All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 331 - Chapter 340

436 Chapters

第331話

「もう必要ない」由樹はふいに表情を引き締め、眉根を寄せてバックミラー越しに彼を見た。「降りろ。深川で野垂れ死んでこい」「一円も置いていかなかったくせに。お前のせいで二食抜いたし、昨日の夜は駅前で寝たんだぞ」耐えられなかったからこそ、龍太郎はわざわざ由樹のところへやって来たのだ。由樹は冷ややかな顔で言った。「餓死すればいい」「まあ、そうしてもいいけど。それで秦家の連中も厄介払いできて喜ぶだろうし。願わくば、俺が昔お前を助けた恩を覚えていて、いい墓地くらいには埋めてくれよな」龍太郎はどこか吹っ切れたような顔をしていた。由樹は鋭い目を向け、あごを引いた。「昔のことを盾にして俺に恩を着せるな。もう一度あんなことが起きても、お前ら二人に助けてもらう必要はない」誰も知らない。あのとき由樹を救ったのは千歳一人ではなく、龍太郎もその場にいたことを。この件を秘密にしてほしいと自ら頼んだのは、龍太郎だった。自分と由樹の関係を理由に、秦家がまた自分に取り入るような真似をしてほしくなかったからだ。いっそのこと、秦家に見放されて縁を切られたままの方がよかった。「早坂さんに二度と、お前のために危険な真似をさせたくないんだろうな」龍太郎は意味深に言った。「由樹、お前でも判断を誤ることがあるんだな。今なら後悔しても間に合うぞ」由樹は目を細めた。顎の線が張り詰めたように強張った。しばらくして、彼は話題をそらした。「送金しておく。降りろ」「頼むぞ」龍太郎はドアを開けて車を降りた。事態はここまで来ると、もはや由樹一人の問題ではなく、酒井家と村上家の問題になっていた。彼は運転席の窓のところで足を止め、もう一言付け加えた。「村上家の連中は、揃いも揃ってろくなもんじゃない。お前も本当に気をつけた方がいい」由樹は窓を閉め、龍太郎の言葉には答えなかった。ブガッティはその場に三十分近く停まったままだったが、やがて走り去っていった。そのころ、理紗は三久のオフィスで、親指を立てて盛大に褒め称えていた。「本部長、本当にすごいです!さっき田原部長の顔が真っ青になってるの見ましたよ。それに田原取締役の息子なんて、帰るときまるで鬼の形相で、ブサイクな上に顔を真っ赤にしてて……」初戦の幕は上がり、まずは勝利を収めた。だが一度対立が表面
Read more

第332話

「社長?」三久は不思議そうに聞き返した。「西戸にいるんじゃないんですか?今は会社にいないんですか?」「え?そちらへ行かれたはずじゃ……」「深川に行かれたはずでは?」と続けようとした矢先、由樹からの着信が入った。「社長からお電話が入りました。失礼します!」哲朗はそのまま電話を切った。三久は通話の切れたスマホを見つめたまま、しばらく呆然としていた。哲朗が由樹を探しているのは、理屈としては分かる。けれど、彼女に電話をかけて由樹の居場所を尋ねるというのは、筋が通らない。だって、自分は西戸にいるわけではないのだから。三久は唇を軽く結び、その眉間に浮かんだ疑問は、なかなか晴れなかった。今夜、梨々香は新しく借りたマンションで寝る予定だった。ただ、まだ生活用品が足りていない。午後は仕事が忙しくなかったので、三久は時間通りに退勤し、一緒に商業施設へ買い物に出かけた。「あのベビーシッター、値段だけの価値はあるわね。蒼汰がすっかり懐いちゃって、もう私のところに全然来たがらないの。あたしが蒼汰の面倒見てても、あの人が料理してると、あの子ずっとキッチンの方見てるんだから」梨々香はベビーカーを押しながら、しきりにベビーシッターを褒めていた。三久は自分の買い物をしながら答えた。「それなら良かった。まずは数日休んで、それから配信の仕事に戻ればいいわ」「でもさ、あの子、これからあたしと疎遠になったりしないよね?ベビーシッターの方をお母さんだと思っちゃったりしない?」梨々香は複雑な顔をした。三久は困惑した。「良くない人を雇えばいろいろ不満で、良すぎる人を雇えば子供が将来懐かなくなるんじゃないかって心配で、贅沢な悩みじゃない?」梨々香は苦笑した。「そうね、あたしが気にしすぎなのよ。とにかくこれから時間を作って、蒼汰とたくさん一緒に過ごすつもりだから」「これから数日、仕事が忙しくなるかもしれない。夜も残業することがあるかも。夕飯は私を待たなくていいから」三久は広報部長を交代させたばかりで、次は本部長としての実権を取り戻すつもりでいた。本来の役職としての仕事に本腰を入れれば、本当に忙しく飛び回ることになるだろう。なにより、文則たちが裏で何か画策している以上、なおさらだった。「じゃあ後で夕飯届けてあげるから、帰ったら温めて食べ
Read more

第333話

そこは深川でも有名な高級住宅街で、三久のところからそう遠くない。車で二十分ほどの距離だった。深夜の道路はがらんとしていて、三久は速度を限界まで上げた。305号室に着くと、部屋の明かりが煌々とついていた。彼女は急いで車を降りて駆け寄り、玄関のドアを叩いた。呼び鈴を何度鳴らしても、誰も出てこない。三久はドアハンドルを回した。電子ロックがピッ、と音を立てる。数秒迷ってから、暗証番号を入力した。ドアが応えるように開いた。暗証番号は、西戸の彼の家と同じだった。「社長?」三久は靴を脱ぐ余裕もなく、玄関、キッチン、リビングを通り抜けたが、由樹の姿はどこにもなかった。二階へと向かうと、主寝室の半開きのドアの隙間から、男の人影がぼんやりと見えた。由樹はベッドに横たわり、薄い掛け布団をかけている。その下から、引き締まった体の輪郭が浮かび上がっていた。額には冷却シートが貼られ、頬にはただならぬ赤みが差していた。「由樹?」三久は内心はっとして、素早く歩み寄り、額に手を当てた。――熱い!「どうしたんですか、これ」その声に、ベッドの上の由樹は何の反応も示さなかった。由樹は横たわったまま、微動だにしない。節くれ立った手を体の両脇に置き、手の甲には血管がくっきりと浮き出ていた。三久は彼を助け起こそうとしたが、体が大きくて重い上に、自分のお腹にはもう一つの命が宿っている。どうすればいいか分からずにいたそのとき、突然玄関のチャイムが鳴った。三久は改めて由樹に布団をかけ直すと、急いで階下へ降り、玄関に着くと、モニター越しに龍太郎が立っているのが見えた。彼女はためらわずにドアを開けた。「秦先生、ちょうど良かった。由樹が熱を出してるんです。早く見てあげてください!」龍太郎は産婦人科医だが、それでも簡単な診断くらいはできるはずだった。彼はスーツケースを引きずったまま、靴も脱がずに二階へ上がり、由樹に簡単な診察を行った。「解熱剤はもう飲んでるみたいだな。ただ、これはおそらく二度目の発熱だ」龍太郎は解熱剤が二錠減っているのを見て、由樹は日中にも一度発熱していたのだろうと推測した。「風邪でしょうか」三久はぬるま湯を一杯注いで持ってきた。「病院に連れて行った方がいいですか?」龍太郎は頷いた。「うん、
Read more

第334話

「え?」三久は聞き取れなかったわけではない。疑いを込めた問い返しだった。自分はただの部下にすぎない。由樹がいくら心配だからといって、わざわざ自ら足を運んでくるほどのことではないはずだ。診察室のドアが開き、マスクをつけた白衣の医師たちが数人、一斉に出てきた。「どなたが酒井社長のご家族でしょうか」三久は立ち上がろうとしたが、医師のその言葉を聞いて、また座り込んでしまった。龍太郎が彼女を指差した。「彼女です」「私?」三久は横目で自分を指差す龍太郎の指先を見て、思わず立ち上がった。けれどすぐに訂正した。「私は彼の部下です。家族ではありません」「環境の変化で体調を崩し、脱水症状から発熱しています。すでにお薬は投与しましたので、早くても明日には回復に向かうはずです」由樹は深川に来てまだ二日ほどだというのに、すでに脱水を起こして投薬治療が必要なほどとは、症状はかなり深刻だったに違いない。「なるべく水分を摂らせてください。三食は消化に良いものを。半月もすれば完治するはずですが、薬は絶対に途中でやめないように」医師は、注意事項が書かれた紙を三久に手渡した。「西戸に戻れば、もう薬は飲まなくていいんですよね」三久はその紙を受け取り、目を通した。細かく書かれた注意事項に、頭が痛くなりそうだった。「西戸に戻れば投薬は不要になりますが、食事には数日、引き続き気をつけていただければ、通常の状態に戻ります」「わかりました、ありがとうございます」医師たちは散り散りにそれぞれ帰っていった。由樹はVIP病室へと移された。すでに熱は下がっていて、顔の赤みは消え、顔色は青白く、痛々しいほどにやつれていた。「秦先生はお医者様ですから、病人の世話くらいお分かりですよね?」三久はベッドの反対側に立つ龍太郎に目を向けた。龍太郎は何も言わず、片眉を上げて彼女を見た。まるで「どういう意味だ?」と目で問いかけているようだった。「私は先に失礼します。何かあれば連絡してください」三久は肩にカバンをかけ直し、病室のドアへと足を向けた。けれど、それより先に龍太郎がドアの前まで歩いていった。彼はドアを半分開けたまま、振り返って三久に言った。「由樹は君に任せた。俺はまだ用があるから、先に行く」三久に断る隙も与えず、彼はドアを閉めて
Read more

第335話

けれど、体がふわりと宙に浮く感覚に、三久は深い眠りの中ではっと目を覚まし、反射的に両手で由樹の首にしがみついた。その瞬間、うっすらと赤みを帯びた目を開き、由樹の深く沈んだ視線と真っ向からぶつかった。「……起きたのね」三久はまだ意識がぼんやりしたまま、反射的に尋ねた。「まだどこか辛いところは……?」由樹の喉仏が上下した。「もう大丈夫だ」「お医者様が急性胃腸炎で脱水症状も起こしてるって。数日は食事にも気をつけてって――ひゃっ!」三久は、由樹が目を覚ましたのなら二言三言言葉を交わして家に帰ろうと思っていた。けれど言い終わらないうちに、体がまた急に下がった。反射的に由樹の首にしがみつき、すっかり目が覚めた三久は、そこでようやく気づいた。どうして自分が由樹の腕の中にいるのだろう。由樹の感覚では、彼女の体重は普段より五キロほど増えていた。太っているというほどではなかったが、彼自身が昨日一日何も食べておらず、夜通し体調を崩していたせいで、抱えている途中で急に力が抜けてしまったのだった。彼は息を詰めて、すぐに彼女を抱え直した。三久は我に返り、すぐさま彼の腕の中から抜け出した。服の乱れを整えながら、どこか気まずそうな表情を浮かべる。「ソファで寝苦しそうにしてたから」由樹はかすれた声で説明した。三久は首を横に振った。「大丈夫です。もう眠りません。ほかにご用がなければ、私は先に帰ります。会社にも行かないといけないので」「俺は今、病人だ」由樹は眉根を寄せ、それだけ言った。「お医者様は、そんなに重い症状じゃないって。食事に気をつければ大丈夫だそうです」三久は椅子の上のカバンを手に取った。由樹の表情が険しくなった。「そこまで距離を置くのは、大野研に気を遣ってのことか」三久は彼を一瞥した。「村上さんに気を遣わなくていいんですか?」「気にする必要なんてない。知らない地で死ぬわけにはいかないんだから」由樹の言葉は、いささか重すぎた。まるで胃腸炎一つで人が死ぬかのような言い方だった。三久は敏感に感じ取った。何か機嫌を損ねている。体調が悪いせいかもしれない。大野研の名前を持ち出されて、本当はもう少し話したいことがあったが、今はそのタイミングではないと判断した。「西戸にはいつお戻りになりますか」
Read more

第336話

「だめです」三久はきっぱりと断った。「あなたが見た方がちょうどいいはずです」「俺は無理だ。いろいろとやりづらい」――男で、しかも医師である龍太郎が、女性の部下である自分より都合が悪いというのは、どういうこと。三久が反論しようとしたところで、ベッドの上の男が布団をはねのけて起き上がるのが見えた。彼はあっという間に服を着替え、靴を履き終えると、ドアを塞いでいた龍太郎を押しのけて、大股でその場を立ち去った。二人は揃って、その無言で迷いのない動きを目で追った。「あの人……どこに行くんですか」三久は訳が分からないまま龍太郎に尋ねた。「君に怒って出ていったんだよ。あいつのこと、お荷物扱いして厄介払いしたいんだろって」「そんなつもりはありません。ただ、秦先生がいらっしゃって、しかもお医者様なんですから、私の出る幕じゃないと思っただけです」三久は事実を述べた。なにより、自分は妊婦でもある。「言っただろ、俺は暇じゃないんだ」三久も言いたかった。自分だって暇なわけじゃない。会社には山積みの仕事が待っていると。先ほどスマホを見たとき、理紗から大量のメッセージが届いていた。「大丈夫、あいつもいい大人だ。死にはしないさ」龍太郎は安心させるように言った。「仕事に戻りな」そう言うと、龍太郎が先に出ていった。三久はしばらくその場で立ち尽くしてから病室を出たが、すでに由樹の姿はどこにも見当たらなかった。彼女は眉をひそめたまま病院を出て、家に帰って着替える余裕もなく、そのまま会社へ向かった。理紗のメッセージにずっと返信していなかったせいか、会社に着く前に理紗から電話がかかってきた。「本部長、人事部の中村部長と広報部長が喧嘩になって、広報部長が中村部長に平手打ちしたんです。中村部長、警察を呼んで、警察官が二人を連れていきました!」三久は道路の途中で車をUターンさせ、まっすぐ警察署へと向かった。「あなたは会社を見てて。私は今から警察署に行くから」彼女のいた場所から警察署までは近く、十分ほどで到着した。警察署の入り口で、文則が何人かと集まって、小声で何かを話していた。三久が車を降りてこちらへ歩いてくると、誰かが気づいて文則にそっと耳打ちした。「本部長がいらっしゃいました」一瞬にして、集まっていた数人が
Read more

第337話

昨夜、三久の側につくと決めたばかりだというのに、今朝早々、文則にはめられたのだった。三久は彼女をなだめた。「まずは落ち着いて。田原部長に防犯カメラの映像を提出させる方法を、私が考えますから」警察が映像を求めているのは、事件を早く片付けたいからだ。けれど文則は、監視映像を素直に差し出すはずがない。なにしろ、奈々子が暴力を振るったわけではないのだから。この件が長引けば、文則たちの証言だけでは、奈々子は遅かれ早かれ不利な立場に追い込まれるだろう。奈々子は今さらながら思い当たった。警備部は文則の息のかかった人間ばかりだ。彼らが素直に映像を渡すはずがない。その瞬間、彼女の顔から一気に生気が失せた。「大丈夫、必ず映像を手に入れる方法を考えますから」三久はきっぱりとした口調で言った。「今日は辛いかもしれませんけれど、ここで待っていてください」奈々子はそのまま椅子にへたり込み、黙り込んでしまった。三久が賢いのは分かっていた。けれど、彼女が文則と対等に張り合えるだけの力を持っているとは思えなかった。「信じてください。必ずあなたの潔白を証明して、会社に戻って人事部長の座も守ってみせますから」三久は奈々子の表情を見て、彼女が自分を信じきれていないのだと分かった。これ以上言葉を重ねても仕方ない。三久はそう言い残して、取調室を後にした。取調室の外、先ほどまで文則を取り囲んでいた人々の姿は跡形もなく消え、文則だけがそこに立っていた。三久が出てくるのを見て、文則は得意げな表情を浮かべて歩み寄ってきた。けれど口では、いかにも惜しむような言葉を並べた。「本部長、まったく残念ですね。中村部長はあなたに真っ先について行こうとした人材だったのに、こんな軽率な真似をして、警察沙汰になるとは」三久はカバンを提げてゆっくりと階段を下りた。ロングスカートが揺れ、白く細い足首がわずかに覗く。普段着姿の彼女は柔らかく見え、いつもの鋭さが少し薄れて、与しやすそうな印象を与えていた。けれど文則は、三久の瞳の奥に宿るあの冷ややかさに、無意識のうちに警戒心を抱いていた。「警備部に、防犯カメラの映像を警察署へ提出させてください」三久は最後の一段を下りたところで足を止めた。文則は言った。「あいにく、監視カメラは故障しておりまして」
Read more

第338話

この話が広まれば、ただでは済まない。脅しであることは、あまりにも明白だった。三久は思わず笑ってしまった。「私と社長の間に何もないのは事実ですが、この件を公にして損をするのは酒井家の方でしょう。田原取締役だって酒井家に真っ向から歯向かう度胸はないのに、あなたが酒井家を敵に回して大丈夫だと思ってるんですか?」彼女の最大の拠り所は、由樹という後ろ盾だった。自分が問題を起こしていないのはもちろん、たとえ本当に何か問題を起こしたとしても、由樹は自分の側に立ってくれるはずだった。文則の得意げな表情が消え、顔色が次第に険しくなっていく。三久はそれ以上彼に構わず、踵を返して車に乗り込み、その場を後にした。会社では、理紗がオフィスで彼女を待っていた。三久が入ってくるなり、理紗はドアを閉め、慌てた様子で駆け寄ってきた。「本部長、さっき、先方の電話、盗み聞きしちゃったんです!警備部が会社の防犯カメラの映像をクラウドにアップロードしてました。アカウント情報もメモしましたから!」理紗はその情報を三久のスマホに送った。「これって会社のアカウントですか?パスワード、分かります?」三久はスマホを見て、首を横に振った。「これは会社のアカウントじゃないわね」「え?」理紗はすっかり肩を落とした。「映像を提出してくれないなら、中村部長、もう終わりじゃないですか?」理紗は敬太の電話から、文則の計画をすでに一通り知っていた。奈々子が寝返ったと知って、すぐさま駒として切り捨て、ついでに三久にもダメージを与えようという魂胆だった。三久はスマホの数字の羅列をじっと見つめ、しばらくしてから言った。「手は打つわ。あなたは自分の仕事に戻って」「はい」理紗は返事をして立ち去ろうとしたが、ふと思い出したように振り返った。「そうだ、高崎久留美さんに届けた贈り物なんですけど、受け取ってもらえなくて、送り返されてきました」「その贈り物は私に渡して。いつか機会があるとき、自分で直接届けるから」高崎さんが本当に受け取らないつもりなのか、それとも社交辞令の遠慮なのかは分からないが、三久としてはこの恩義はきちんと返しておきたかった。理紗は自分の席に戻ると、上品な小箱を持ってきて置き、オフィスを出ていった。三久はそのクラウドの共有アカウントの情報を哲朗に
Read more

第339話

警官は映像をひと通り確認すると、奈々子を応接室から解放した。「中村さん、あなたには他の関係者についても責任を追及できます。相手を名誉毀損などで訴えることもできます」奈々子は迷いなく言った。「追及します!黒沢部長だけじゃない、偽証した全員を!」「わかりました」警官はすぐに改めて捜査を進めることになった。昼の十二時半、三久は奈々子を警察署から連れ出した。「乗って。ご飯に連れていってあげる。慰労も兼ねて、厄落としよ」三久は車のそばまで歩き、鍵を開けた。奈々子は車のそばに立ったまま、まだ興奮の色を隠せずにいた。「こんなに早く助け出してもらえるなんて、思ってもみませんでした!」「あなたを助け出すのは時間の問題だっただけよ。こんなに早くできたのは小林さんに動いてもらったから」三久にとって幸いだったのは、文則の陣営に敬太という足を引っ張る存在がいたことだ。「社長、あなたには本当に良くしてくださるんですね」奈々子は無意識のうちに、哲朗の手柄をすべて由樹のものだと思っていた。なにしろ哲朗は由樹の側の人間だ。「本部長は賢いし、能力もある。社長がここまであなたを重用するのも当然ですね」三久は息を吸い込み、その言葉には答えず、ただ苦笑いした。「さあ、早く乗って。午後にもまだひと仕事あるわ」奈々子は車のドアを開けて乗り込んだ。二人は簡単に食事を済ませてから、会社へ戻った。三久は奈々子に指示して、解雇通知を二通用意させた。一つは黒沢広報部長宛、もう一つは警備部長宛だった。さらに、両者が会社にもたらした損害の責任も追及し、退職金を一切支給しないどころか、逆に賠償金まで請求した。奈々子は完全に三久の側についた。見事な逆転劇で、文則陣営の要職にいた二人を失脚させた形になった。文則は警察署に電話をかけて、三久がすでに監視映像を手に入れたことを知った。どこに落ち度があったのか、彼にはまるで見当がつかなかった。ただ分かるのは、三久には由樹という後ろ盾があり、このままでは自分だけでは太刀打ちできないということだけだった。文則は田原取締役に電話をかけた。「何か手を打たないと。社長がこれ以上早坂を庇えないようにしないと」「その件なら、簡単だ」田原取締役は意味深に言った。「酒井のあの婚約者に動いてもらうしかないな。しば
Read more

第340話

「秦先生、診察が大ざっぱなのはともかく、勝手なことは言わないでください」三久の口調は厳しかった。龍太郎は押し黙った。「今から社長の様子を見に行きます」信号が青に変わり、三久はアクセルを踏み込んで、次の交差点でUターンし、グランドレジデンス深川へと向かった。三十分後、三久は梨々香からの電話を受けながら、車から降りた。「私はただ部下として様子を見に行くだけよ。だって彼に何かあっても私に得はないもの。そうそう、あなたの言う通り、あの人はただの上司で……」梨々香は由樹が来ていることを知り、ひとしきり文句を並べていた。三久が自分に隠し事をしているのは、何か別の思いがあるんじゃないかと勘繰っていた。三久は仕方なく言い訳し、梨々香の話に合わせて相槌を打った。「早く帰ってきなさいよ。あそこで泊まるの、絶対だめだからね」梨々香は険しい口調でそれだけ言い残すと、電話を切った。スマホ画面のかすかな光が、三久の小さな顔を照らしていた。細い眉をきゅっと寄せながら、彼女は梨々香にメッセージを送った。【必ず帰るから。ただ時間はきっと遅くなると思う。蒼汰と先に寝てて、待たなくていいから】【わかった。待つ気なんてないから。もし帰ってこなかったら、承知しないんだから!】三久は【わかった】とだけ返信し、スマホをしまってマンションの中へと歩いていった。けれど、ふと顔を上げた瞬間、思いがけず深く沈んだ視線とぶつかった。由樹はマンションの玄関先に立ち、すらりとした体を壁に寄りかからせていた。自然に垂れ下がった長い指の間には、ゆっくりと燃えるタバコが挟まれている。いつからそこに立っていたのか分からないが、少なくとも三久が車を降りるより前だったはずだ。でなければ、彼女も途中で由樹の存在に気づいていたはずだ。つまり、彼は、彼女の電話の内容を聞いていたということだ。「社長、無事なら私はもう帰ります」三久はその場で数秒硬直したあと、踵を返して歩き出そうとした。その足取りは早く、まるで背後から何かに追われているかのようだった。由樹に突然呼び止められるのを恐れているかのように。けれど、車のドアを開けて乗り込むまで、由樹は黙ったままだった。三久はたまらず振り返った。門灯の薄暗い光の中、由樹の白いシャツがかすかに橙色に染まっ
Read more
PREV
1
...
3233343536
...
44
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status