All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 311 - Chapter 320

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第311話

「依果はおじいちゃんとおばあちゃんに甘やかされて育った子なの。あなたはお義姉さんになるんだから、これからは大目に見てあげてね」摩美は千歳にそう言い聞かせた。千歳は頷いた。依果が部屋を出ていくのを見送ると、ようやく表情がほぐれていく。階段を下りてきたばかりのときは、内心落ち込んでいた。てっきり、由樹が昨夜出ていったことは皆に知られていると思っていたのに、誰も気づいていなかったのだ。摩美の自分への態度も、大きく変わった。まるで、あのスキャンダル騒動で由樹に迷惑をかけそうになったことへの不満が、一瞬にして消え去ったかのようだった。千歳は内心焦りながらも、無理に平静を装って頷いてみせた。この瞬間、酒井家の若奥様の座は盤石になったのだと感じていた。「うん、安心してください。これからは依果のことも、ちゃんと大目に見るようにするから」潔子は箸を置き、席を立った。「おばあちゃん、もう食べ終わったんですか?」千歳が声をかける。「今日は食欲がないの」潔子はそのままリビングへと向かった。千歳は「あ、そうですか」と小さく返す。「おばあちゃんも歳だから、たまに食欲が落ちるだけよ、気にしないで」摩美が促す。「早く食べなさい。食べ終わったら由樹に朝ごはんを届けてあげて」千歳は頷き、ようやく顔にわずかな笑みが浮かんだ。……久留美が経営するサロンは、富裕層の奥様方が集って交流するための場所だった。三久が到着したとき、着飾った上品な奥様方が、パラソルの下でスイーツを楽しんでいた。午後三時、日差しは強めだが、気温は心地よかった。三久は黒のワンピースに身を包み、長い髪をポニーテールにまとめていた。歩くたびに毛先が揺れ、若々しく溌剌とした印象だった。敬太は中までは付いていかず、車のそばに立って、こっそりと彼女の写真を一枚撮ると、それを誰かに送信し、スマホをしまって車内で待機した。「早坂本部長、こちらへどうぞ」久留美は三久が来たのを見ると、立ち上がって迎えた。彼女が三久を見つめる視線は、相変わらず遠慮がなかった。「堅苦しいので、どうか三久と呼んでください」今日はビジネスの場ではない。いちいち「本部長」と呼ばれるのは、この場の空気に馴染まない。「じゃあ……三久さん?」久留美はたった今その名を知ったばかりの
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第312話

三久が施設で最もよく耳にしていたのも、まさにこうした「男の子が優遇される」という話だった。施設に健康な子供はそう多くない。数少ない健康な子供の中でも、女の子の割合の方が多かった。温子がよくこぼしていたのを覚えている。女の子なんて、しょせん金食い虫だと。そういう話は、名家であればあるほど頻繁に耳にするものだった。何十億もの資産を継がせるなら、跡取り息子がいなければ話にならない、というわけだ。先ほどの二人は次第に遠ざかっていき、三久の存在には気づかなかった。三久はしばらくそこに留まり、そろそろ戻ろうと立ち上がった。あまり長く席を外すのも良くない。化粧室の角を曲がったところで、久留美が急ぎ足で化粧室から出てくるのが目に入った。強張っていたその表情が、三久を見た瞬間、ふっと緩んだ。「どこに行っていたの?もう帰ったのかと思ったわ」「庭で少し風にあたっていました」三久は答えた。「一言もお断りせず、申し訳ございません」一言も断らず席を外したのは確かに失礼だった。けれど、久留美の顔に浮かんだあの心配そうな表情は、少し度を越しているように感じられた。「いいのよ。みんなもう向こうでお茶してるから。三久さんも一緒にどう?」久留美が近づいてきて尋ねる。三久は首を横に振った。「じゃあ、こっちに来て」久留美は三久の手首を取り、木陰の小道を抜けて、別棟の洋館の前まで連れていった。「ここには専門のエステティシャンがいるの。海外から取り寄せた最新の美容機器もあるのよ。一緒に試してみましょう」三久を引っ張って中へ入ると、すぐにスタッフが出迎え、部屋へと案内した。「お心遣いはありがたいのですが、私は肌が敏感なもので、施術は遠慮させていただきますね」部屋に入ってようやく、三久はまともに話せる機会を得た。久留美は意外そうに三久を見た。「あなたも敏感肌なの?」――も?「はい……深川に来たばかりだからかもしれません。ここ数日、少し肌荒れしていて」三久はその「も」という一言を鋭く聞き取ったが、深くは追及しなかった。久留美は「あら」と言うと、少し考えてから続けた。「じゃあ、お茶でも淹れさせるわね。ここに座って休んでいて。どう?」「はい」三久は頷き、休憩スペースのソファに腰を下ろした。スタッフがローズティーを淹れて
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第313話

「どうして探さないの!?もしかして、ご両親があなたを手放したこと、恨んでいるの?」三久は一瞬、言葉に詰まった。そのとき、部屋の照明が急に明るくなり、エステティシャンが外から戻ってきた。久留美は我に返り、口元を軽く引き上げて笑みを作った。「あっ……ごめんなさいね。私、ここ数年『子供たちを家族の元へ』という慈善活動を支援していてね、迷子や行方不明になった子供を探す手伝いをしているの。子供を失った親御さんたちの悲しそうな姿を見ると、いつも居ても立ってもいられなくなって。だから、つい……あなたのご両親も、きっとどこかで心配しているんじゃないかと思ってしまって」「お優しいんですね」三久は先ほど耳にした会話を思い出していた。久留美がかつて女の子を手放したという話。真偽のほどは分からないが、今こうして見ていると、彼女が自分の孤児という立場に対して、確かに人並み以上の動揺を見せているのは事実だった。しばらくして、久留美がふと口を開いた。「女性の身であそこまでビジネスの世界でやっていくなんて、並大抵のことじゃなかったでしょう。これまで、随分苦労してきたんじゃない?」三久は薄く笑った。「運が良かっただけです。いい上司についたので」彼女は認めないわけにはいかなかった。今の自分があるのは、由樹のおかげだということを。「それならいいわ。一人でも、ちゃんとやっていけているなら……家族なんて、無理に探さなくてもいいのかもしれないわね」久留美は再び横になり、エステティシャンにパックを外してもらった。三久がお茶を飲み続けていると、スマホが小さく音を立てた。由樹からのメッセージだった。彼女はこれを機にカップを置いて立ち上がった。「まだ片付けなければならない仕事がありまして。これで失礼させていただきます。今日はお招きいただき、ありがとうございました。またお会いしましょう」久留美はちょうど顔全体のパックを外してもらっているところで、軽く手を上げてそれに応えた。三久はカバンを手に取り、踵を返して部屋を出た。足音が次第に遠ざかっていく。その足音が完全に消えた頃、部屋の中に長いため息が響いた。車に戻ってから、三久はようやくスマホを開いた。しかしそこには、由樹が送信を取り消したメッセージの痕跡だけが残されていた。三久は【?】と
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第314話

「一度結婚すると答えた以上、覆すつもりはない」由樹は一言一言はっきりと言い切った。「けれど、俺は結婚だけを考えるわけにはいかない。この先のことも考えなければならないし、親たちにも筋を通さなくちゃならない」千歳は彼の向かいで、まるで針のむしろに座っているような気分だった。彼の言いたいことは分かっていた。それでも分からないふりをした。「分かってる。私が由樹さんに釣り合わないってことでしょ――」「本当に分かっているなら、少しは協力してくれ。医者の予約を取った。明日、行ってこい」由樹は名刺を一枚取り出し、千歳の前に押し出した。千歳ははっと顔を上げた。「あなた……由樹さんは龍太郎の腕を信用してないの?」「信用している。だが上には上がいる」由樹の眼差しは、暗く沈んでいた。彼は敏感に気づいていた。龍太郎が一度ならず、千歳を他の医者に診せるよう勧めてきたことには、何か意味があるはずだと。有無を言わせないその口調に、千歳は拒むこともできなかった。彼が結婚を承諾したときと同じように、今回も拒否することを許されていないようだった。千歳は下唇を軽く噛み、しばらくしてから小さく尋ねた。「まだ答えてもらってないことがあるの。あなた……早坂さんと離婚したこと、後悔してるんじゃない?」「これは別の話だ。あいつとは関係ない」由樹はその話題を避けた。「由樹さんも逃げてる!あの人さえいなければ、私たちの関係はここまで悪くならなかったはずでしょ。前はこんなじゃなかった!」由樹が千歳にどれほどの想いを抱いているかはさておき、少なくとも以前の由樹は、彼女を優しく宥め、そばにいてくれた。なのに、婚約から結婚へと関係が近づいているはずのこの時期に、由樹はどんどん遠ざかっていくばかりだった。以前のように会社まで彼に会いに行くこともできなくなり、二人で食事をすることさえ、ずいぶんなくなっていた。電話やメッセージすら、最低限のやり取りしかない。「俺たちが今こうなったのは、お前にも原因があるし、俺にも原因がある。三久が原因なんかじゃない」由樹の言葉は筋が通っていた。「お前が何をしたか、俺よりお前の方がよく分かっているはずだ」千歳はぐっと言葉を詰まらせた。「まだ会議がある。あとで小林に家まで送らせる」由樹は立ち上がり
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第315話

「先日、高崎武司と田原文則が内密に会っていました。その後はまた会っていませんが、裏で何か通じているのは間違いないと思います。それと、あの高崎久留美さんですが、しきりに早坂さんに取り入ろうとしていて、私は早坂さんが挟み撃ちにされないか心配です」商売の場での海千山千の狸たちを相手にしながら、上流階級の夫人たちの相手までしなければならない。三久にとっては、とても手が回らない状況だった。「ミクロ社の社長との面会を取りつけろ」由樹は腕時計に目をやった。「今夜だ」哲朗は一瞬呆気に取られた。「え?」彼が状況を飲み込む間もなく、由樹はすでに書類を手に会議へと向かっていた。「誰と会うんだって?」哲朗は頭が追いつかない。「ミクロ社の社長?橋本慶一さん?何のために?」いくつも疑問が浮かんだが、答えてくれる者は誰もいなかった。……三久が久留美のサロンを後にした直後、その件がニュースになった。記者が隠し撮りした写真付きの記事で、彼女が上流階級の夫人たちに取り入ることで深川の商業界とのコネを築こうとしている、と書き立てられていた。けれど彼女の素性はすっかり暴かれ、由樹に重用されている以外には何の後ろ盾もないことが明らかになった。上流階級の夫人たちは、そんな彼女を相手にするつもりなど、はなからなかった。だから彼女は居たたまれず、サロンから引き揚げるしかなかった。このニュースが出ると、文則がすぐさま三久に電話をかけてきた。「本部長、こんなニュースになってしまっては、本社に申し開きが立ちません。前にも言いましたが、会社のことは私たちに任せて、本部長はそのポジションでおとなしくしていればいいんです」三久はニュースを眺めながら、電話に出た。狭い車内に、文則の声がはっきりと響く。彼がひとしきり話し終えて静かになったところで、三久はようやく落ち着いた口調で答えた。「私は解任されるのは構いませんが、仕事の手を止めるつもりはありません。今回の一件は、私から本社に説明しますので、田原部長にご心配いただく必要はありません」そう言うと、彼女はそのまま電話を切った。このニュースが百栄グループに与える影響は、確かにあるが、それほど大きなものではない。三久が人脈作りのために行ったわけではないことはもちろん、たとえそうだったとしても、それ
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第316話

数えてみれば、三久が深川に来てからちょうど一週間が経っていた。わずか七日のはずなのに、まるで半世紀も隔たったような感覚がある。画面越しに見る三久との距離に、由樹はまるで別々の世界にいるような錯覚を覚えていた。喉仏が上下し、彼は低くかすれた声で言った。「深川に行かせたこと、酷なことをしたと思っている」三久の唇がわずかに動いたが、彼の苦渋に満ちた目を見つめているうちに、声が出なくなった。由樹は数秒彼女を見つめてから、机の上のタバコを手に取り、一本抜いて火をつけた。立ち昇る煙が、彼の端正な顔をぼんやりと霞ませる。「深川の状況は、想定していたより複雑だ。お前が耐えきれないんじゃないかと」彼の声は、わずかに掠れていた。三久は小さく咳払いをして、ゆっくりと口を開いた。「社長、ご心配なく。自分の身の安全はきちんと守ります。今回の件については、役員会にも説明を――」今の彼女は支社トップという立場にある。何か問題が起きれば、役員会に報告する義務があった。「その必要はない。役員会は俺がねじ伏せる」由樹はタバコを唇から離した。薄い唇の隙間から、煙の輪が漏れ出る。もう片方の手ではライターをもてあそび、どこか肩の力が抜けた、気怠げな色気を漂わせていた。けれど、彼が身にまとう有無を言わせない存在感は、それでも少しも損なわれていなかった。「なるべく早く、誰か一人、そっちに応援で行かせる」支社の次長のポストはまだ空いたままだった。誰かもう一人、三久と一緒に不測の事態に対応できる人材が来てくれれば、これ以上ないほど心強い。三久は頷いた。「分かりました。お願いします」言葉が途切れ、沈黙が流れた。ビデオ通話は変わらず続いていて、傍目には何の異常もないように見える。けれど、よくよく観察すれば、二人ともどこかぎこちない仕草を見せていて、その微妙な空気は隠しきれるものではなかった。しばらくして、三久が先に口を開いた。「それでは、会議を続けましょうか」この程度の話なら、わざわざ皆に席を外してもらう必要はなかったのに、と三久は思った。由樹は鼻から短く息を漏らし、灰を落としながら一言だけ言った。「体、大事にしろよ」三久が答える間もなく、彼はドアの方に視線を向けた。「小林」会議室のドアが開き、哲朗が幹部たちを引き連
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第317話

彼は由樹の席のすぐそばに立ち、身を縮こまらせるようにしていた。「大野研さんに、うちに来てほしいです」由樹は淡々と言い放った。慶一の表情がさっと変わった。顔をこわばらせ、相手の様子をうかがうように口を開いた。「そ、それは……早坂さんのためですか?」由樹は片眉を上げた。それだけで答えは十分だった。研の能力は確かに悪くないが、由樹がわざわざプライドを捨ててまで、直々に慶一のところに人を引き抜きに来るほどの逸材というわけではない。「いや、こういうことは自然の成り行きに任せた方がいいと思うんです。あの二人のことに、私たちが口出しするのは……」慶一の背中には冷や汗が滲んでいた。それでも意を決して、遠回しに由樹の願いを断った。由樹はその言外の意味を聞き取った。「前にミクロ社が深川で新しい事業を始めたとき、橋本社長ならてっきり彼を向こうに行かせると思っていたんだが」「本人に聞いたんですが、行きたくないと」慶一はそう言ってから、慌てて説明を付け足した。「彼の母親が重病で、今西戸で治療中なんです。それで身動きが取れなくて」――そういうことか。由樹は納得した様子で眉根を寄せ、しばし考え込む。慶一はそばに立ったまま彼の顔色をうかがっていたが、その考えが読めず、ひたすら生きた心地がしなかった。「なら、いいです」しばらくして、由樹はそれだけ言った。慶一はほっと息をつき、席に座り直した。けれど彼が座ったのとほぼ同時に、由樹はすでに立ち上がっていた。「急に思い出した用事があります。先に失礼します」慶一は慌てて立ち上がり、見送りに出た。由樹を見送って戻ってくると、テーブルの上の料理には手をつけていなかったが、食欲どころではなかった。スマホを取り出し、研に電話をかけた。「大野くん、あんた、早坂さんとはもう別れたって言ったよな。私に嘘をついたんじゃないだろうな」電話の向こうで、研の声はきっぱりとしていた。「嘘なんてつきません。じゃなきゃ彼女が深川に異動できたはずないでしょう」「あんた、知ってるか?さっき、酒井由樹社長がわざわざ私のところに来て、あんたを欲しいって言ってきたんだぞ」慶一は思った――もしかすると由樹は、三久と研がすでに別れたことを知らないのかもしれない。それとも、知った上で、三久のために仕
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第318話

三久は口元をわずかに歪めた。「深川の状況が複雑だから、私に何かあったら困ると思って、プライドを捨てて橋本社長のところまで行ったんでしょうね」もう一つの理由として、三久は思う。由樹はまだ、自分に罪滅ぼしをしようとしているのかもしれない、と。もっとも、彼女はあの終わった結婚生活に、彼からの罪滅ぼしが必要だとは思っていなかったが。「そうですか」研は三久と由樹が実際どういう関係なのか、これまで一度も尋ねたことがなかった。彼はそのあたりをわきまえていた。そこまで踏み込んでいい間柄ではないと分かっている。けれど今この瞬間だけは、我慢できずに言った。「酒井社長は、そう簡単にごまかせる人じゃありません。もし本当のことを知られたら――どうなるか、考えたことはありますか?」三久は考えたことがなかった。けれど、深く考えなくても、結末はおおよそ想像がついた。だからこそ、考えたくなかったのだ。口では研になんとかすると答えたが、三久自身、どう対処すればいいのか、まるで分かっていなかった。家に帰ったとき、彼女の顔には、隠しきれない悩みの色が浮かんでいた。「んー?酒井に何かされたの?」梨々香はその表情を見ただけで、由樹に関係することだと察した。「なんでもない」三久は気力を振り絞って、梨々香に笑いかけた。梨々香はここ数日、蒼汰の世話に明け暮れて、一回り痩せていた。毎日家に閉じ込められているせいで、目に見えて苛立ちを募らせていた。三久はそんな彼女に、これ以上気が滅入る話をしたくなかった。自分をじっと見つめている梨々香に気づき、三久はさらに言葉を足した。「仕事で疲れただけ。いつになったらこの状況から抜け出せるのかって、気が重いだけ」「まずは何か食べて、あなたも赤ちゃんもしっかり栄養をつけなきゃ。あと三ヶ月の辛抱なんだから、もう少し頑張って!」梨々香もまた毎日、必死に気を張り続けていた。一日も早く、育児を任せられるベビーシッターを見つけたくてたまらなかった。今日の午後、蒼汰は昼寝をしたので、今はまだ元気だった。三久は食事をとりながら蒼汰の相手をした。梨々香はようやくひと息つけて、ソファにぐったりともたれかかった。「今日、浅野さんに電話して、あのお金のことを聞いたの。頑としてしらばっくれてたわ」「そのお金は、
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第319話

彼女は唇を強く噛みしめた。動揺していた心は、次第に悲しみへと変わっていく。「結果は、悪いものとは限らない」由樹の口調は淡々としていた。「もし、結果が悪くなかったら……私たちの結婚式は、このまま続けるの?」千歳は反射的に尋ねた。言い終えた瞬間、由樹の目に探るような色が浮かぶのが見えた。「私はただ、前向きに考えたいだけ。またニュースになって、由樹さんに迷惑をかけたら困るから」彼女は慌てて言い訳した。由樹はまっすぐに立っていた。輪郭のはっきりした端正な顔立ちが、朝の光に包まれている。その素っ気ない眼差しは、穏やかな朝の空気の中で、どこか冷ややかな雰囲気を放っていた。彼は千歳の言葉に答えなかった。沈黙が、彼女の心を少しずつ底へと沈めていく。彼女がさらに何か言おうとしたとき、哲朗が慌ただしく戻ってきた。「社長、先生の準備が整いました。村上さん、どうぞ中へ」千歳はごくりと生唾を飲み込み、反射的に振り返って由樹を一瞥した。今日はこのフロア全体が、彼女の検査のために空けられていた。廊下の先には、誰もいない。龍太郎は来なかった。――本当に、来ないつもりなの?千歳の胸に苛立ちが込み上げ、表情を抑えきれず険しくなる。「村上さん、どうぞ」哲朗が千歳の前まで歩み寄り、検査室へと案内した。千歳はもう一度由樹の方を見やり、後ろ髪を引かれるように何度も振り返りながら、哲朗について検査室へと向かった。「どうぞお入りください。私は外におりますので、何かあればすぐお呼びください」哲朗は検査室のドアを開け、丁重に千歳を促した。千歳は深く息を吸い込み、片足を検査室の中に踏み入れたその瞬間、バッグの中でスマホが鳴った。彼女はすぐに足を引っ込め、電話に出た。「え?母がどうしたの……」千歳は動揺し、説明する余裕もなくそのまま走り去っていった。哲朗が我に返ったときには、彼女はすでにエレベーターホールまで駆けていた。「村上さん、村上――」哲朗が追いかけようとしたそのとき、二人に背を向けていた由樹は、ふいに口を開いた。「追わなくていい」哲朗の足がぴたりと止まった。彼は引き返し、由樹のそばへ戻る。「様子からすると、彼女のお母様に何かあったようですね。私たちも様子を見に行きましょうか?」「必要ない
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第320話

龍太郎がドアを開けると、そこに立っていたのは由樹だった。意外そうな表情の中に、ほっとしたような、諦めたような色も滲んでいた。「やっぱり、ここに来ると思ってたよ」ドアは半分開いたままだった。由樹は足でそれを蹴り開けた。龍太郎は場所を譲り、両手をポケットに突っ込んだまま入ってくる由樹を見つめた。1DKの賃貸住宅はひどく狭く、背の高い男が二人並んで立つと、それだけで手狭に感じられた。由樹は部屋の真ん中に立ち、振り返って龍太郎を見据えた。「正直に話せば大目に見る。抵抗すれば容赦しない。龍太郎、お前に与えるチャンスはこの一度きりだ」龍太郎は分かっていた。千歳が自分から本当のことをぶちまけるはずはない。けれど、由樹ほど鋭い男が、わざわざここまで足を運んで、こんな言葉を口にしたということは、もう何かを察している証拠だった。「何も話すことはない」けれど龍太郎には言えなかった。千歳には、由樹に知られてはならないことがある。そして自分にも、同じように知られてはならないことがあった。由樹の瞳は読み取れないほど深く、沈黙が部屋の空気を氷点下まで冷え込ませていく。「今すぐ荷物をまとめろ。明日、俺と一緒に深川へ行く」しばらくして、由樹はゆっくりとそれだけ言うと、龍太郎の脇をすり抜けて部屋を出ていった。龍太郎は振り返り、由樹が階段を下り、その姿が視界から消えていくのを見つめた。覚悟はしていた。二十数年来の友情も、これで終わりだと。由樹という男は、これまで一片の妥協も許さなかった。自分だけが、その例外だったのだ。龍太郎の胸に、いっそう深い罪悪感が押し寄せ、彼を苛んだ。深川へ行く――もしかすると、三久こそが、由樹にとってのもう一つの「例外」なのかもしれない。……深川の朝は、ひんやりと肌寒かった。三久は薄いグレーのワンピースに、梨々香が無理やり持たせたケープを羽織っていた。車を降りたばかりのところに、理紗が慌てて駆け寄ってくる。「本部長、大変です!支社の幹部連中が会議室に集まって、本部長の責任を追及するとか言い出してて!関口のやつ、私に本部長の相手を押し付けて、自分は事態を収拾してくるって言ってたんですけど、どう見てもあいつ、連中と結託して本部長をどう追い落とすか相談してましたよ!」昨日ニュースになった
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