All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 361 - Chapter 370

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第361話

「今後、大野がこの業界に二度と顔を出せないようにしろ」――すでに電話は繋がっているようだ。相手は哲朗だろうか。三久は手を伸ばし、彼の腕を掴んでスマホを奪い取ろうとした。由樹が腕を高く上げると、爪先立っても届かなかった。「無責任な男を、そんなにかばって何になる?お前、人に捨てられるのが一番嫌いなんじゃなかったのか?」三久は一度も口にしたことはなかったが、確かに人に捨てられることが何よりも嫌だった。児童養護施設にいる子供たちは、みんな親に捨てられた子だった。三久も同じだった。三久の爪が彼の手首に食い込み、痛々しい跡を残す。きつく下唇を噛みしめながらも、それでも子供が研の子ではないとは口にしなかった。由樹は曲がったことが大嫌いで、嘘やごまかしを決して許さない男だ。幼馴染で結婚間近だった千歳の裏切りすら、彼は許さなかった。ならば、部下である三久の嘘を許すはずがない。たとえ仕事に関わらない私的なことであっても、だ。「どうして黙る?」由樹は薄い唇を開いた。瞳には怒りが滲み、辛辣な言葉が次々と溢れ出す。「俺の妻だった頃は、一度だって避妊を怠ったことはなかったはずだ」正式な夫婦だった間は子供一人も作らなかったくせに、相手が変わった途端にのぼせ上がったというのか。他の男の下で喘ぐ三久の姿を想像すると、あの甘い声や仕草が自分以外の男に向けられたのだという事実が、由樹の胸を掻き毟った。胸の内にくすぶる怒りの炎が、さらに勢いを増していった。三久の顔に羞恥と怒りが入り混じった。「あなたの子供なんて産みたくなかっただけ!優しくもなければ気遣いもない、いっつも仏頂面で、親の仇でも見るみたいな顔して!」由樹の目つきが一瞬にして険しくなり、額に青筋が浮かんだ。「それに、あなたの心の中にはずっと他の女がいたじゃない。そんなあなたが、夫としてちゃんとしてたって言えるの?夫婦だった頃だって、私を特別扱いしてくれたことなんて一度もなかった。あなたのお母さんにつらく当たられていた時だって、見て見ぬふりだった。それなのに離婚した今になって、私の味方みたいな顔しないで」同じ屋根の下で二年も暮らしていながら、由樹は彼女がこれほどの想いを抱えていたことに気づいていなかった。矢継ぎ早に浴びせられる非難に、由樹は言
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第362話

三久の心臓が喉から飛び出しそうだった。由樹の射抜くような鋭い眼差しが、まるで彼女の秘密を見透かしているかのようだ。「隠すなら、とことん隠し通せ。できることなら、一生俺に知られないようにしろ」由樹は身を起こすと、ネクタイを緩めて上着を脱ぎ、腕に掛けたまま踵を返して道路の方へ歩いていった。三久の腹の子が、自分の子であるはずがない。だが由樹の直感は、この子が間違いなく自分と関わりがあると告げていた。由樹は何度も考えを巡らせたが、どこで狂いが生じたのか見当もつかなかった。別荘街にはタクシーが通らない。だから由樹は、妊婦の彼女をここに一人置き去りにはできなかった。しかし三久には、もう一度彼の車に乗る勇気はなかった。三久は自分で車を運転して帰路についた。バックミラーには、道端に立ったまま俯いてタバコを吸う由樹の姿が映っていた。夜はほんのり肌寒く、街灯の光が揺らめき、彼の周りに紫煙がまとわりついている。三久には、由樹を納得させられるだけの、もっともらしい言い訳が必要だった。でなければ、とても言い逃れできない。ボタンの掛け違えだ。こうなると分かっていたなら、いっそ退職など言い出さず、支社に残っていればよかった。由樹の目の届くところで、隠しもせず、かといって自分から報告もせず、この子を産んでいたほうが、よほど面倒がなかったのに。家に着くと、夜食を持ってきていた梨々香が、一目で三久の様子がおかしいことに気づいた。三久はソファに丸まったまま、力なく先ほどの一部始終を話した。梨々香が慰める。「機械だってバグるんだから、人間がいつも冷静でいられるわけないでしょ。この子のことが大事すぎて、冷静に考えられなくなって、間違った判断をしちゃっただけだよ。責めるならあたしも一緒に責めて。部外者のあたしまで頭に血が上って、西戸を離れたほうがいいって焚きつけたんだから」三久は焦点の定まらない虚ろな瞳で、ソファに凭れて黙り込んでいた。「あたしたちふたりのせいでもないよ、だって相手が酒井なんだもん。あの人が親権を争ってきたら、絶対に勝てっこない。こっちに勝ち目はないんだから、可能性は全部潰しておかなきゃ」梨々香が隣に座り、三久の髪を耳にかけながら腕を取った。「大丈夫、案ずるより産むが易しって言うでしょ。まずは彼を騙し通せる
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第363話

「じゃあ早く寝てね、明日朝ご飯持ってくるから」梨々香はドア越しに言った。「あなたが認めなきゃ酒井だってどうしようもないんだから。それでも駄目なら辞めちゃえばいいのよ。あいつの下でなんか、もう働かなくていい。あたしが一緒に別の場所へ連れ出してあげる……」一方的にひとしきり喋ると、梨々香は帰っていった。三久は洗面所に入り、扉を開けた途端、洗面台の隅に黒っぽいシャツのボタンが一つ、ポツンと転がっているのが目に入った。由樹のものだ。三久は数秒それを見つめてから、拾い上げてゴミ箱に無造作に放り込んだ。……龍太郎が車で由樹を迎えに来たが、帰りの車中、由樹は一言も口を利かなかった。「体はもうすっかりいいのか」龍太郎が先に口を開いた。「ああ」「今日はどうして一人で宴会に出たんだ?早坂さんは?」「早坂」という名前を口にした途端、由樹の顔つきが険しくなった。由樹は何かを思い出したように龍太郎に尋ねた。「西戸にいた頃、お前が彼女を産婦人科で診ていたな?」「そうだったけど」龍太郎は続きを待った。「男と一緒に妊婦検診に来たことは?」龍太郎は首を横に振った。「ない。看護師にも聞いてみたが、夫らしき人を見た者は誰もいないそうだ」妊婦健診には、夫やパートナーに付き添われて来る人も少なくない。けれど三久はいつも一人で、たまに梨々香が付き添ってくることはあったものの、そのことは看護師たちの間でも何度か話題になっていたという。「お腹の子が誰の子か、知る方法はあるか」由樹の指先が、膝の上をとんとんと軽く叩き続けている。「いやいや、勝手にやったら問題になるぞ」「やれと言ったらやれ。つべこべ言うな」由樹は眉をひそめ、有無を言わせぬ顔つきだった。龍太郎は前を見たまま車を運転し、仕方なさそうに言う。「二人分の検体でDNA鑑定をすれば、二人の関係は分かる。お腹の子を、誰と照合するつもりだ?」「俺だ」由樹は即答していた。龍太郎はハンドルを切り、車を路肩に停めた。「本気で言ってるのか?」由樹は数秒黙り込んでから、龍太郎の質問に答えなかった。「安全なのか?」「羊水検査には一定のリスクがある。ひどい場合は流産に繋がることもある」龍太郎は正直に答えた。しかも三久は、すでに一度、羊水検査を受けている。
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第364話

「会議の準備をしろ」由樹は彼女よりずっと落ち着いていた。まるで昨夜の一触即発のやり取りなど、なかったかのように。そうであればあるほど、三久の胸に不安が募っていった。三久はエレベーターを出て自分のオフィスに戻り、資料を取ると、間を置かず会議室へと向かった。百栄の支社設立後、初めての案件だ。極めて重要な案件でもある。由樹もこちらに来ているため、この案件について会議を開き、今後の方針を大まかに固めることになった。「社長、年末に行政案件があるんですが、参加すべきだと思います。百栄の深川での知名度と信用度を上げる機会になります」文則が最初に口火を切った。彼が言っているのは、武司が持ちかけてきたあの案件だ。由樹は話をそのまま三久へと振った。「早坂はどう思う」「私は賛成できません。深川の行政案件には、決まった提携先があります。奪おうと思えば奪えるでしょうが、恨みを買うのは避けられません。百栄はここに根を下ろしたばかりです。あまり目立った動きは控えるべきかと」不意打ちで名指しされた三久だったが、すぐさま反応し、自分の考えを率直に口にした。そしてその考えは、文則の意見とちょうど正反対のものだった。文則の顔に不満の色が浮かんだが、それ以上口を挟むことはなかった。彼の見立てでは、由樹は三久の肩を持っているはずで、当然三久の意見をそのまま採用するだろうと思っていた。ところが――「百栄が怖じ気づいたことがあったか?」由樹は淡々とした口調のまま、話の矛先を変えた。「田原部長は先見の明があるし、行動も迅速だ。行政案件は君に任せる」会議室はしんと静まり返った。あれほど三久を庇い、彼女のためなら大勢を敵に回すことすら厭わなかった由樹が、今日は大勢の前で彼女の顔を潰したのだ。文則をそう持ち上げるのは、裏を返せば、三久は女だから臆病で、目先のことしか見えていないと言っているようなものだった。三久は目を伏せた。由樹が恨みを決して忘れない性分だということを、知らないはずがなかった。昨夜口にしたあの言葉は、男のプライドをかなり傷つけたのだろう。「社長、早坂本部長、これは……」思いがけない好機を前に、文則は警戒を隠せなかった。「私が担当するんですか?」「ああ」由樹は片手をテーブルに置き、長い指で一定のリズ
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第365話

依果は不満そうにぶつぶつ言いながら歩いていく。行く手にいた社員たちは、思わず道を空けた。文則だけはその場を動かず、依果は容赦なく彼を力任せに押しのけた。「何見てるのよ?あんたのこと言ってるんだけど!」文則は背が低く、昔の映画に出てきそうな悪役じみた痩せ型で、髪を七三に分けていた。依果が力任せに押すと、彼はあっけなくよろけた。「本部長、行きましょう」押しのけると、依果は一転してやけに愛想のいい笑みを浮かべ、三久の腕を引き、その場を離れた。「見る目のない奴め!」文則は吐き捨てるように言った。「早坂はもう落ち目なのに、それでもまだついていくのか!」依果と三久はすでにオフィスを出ていたため、その悪態はドアに遮られて聞こえなかった。外に出ると、依果は頭をかきながら三久を見た。「お兄ちゃんってば、頭おかしくなったの?どうして急に、田原家の腰巾着みたいな男を重用するわけ?」「言うこともやることも、そんなに向こう見ずにならないで。田原部長は結構陰湿な人だから、恨みを買ってもいいことないよ」三久は文則とはこれまで正面から張り合ったことがなかった。「大丈夫、あいつは私には手出しできないもん」そんな話をしながら三久のオフィスまで来ると、依果は手を振ってエレベーターの方へ向かった。「それでも気をつけてね」三久はそう釘を刺して、自分のオフィスに戻った。数分後、文則たちの一団が、意気揚々と会議室から出てきた。三久のオフィスの前を通るとき、彼はわざわざ立ち止まり、中を覗き込んだ。「みんな戻っていいぞ、俺は田原取締役に報告しに行く」文則は一人だけ別のエレベーターに乗り、他の者たちは気を利かせて別のエレベーターを待った。オフィスに戻ると、文則は田原取締役に電話をかけ、朗報を伝えた。「酒井社長が案件をお前に任せた?」田原取締役は意外そうだった。「おかしいな。あいつは、お前が俺の息のかかった人間だと知っているのに、重用するはずがないんだが」「今日の会議で、あの早坂に対する態度は、まるで別人のようでした。おそらく二人の間で仲間割れでも起きたんでしょう」田原取締役はあれこれ考えたが、やはり腑に落ちない様子だった。「慎重に動け。二人の間に何があったか、調べてみろ」田原取締役にそう言われると、文則も気を抜
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第366話

「なんで信じてくれないんだよ、今回は本当に面白半分で来たんじゃない。本気で心配してるんだ」洲人は、これまでになく真剣な顔で三久を見た。「お腹の子だって、大切な命だろ。もしこの子と離れることになったら、きっと一生後悔すると思う。前は俺も、この件を軽く考えて、冗談みたいに扱ってた。本当に悪かったと思ってる。だから今回は、ちゃんと君を守るつもりで来たんだ。何かあったら、遠慮なく頼ってくれ」そう言って、洲人は自分の胸を軽く叩いた。その整った顔立ちで真剣な表情をされると、妙に説得力があった。三久は素っ気なく言った。「ありがとう」洲人を信じていないわけではない。ただ、洲人の助けなど必要ないだけだった。「それにしてもさ、どうしてそんなに痩せたんだ?」三久のつれない態度に、洲人はどこか寂しさを覚えた。それでも、なんとか話題を探し続ける。「まあ、大丈夫」三久は窓の外に目をやり、彼に釘を刺した。「一緒に来た子がもうすぐ戻ってくるの。食べ終わったら仕事に戻らないといけないから」洲人は花を置いて立ち上がった。「じゃあ、俺はそろそろ行くよ。番号、まだ残ってるだろ?何かあったら連絡して」すると、電話をかけるジェスチャーをして立ち去った。タピオカを買って戻ってきた理紗と、ちょうど入れ違いですれ違った。理紗は立ち止まって彼を一瞥してから、席へと戻った。「今の人、なんか見覚えある気がしたんですけど」三久は箸を一膳取って、理紗に手渡した。「早く食べよう。じゃないと料理が冷めちゃう」理紗は箸を受け取ってお礼を言うと、タピオカを飲みながら勢いよく食べ始めた。三十分後、二人は食事を終えて会計を頼んだ。三久が奢ろうと伝票を手に取り、レジに向かったところ、店員が声をかけてきた。「お客様、先ほど男性のお客様がお会計を済まされています」「神崎さんっていう方ですか?」「はい、神崎様が、体を大事にして、食事もきちんと取るようにと、お伝えするようにとのことでした」店員は興味津々といった顔をした。「あちらは、お客様にアプローチしている方ですか?それとも彼氏さんですか?」三久はスマホの画面を消しながら言った。「ちょっと借りのある人です」「誰なんですか?」理紗は荷物をまとめて立ち上がり、外に出ながら三久を追いかけて尋ねた。「
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第367話

由樹は正面を見据えたまま、彼女に一瞥もくれず、喉の奥で短く声を返した。それが返事の代わりだった。三久はすぐに視線を外し、二人のやり取りはそれきりだった。文則たちは何も言わなかったが、嘲るような目で揃って三久を見た。エレベーターの扉が開くと、文則がへつらうような笑みを浮かべた。「社長、どうぞ」由樹は大股で乗り込んだ。一行がそれに続き、扉が閉まって上昇していく。三久の前に別のエレベーターが到着し、彼女は理紗と一緒に乗り込んだ。外に残った職員たちは皆、気づかないふりをして、それぞれ別のエレベーターを待っていた。三久と関わりを持つのを恐れているかのようだった。ほんの一瞬で、理紗はすべてを察した。「どうやって社長を怒らせたんですか?」三久は彼女をちらりと見た。「なんで私が社長を怒らせたことになってるの?」由樹の方に原因があるとは考えないのか、という意味を込めて。理紗は呆れたように唇を尖らせた。「だって社長でしょ。正しいことはもちろん、間違っていても正しいことにしておけって、これ早坂さんが私に教えたんじゃないですか?」理紗が入社したばかりの頃は、白黒をはっきりつけすぎて、少なからず人の恨みを買っていた。このセリフは三久が教えたものだ。上司や仕事のできる同僚相手なら、多少のことには目をつぶることも覚えろ、と。それを今、逆に自分へ返される羽目になった。「そうだね、私が悪かった」「じゃあ、社長に謝りに行ってくださいよ」理紗は情けない顔をしながら言った。「私、三久さんを頼ってわざわざここまで来たんですから。もし三久さんが失脚したら、私までここで頼れる人がいなくなっちゃいます。そんなことになって西戸へ戻ったら、みんなに笑われますよ」「どうして、社長が私の謝罪を受け入れてくれるって決めつけるの?」「そこはちゃんと誠意を見せればいいんですよ。悪かったところは、素直に認めて謝って」理紗は少し考えてから続けた。「それでも駄目なら、いっそ土下座でもします?私も一緒にやりますよ。そこまでしたら、社長だっていつまでも怒っていられないでしょう?」理紗の言葉に、三久は思わず、元恋人に許してもらうため、友人まで連れて土下座しに行く、という笑い話を思い出した。今の自分なら、同僚を引き連れて上司に土下座しに行くこ
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第368話

「偶然だな、お隣さん!」洲人は両手を手すりに置いたまま、彼女に手を振った。「また会ったな」三久は眉根を寄せた。彼が隣人になったことなど、少しも嬉しくなかった。「今日引っ越してきたばかりなんだ。明日、ご飯でも奢るよ。仕事が終わったらうちにおいで、準備は全部俺に任せてくれ」洲人は熱心に誘ってきた。「結構です。私たち、そんなに親しいわけじゃないでしょ」三久はそのまま梨々香の家へと歩き続けた。洲人は声を張り上げた。「親しくないなんてことないだろ?同じ西戸出身だろ?こんな遠くで地元の人間に会ったら、普通もっと喜ぶもんじゃないの?」バタン。三久は梨々香の家に入り、ドアを閉めた。梨々香はマットの上に寝転んで蒼汰と電子キーボードで遊んでいたが、ふと外の方に目をやった。「外、なんであんなに騒がしいの?」三久は蒼汰の隣に座った。「ああ、新しく越してきた隣人」梨々香は「へえ」と呟きながら、三久を見つめた。三久の顔色に変わったところがないのを確かめつつも、それでも気になって尋ねた。「酒井に本当に何もされてない?」「うん。仕事中の態度が変わっただけ」三久は核心を避けてはぐらかした。「そのまま冷たくしてくれればいいじゃない。もしあいつがあなたを見限ってクビにしたとしても、違約金をもらって家でゆっくり休めばいいよ。あたし、最近配信の収入がかなりいいんだから」梨々香は片眉を上げてみせた。「これからは私があんたを養ってあげる」三久は鼻で笑った。「じゃあこれからは私が専業主婦で、あなたが大黒柱ね」「それでいいじゃん。私たち二人で楽しく暮らしていければ、他に何も要らないでしょ!」梨々香は「あはは」と笑いながら、できるだけ三久の張り詰めた気持ちをほぐそうとした。由樹に距離を置かれていることは、三久の心をざわつかせはしたものの、確かにどこかほっとする部分もあった。しかし、その安堵に浸りきる前に、スマホが突然鳴った。画面に見慣れた番号が表示され、三久は一目見て眉をひそめた。スマホを手に取って立ち上がり、少し離れた場所へ移動して電話に出た。「社長……はい、今すぐ向かいます」短いやり取りを終えると、三久は電話を切り、梨々香を見た。「会社に戻らないと」梨々香が蒼汰を抱いて立ち上がる。「もうご飯できてるのに
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第369話

久留美は頃合いを見計らって立ち上がった。「お邪魔してしまったわね、そろそろ失礼するわ」「わざわざお越しいただいたのに申し訳ありません。もしよろしければ、ご一緒に夕食でもいかがですか」三久はお土産を手に取り、礼儀正しく声をかけた。久留美は快く承諾した。「いいわね。酒井社長もご一緒にいかがですか?」二人の視線が同時に由樹に向けられた。由樹はさっき座ったばかりで、仕事があると言っていた以上、来ないだろう。三久はそう思っていた。久留美が尋ねたのも、単なる礼儀のつもりだった。ところが由樹は腕時計に目をやると、かけていた眼鏡を外し、立ち上がった。「では、ご一緒しましょう。わざわざ届けていただいたことですし」彼は椅子の背にかけていた上着を手に取り、二人の方へ歩いてきた。あまりにも唐突な展開だった。会社に戻ったら久留美がいたことも、彼女が食事に誘ってきたことも、そして何より由樹までついてくるということも、すべてが唐突すぎた。三久は黙って部屋を出ると、エレベーターの中で素早くレストランの予約を手配した。運良く、ちょうど五つ星ホテルの個室が一室だけ空いていた。会社を出ると、由樹は三久に手を差し出した。三久はすぐさま車の鍵をその手に渡した。由樹が運転し、三久は久留美と共に後部座席に座る。「若い人同士は価値観も合うし、共通の話題も多いでしょうね。きっと一緒にいても気楽でしょう」久留美は、由樹が一言も言わないうちに三久が車の鍵を渡す姿を見て、二人の息がぴったり合っていると感じたようだった。三久は軽く微笑んだ。「長く一緒に働いていれば、自然と相手のことも多少は分かるようになります」「あなたたち、お互いに……」久留美の言葉が突然途切れた。何かを思い出したようだった。「あら、私ったら。そういえば、酒井社長はもうすぐご結婚なさるのよね?」由樹は短く応じた。久留美は取り繕うように続けた。「まあ、お若いのにこれだけ成功されていて、数え切れないほどの女性から想いを寄せられているでしょうね。早く身を固められるのも頷けるわ。お相手の方は、さぞかし素晴らしい方なんでしょうね」久留美はそう言ってから、また「あら」と声を上げた。「そういえば、今回の深川出張には、婚約者の方はご一緒じゃないの?昨日の宴席でもお見かけしな
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第370話

「ごめんなさい、三久さんって本当に立派で、よくここまで頑張ってきたのねって思ったら、つい……」久留美は三久の手を離し、笑いながらそう言い訳したものの、その瞳の奥には隠しきれない淡い哀しみが滲んでいた。三久は口角を上げたが、どこかぎこちない笑みになった。「ありがとうございます」久留美はさらに続けた。「これからも、ずっと平穏に、何事もなく過ごせますように」「ありがとうございます。久留美さんも」車がレストランの前に停まり、ドアマンが車の扉を開けに来た。三人は車を降り、三久は意識的に由樹と距離を置いて歩いていた。だが今は久留美のそばにいるほうがかえって落ち着かず、三久は無意識のうちに由樹の方へと身を寄せていた。先を歩いていた由樹は、その足を一瞬止めた。そして、気づかれないように歩調を緩めた。個室には小ぶりな四角いテーブルに赤いテーブルクロスがかけられ、頭上のガラス細工のシャンデリアからは、色とりどりの光が降り注いでいた。久留美と由樹は、それぞれテーブルの両端に腰を下ろした。三久は一歩遅れて部屋に入ると、少しためらいながら言った。「すみません、こちらにもう一脚椅子を追加していただけますか」「かしこまりました」店員がテーブルの空いている側に椅子を追加した。三久は二人のどちらにも寄らない位置に腰を下ろした。このレストランは久留美がよく来る店らしく、彼女は深川の地元料理をいくつか注文した。料理を待つ間、個室の空気はどこか気まずかった。年齢差もあり、それほど親しい間柄でもない。当たり障りのない話題は、すでに車中で使い果たしてしまった。かといって、これ以上踏み込んだ話ができるほど親しい間柄でもない。「ところで、三久さんは深川に異動になったのよね?もう西戸には戻らないつもり?」久留美は話題の振り方が巧みで、ごく自然な流れで尋ねてきた。三久は首を横に振った。「当面は深川にいる予定ですが、その先のことはまだ未定です」「深川はとてもいい街よ」久留美は由樹の方に顔を向けた。「彼女は優秀だから、きっとこの支社をしっかり取り仕切ってくれるわ。安心してここを任せられるでしょう?」薄暗い照明のせいで由樹の表情ははっきりと読み取れなかったが、彼は何も答えなかった。三久にはわかっていた。今、自分と由樹の間にわ
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