据えられたままだった。レストランの入り口には、聡子も出てきていた。その場に立ち尽くし、猛スピードで走り去っていく車を、ぼんやりと見送っている。「店の人に防犯カメラの映像を見せてもらってきて」聡子は運転手に言いつけた。運転手はすぐさま踵を返し、動き出す。聡子の胸は、抑えようもなく高鳴っていた。先ほど見た、あの匂い立つように華やかな顔立ち。まるで若い頃の自分を見ているようだった。温子の話は突拍子もないと思っている。それでも、心のどこかで期待せずにはいられない自分がいた。「高崎聡子さんですか」振り向くと、そこに由樹が立っていた。「あなたは……」由樹は名刺を差し出す。「西戸の酒井由樹と申します」「酒井社長?」聡子は戸惑いを隠せず名刺を受け取った。「こちらへは、どういったご用件で?」「通りかかっただけです」由樹は簡潔に答えた。「ご主人に何度か面会をお願いしているのですが、なかなかお忙しいようで」聡子はそつなく微笑んだ。「主人はもうずいぶん前に第一線を退いておりますの。今は家で子どもたちと過ごすことに専念していますわ」由樹は小さく頷く。「ご主人が家庭を大切にされる方だとは以前から伺っていましたが、なるほど本当のようですね。もっとも、お会いしたいのは、純粋に仕事の話だけではないのです」「仕事の話だけではないですって?」聡子が問い返す。「他にどんなご用が?」「高崎家のことです」由樹の声音は静かだが、揺るぎなかった。「今の高崎家はあまり穏やかとは言えませんから。ご主人が安穏に暮らすのは少々難しいでしょう」聡子の顔が険しくなる。「それも結局、仕事の話じゃありませんの」初対面で由樹が只者ではないとわかっていながら、その拒むような態度は隠しようもなかった。感情を抑えきれなかったのだろう。それだけで十分だった。聡子たち一家が、外の騒ぎに関わらず静かに暮らすことを望んでいるのだと、由樹にはわかった。由樹はしばし考え込んで
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第434話

三久は二日酔いの薬を取り出し、水と一緒に洲人へ差し出した。洲人は薬とグラスを受け取り、そのまま口に運んだ。台所の窓越しに、ソファで寄り添うように座る二人の姿が、真っ先に由樹の目に飛び込んできた。由樹は眉をひそめ、眼差しをいっそう暗く沈ませながら、ポケットからタバコを取り出して咥え、火をつける。室内では、三久と洲人のあいだに二メートルほどの距離があった。三久は洲人に顔を向ける。「そろそろ話してくれません?」「君たちの施設の責任者、君と梨々香が渡した金を全部使い込んでたぞ。あの女、ギャンブルをやってる。知ってたか?」洲人は口の端を歪め、呆れたように言う。三久は驚きに目を見張った。「何かの間違いじゃ……」「信じないなら自分で見ろ」洲人はスーツの内ポケットから写真の束を取り出し、差し出した。「ほら」三久はその束を受け取る。数十枚。どれも撮影時期こそ違うが、同じ場所で、同じ人物が写っていた。温子はまるで別人のようだった。施設ではいつも古びた服にエプロン姿、化粧っ気ひとつない顔をしていた女が、写真の中では真っ赤なドレスを纏い、濃い化粧を施してカジノテーブルの前に座っている。ぎらついた目には、卓上に積まれた札束しか映っていないかのようだった。「これ……」あまりの変貌ぶりに、三久は思わず疑いの声を上げた。「合成写真じゃないんですか?」「あの女に恨みも何もないのに、こんな噂をでっち上げてどうする」洲人は胸を張って保証した。「これは全部、俺が人を使って調べさせた結果だ」三久の頭の中が、痺れたように真っ白になる。もう一度写真をめくっていくと、中には二十年以上前、まだ若かった頃の温子の姿まであった。つまり温子は、若い頃からずっと賭博に手を染めていたということだ。ふと、幼い頃の記憶が蘇る。温子がベッドにいない夜が何度かあった。三久と梨々香で施設中を探し回っても温子の姿はどこにもなく、二人でベッドの隅に身を寄せ合いながら、いつの間にか眠りに落ちていた。目が覚めると温子はもう戻っていて、昨夜のことは寝ぼけて見間違えただけだと言われた。そんな記憶はいくつもあったが、当時は幼すぎて、深く気に留めることもなかった。その後、三久と梨々香は学校の寮生活が始まり、施設に泊まることも少な
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第435話

洲人が電話をかけているあいだに、三久は冷め始めたスープを鍋に戻し、温め直した。しばらくして戻ってきた洲人は、ご機嫌な笑みを浮かべている。「三久、まさか俺が君みたいな奴と友達になる日が来るとはな」異性で、しかも宿敵の秘書。そんな相手だというのに。三久は温め直したスープを差し出した。「友達だからって、けじめはつけないとですよね。飲み終わったらさっさと帰ってください。こんな夜中にうちにいるなんて、外聞が悪いでしょ」「は?君は腹の大きい妊婦だぞ。俺が一体何をするっていうんだ」追い出されかけて、洲人は不満げな顔をした。「あなたに迷惑がかかるのが心配なだけです」少し前、三久が未婚のまま妊娠していると報じるニュースが出たばかりだった。高崎家の力で一旦は騒ぎを抑え込んだものの、記者が嗅ぎ回ってまた蒸し返さないとも限らない。「俺様があんな連中を恐れるとでも?」洲人はふんと鼻を鳴らした。「それに、あいつらが誤解するっていうなら、いっそ俺がこの子の叔父さん代わりにでもなってやるよ。父親代わりとまでは言わなくても、頼れる身内みたいなもんだろ」三久は面食らった。「叔父さん代わりって?」洲人は目を見開いた。「これだけ仲のいい友達なんだから、そのくらいやらせてくれてもいいだろ」どこがそんなに仲が良いのか。友達になったのだって、ついさっきの話だというのに。「望むなら、祖父さんでもいいぞ」洲人はにやりと笑った。「へへへ……そうすりゃ俺は、酒井より一つ上の世代ってわけだ」三久の顔にどっと疲れが浮かぶ。「普通に『おじさん』くらいで手を打ってくれない?」洲人は舌を鳴らした。「チッ。じゃあ間を取って、やっぱり叔父さんで手を打つか」白湯を手に取り、少しずつ啜りながら三久と軽口を叩き合う。こうして話してみると、洲人という男は決して嫌な人間ではなかった。きちんと節度もわきまえているし、話していても居心地が悪くない。白湯一杯では足りないだろうと、三久は立ち上がってさらに酔い覚ましのお茶を淹れてやった。彼女が台所で立ち働くあいだ、洲人はリビングから声を張り上げて話しかけてくる。ふと、三久の目が窓の外へと吸い寄せられた。木陰に、すらりとした人影がひとつ佇んでいた。赤く明滅するタバコの火が、輪郭のはっき
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第436話

由樹の喉仏が上下する。絞り出すように、言葉を返した。「……くだらない」「へえー」龍太郎はあっさりと返す。「ふん、じゃあいいや。俺けっこう飲んだし、先に寝るわ」「声を聞く限り、まだいけそうだな」由樹はそう返す。「もう少し飲め。今から行く」「……」「知りたいなら、電話でそのまま教えてやってもいいけど」「知りたくない」その口ぶりは妙に堂々としていて、まるでただ酒を飲んで、深川の夏の夜の蒸し暑さを紛らわしたいだけだと言わんばかりだった。病院が龍太郎のために用意した住まいは、都心にある高級マンションの一室だ。由樹が着いたとき、部屋のドアはすでに開け放たれていた。待っていたのは明らかだった。度数の高いウォッカを二本、赤ワインを一本提げて中へ入る。「お前、俺を潰す気か」龍太郎は酒を受け取りながら栓を開けた。「明日も仕事だ。付き合うのは一杯だけだぞ」由樹は鼻から短く息を漏らすとソファに腰を下ろし、龍太郎が差し出したグラスを受け取った。こうして黙り込んだまま酒を酌み交わす光景は、これまでにも数えきれないほどあった。だが今回は違った。龍太郎には、由樹が何か言いたげにしているのが一目でわかる。気づかないふりをしてちびちびと酒を口に運びながら、仕事の話や昔話を交わした。午前一時を過ぎた頃、龍太郎は空になったグラスを置いて立ち上がった。「これだけ飲んだんだ、今夜はここに泊まっていけ。早く寝ろよ」そう言って寝室へ向かおうとする。「神崎のこと、話すんじゃなかったのか」由樹はソファに寄りかかったまま、長い脚を気だるげに曲げていた。くつろいだ様子の中に、どこか落ち着かない気配が滲んでいる。龍太郎は小さく笑って戻り、腰を下ろした。「あいつがな、早坂さんが妊娠したのがいつ頃なのか、正確な時期を聞いてきたんだよ」由樹が眉根を寄せる。「どういう意味だ」「俺に訊かれても困る」龍太郎は肩をすくめた。「早坂さんって本当に謎だよな。これだけ大勢の男が彼女の腹の子に興味を持ってるっていうのに。お前、本当に知りたくないのか?」リビングに重い沈黙が落ちる。赤褐色の酒が、グラスの中でわずかに揺れていた。その揺らめきは、由樹の底知れない胸の内を映しているかのようだった。しばらくして、由樹
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第437話

「まさか!」摩美は言い返す。「私があの女ひとりに手玉に取られるとでも?安心しなさい。あの子の望みなんて根こそぎ断ち切って、二度と由樹を脅す材料なんて残さないから!」摩美は、三久が由樹を脅す材料は、そのお腹の子どもにほかならないと考えていた。千歳がやろうとしているのは、この状況をさらにかき乱すことだ。傷つくのは三久だけで、得をするのは自分。そうなれば、三久と由樹がどうこうという話どころか、二人の関係は修復不可能になるかもしれない。……入院準備の荷物もあらかた揃い、三久はここ数日、マンションの外へ出ていなかった。妊娠後期に入り、ようやくお腹もひと目でわかるほど大きくなっていた。お腹が大きくなったことで、彼女の佇まいにはどこか柔らかさが増していた。妊娠後期はよく歩いたほうが安産につながる。梨々香にそう言われ、三久は蒼汰を公園に連れていく役目を引き受けた。毎日午前中、朝食を終えると蒼汰を連れて近くの公園をひと回りするのが日課になっている。まさかそこで摩美を見かけるとは、思ってもみなかった。摩美はベンチに腰掛けたまま、三久へ視線を向けてくる。その目には驚いた様子など微塵も見せなかった。膨らんだお腹に注がれる眼差しは、今にも火花を散らしそうなほど鋭く、雄弁に物語っていた。摩美は自分を待ち構えていたのだと。ベビーカーに座った蒼汰が、小さな両手をぱたぱたと振り回している。「あなたは賢い人だと思っていたのだけれど」摩美は立ち上がると、黒いクロコダイル革のバッグを提げ、貴婦人らしい圧倒的な威圧感をまとって三久の前に立った。三久は数秒黙ってから答える。「私もずっと、摩美さんも聡明な方だと思っていました」「あら」摩美は嘲るように笑う。「私の目の前で由樹の子を身ごもって、私より賢いとでも言いたいのかしら」根も葉もないことを次々並べ立てる摩美に、三久の思考はまるで追いつかなかった。蒼汰はまだ幼いながらも、人見知りする性格だ。摩美と言い合いになって蒼汰を怯えさせたくない。三久は黙ったまま、彼女の続きを待った。「あんたの子を、うちが認めることは絶対にないわ。由樹はなおさらよ。その子に情があるのなら、由樹が千歳ちゃんと結婚するはずがないもの。由樹は口数こそ少ないけれど、根は情に脆いのよ。哀れな
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第438話

幸い、以前紫織が三久を苛立たせようとして、あれこれとスクリーンショットを送りつけてきたことがあった。三久は煩わしくなって彼女をブロックしたものの、トーク履歴までは消していない。それが今になって役立つとは、思ってもみなかった。スクリーンショットが次々と表示され、摩美は目を通すうちに顔色をどんどん青ざめさせていく。どれも到底人には見せられないような卑劣な手口ばかりで、千歳のやり口は摩美に顔が火照るほど恥ずかしい思いをさせた。「あの二人の間にどんなご事情があろうと、どうか私を巻き込まないでいただきたいのです。村上さんがあなたをお呼びになった本当の狙いが、私に八つ当たりさせることなのか、それとも社長を西戸へ連れ戻すことなのか、私にはわかりかねますが、私はいずれにせよ部外者です。この件に巻き込まれる筋合いはありません。どうか、もう放っておいていただけませんか」三久は理路整然と、一語一語区切るように告げた。小さな蒼汰はじっとしていられなくなったのか、ベビーカーの中で身をよじりながら、遠くを指差してあーうーと声をあげている。「できることなら、この仕事も辞めさせていただきたいくらいです。大金の小切手より、退職を認めていただけるほうが、よほどありがたいですので」澄んだ瞳には、迷いのない純粋さが宿っていた。その揺るぎない真っ直ぐさの前に、摩美の怒りは行き場を失う。為す術もなく、三久がベビーカーを押して立ち去る後ろ姿を見送るしかなかった。三十分後、千歳の住まい。事前に電話をもらっていた千歳は、摩美の車が着くのを見るなり、すぐに立ち上がってドアを開けに行った。「お帰りなさい!」千歳は駆け寄って摩美のバッグを受け取る。摩美の顔色が優れないのを見て、声を少し和らげた。「お話、うまくいきませんでした?私、彼女とはそれほど接点がないんですけど、なんだかとても侮れない人という印象があって。今は切り札まで持っているんですもの、一筋縄でいくはずがありませんよね」「ええ、確かに一筋縄ではいかない相手だったわ」摩美はそう応じ、千歳をじろりと見据えた。「あなたのせいで、三久の前で大恥をかいたのよ」千歳は「あ」と声を漏らした。「ど、どうしたんですか?」「あなた、三久のお腹の子が由樹の子だって言ったわね」摩美は問い詰める。
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第439話

摩美は千歳の手の甲を軽く叩き、自信たっぷりに言った。「さあ、私と一緒に西戸へ帰りましょう。安心しなさい。私が首を縦に振らない限り、由樹は必ずあなたと結婚するわ」以前、由樹はそう約束していた。千歳はただ、一歩引くふりをして、由樹を動かそうとしていただけだった。本気で身を引くつもりなど、毛頭なかったのに。今、摩美に逃げ道を塞がれる形で、頷かざるを得なくなる。「はい。今すぐチケットを取ります」「取りなさい。できるだけ早く西戸へ戻るのよ」不安そうな顔色を見て取った摩美は、さらに付け加えた。「安心して。三久のお腹の子のことは、私がちゃんと何とかするから」千歳はそれ以上訊ねる勇気もなく、スマホを取り出して一番早い西戸行きの便を予約した。その日のうちに、摩美は千歳を連れて西戸へ戻り、自ら村上家まで送り届けた。そして千歳に、たったひと言だけ言い残す。「家で安心して待ってなさい。由樹がちゃんと納得して、あなたを迎えに来るまで」その言葉は千歳にとって何よりの安心材料となり、張り詰めていた心もいくらか落ち着いた。彼女と由樹の縁談について言えば、誰よりもそれを強く望んでいるのは摩美自身だった。村上家を後にすると、摩美はその足で百栄グループ本社へと向かった。会議を終えたばかりの哲朗は、疲れ切った様子で自分のオフィスに戻ってきた。ソファに座る摩美の姿を目にした瞬間、思わず背筋がぞくりとする。「摩美さん?」摩美は姿勢正しく腰掛けたまま、隣の席を指し示した。「こっちに来て。訊きたいことがあるの」哲朗の心臓が跳ね上がる。嫌な予感が次から次へと押し寄せてきた。おずおずと近寄って腰を下ろすも、視線の置き場が定まらない。「訊くけど、三久のお腹の子は由樹の子なの?」哲朗が知っているかどうか、摩美自身にも確信はなかった。けれど、誰よりも知っている可能性が高いのが哲朗だった。毎日由樹に付き添って接待に出て、朝早くから夜遅くまで行動を共にしている。誰よりも由樹と接触している人物なのだから。もし彼すら知らないというなら、真相を知るのは由樹と三久本人だけということになる。「そ、それは……何をおっしゃるんですか」哲朗はとぼけてみせた。「そういうことは、社長に直接お訊きになるべきでは……?」摩美は目を細め、
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第440話

「あなたには関係ないでしょう」摩美はバッグを手に立ち上がった。「いい?自分の将来がまだ大事だと思うなら、この件は内密に進めることね。由樹にすら話しちゃ駄目よ。でないと、あなたを百栄から追い出す方法くらい、私にはいくらでもあるんだから。由樹だって、あなたを守り切れやしないわ!」言い終えると、彼女は身を翻して去っていった。由樹はこれまで、摩美を前にしても三久を庇い続けてきた。哲朗はふと、もし本当にこじれて摩美に解雇されるようなことがあれば、由樹が自分を守ってくれるとは限らない気がした。眉を寄せ、迷い、悩み続ける。由樹に伝えるべきかどうか決めきれないまま、彼はひとまず部下に調査を続けさせ、必ず証拠を掴むよう命じた。……由樹はまるで、どこからともなく入り込んでくるように、三久の日常の至るところに気配を残し続けていた。それなのに、本人が直接現れることも、正面からぶつかり合うこともまるでない。そのことに、三久はもうもはや言葉も出ないほどだった。ただ、いくら呆れても、理性はこう告げてくる。お腹の子に父親役を立てない限り、この騒動はそう簡単には収まらないだろう、と。蒼汰のベビーカーを押しながら帰路をたどるあいだも、どこか上の空だった。ベビーカーが急に止まり、ようやく我に返る。見ると、洲人がベビーカーの前にしゃがみ込み、小さなアヒルのおもちゃを蒼汰に手渡してあやしていた。「そのおもちゃ、一体どこから出してくるのよ」三久が蒼汰を連れてここを通るたび、洲人と鉢合わせすれば、決まって何かしらのおもちゃが出てくる。洲人は蒼汰の頭を撫でると、立ち上がって彼女を見た。「うちに箱買いしてあるんだよ。もともと君の子にやるつもりだったんだけどな、いつまでも産まないから、全部こいつにくれてやるところだったぜ」「私が産んだって、赤ちゃんはすぐにはそんなので遊べないから。全部出して、そうちゃんにあげちゃいなさいよ」三久はベビーカーを階段の下まで押していくと、段に腰を下ろす。ちょうど蒼汰と目線が合う高さだった。蒼汰はアヒルのおもちゃを手に、夢中になって遊んでいる。「それは駄目だ。よりすぐって選んだんだからな。何個かおすそ分けしてやっただけでもありがたく思えよ」洲人は彼女の隣に腰を下ろした。「さっきのって、酒
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