All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 201 - Chapter 210

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第201話

智宏は、三久のお腹がまだそれほど目立たない時期であることも踏まえ、あれこれと注意事項を並べ立てた。帰り道、三久は梨々香に電話をかけ、由樹と鉢合わせしたことを話した。「神様も、あなたの妊娠生活にとんでもない試練を用意してるんじゃないの!?酒井のやつ、よりによって産婦人科なんかに何しに行ったのよ。まさか婦人科の病気にでもかかったっていうの?」梨々香は聞いているだけで肝を冷やした。三久は車を走らせながらちらりと時計を見て、「これからそっちに寄るね。何か食べたいものある?買っていくよ」と応じた。「小さめのミルフィーユ、あと……」梨々香が話し終えるより先に、通話が途切れた。由樹から電話がかかってきたのだ。三久は電話に出た。「社長」「夜の十時に、アルカディアまで迎えに来い」由樹の低い声が響く。「はい」アルカディアは西戸市随一の豪華社交クラブであり、そこに出入りできること自体がステータスと権力の象徴だった。もっとも、由樹は仕事に追われる身であり、そのような場所にはめったに顔を出さない。三久がまた夜遅くに由樹を迎えに行くと知り、梨々香はこんな時間まで人使いが荒すぎると悪態をついた。「高いお給料をもらうのも楽じゃないのよ」三久はこの生活リズムにすっかり慣れていた。ただ、今日の智宏の言葉を思い出すと、腹の子に少しばかり申し訳なくなる。三食きちんと食べるよう心掛けてはいるものの、仕事の忙しさで体力を削られ、どうしても十分な栄養が摂れずにいた。「あの秦先生、結構イケメンじゃない」梨々香はネットで龍太郎のことを調べ上げ、写真まで見つけていた。「本人はどんな感じ?」と三久に尋ねる。「私の好みじゃないよ」三久はゆっくりと首を横に振った。「あなたの言葉で言うなら、細身の犬系ってやつ」梨々香は男を色々なタイプに分類していた。狼系、子犬系、細身の犬系、猛犬系……ほかにもまだたくさんのタイプがあって、三久にはとても覚えきれない。「あたし、細身の犬系、好きなんだよね」梨々香は迷いなく言った。「今度、自分で会いに行ってみようかな」三久は蒼汰をあやしながら、じろりと梨々香を睨んだ。「あの人、あなたの婦人科の診察もするんだよ。まさか、ズボンまで脱いで診察台に寝転がって、先生をからかうつもりなの??」梨々香はぴたり
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第202話

三久は驚いた顔で龍太郎を見た。由樹のような男が、愛情もないのに結婚などするだろうか。よほどの事情でもない限り――たとえば、自分に責任を取るためでもなければ。龍太郎の問いに、由樹は答えをはぐらかした。「飲みすぎだ。とっとと帰って酔いを冷ませ。くだらないことを言うな」そう言うと、龍太郎の上着を掴み、その頭めがけて放り投げた。「先に帰る」言うが早いか、由樹は個室を出て行った。三久も我に返り、すぐさま後を追った。龍太郎は頭に落ちてきた上着を掴み取ると、室内の他の面々に一声かけ、足早に後を追った。三人は連れ立ってエレベーターに乗り込んだ。個室にはタバコと酒の匂いが充満していて、三久は息苦しさを覚えていた。由樹と龍太郎はまるで酒とタバコに漬け込まれていたかのように、体からその匂いを漂わせている。三久は思わず二歩下がり、隅の方へと身を寄せた。「由樹とはもう何年になる」龍太郎はエレベーターの壁にもたれたまま、振り返って三久を見た。由樹も彼女へと目を向ける。「五、六年ってところか」「五年七か月です」三久は頷いて答えた。「なら、君の知る限りで聞かせてくれ。君のところの社長は、村上に愛情があると思うか」龍太郎はこの話題に、ずいぶんと興が乗っているようだった。由樹は眉をひそめ、不快さを滲ませた。「もちろんございます」三久は答えた。それを聞くなり、龍太郎は突然笑い出した。「ははっ……本当に愛情があるなら、どうしてこんなに長い年月をかけて、やっと実を結んだんだ?」三久は目を伏せ、素知らぬふりをして聞かなかったことにした。由樹も答える気配はない。狭いエレベーターの中は、一瞬、水を打ったように静まり返った。やがて「ポーン」という音とともに扉が開いた。「由樹さん、龍太郎!」エレベーターの外で、千歳が息を切らして立っていた。黒いエルメスのバッグを腕にかけたまま一歩前に出ると、由樹の腕に抱きつき、そのまま外へと引っ張り出す。それからようやく、三久の存在に気づいた。けれど今はそれどころではないとばかりに、どこか警戒した眼差しを龍太郎へと向けた。「龍太郎、帰国したなら一言くらい言いなさいよ。私と由樹さんが結婚するの、知ってるでしょ?それなのに集まりに呼ぶのは由樹さんだけで、私は呼ばないってどういうこと?」
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第203話

「村上、前にも言ったはずだ。俺を怒らせるなら、それ相応の代償を覚悟しろ。それでも痛い目を見たいなら、好きにしろ」千歳は冷ややかに笑った。「秦家全体に恥をかかせたくないなら、由樹さんとの関係を壊したくないなら、あんたは私の言うことを聞くしかないの。脅すのはやめてよ!」龍太郎は歯を食いしばり、感情のない目で彼女を見据えた。「由樹はお前を愛したりしない。一生涯、決してな」一瞬、千歳の顔から血の気が引いた。「あんたには関係ないでしょ!」歯を軋ませながら言う。「頼んでたことはどうなったの?三久のお腹の子が誰の子か、いつになったら分かるの?」龍太郎は張られた頬を手で撫でながら言った。「あいつは別の医者のところで妊婦健診の登録をした。俺にはどうしようもない」「何ですって?」千歳の顔が険しくなる。「『酒井家の若奥様』であるお前なら、もう一度くらい手を回せるんじゃないか?あいつをその医者から俺のところへ転院させればいいだけの話だろう」龍太郎は皮肉たっぷりに言った。千歳は怒ったように言った。「神崎の目を盗んであんたを送り込むだけでも、どれだけ苦労したと思ってるの?そう簡単に二度もできるわけないでしょ」「神崎?」龍太郎の目に興味深げな色が浮かんだ。「ずいぶんと大がかりな芝居だな。あいつまで巻き込んでるとは」「高みの見物を決め込むのはやめてよね。連絡を待ってなさい」千歳は吸い殻を彼に投げつけると、背を向けて立ち去った。龍太郎は、彼女にとって最も重要な手駒だった。この駒を最大限に働かせなければならない。遠ざかっていくその背中を見つめる龍太郎の眼差しは、氷のように冷え切っていた。けれど千歳が握っている弱みを思うと、彼は歯を食いしばり、踵を返して車へと向かった。……静まり返った車内。窓は半分開き、風切り音が響いている。由樹は眉間を指で押さえながら、墨色の瞳で窓ガラスに映る三久の横顔を見つめていた。艶やかな黒髪、白磁のような肌。ほのかな香りが鼻先をかすめる。最近、三久と二人きりになるたびに、彼の胸の奥にはどこか落ち着かない感覚が湧き上がってくる。何か言いたいのに、何を言えばいいのか分からない。どうやら自分だけが、この空気を気まずく感じているようだった。それなのに、三久はいつも通り平然としている。由樹は目を閉じたが、
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第204話

「どうしてあんたなの?」摩美は、由樹が千歳と一緒に帰ってきたものと思い込んでいた。近づいて、由樹の傍らにいるのが三久だと分かると、摩美の顔が曇った。「こんばんは」三久は丁寧に告げた。「社長をお送りしました」そう言うと由樹に向かって会釈した。「他にご用がなければ、これで失礼いたします」「ああ」由樹は短く返事をしただけで、三久の車が走り去るのを待たずに、先に邸内へと足を向けた。摩美は三久にひと言ふた言小言を言い、今後は由樹と二人きりで過ごさないよう釘を刺すつもりだった。けれど二人はそのまま別れてしまい、摩美は仕方なく由樹の後を追った。「千歳ちゃんとの結婚式もどんどん近づいてるのよ。そろそろ準備に取りかからないと」「母さんに任せます。村上家の皆さんと相談して進めてください」由樹は玄関で靴を脱ぐと、そのまま二階へ上がろうとする。摩美は階段の下で呼び止めた。「たくさんのことを両家で話し合わなきゃいけないの。あんた、いつなら時間が取れるの?」「あなたが代わりに進めてくだされば結構です」由樹は足を止めて振り返った。「仕事が忙しいので」「仕事を言い訳にしないでちょうだい!」摩美は苛立たしげに言った。「一生に一度のことなのよ。真剣に向き合いなさい」由樹は腰を階段の手すりに預けた。頭上の豪奢なシャンデリアの光が、その姿を丸ごと包み込んでいる。「……もう二度目ですが」「過去のことなんて、今さら持ち出してどうするの!」摩美は怒りで胸を上下させた。「あんなのは、なかったことにするのよ!」由樹の眉がわずかに動いた。だとすれば、三久が今、あれほど素っ気なく彼に接するのも、あの二年間の結婚生活をなかったことにしているからなのか。彼は薄い唇を真一文字に引き結んだ。「いつなら時間が取れるの?村上家の皆さんと食事でもしながら、式の詳細を詰めましょう」摩美は努めて穏やかに話を持ちかけた。由樹は腕時計に目を落とし、伏せた瞼の下に感情を隠した。「三久に手配させてください」そう言うと、彼は踵を返して階段を上っていった。摩美はとうとう堪忍袋の緒が切れた。「あんたのことなのに、どうして秘書なんかに手配させるのよ!そんな態度で、村上家の皆さんが安心して千歳ちゃんをあんたに任せられると思ってるの!?」その怒声を背に、由樹
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第205話

例のプロジェクトも軌道に乗り始め、三久は再び十七階から最上階のオフィスへ戻ることになった。翌朝、出社の支度をしていると、スマホが鳴った。洲人からの電話だった。「神崎社長」「なんだ、まだ俺を避けてるのか」九洲グループの人間と何度も顔を合わせる機会があったのに、三久はそのたびに欠席していた。確かに洲人を避けたい気持ちもあったが、それ以上に単純に忙しすぎたのだ。「何かご用ですか?仕事中なので」三久はそっけなく問い返した。洲人は鼻を鳴らした。「一応、教えておいてやる。あの秦ってやつ、酒井とも村上とも知り合いだぞ。あいつを主治医にしてたら、妊娠のことがバレるぞ」彼も最近は忙しく、病院側の動きを見落としていた。今日になってようやく、三久のもともとの担当医が辞職していたことを知った。代わりに龍太郎が異動してきて、三久を担当することになっていたのだ。「教えていただきありがとうございます。もう別の先生に変えました」三久は丁寧に礼を言った。もしあの日、病院で由樹と鉢合わせしていなければ、今頃、彼女の担当医は龍太郎になっていたはずだった。洲人は「へえ」と声を上げた。「そんなに先を読んでたのか?しばらく見ない間に、お腹はまた一回り大きくなってるんじゃないか?まだバレてないのか?」善意の忠告に、野次馬のような意地の悪さが混じっていた。「ご期待に添えず申し訳ありませんが、今のところはまだです」三久自身も待っていた。妊娠が知られる日を。まさか千歳の方から何の動きもなく、会社でも誰一人気づかないとは思いもしなかった。「ちっ、まあいい。プロジェクトが一段落したら、祝勝会でも開いてやるから、絶対来いよ」洲人は恩を売るように言った。「酒井の前で、君が最大限の歩合をもらえるように口添えしてやるぞ」このプロジェクトがうまくいけば、三久は百万円単位の歩合を手にできる。それがあれば、今の切り詰めた生活も多少は楽になるはずだった。もし業績が良ければ、もしかすると、もう一度退職を切り出すチャンスが巡ってくるかもしれない。「ありがとうございます、神崎社長」三久はもう一度礼を言って電話を切った。ツーツーという通話終了音が、洲人が続けようとしていた言葉を遮った。彼は通話が切れたスマホの画面をじっと見つめ、舌打ちをした。「はぁ…
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第206話

三久は一瞬息を詰めたが、落ち着いて説明した。「社長と村上さんとのご結婚のお話の方が、より大事だと思いましたので」由樹の秘書として、彼女には柔軟にスケジュールを調整する裁量があるはずだった。これまで由樹がそれをとがめたことは一度もなかった。だが今回は違った。「予定を元に戻せ。元の予定通りに進めろ」由樹は取り付く島もない口調だった。その声からは彼の苛立ちがひしひしと伝わり、目に見えない圧力となって三久にのしかかった。「かしこまりました」三久はスマホを取り出し、彼の目の前で電子スケジュールを元に戻した。村上家との会食は、一週間後の夜に組み直した。それから彼女はオフィスを出て、紙のスケジュール表も修正し、あらためて由樹に渡し直した。摩美は予定が変更されたことを知ると、三久に電話をかけてきて散々罵倒した。三久は口を挟まず、ひとしきり罵倒が済むのを待ってから言った。「予定は社長がお決めになったことです。私に八つ当たりされるのは構いませんが、一つだけ訂正させてください。あなたのおっしゃるような、社長に対するよからぬ下心など、私にはございません」はきはきとした口調でそう説明されると、摩美はますます苛立った。それでいて、反論の言葉が一つも出てこない。「離婚した今はもちろん、離婚前だって、私は社長に対してそのような身の程知らずな想いを抱いたことなど一度もありません。今後はどうぞ、お言葉には気をつけてください」三久は電話を切った。スマホを脇に置き、また仕事に戻ろうとしたその時、ふとオフィスのドアが開いているのに気づいた。由樹がドア枠に体を斜めに預け、射抜くような鋭い眼差しで彼女を見ていた。まるで彼女の内側まで見透かそうとするような目だった。三久の澄んだ瞳が、まっすぐ彼を映す。さっきの言葉は、はっきりと言い切ったつもりだった。その一言一言が鋭い小石となり、由樹の胸に突き刺さっていた。痛みはないのに、重苦しさが胸の奥に広がっていく。三久は数秒彼と目を合わせたあと、すぐに視線を落として自分の仕事に戻った。それでも、男の視線がまだ自分に注がれているのは分かった。しばらくして、ようやく視線が外れ、由樹は自分のオフィスへと戻っていった。三久の強張っていた体から、わずかに力が抜けた。由樹は何も言わなかったが、その後の仕
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第207話

「どうやら、私と食事に行くのは嫌みたいですね。いいですよ、また別の日に誘います。でも花はもう買ったんですから、受け取ってください。花に罪はありませんから」押しつけがましさはなく、あくまで紳士的な態度だった。三久は花を押し返した。「受け取れません。気をつけて帰ってくださいね」もったいないからと一度受け取れば、次もまた同じことが起きる。「じゃあ、家まで送りましょうか?」何度も断られるとは思っていなかったのか、研の笑顔がわずかにこわばった。三久は肩にかけた鞄を掛け直した。「大野さん、あなたさえよければ、私たちならきっと良い友人になれると思います」彼女は研を評価していた。貧しい家の出でありながら実力で這い上がってきた研には、彼女自身と同じ粘り強さと芯の強さがあった。同じビジネスの世界にいる者同士、後ろ盾のない者たちが助け合うことには、互いにとって意味がある。研は聞きたかった。もし自分が友人になることを望まなかったら、どうするのかと。けれど三久の表情を見て、その答えを悟った。もし彼がこのまま押し通せば、二人は友人にすらなれない。「すみません、困らせてしまって。じゃあ、この花は受け取ってください。私たち……これからは友達ということで」差し出された花は、もはや意味合いが変わっていた。三久は快く受け取った。彼女が研の言葉に答えるより早く、周りからいくつかの驚きの声が上がった。会社の若手社員たちが、驚いて見ていたのだ。「帰ってくださいね」三久が唇を開き、そう言った矢先、突然、激しい雨が降り出した。雨足は強く、あっという間に服を濡らしていく。三久はすぐに会社の入り口へと引き返し、雨宿りをした。研もその後についてきた。スマホを取り出して確認すると、天気予報では今夜は大雨で、この先二時間はやみそうにないとあった。「どうやって来たんですか?」彼女は研に尋ねた。研は気まずそうに答えた。「タクシーで」彼の役職では、まだ社用車はあてがわれていない。以前は車を持っていたが、母親の治療費のために手放していた。退勤ラッシュに加えて雨まで降っているとなると、タクシーはすぐには捕まらないだろう。「送っていきます」三久は車のキーを取り出した。研は頷いた。「ありがとうございます。お手数をおかけします」三久は彼を連れて会社
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第208話

今夜、由樹の会食の席には哲朗が同席していた。三久が研を送り届けて帰路につく頃には、雨足はさらに強まっていた。道中では玉突き事故まで起きていた。これ以上運転を続ける気にはなれず、三久は車を安全な場所に寄せて停め、雨脚が弱まるのを待つことにした。由樹から電話がかかってきたのは、ちょうどそうして待機している時のことだった。着信に出たものの、折悪く救急車とパトカーが甲高いサイレンを鳴らして通り過ぎ、サイレンの音で由樹の声がほとんどかき消されてしまった。「社長?」周囲が少し静かになったのを見計らい、三久は呼びかけた。「今どこにいる」由樹が低い声で尋ねる。「帰宅途中です」由樹は窓の外で激しく降りしきる雨を見つめ、険しい目つきになった。「先に車を停めておけ」「前の方で事故が起きていて、すでに安全な場所に停めてあります」三久は表情を引き締めた。由樹の緊迫した口調が、単なる仕事の話をするためのものではないと気づいたからだ。「神崎が橋本社長に電話して、大野を解雇しろと言ってきた」由樹は端的に用件だけを告げた。車窓に映る三久の顔が、突然曇った。「神崎社長はどうしてそんなことを」三久と洲人の間に、いったい何があるのか、由樹にはよく分からなかった。だが、二人の間に何かおかしな因縁があることだけは確かだった。「二度とお前の私事で仕事に支障をきたすな。今回限りだ」由樹の声は、さらに鋭く冷たいものになった。「今回は俺の方で片づけておく」そう言い捨てるなり、彼は電話を切った。三久がまだ状況を飲み込めないうちに、耳元にはすでに通話終了を知らせる無機質な音が響いていた。――片づけるって……橋本社長に、大野さんをクビにしないよう話をつけるってこと?私のために?しばらくして、ようやく彼女は気づいた。由樹がわざわざ電話をかけてきたのは、彼女に助けが必要かどうか確かめるためだったのだ。由樹の目には、三久と研が特別な関係にあるように見えているのだろう。しかし彼女がまだ何も答えないうちに、由樹はすでに彼女の代わりに決断を下してしまっていた。決めたなら決めたでいい。だが、なぜあんなにも怒っているように聞こえるのだろうか。まるで三久の方から懇願して、彼にそうさせたかのように。雨音がしとしとと車体を叩き、彼女の
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第209話

一週間後、由樹は村上家の面々と顔を合わせ、結婚式の詳細を話し合った。三久はその場には同席しなかったが、後にニュースの報道を通して、最終的に決まった内容を知ることとなった。結婚式は西戸グランドホテルであげることになり、ウェディングドレスは海外の有名デザイナーによるオーダーメイド。その価格は数億円にも上るという。「酒井があんなに羽振りがいいって知ってたら、あなたが結婚した時、何も要求しなかったのはまずかったんじゃないの」梨々香はそのニュースを見るなり、すぐさま三久に電話をかけてきた。「何億もするドレスに金銀宝石でしょ?離婚した後に中古で売ったって、あたしたちが一生遊んで暮らせるくらいの額になるわよ」三久は温かい飲み物をカップに注ぎ、ゆっくりと口に運んでいた。あの雨に打たれた日から軽い風邪をひいており、なかなか治りきらず、今日まで長引いていた。彼女の眼差しは、手元を照らす暖色の光にかすかに揺れていた。背後には明かりのついていないリビングが広がり、一面薄暗くがらんとしている。その静けさが、いっそう彼女の孤独を際立たせていた。「確かに、多少は要求しておくべきだったかもね」そうしていれば、愛菜の治療費のあてもつき、あの絶好の機会をつかんで彼から離れることもできただろうに。「ねえ、結納金として贈られる金額って、いくらだと思う?」梨々香は急に興味をそそられたらしい。「どうせ何十億ってレベルなんでしょ?だって村上は酒井の一番の宝物だったわけだし」三久は少しずつ温かい飲み物をすすった。「さあね」酒井家はお金にまったく困っていない。いくら用意したところで、彼らにとっては単なる形式にすぎないのだ。由樹にせよ摩美にせよ、千歳に対して世間から見劣りするような対応をするはずがない。二人の結婚式の日取りが決まり、三久の心の中は複雑に絡み合いながらも、どこかふっと軽くなったような気もしていた。会社のグループチャットでは、社員全員が由樹と千歳の結婚をこぞって祝福していた。千歳はその祝福の一つひとつに丁寧に応え、次期社長夫人という立場で親しげな言葉を返していた。朝の眩しい日差しが百栄ビルを照らし、ビル全体を輝く金色の光で染め上げていた。三久がエレベーターを降りると、ちょうど社長室の半開きのドアの向こうに、ひときわ華やかな人影があるの
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第210話

下りのエレベーターの中には、三久と千歳の二人だけだった。「ねえ。妊娠してること、どうして公表しないの?」ここ数日、結婚式の詳細を話し合ううちに、千歳の抱えていた不安は少しばかり和らいでいた。それでも彼女は機会を見つけて、三久と少し話をしたいと考えていたのだ。腹を割って、三久のお腹の子について直接問い質したかった。三久には、千歳がいったい何を考えているのかさっぱり分からなかった。今に至るまで、由樹の前で三久の妊娠を暴露していないのだから。だが、千歳がすでに真実を知っていることだけは、彼女の態度から確信していた。「ちょうどいい機会が見つからなくて」千歳はエレベーターの金属の壁に映る三久の顔を、射抜くようにじっと見据えた。「ちょうどいい機会が見つからないの?それとも、わざと隠してるの?私の知る限り、あんたは独身よね。その子……誰の子なの?」三久は数秒ほど沈黙し、ゆっくりと顔を上げて淡々と千歳を見つめ返した。「村上さんも安心してください。この子は、社長とはまったく関係ありません」三久がそこまではっきりと言い切るのを聞いて、千歳の張り詰めていた気持ちは少し和らいだ。それでも千歳は完全に油断することはできなかった。もし三久がわざとそう言って自分の警戒を緩めさせ、その隙を突いて由樹の子を産もうと企んでいるのだとしたら?ポーン、と音が鳴り、エレベーターの扉が開いた。外には何人かの社員が待っていた。「村上さん、早坂さん」「村上さん!」千歳が振り返ると、瞬時に愛想の良い笑顔を取り戻し、笑いながら他の社員たちと気さくに挨拶を交わした。その裏に潜む不信感を、三久ははっきりと感じ取っていた。彼女の唇の端に、自嘲気味な笑みが浮かんだ。コーヒーを買って戻ると、千歳はすぐにオフィスに戻って由樹の傍らに付き添った。三久は皆にコーヒーを配り終えると、無言で自分の仕事に取りかかった。その後二日連続で、千歳は毎日欠かさず会社にやって来た。以前のように三久をあれこれとこき使うことはなくなっていたが、まるで泥棒でも見張るかのような態度で三久を絶えず警戒し、由樹を「奪われる」のではないかとひどく気に病んでいた。数日後、妊婦健診のために三久は休みを取り、ようやく毎日監視されているような息苦しい日々から一時的に逃れることができた。
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