All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 161 - Chapter 170

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第161話

由樹はまっすぐな立ち姿でそこに立っており、身長は研とさほど変わらないにもかかわらず、自然に醸し出す威圧感だけで、研を圧倒していた。「橋本社長さえよろしければ、俺に異存はありません」一同は連れ立って、由樹が事前に予約していた個室へと入った。六人掛けの長方形のテーブルで、三久は由樹の隣に座り、向かいには研が座る。車を停めてから上がってきた哲朗は、三久がそこにいるのを見て驚いた様子だったが、何も言わずに椅子を引いて、由樹の反対側に腰を下ろした。「研くん、早坂さんとはどういうきっかけで知り合ったんだ?」慶一が世間話でもするように尋ねる。研は少し言葉を選びながら答えた。「私の遠縁の親戚が百栄の秘書室にいて、紹介してもらったんです」男女の紹介だとは直接口にしないものの、その意味は誰の目にも明らかだった。「知り合いだったなら早く言ってくれれば、今回の提携にも参加させてやったのに」研はミクロ社に入ったばかりだったが、その優れた能力はすでに慶一の目に留まっていた。ただ経歴が浅すぎるため、大きな権限は与えられていなかったのだ。けれど、研が三久と知り合いで、紹介されたあとも、二人で食事ができるほどの仲だというのなら、今後関係が発展する可能性は十分にある。三久がこれだけ長く由樹のもとで働いているのだ。きっと人並み外れた能力があり、由樹に対しても、ある程度の発言力を持っているに違いない。もし二人が本当に結ばれれば、慶一にとってメリットこそあれ、損になることは何一つないはずだ。「橋本社長が今から彼を担当に入れても、遅くはないでしょう」由樹はゆったりとした姿勢のまま座り、三久を横目でちらりと見た。「早坂は仕事ができるので、ミクロ社のプロジェクトも兼任させましょうか」三久は針のむしろに座っているような心地になり、慌てて言った。「今は例のプロジェクトにかかりきりで、正直なところ、これ以上は手が回りません」「それは本当に惜しいですね」慶一が残念そうに応じる。「また機会があれば、早めに調整しましょう」由樹は指先でグラスをつまむようにして持っていた。グラスの中の飲み物はよく冷えており、その冷たさが指先から胸の奥まで広がっていくかのようだった。彼の全身から、どこか冷え冷えとした気配が漂っている。食事が半ばに差しかかったところで、
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第162話

由樹はこちらへ視線を向け、三久が近づいてくるのを見ると、タバコの火を消してゴミ箱に捨てた。車のロックが解除され、二人はそれぞれ乗り込む。由樹は助手席に座り、長い脚を窮屈そうに折り曲げていた。彼の体からかすかなタバコの匂いが漂う。三久は窓を少し下げた。匂いが少し薄れ、きつく寄っていた眉間の皺がようやくほどける。「すみません、社長。今日の昼に会食の予定が入っていたなんて知らなくて」本来のスケジュールでは、慶一と会うのは夜だけのはずだった。由樹は目を閉じて休んでいた。少し酒が入っており、目尻がほんのり赤い。眉をひそめている様子からして、体調が優れないのか、呼吸も少し荒くなっていた。彼が答えないので、三久もそれ以上何も言わなかった。まもなくリゾートに戻り、三久は車を停める。「社長、着きました」由樹の半ば閉じていた瞳がぱっと開き、シートベルトを外して車を降りる。三久は鞄を持って車を降り、彼の後について部屋へ向かった。彼女と由樹の部屋は同じ階にあり、二人は相次いでエレベーターに乗り込む。「大野研は、お前と歳が近いのか」由樹が不意に口を開いた。三久は目を伏せたまま答える。「私より二つ上です」「どんな人物だ」「海外留学から帰ってきたばかりで、ミクロ社に入社したばかりです」「家柄は」「両親も健在で、ごく普通の家庭環境のようです」三久は研の家の事情を深く知っていたわけではない。そもそも彼女は研と交際するつもりなど毛頭ない。由樹に尋ねられるままに、ただ答えているだけだった。由樹がさらに尋ねる。「様子からして、随分気に入っているようだな」そこで三久は、由樹の質問の意図が、二人の関係の進展具合を探るためのものだったと気づく。「社長、これは私のプライベートなことです」三久は由樹と仕事以外のことを話すことに慣れていなかった。由樹の眼差しは淡々としていて、喜怒の読めない表情のままだ。「わざわざ着飾って会うほどの相手だ。さぞかし気に入っているんだろうな」最近、三久は突然着る服の傾向を変えていた。黒や白、グレーといった地味な色合いではなく、その日は薄紫のロングワンピースを着ていたのだ。風が吹くと長い黒髪がふわりと舞い、白く澄んだ肌がほんのり紅潮し、たとえようもなく美しかった。この
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第163話

慶一は由樹のほうへ体を寄せた。「あんたの婚約者、あの秘書さんほど綺麗じゃないだろ。この間のニュースで、あの何とかいう太田さんの奥さんが言ってたこと、あながち間違いじゃなかったな。あんた、本当に見る目がないんじゃないか」三久は水を持って個室に戻ってきたところで、ちょうど慶一のその言葉を耳にした。足が止まり、澄んだ瞳が由樹のほうを見る。個室の照明は由樹の後ろ上方にあり、背後からの光を受け、彼の輪郭は逆光でぼやけて見えた。けれど、その視線は慶一から三久のほうへと移っていた。暗く沈んだその眼差しに、三久の心臓がきゅっと締めつけられる。「橋本社長、飲みすぎです」彼女は水を慶一に差し出し、その話を遮ろうとした。ところが慶一は話せば話すほど調子づいていく。「見てみろ、これだけ気が利くじゃないか。前にあの村上の娘のご機嫌をとっているのを見かけたが、あんなのはどう見ても気性が荒くて気が利かないタイプだろ。早坂さんのほうがよっぽどいいじゃないか」由樹は口元には笑みを浮かべていたが、目は笑っておらず、喜怒の読めない視線を三久に向けた。「これは秘書として当然の務めです。気が利くなどと褒められるほどのことではありません。大野さんも同じく、素晴らしい部下ですよ」三久は水を置き、軽く微笑んだ。慶一がぽんと自分の額を叩く。「ああ、そうだった、忘れてた。早坂さんは研くんと交際中なんだったな。酒井社長、いくらその気があったとしても、もう手遅れだぞ!」「橋本社長、ご冗談をおやめください。社長はそんなつもりなどありませんから」三久は身をひるがえし、自分の席へ戻って座った。由樹の表情がぴりっと凍りつき、瞳の色が一気に深く沈む。「それなら、あんたのところの酒井社長には見る目がないってことだな」慶一が振り返り、三久に向かって言う。「俺が見たところ、あんたと研くんはお似合いだよ。今度あいつを昇進させて、俺の補佐に引き上げよう。そうすれば、あんたとも肩書きが釣り合うだろうし……」その話を聞き終えると、三久は微笑みながら話をそらした。「橋本社長、ご冗談を。大野さんは海外留学を終えて帰国したばかりですが、十分な実力がありますから、私の肩書きと釣り合わせるためでなくとも、補佐役は十分に務まりますよ。それに、私と彼はただの友人です」酒の
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第164話

「二人はお似合いですし、村上さんもとても綺麗な方じゃないですか」三久は足を止めてそう言った。由樹は漆黒の瞳で彼女を見据える。「そう言うということは、お前もあの平社員と、本気でその先のことを考えているのか?」その口ぶりには、うっすらと不満が滲んでいた。三久にはわけがわからなかった。「神崎家のような名家は私には高嶺の花ですし、九洲グループは百栄の宿敵じゃないですか。私と神崎社長のことに口を出すのはまだしも、他の人との関係にまで口を出すんですか」「元夫として、多少は助言してやろうと思ってな」由樹は立ち上がり、両手をポケットに突っ込んだまま三久のそばまで歩み寄って足を止める。「もう少し時間をかけて相手を見てから決めても、遅くはないだろう」「元夫」というひと言が、三久が意図的に保っていた距離をあっさり打ち砕いた。三久はどこか腑に落ちないまま彼を見た。「社長と村上さんは幼馴染で、こんなに長く付き合ってるんですから、そろそろ結婚してもいい頃でしょう。元妻として一言忠告しますけど、結婚は早いに越したことないです」二人がうまくいっているかどうかなど彼女には知る由もない。ただ、彼らが早く結婚してくれれば、それだけ自分にとって都合がいい――それだけだった。言い終えると、彼女は身をひるがえして立ち去った。個室のドアがゆっくりと閉まりかけたのを、由樹は片手で押しとどめた。胸の内に得体の知れない苛立ちが込み上げる。善意を仇で返されたような気分だった。よくよく考えれば、彼女はまるで自分が結婚するのを望んでいるかのようだった。由樹は不機嫌な顔のまま、力任せにドアを押し開け、大股で去っていった。社員旅行は二日間の日程で、慶一はもともと最終日まで一緒にいて帰るつもりだった。けれど昨夜のあの一件があってから、翌朝早々に何かと理由をつけて帰っていった。接待の予定もなくなり、三久は部屋のドアすら開けず、オンラインで仕事を片付け、暇な時は休んでいた。昼近く、哲朗からメッセージが届く。【昼の全体会食、社長も来ますから、遅れないでくださいね】三久は少し考えてから返信した。【体調が悪くて、食事は遠慮しておきます。社長に伝えておいてもらえますか、明日一日お休みをいただきたいと】海辺の夜は冷える。昨夜寝冷えをしたせいで、どうやら
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第165話

哲朗は余計な口を叩いた自分を、今すぐ張り倒したい気分だった。半日近くあれこれ考えても、結局どの言葉がまずかったのか見当がつかない。翌日、百栄に出勤してから、由樹が今日は会社に来ないという連絡を急に受け、彼はようやくほっと胸をなでおろした。急な残業は由樹の機嫌を損ねたせいではなく、単に由樹が仕事を前倒しで終わらせており、今日はあえて出社しなかっただけだったのだ。……病院。平日でも、病院は相変わらず人でごった返していた。医師の指示のもと、三久は4Dエコーを受け、検査結果はどれも正常だった。「早坂さん、痩せすぎです。栄養をもっと摂ってください」医師は検査結果を見ながら、三久の様子を観察した。「お腹が同じ週数の妊婦さんに比べてかなり小さいですね。つわりはまだひどいですか?」三久はゆっくりと首を横に振る。「つわりはないんですけど、仕事が忙しくて食事が不規則になってしまって。今後は気をつけます」「まだ仕事してるんですか?」医師は、初診の時のことを思い出したように言った。三久はきっちりしたスーツを着ていて、いかにもキャリアウーマンといった風だった。「産休はいつ頃から取る予定ですか?」「まだ決めていません」三久は曖昧な笑みを浮かべた。「他に何か問題はありますか?」医師は検診票を渡した。「特に問題はありません。一ヶ月後にまた来てください」三久は検診票を持って診察室を出た。廊下の角を曲がった拍子に、誰かと衝突しそうになる。「すみません……」反射的に謝りながら顔を上げた瞬間、その言葉が途切れた。「みくちゃん?」温子も彼女に気づき、ひどく驚いた顔をしていた。何かに思い当たったように、温子はすばやく三久が出てきた診察室を見やる。産婦人科。それから、三久の手にある検査結果へと視線を移した。「あなた、ここで何してるの!?」三久は口を開きかけ、何か言い訳を考えようとしたところで、手元がふいに引っ張られた。温子が検査票を奪おうとしたのだ。三久が力任せに奪い返そうとした弾みに、検査票は真っ二つに破れてしまった。幸い、温子が奪い取ったほうは、ただの血液検査の結果票だった。三久は残りを畳んで鞄にしまい、冷ややかな声で言った。「体調が悪くて診てもらいに来たんです。浅野さんこそ、ここで何を?」温子は
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第166話

「わかりません。どうして浅野さんはいつも私や梨々香に、そんな偏った考えを押し付けようとするんですか」三久は足を止め、真剣な眼差しで温子を見た。「浅野さんだって家族がいないでしょう。家族愛に憧れたりしないんですか?」彼女は温子がどうして施設に来ることになったのか知らなかった。物心ついた頃には、すでに温子は施設にいた。当時の温子はまだ二十代前半だったはずだ。彼女はこれまでの人生で、青春のすべてを施設に捧げてきたのだ。あれほど愛情深く、子供たちの面倒を隅々まで見てくれる人なのに――時折、驚くほど利己的で、心が冷えるような一面を見せる。「家族愛だなんて、そんなものに憧れる必要がどこにあるの?」温子は堂々と持論を語る。「りっちゃんはしょっちゅう家族を探すって騒いでるけど、探してどうするのよ。もし本当に愛してたら、あなたたちを捨てたりするわけないでしょう?」三久の心臓が重く沈んだ。「家族」という言葉は、彼女にとって縁遠いものだった。その馴染みのない言葉を、彼女は数え切れないほどの想像を積み重ねて、自分の望む形に描き上げてきた。無数の可能性を思い描いたが、ただひとつ、自分が捨てられたのだという事実だけは、信じたくなかった。だから彼女は、梨々香と一緒に、それぞれの家族を探すのをやめたことはなかったのだ。ただ、何年も探し続けても何の手がかりもなく、その希望は少しずつ潰えていった。だからこそ、お腹の子が自分のもとにやってきたとき、彼女の最初の思いは、「産む」というものだった。これで自分にも肉親ができる、家族ができる。「それに、親がいなくても、私が自分の家族を作りたいと思うこととは矛盾しません」両親はいなくても、子供は持てる。毎日仕事から帰ったとき、家に自分を待っている誰かがいて、気にかけてくれる存在がいる……「あなた、絶対何かあるでしょ」温子はほとんど確信している口調だった。「白状しなさいよ、その男とはいつからの付き合いなの?どんな人なの?あなたずっと辞職したがってたのも、結婚するためだったんじゃないの?」話がずいぶん逸れたかと思えば、また呆れるほど強引な角度から元の話題へと引き戻されてしまった。三久はまともに相手をするのをやめ、そのまま入院棟へ向かって歩き続けた。温子はその後ろ姿をしばらく
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第167話

三久は何かに思い当たったように尋ねた。「点滴用の留置針は入れてもらってないの?」愛菜は首を横に振った。まだ幼く、留置針というものがどういうものかわかっていない。「あとで看護師さんに聞いてみるね。留置針を使ってもらえないか」三久は愛菜の裾を軽く引っ張り、上着をきっちり着せ直した。すると愛菜が言った。「浅野さんがね、看護師さんとお話ししちゃだめだって言ったの。何かあったら全部私に言って、私がお医者さんと話すからって言ってたの」「病気のことはお医者さんに聞くものだけど、こういう小さなことは看護師さんに聞いてもいいのよ」三久は愛菜に笑いかけた。けれど愛菜は首を横に振る。「違うの。浅野さんは、看護師さんとお話しすること自体だめって。どんな話でもだめなの。それに外で遊ぶときも、他の子とお話ししちゃだめって言われてる」「どうして?」三久は驚いた。「わかんない」愛菜はうつむき、小さな声で言った。「この前、こっそり隣の病室に行って遊んだの。そこにも病気の子がいたんだけど、その子は毎日注射しなくていいんだって」三久はどこか不自然だと感じたが、まずは愛菜をなだめる。「こっそり病室を抜け出すのは、やっぱりだめよ。もう二度としないでね、わかった?」「うん」愛菜がうなずく。「他には何かあった?」三久は少し考えて尋ねた。愛菜の黒目がちの瞳が瞬き、ふと何かを思い出したように言った。「この前、洲人さんがまた来て、浅野さんと話してるのをこっそり聞いちゃった。何かがばれるとか、なんとか言ってて……」「みくちゃん!」少し離れたところから、温子の声が不意に響いた。三久が顔を上げる。見ると、温子が検査票を手に、ものすごい剣幕で近づいてくるところだった。「愛菜、先に病室に戻ってて!」愛菜はその厳しい声に驚き、立ち上がり、病室へと駆け戻っていった。「私の鞄を漁ったんですか?」三久は検査票を取り返した。表情がこれまでにないほど硬くなる。「これが私に対するプライバシーの侵害だってこと、わかってるんですか」温子は開き直った。「ええ、侵害したわよ。あなた訴えるつもり?訴えるなら、この施設の子たち全員、あなたが面倒見ることになるんだからね!」三久は胸の奥に燃えるような怒りが湧き上がってくるのを感じた。「男がいるって言ったでし
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第168話

千歳の身なりと雰囲気は、ひと目でただ者ではないとわかるものだった。温子は人にぶつかったことに気づくと、すぐさま腰を低くし、一瞬気まずそうにしてから三久を助け起こした。「大丈夫?どこか痛くない?」まるで責任を追及されるのを恐れるかのように、三久には形ばかりの気遣いの言葉をかけただけで、すぐに千歳のほうへ顔を向けた。「あんた、脚が悪いのにあちこちフラフラして。言っておくけど、この子は今……」そこまで言うと、温子は三久を引っ張って由樹と千歳の前まで連れていく。三久のお腹を指差し、「妊娠している」という言葉が今にも口から飛び出そうになっていた。「社長!」「由樹さん!」二つの声が、示し合わせたように同時に響いた。先に声を上げたのは三久だった。由樹がいつからそこに立っていたのかはわからない。けれど、万が一、先ほどの言葉を聞かれてしまっていたらどうしよう――三久は一縷の望みにすがりながら、温子の言葉を遮った。一方、千歳は由樹の腕にしがみつき、瞳を涙で潤ませている。「脚がすごく痛いの、早くお医者さんに診てもらいたい。また骨がずれちゃったのかも」その言葉に、由樹の眉間が固く結ばれた。彼は地面に落ちていた膝掛けを拾い、千歳の脚に掛けると、車椅子を押してすばやくその場を離れた。千歳は今日、再検査に来ていたのだ。たった今検査を終えたばかりで、またすぐに来院したことに、医師はすっかり驚いた様子だった。事情をひと通り聞き、千歳の脚のギプスを外して、指先で軽く押してみる。「痛みますか?」千歳は由樹の裾を握りしめ、小さくうなずいた。「少し痛いです」「大したことはないですね。もともと骨折ではありませんし、ぶつかったとしても痛むだけで、ずれることなどありませんよ」医師はギプスを付け直し、痛み止めを処方した。「痛むようなら、一錠飲めば大丈夫です」由樹は痛み止めを受け取り、千歳を連れて病院を後にした。「さっき、どういうことだ」車に乗り込み、シートベルトを締めてから、由樹が千歳に尋ねる。千歳は痛み止めの瓶を握りしめ、指先を白くしながらも、努めて何気ない様子を装った。「……早坂さんがいるのが見えて、挨拶しようと思って近づいたら、うっかりぶつかっちゃったの」由樹は眉根を寄せ、どこかその言葉を疑
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第169話

「つまり、お腹の子が由樹の子だって言いたいの!?そんなはずないでしょ、たとえ妊娠してても、まだ数ヶ月くらいでしょ?でも二人が離婚してもう一年近く経つのよ!」千歳自身も確信があるわけではなく、あくまで推測にすぎなかった。「三久の周りに、由樹さん以外に男なんている?」かつて由樹と結婚していたのだ。三久の理想も自然と高くなっているだろう、と千歳は考えていた。三久が普段関わっているエリートたちも確かに優秀ではあるだろうが、由樹の足元にも及ばないだろう。それに、三久が自分から進んで離婚を望んでいたとは、千歳には到底思えなかったのだ。もし後ろめたいことがないなら、なぜ妊娠を隠す必要があるのか?「少し前、神崎とやけに親しくしてたんじゃなかった?」幸子は、三久の妊娠についてはそれほど驚いていなかった。以前から怪しいと感じていたし、あのマタニティ用品店で出くわしたこともあった。最初、三久の妊娠を疑ったとき、彼女も無意識のうちにこの子を由樹と結びつけて考えていた。だが、その後その考えを打ち消した。由樹は離婚後にずるずる未練を残すような性分ではないと知っていたからだ。「そう、お腹の子は、由樹さんか神崎のどちらかの子なんだわ!」千歳の心の中に、もうひとつの選択肢が加わり、張り詰めていた不安が半分ほど和らいだ。「三久はきっと、由樹さんに黙ってこの子を産むつもりなのよ。子どもさえいれば、母親として強く出られるもの。もし本当に由樹さんの子だったら……」幸子はすぐさまその考えを打ち消した。「そんなことあり得ないわよ。そもそも、あの時偶然一夜を共にしなければ、由樹があなたを差し置いて三久と結婚するはずなかったんだから。由樹の心にいるのは、あなたなのよ!」千歳は何か言いかけたが、結局喉元まで出かかった言葉を飲み込む。「その……由樹さんとのことは、今はまだ話せない。でも、私を信じて。三久のことを調べて、お腹の子が誰の子なのか、必ず突き止めて!」幸子は、千歳がこれほど取り乱すのを見たことがなかった。彼女は訝しげに聞いた。「まさか、自分たちの関係に、自信がないの?」「お母さん!」千歳は懇願するような、それでいてわずかに苛立ちを滲ませた声で言った。「私の言う通りにして。じゃないと……大変なことになるから!」千歳が今にも泣き出し
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第170話

三久は愛菜が言っていたことを、そのまま梨々香に伝えた。「なんだか、変な感じがするのよね」「あの人が……」梨々香が言いかけたところで、赤ん坊が突然大声で泣き出した。彼女はすぐに立ち上がり、蒼汰を抱き上げてあやす。「よしよし、泣かないでね、ママがいるよ……」梨々香は蒼汰を抱いて部屋の中を歩き回りながら、三久に目配せする。「私の部屋で少し休んでな。最近忙しいせいで、顔色すごく悪いよ」三久は上着を脱ぎ、立ち上がって梨々香の部屋へと向かった。「じゃあ、ちょっと寝てくる。起きたら蒼汰くん見ててあげるね」「いいわ。しばらくお腹の子のそばにいさせてあげて。将来のお嫁さんと、今のうちに仲良くなってもらわないとね」梨々香は蒼汰のお尻を軽く叩きながら言った。「お嫁さんになるかどうかは、本人に任せなさい。酒井の子なら、きっと可愛い子になるんだから……」由樹という名前を聞くだけで、今の三久はこめかみが痛んだ。彼女はベッドに横になったものの、何度も寝返りを打ち、なかなか寝付けない。半分眠りかけたところで、由樹にオフィスへ呼び出され、妊娠のことを問い詰められる夢まで見てしまう。目覚めると、もう午後になっていた。梨々香は子供部屋で蒼汰と一緒に昼寝をしていて、ちょうど起きたところだった。三久は夜まで梨々香の育児を手伝い、夕食を済ませてから帰宅する。梨々香はこれから配信の準備に取りかかるところだった。翌日。西戸の初夏の朝は、まだひんやりとした冷気が残っていた。三久は黒のトレンチコートを羽織り、その下にはモノトーンのワンピースを着ている。オフィスに入るなり、理紗がドアをノックして入ってきた。「早坂さん、社長が上階にいらしてほしいとのことです」三久は背筋がひやりとした。「わかったわ」鞄を置き、しばらく心の準備をしてから、上階へと向かう。昨夜の夢がそのまま再現されるようだった。違ったのは、由樹のオフィスに入ると、まず目に飛び込んできたのが、潔子と依果の姿だったことだ。由樹はそこにいなかった。「三久ちゃん、最近政界関連のプロジェクトを任されて、大変じゃない?」潔子は三久が来たのを見て湯呑みを置き、にこやかに手招きして隣に座らせようとする。「おばあちゃん、こんにちは」三久は歩み寄り、軽く頭を下げた
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