All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 381 - Chapter 390

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第381話

由樹の表情は、依然として重苦しいままだった。三久は視線を落とした。「分かっています、すみません……」「俺に謝る必要はない。自分の子供なんだろ?」由樹はそう言った瞬間、胸の奥がちくりと痛み、ひどく不快な気分になった。彼はさっと身を翻し、そのまま歩き出した。背後から足音が聞こえてくる。三久が追いついてきたのだ。小刻みな足取りで急ぎながら、なんとか彼に追いつく。「社長……」「お前が乗っているのは会社の車だ。何かあれば会社にも責任が及ぶ。だから注意しただけだ」由樹が彼女の言葉を遮る。三久は一瞬言葉に詰まってから、また続けた。「分かっています、私……っ」「お前に何かあったところで、俺には関係のないことだ。俺に謝る必要はない、自分自身に責任を持っていればそれでいい」由樹は彼女が必死に追いついてくる様子を見て、思わず歩調を緩めた。三久は少し声を張って言った。「急いで出てきたので、スマホを持っていないんです。タクシーを呼んでいただけますか、病院まで行きたくて」車は牽引されてしまい、梨々香とも連絡が取れず、手元には一銭もなかった。由樹の足がぴたりと止まり、振り返って彼女を見た。彼女はそこに立っていた。灰色の綿のロングワンピースが、妊娠で丸みを帯びた彼女の体のラインにぴったりと沿っている。妊婦であっても、目を奪われるほどの色香があった。下着のラインまでうっすらと浮き出ている。普段の三久なら、こんな服装で外を歩くことはない。今日は急いで出てきたせいだった。由樹は自分の上着のボタンを外し、脱ぐとそのまま彼女を包み込んだ。「俺についてこい」三久の体はふっと温もりに包まれ、彼の匂いがふわりと鼻をくすぐった。由樹は道端でタクシーを止め、ドアを開けたが、彼女がまだその場に立っているのを見て、不機嫌な声で言った。「乗れ、何をぼやぼやしてる」「はい」三久は雑念を振り払い、足早に乗り込んだ。腰を下ろした直後、隣に影が差した。由樹が上半身を車内に入れ、「奥に寄れ」と言った。彼女は、彼が助手席に座るものだと思っていた。三久は慌てて体をずらし、場所を空けた。「お二人、どちらまで?」運転手が尋ねた。由樹は黙り込んでいた。三久が代わりに答えた。「病院までお願いします」「この辺りは走りにく
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第382話

眉をひそめた三久の様子が、由樹の深い瞳に焼き付いた。彼は少し距離を置いたところで立ち止まった。「どうしてまだ帰らないんですか?」「俺は……」「ここにはもう、あなたの助けが必要な用事はありません」彼女の表情はよそよそしく、彼の助けを拒む態度がにじんでいた。由樹は片手をポケットに入れたまま、その場から動かなかった。「あら、この方とお知り合いなんですか?」青木がそこで口を挟んだ。「そういえばさっきの男、本当にろくでもない人でしたよ。責任を取ろうとしないどころか、こっちに難癖までつけてきて。しかも周りの人も誰も助けてくれなかったんです。幸い、こちらの方が助けてくださって……」そう言いながら、彼女はまた由樹の方を見た。「あの件はもう片付いたんですか?相手の過失が100%だったんですよね?」由樹は頷いた。「ああ」「まあ、本当にありがたいことですよ」青木は三久のほうを向き、続けた。「お友達がこんなに助けてくださったんですから、ちゃんとお礼を言わないと」そう言ってから、声を潜めた。「どうしてそんな怖い顔してるんですか。失礼ですよ」声を落としたつもりでも、夜の病院はあまりにも静かだった。その言葉は、はっきりと由樹の耳にも届いていた。由樹はわずかに眉尻を上げ、三久を見る目つきは、まるでこう問うているかのようだった。これがお前の感謝の態度か、と。青木は深川の地元出身で、人懐こく明るい性格だった。物言いがはっきりしている分、三久と由樹の間に漂う微妙な空気には気づいていなかった。三久は息を整え、口調を和らげた。「もう時間も遅いので、社長のお休みの邪魔になると思っただけです」「普段のこの時間なら、まだ仕事をしている」由樹が少し近づいてきた。今はまだ遅くない、という含みがあった。三久は唇を動かし、さらに何か言おうとしたところで、由樹が彼女を通り越して病院の奥へと歩いていくのが見えた。三久はぽかんと目を瞬かせ、眉間のしわをほどいたが、すぐにバツの悪そうな表情になった。「あら、梨々香さんが呼んでくれた車が着きましたわ。急いで行かなきゃ」青木が慌てて声を上げ、そそくさと外へと向かった。三久は頷き、青木を見送ると、蒼汰の病室へと向かった。病室の前には、由樹と龍太郎が立っていた。「熱がか
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第383話

「あたし、本当にダメな母親だと思うわ。蒼汰が具合を悪くしてるのにも全然気づかなくて、青木さんがいてくれなかったら、あのまま高熱が続いてどうにかなっても、私、何が起きてるかさえ分からなかった」三久はハンカチを彼女に手渡した。「もう立派なお母さんなんだから、簡単に泣いちゃダメ。子供のお手本にならないと」梨々香は顔を上に向け、ハンカチを目にぎゅっと押し当てた。それはすぐに涙でびしょ濡れになる。「みくちゃん、今のこの生活、私が思い描いてた生活とは全然違っちゃってるよ。子供を産んだら、十分なお金さえ用意しておけばそれで十分だと思ってたのに」だが実際に自分の子供を産んでみると、何もかも自分の思い通りにはいかないものだ。育児は人に任せるような母親でいたかった。自分が暇な時にだけ抱いて可愛がって、何か面倒なことがあれば育児ヘルパーにすべて任せておけばいいと。だが子供が泣きぐずるとどうしようもなく胸が痛み、どんなに自分が辛くても苦しくても、どんなに無理をしてでも一緒に遊んでやりたくなる。子供が病気になれば気が気ではなくなり、自分の気持ちまで、何もかも子供中心になってしまう。「体外受精で子供を持つって決めた時、私ちゃんと言ったよね。子供だって一人の大切な人間なんだから、お金で買えるお人形なんかじゃないって。産んだ以上、その子にちゃんと責任を持つべきだって」三久は乱れた梨々香の髪を優しく整えてやった。「あなたが思い通りにいかなくて悩んでいるのは、それだけ蒼汰のことを大切に思ってる証拠だよ。ちゃんとした母親に近づいてるってこと。あなたは十分立派にやってるよ」ちゃんとした母親。その一言は、梨々香にとってあまりにも縁遠く、重たいものだった。これまでずっと、自分には「イケてるママ」なんて都合のいい肩書きをつけてきたのだから。梨々香は目に当てていたハンカチを取ると、丸めてゴミ箱に投げ入れた。「ちゃんとした母親になるって、こんなにも疲れて大変なことだったんだね。どうりで……結婚してから子供を持つのが世間の普通なわけだ、少なくとも旦那さんと二人で分担できるんだもんね」彼女は病室の外に目をやり、声を低く落とした。「父親って、やっぱり母親と子供にとって頼れる存在なんだね」さっきのように、厄介な男が付け入る隙を与えるのはいつも、父親がそばに
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第384話

「いいえ、大丈夫ですから」「酒井はいいって言ってるの?」三久が断ろうとすると、梨々香がすかさずその後の言葉を重ねてきた。龍太郎が振り返って由樹を見た。由樹はドア枠にもたれかかり、鋭い切れ長の目で淡々とこちらを見ていた。「酒井……さん、今日は本当にありがとうございました。それじゃ、帰る時にみくちゃんを安全に家まで送っていってあげて。じゃないと私も心配だから」由樹と梨々香は、互いの存在を長年知っている。だが、これまでにほとんど言葉を交わしたことはなかった。梨々香がこうして気安く口を開くと、まるで由樹と昔から親しい友人であるかのように聞こえる。三久は、梨々香が由樹に無視され、気まずい空気になる覚悟をしていた。「行くぞ」ところが、由樹は短くそれだけ言葉を返したのだ。三久は唇を軽く結び、数秒ためらってから自分の荷物を持ち、由樹について歩いていった。夜も更けたこの時間、妊婦の身であり、しかもスマホも持っていない。どうするのが一番いいか、彼女にもはっきりと分かっていた。病院に入るとき、彼女は由樹に彼の上着を返していた。今、外へ出ると夜風がひんやりと冷たくて、由樹はまた無言で上着を差し出してきた。「明日の午前中に海外とのオンライン会議がある。お前に議事録を取ってもらうからな」つまり、三久が体調を崩せば、会議の記録が取れなくなるから着ておけということだ。由樹について長く働いてきたせいか、彼の一言一言の裏にある意図を、三久はいつも正確に読み取ってしまう。三久は上着を受け取って羽織った。彼がいつもまとっている、かすかな沈香の香りが鼻をくすぐる。以前は、この沈香の香りに、かすかにタバコの匂いが混じっていたものだ。今は、そのタバコの匂いがまったくしない。最近、由樹がタバコを吸う姿をほとんど見ていないことに気づく。もしかすると、千歳がタバコの匂いを嫌うからかもしれない。三久はうつむき加減に彼の後についていき、彼の車に乗り込むと、そのまま家まで送ってもらうことにした。由樹の車がその場を離れると、暗がりから一つの人影が静かに現れた。千歳は脇に垂らした手をきつく握りしめ、爪が食い込んで皮膚が破れるほどだった。だがその痛みも感じないのか、彼女はただ二人が走り去った方向をじっと睨みつけていた。
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第385話

「俺は彼のためを思っている。お前はただ自分のためを思っているだろう」龍太郎が彼女の言葉を冷たく遮った。「お前がしてきたことは全部、自分の見栄を守って、由樹を手に入れたいだけだ。今のうちに手を引くことを勧めるぞ」彼には分かっていた。由樹はすでに何かに勘づいている。だが、それを千歳に教えるつもりはなかった。彼女が自滅するというなら、止めるつもりもない。一応の忠告はしたが、千歳には少しも響いていなかった。「私だって、自分が由樹さんに釣り合わないことは分かってるわ。でも、私は三久なんかよりずっと家柄がいいでしょ!」「これ以上俺に付きまとうな。じゃないと由樹に全部話すからな」龍太郎はドアを指差した。「出て行け」千歳は、彼がここまで冷酷になれるとは信じられなかった。「私たち、一緒に育った幼馴染じゃない。由樹さんがいなくても、友達ではあったはずでしょう……」「お前は俺の友達を名乗る資格などない」龍太郎は吐き捨てた。「お前も、他の連中と何も変わらない。俺の友達は由樹一人だけだ」「私……」「お前が何をしたか、思い出させようか?」龍太郎の声は、いっそう冷たさを増した。千歳は全身がぞっと冷え、身の毛がよだった。かつて彼を脅した時に吐いた酷い言葉、その時の龍太郎の表情がどれほど険しかったか、彼女は今でもはっきりと覚えていた。友達どころか、龍太郎から完全な敵と見なされていないだけでも、まだましというものだった。「出てけ」龍太郎はそれだけを吐き捨てた。千歳は下唇を強く噛みしめ、皮膚が破れてもなお、それ以上言葉を発することなく、そのまま身を翻して出ていった。「全部、三久のせいで由樹さんは私にこんな態度を取るようになったんだ。あの女さえいなければ、全部の問題が解決するのに……」車に戻ると、千歳はスマホを取り出し、電話をかけた。「紫織、私、深川に来てるの。時間あったら一緒に……」……三久はこれまで、深川の夜がこんなに冷たいと感じたことはなかった。由樹の上着を羽織り、車の窓はすべて閉まっているのに、それでも背筋を這い上がる冷気に驚き、二の腕に鳥肌が立った。彼女は上着をきつく身に引き寄せた。「寒いのか」由樹がその小さな仕草を見逃さなかった。「大丈夫です」三久は由樹の方をちらりと見た。
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第386話

「バカな」由樹は反射的にその言葉を口にした。哲朗はもともと、もし早坂の子供が本当に体外受精で授かった子だとしたら、それはあまりにも突拍子もない話だと思っていたのだ。だが、由樹があまりにもきっぱりと否定するのを聞いて、かえって気になってきた。「どうしてそこまで、早坂さんの子は体外受精じゃないって断言できるんですか」「俺の勘だ」そして、その鋭い勘は同時に、三久が何かを隠しているとも告げていた。三久は長年、自分のそばで働いてきた。しかも二年間、毎日のように肌を重ねていた女だ。彼女のことなら、誰よりもよく分かっているつもりだった。「社長、調査は続けますか?」電話の向こうから、哲朗の探るような声が聞こえてくる。由樹は「続けろ」と短く返して、電話を切った。スマホをポケットにしまい、もう一度三久の部屋がある二階の方を見上げてから、車を出して静かに走り去った。隣のマンションの前を通り過ぎるとき、庭に停まっているロールスロイス・ファントムが一瞬だけ視界をよぎった。由樹はかすかに眉をひそめる。あの車は一億円を超える高級車だ。この庶民的なマンションに停まっているには、あまりにも不釣り合いだった。だが深くは考えず、由樹は車を飛ばしてその場を後にした。暗い部屋の中、三久は窓辺に立ち、走り去っていく由樹の車を見送ると、ようやくほっと息をついて、身を翻しベッドへと向かった。蒼汰の発病は梨々香を強い不安に陥れていた。彼女は一晩中眠れず、赤ちゃんの高熱でどんなことが起こり得るのか、ネットで検索し続けた。大半のサイトには「子供が病気になるのはよくあること」と書かれていた。だが、ごく稀なケースとして挙げられる、高熱による脳性麻痺や知的障害、白血病による下がらない高熱といった恐ろしい見出しばかりが、梨々香の目に飛び込んできた。【蒼汰、何か大きな病気なんじゃない?】【深川に引っ越してきて、この家、入居してまだ間もないけど、ホルムアルデヒドが多すぎるんじゃないかな?】【蒼汰、四十度近くまで熱が出たけど、これって知能に影響したりしない?】【子供が熱で耳が聞こえなくなったって話も聞いたことがあるけど、あの子も聞こえなくなったりしない?】三久は送られてくるメッセージに、一つひとつ丁寧に返信していった。だが三久の冷
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第387話

三十分後、無事に会議が終わった。「久留美さんは、お前を随分と気に入ってるようだな」由樹の視線が、不意に彼女に向いた。三久は会議内容を整理する手を、一瞬ピタリと止めた。「娘さんがいらっしゃらなくて、私が息子さんと同じくらいの年だから、たまたま気に入ってくださったのかもしれません」「明日の夜なら時間はある」由樹は眼鏡を外した。その言葉の意味は明白だった。三久は驚いた顔で彼を見た。「社長は参加されるんですか?」「明日までに贈り物を選んでおけ、一緒に持っていくぞ」由樹は疲れたように眉間を揉みほぐした。その表情には、色濃い疲労がにじんでいた。三久は資料を素早くまとめ、彼のメールアドレスに送信すると、一礼して会社を出た。電話では久留美の誘いをはっきりと断ったものの、久留美からその後も何通かメッセージが届き、ぜひ来てほしいという内容が繰り返されていた。三久は明日の夜に伺うと丁寧に返信し、ついでに高崎家のご子息の好みを尋ね、贈り物の準備をすることにした。【贈り物なんて気にしなくていいのよ、大事なのはあなたが来てくれることなんだから】その言い方だと、まるで三久自身が贈り物であるかのようだった。どうにも居心地の悪い言い方だった。三久は理紗に頼んで、高崎家のご子息のことを調べさせた。典型的な放蕩息子で、酒、女、博打と、あらゆる遊びに手を出しているどうしようもない人物だった。三久は無難な海外産のヴィンテージワインを一本選び、明日直接高崎家へ届けてもらうよう手配した。こうした細々とした用事を片付けると、ちょうどお昼になっていたので、そのまま病院へと向かった。病室の扉を開けると、ソファに座って一人で涙を流している梨々香の姿が目に入った。青木は蒼汰をベッドの上で優しく抱いていて、蒼汰の額にはまだ冷却シートが貼られていた。「まだ熱があるの?」三久は心配そうに歩み寄った。「朝方は一度下がったんですけど、また熱が出てきたんですよ」青木は言いながら、梨々香の顔色をそっとうかがった。「先生は、これはウイルス性のものだから、何度か上がったり下がったりを繰り返すだろうって仰ってましたわ」大きな問題ではないと慰めたかったが、梨々香があまりに辛そうにしているので、言い出しにくかったのだ。「ちょうどいいわ、そうちゃん
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第388話

「何を言ってるの?」三久は眉を寄せ、真剣な顔で梨々香を見た。梨々香は鼻を強くすすった。「子供産んだら分かるよ、理屈は分かってても、心配で仕方なくなっちゃうもんなの」三久は「気持ちは分かるよ」と言いかけた。だが考え直すと、今の極度に感情的になっている梨々香には何を言っても耳に入らないだろうと思った。そのまま黙っておくことにした。「この感覚は、たとえば理性は酒井から離れろって言ってるし、実際離れることもできるのに、それでも心が辛い、みたいな感じ」梨々香は思い切り鼻をすすった。「もうその辺にしてよ。言ってることは分かってるんでしょ?なのに、なんで急に私まで攻撃してくるの?」「あたしがこんなに辛い思いをしてるのに、なんであなただけ平気なわけ?」梨々香はしょんぼりした顔をしながら、平然と三久の傷をえぐるようなことを言っている。「酒井と離婚した日の夜、あなたが泣いてた時、あたし、一晩中付き合ってあげたじゃない。あたしは恋愛経験だってないのに一晩中慰めてあげたのに、あなたはどうしてそんなに冷静でいられるの?これじゃこっちがバカみたいに見えるじゃない」三久は頭が痛くなった。「その様子だと、もうそんなに心配してないみたいね。こんなくだらないこと言い出す余裕があるくらいなんだから」「くだらないこと言ってる?」梨々香はむきになって言い返した。「あの夜、枕がびしょ濡れになるくらい泣いてたし、一度お酒を飲みすぎた時なんて、もう一回やり直せるなら自分から離婚なんて言わなかったのにって言ってたじゃない……」三久には、ひどい喪失感が残っていたのだ。由樹と結婚していた二年間、彼が冷たかったとはいえ、仕事を終えて帰れば彼がいる生活にすっかり慣れていた。離婚したばかりのあの日、確かに泣いた。離婚してすぐ、由樹と千歳の交際のニュースが出た時、お酒を飲んでいくつか本音らしきことを口走ったこともあった。三久自身はまったく覚えていないのに、梨々香はそういう格好悪いところを一つ残らず記憶していて、機会があるたびにチクチクと刺してくる。梨々香の気分が沈んでいることを考慮して、三久はそれ以上言い返さなかった。「……エレベーター来た、早く乗ろう」三久は梨々香を引っ張ってエレベーターに乗り込み、二人一緒に向きを変えた。その瞬間
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第389話

龍太郎は信じられないとでもいうように首を横に振った。「由樹が彼女と結婚した頃は、あいつは若手の実業家としてかなり注目されてましたし、近づきたがる女はいくらでもいたのに、誰も相手にされなかったはずなんですけどね」「あたし……」梨々香は助けを求めるように三久を見た。とっさに思いつく言い訳は、もう使い果たしてしまっている。この先、一体どう取り繕えばいいというのか。「確かに、社長はとても優秀な方です。私のほうが身の程知らずだっただけです」三久は肝心なところを巧みにぼかして答えた。「離婚した以上、こういう話はもう蒸し返すべきではないと思います。この話は終わりにしましょう」三久は梨々香の腕を引っ張って、その場を足早に離れた。龍太郎は階段の上に立ち、遠ざかっていく二人の後ろ姿をじっと見つめていた。彼はゆっくりとスマホを取り出し、画面をタップして、由樹にたった一行のメッセージを送った。……そんなことがあったせいで、三久はすっかり食欲をなくしてしまった。「まさか彼が後ろにいるなんて、夢にも知らなかったのよ。知ってたらあんなこと言うわけないじゃない」梨々香はサラダを食べながら激しく後悔していた。「全部私のせいだよ。秦先生がこの病院にいるって知ってたのに、余計なことを喋っちゃった」「本当に申し訳ないと思うなら、時間を見つけて秦先生と話をして、由樹に余計なことを言わないようにお願いしておいてよね」三久と由樹の関係は、もはや「悪い」という単純な言葉では言い表せない。むしろ、すっかりこじれていた。良いと言えば良くもなく、悪いと言えばそこまで悪くもない。だがどんな些細な一言も、二人の関係を一気に悪化させるきっかけになり得た。「ちょうど今日の午後、秦先生が蒼汰の回診に来るから、早く食べて帰ろう」梨々香は急いでサラダを口に運び始めた。三久は静かに箸を置いた。「青木さんの分、何か買って帰ってね。私、先に家に帰るね。夜になったらまた夕食を届けに来るから」三久はひどく疲れていて、家に帰って少し仮眠を取るつもりだった。「じゃあ早く行きなよ」梨々香は手を振って彼女を見送った。三久は地下鉄で帰宅し、部屋の片付けを少ししてからベッドに横になった。目が覚めた時には、すでに午後四時を過ぎていた。三久は何品かのおかずと温
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第390話

龍太郎は由樹に、一体何とメッセージを送ったのだろうか。わずか数秒の間に、いくつもの可能性が三久の頭をよぎった。三久は冗談を言う余裕もなく電話に出た。「もしもし、社長」「下に降りてこい」由樹の声は、いつになく低く、凄みを帯びていた。三久には、今の彼の顔つきがどれほど険しいものか、容易に想像がついた。心臓が、どきりと大きく跳ねた。梨々香に言ったあれこれが由樹に知られたら、由樹の前で恥ずかしい思いをする。だが由樹のその口調からすると、明らかに怒っている。通話が切れた無機質な音とともに、三久の手から力が抜けた。暗くなった画面を見つめながら、深く眉根を寄せた。「どうしたの?」梨々香が急いで口の中の食べ物を飲み込み、咳払いをした。「なんでそんな顔してるの、まさか離婚の夜にあなたが泣いてたことをバラしたせいで、酒井に怒られたりしないよね?」三久は荷物を手早くまとめて立ち上がった。「なんだか嫌な予感がするわ。秦先生に、いったい何を由樹に話したのか、後で確認してもらえる?」梨々香が心配そうに入口まで見送りに出た。「秦先生、酒井に何かまずいこと言ったのかな?」「とにかく由樹が私に会いに来てて、すごく機嫌が悪そうなのよ」三久はここ数日、由樹を怒らせるようなことは何もしていなかった。この件以外に、何があるというのか。病院の入口を出ると、道端に停まっている漆黒のカリナンが目に入った。由樹は車体に寄りかかっており、ネオンの光が彼の長身の輪郭を鮮やかに浮かび上がらせていた。その瞳は深く沈み、何を考えているのかまったく読み取れなかった。三久が出てくると、その鋭い視線がまっすぐ彼女へと向けられた。夜の病院は人もまばらで、乳白色のロングワンピースを着た三久の姿は、いっそう目を引いた。彼女は裾をつまみながら段差を下り、小走りで彼の方へと近づいていった。「社長、こんな遅い時間にどうかなさいましたか?」由樹は奥歯を軽く食いしばり、顎の輪郭がくっきりと浮かんでいた。「隠し事をするなら、もっと徹底的に隠し通せ。もし俺に証拠を掴まれたら……」――タダじゃ済まさないぞ。三久は頭の中で続きの言葉を勝手に補い、心臓の鼓動が乱れた。子供のこと以外に、由樹に隠していることなど何もない。由樹がこんなことを言い出
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