All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 401 - Chapter 410

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第401話

しかも紫織には、千歳とも浅からぬ因縁がある。三久はこの一件を、仕事に響かせたくなかった。なにしろ、評判に傷がつけば、今後のキャリアにも響くからだ。「辞めるとは言ったけど、向こうからクビにされるのは癪よね。そもそも、こっちは濡れ衣なんだし」梨々香が三久にウインクした。「じゃあ、あたしが一肌脱いであげる」三久は頷き、二階を見上げた。「今日退院したの?もう平気?」「熱は下がったわ。秦先生は、あとは家で様子を見ていれば大丈夫だって」ここ数日、梨々香はすっかり疲れ果てていた。仕事がなくても、子どもが熱を出せば気が休まらない。外で働くよりよっぽど堪える。「じゃあ、ゆっくり休んで。私もそろそろ帰るから」三久は帰宅して車を停めるなり、梨々香から夜食を食べにおいでと呼び出されたのだ。パーティーではバースデーケーキを一口も食べずに帰ってきたため、ちょうど小腹が空いていたのだ。梨々香の家を出たところで、三久はふと思い立ち、薬を塗ってあげるから来るようにと洲人にメッセージを送った。家に着くや否や、洲人がやって来た。「電話しろって言ったのに、なんでメッセージなんだよ。目覚ましをかけて早めに起きてたから気づいたけど、そうじゃなきゃ絶対見逃してたぞ」洲人はぶつぶつと文句をこぼした。三久の嫌がらせなど、彼にはお見通しだった。「一日くらい薬を塗らなくても死にはしません」三久は、洲人に薬を塗ってやりたくない気持ちを隠そうともしなかった。「明日は朝から用事があって出かけますから、今夜塗ったらもうお世話しませんよ」洲人はぎこちない動きで腰を下ろした。「なんかさぁ、今日はさらに動きづらくなった気がする」怪我をしているのは膝で、かさぶたの周りの皮膚が突っ張っている。脚を曲げるたびに傷に響くのだから、動きづらいのも無理はない。「あと数日の辛抱ですね。塗り終えたら持って帰って、明日の朝はご自分でどうぞ」三久は腰を下ろして薬を塗り終えると、消毒液と綿棒を一緒に彼に渡した。「明日休みだけど、予定あるか?」洲人は綿棒を受け取る。三久は素っ気なく答えた。「暇じゃありません」「また残業か?」洲人が眉をひそめる。「酒井の野郎、人使いが荒いな。君、こんなにお腹が大きいのに……」そう言いながら、三久のお腹がどれだけ
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第402話

翌朝十時、三久はタクシーでヴェリアへ向かった。理紗が気を利かせ、正仁が使う個室の隣を押さえておいてくれたのだ。三久が着いたときには、すでに理紗が個室で待っていた。「早坂さん、たった今、石田正仁さんを見かけましたよ」理紗は隣を指差し、声をひそめる。「誰と会ってると思います?」三久はバッグを置いて席についた。「誰?」「最初は友達と会う予定だったはずなのに、どういうわけか相手が高崎家の若奥様に変わってて。さっき、大きなお腹を抱えて入っていきましたよ」理紗は紫織に一度会ったことがある。たった一度きりだが、強く印象に残っていた。三久は目を細めた。もともとは偶然を装い、正仁に接触するつもりだった。だが、今となっては……「ここで待ってて。何があっても、絶対に隣には来ないで」三久は立ち上がり、まっすぐ隣の個室へ向かった。個室のドアは半分開いていて、紫織の声が漏れ聞こえてきた。「まさかあんな女だとは思いもしなくて。じゃなきゃ、私だって縁を取り持ったりしませんよ。後から知ったんですけど、彼女、誰の子かも分からない子を身ごもってて、必死に父親を見繕おうとしてるんです。それに、上司とまで関係を持ったことがあるらしくて……ほら、西戸の酒井家の跡取りですよ」三久こそが、紫織の言う「あの女」だった。「本当にひどい話だ。午後、酒井社長とお会いする約束をしてるから、必ず筋を通してもらうぞ。百栄グループともあろうものが、どうしてあんな女をあの地位に据えておくんだ!」正仁は怒りのあまり一睡もできなかったらしい。紫織の言葉の真偽はさておき、そもそも三久と正仁は、昨日ようやく顔を合わせたばかりの間柄だ。だというのに正仁は、まるで自分が三久の婚約者であるかのように騒ぎ立てていた。「今回は私にも非がありましたね、石田さん。友達が酒井社長の婚約者なんです。もうすぐ結婚するんですよ。早坂三久のことは、どうなさるおつもりですか?私から友達に頼んで、酒井社長に一声かけてもらいましょうか?」紫織は恩を売ろうとしたが、正仁は軽く手を振って遮った。「いや、いい。今回の件はそっちのせいじゃない。私も親切心から……」「その親切心とやらは、どこにあるんですか?」三久はドアを蹴り開け、悠然と部屋へ足を踏み入れた。三久が姿を現した途
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第403話

「ほら石田さん、この女って本当にひどい人ですよね!」紫織がさらに油を注ぐ。しかし、三久は遮った。「そこで焚きつけるのはやめてもらえます?あなた、石田社長よりよっぽどお粗末ですね。村上千歳にいいように利用されているだけなのに、いずれ高崎家まで巻き込むことになりますよ」正仁と紫織は顔を真っ赤にし、今にも怒鳴り出しそうだったが、三久は怒りを押し殺しながら、どうにか平静を保っていた。彼女はそれだけ言い捨てると、隣の個室へ戻り、バッグを手にして立ち去った。理紗は急いで後を追い、部屋を出る間際に隣の個室をちらりと見やった。ちょうど、顔を真っ赤にした二人の姿が目に入った。「さっき、何をしたんですか?」理紗は小走りで三久に追いついた。「もしかして、入っちゃいけない場面に出くわして、見ちゃいけないものを見ちゃったんじゃないですよね?」三久はため息をついた。「たしかに、今日は来ない方がましだったわね」紫織が余計な口を挟まなければ、三久はまだ多少なりとも辛抱し、あの石頭と話を続けられたはずだ。好転する見込みは薄かったにせよ、ゼロではなかった。だが今となっては、二人とも敵に回してしまった。「あれ?」理紗が小さく声を上げる。「高崎家の若奥様、お腹が大きいのにそういうのがお好みなんですか?二人でホテルに行けばいいのに、なんでレストランで……一体何を見たんですか?どこまでいってたんです?キスしたり手を握ったりだけじゃないですよね?服、脱いでました?」三久は足を止め、振り返った。「……何言ってるの?」「だって、男女が二人きりで、顔まで真っ赤にして。早坂さんが修羅場に踏み込んだんじゃないんですか?」理紗は指を二本立てて身振りを交えた。三久は眉をひそめた。「あなたが思ってるようなことじゃないわ。一言では説明できないことなの。私、まだ用事があるから、あなたはもう帰って」「……あ、はい」理紗の顔から、野次馬根性丸出しの表情が消えた。理紗はうなだれ、三久を見送ると、帰りのバスに乗り込んだ。三久はというと、由樹に電話をかけた。紫織が三久と由樹の仲を捏造した以上、正仁も迂闊に噂を広めることはできないはずだ。由樹を敵に回す度胸は、彼にはない。けれど正仁は、必ず三久に何かしら仕返しをしてくるだろう
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第404話

「みくちゃん、ネットのニュース、どういうこと?」梨々香はニュースを見るなり、すぐさま三久へ電話をかけてきた。「あの男、頭おかしいんじゃないの?」ニュースに正仁の名前は一言も出ていない。けれど、これが正仁の仕業であることは疑いようもなかった。ネットで一番広まっているのは、独身の三久が素性も分からない男との子を妊娠し、今になって父親役を引き受けてくれる男を探し回っている、という噂だった。「今、由樹の家の前なの。先手を打って相談しようと思ってたのに、もうニュースになっちゃってて」三久は道端に立ったまま、つま先で小石を転がしていた。「その言い方だと、この件の黒幕は村上ってことよね?酒井は助けてくれそう?」「まあ……会社の体面もあるだろうし」三久は一縷の望みにすがっていた。梨々香は悪態をつく。「子どもを産むだけなのに。暇人ばっかり、他人のことに首を突っ込んでさ!」彼女が蒼汰を産んだときも、コメント欄には父親不明だのと叩く声が溢れ返っていた。中には、この子はお金で買ったのだとか、本当は自分で産んだわけじゃないなどと、ひどい言葉を投げつける者までいたのだ。けれど彼女は気にしなかった。ネットで食べている身だ。アンチだって注目してくれるだけありがたいし、おかげで知名度も上がったくらいだった。でも、三久は違う。評判が地に落ちれば、この先のキャリアに大きく響いてしまう。「とにかく、由樹のところに行ってくる」少し考えた末、三久はやはり直接由樹を訪ねるべきだと思い直した。梨々香との電話を切ると、彼女は邸宅の方へと歩き出す。二階のベランダでは、白いレースのカーテンが風に揺れている。由樹はそこに立ち、黒々とした切れ長の瞳で、道端に立つ彼女の姿をじっと見つめていた。耳にはスマホを当て、電話を受けている最中だった。「ニュースを止めなくてよろしいのですか?」哲朗が驚いたように言う。「このままでは、株価にも響きます」「急ぐことはない」「それは……」哲朗はおおよその意図を察しつつも、続けて尋ねた。「では、調査はこのまま続けますか?」「千歳を西戸へ呼び戻す手を考えろ。それから、高崎家にも説明を求めに行け」哲朗はすぐに察した。この一件は、千歳と紫織の仕業だったのだ。「承知いたしました」電話を切った瞬間、
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第405話

「お前たち、誰が酒井社長を怒らせたんだ?」武司は慌ただしく家に入るなり、鞄を置くのも忘れてリビングへ直行し、語気を荒げて問いただした。久留美はちょうど、紫織と優雅にアフタヌーンティーを楽しんでいるところだった。ティーカップを置いて立ち上がる。「うちが彼に関わることなんてないじゃない。怒らせるも何もないわ」「じゃあ、なんで酒井社長のところの人間が、わざわざ俺のところに説明を求めてきたんだ?」武司は手にした鞄をソファに放り投げた。「まさか、あのネットのニュース、お前たちが絡んでるんじゃないだろうな?」紫織は不自然に目を泳がせ、武司と視線を合わせようとしない。久留美は何のことか分からず、「何のニュース?」と怪訝そうに聞き返した。そう言いながらスマホを手に取り、二、三度画面をスクロールさせると、みるみるうちに顔色が変わった。「三久さんが妊娠?父親が誰か分からないって?」妻が本当に何も知らなかった様子を見て、武司は妻には無関係なことだと悟った。そして紫織へと目を向けると、ちょうど彼女の視線がせわしなく泳いでいるのが目に入った。「紫織、説明しろ。どういうことだ?」武司は紫織を指差して厳しく問い詰めた。紫織はもう逃げられないと悟り、半ば開き直ったように口を開いた。「……本当は私も関係ないんです。三久が身の程もわきまえず酒井社長に色目を使ったから、千歳が我慢できなくなっただけで」「それで?」武司は即座に事情を察した。「お前は自分から首を突っ込んで、その片棒を担いだってことか」あのパーティーの日、紫織と千歳が親しげにしているのを見て、武司は内心ほっとしていたものだった。何しろ千歳は、いずれ由樹の妻になるはずの相手だ。それだというのに、紫織は軽率にも、まんまといいように利用されただけだったのだ。「お義父さん、私はただ……ちょっと手を貸しただけです。それに、酒井社長が結婚するのは千歳じゃないですか。三久なんて、大した相手じゃないでしょう。千歳と仲良くしておいた方が――」紫織の言葉が終わらないうちに、武司が声を荒げて遮った。「馬鹿を言うな!彼女が酒井社長にとってどうでもいい相手なら、支社の責任者になんてなれるものか。それに、今回のニュースで、酒井社長がわざわざ俺のところに説明を求めてきたんだぞ!」
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第406話

スモークのかかった車窓越しに、男の冷ややかな輪郭がぼんやりと浮かび上がる。鼻筋にかけた金縁の眼鏡が一瞬、鈍い光を放った。こちらへと向けられたその鋭い視線に、三久は一瞬、全身から血の気が引き、体が強張るのを感じた。だがすぐに我に返り、三久はわずかに身じろぎした。「入ろう」さっきの時間を振り返れば、文則と自分は、ほぼ同じタイミングで由樹へと電話をかけていたはずだ。けれど、由樹は自分の電話に出なかった。彼の意図は、明らかだった。三久は下唇を軽く噛みしめ、足を踏み出して社内へと向かう。最上階、会議室。エレベーターを待っていた分、三久は由樹に一歩遅れをとってしまった。そのとき、由樹はすでに会議室の上座にゆったりと腰を下ろしていた。脚を組み、片手をテーブルの縁にかけている。腕時計がオフィスの灯りを反射し、その小さな光が金縁の眼鏡に落ちていた。わずかに細められた瞳の奥は底知れず暗く、何を考えているのか、まるで読み取ることができない。「早坂本部長は、都合が悪くなると、いつも姿を消しますね」文則は先手を打つように嫌味を口にした。「事が起きてからずいぶん経つのに、今頃になって出社されるとは」三久は部屋に入り、由樹の傍らを通り過ぎるときに小さく声をかけた。「社長」そして文則の言葉には一切取り合わず、そのまま自分の席へと着く。文則は勝ち誇ったように言った。「社長、広報部も今回の危機に迅速に対応できず、職務怠慢と言われても仕方ありません。ですが、まずは早坂本部長の件を片付けましょう。早坂本部長が妊娠されていること、社長はご存知でしたか?」もし由樹すら知らなかったのなら、三久は妊娠を意図的に隠していたということになる。また一つ、彼女を追及する材料が増えるというわけだ。「つい先ほど知ったところだ」由樹は持ち上げた手で、腕時計のベルトに指をかけ、ゆっくりともてあそんだ。ひどく気だるげな態度だった。その態度は、文則が三久を容赦なく追い詰めるのを、あえて黙認しているとしか思えなかった。「では社長は、早坂本部長の子どもの父親が誰かも、当然ご存知ないでしょうね」文則の口調は、もはや己の勝利を確信しているかのようだった。もしこの子が問題のない相手との子どもなら、ニュースが出た瞬間に相手との写真をSNS
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第407話

彼が声を荒げると、上に立つ者ならではの威圧感が、一瞬で場を支配した。文則は口元の冷笑を消し、少し間を置いてから真っ先に立ち上がり、部屋を出ていく。他の者たちも次々に腰を上げ、足早に退室していった。三久が最後に立ち上がったところで、ドアへ向かう間もなく由樹に手首を掴まれた。細く長い指が、三久の華奢な手首を包み込む。温かな感触なのに、まるで枷をはめられたようで、三久は思わず足を止めた。力はさほど込められておらず、痛めまいと加減しているようだった。会議室のドアが外から閉められ、雑然とした足音も遮断された。三久はまぶたを伏せた。まつ毛の落とす影が、瞳の奥の感情を覆い隠す。由樹は座ったまま、わずかに顔を上げて彼女を見た。「一体どんなろくでもない男と付き合ってるんだ?ここまで騒ぎになっても、姿を見せてお前を守ろうともしない」「来てくれないわけじゃありません。私が必要としていないだけです」三久は唇を微かに動かし、淡々と答えた。「必要ない?今はそれでいいとしても、この先、子どもには父親が要らないとでも言うつもりか?神――」「社長」三久は彼の詰問を遮った。「この子は私一人の子です。誰の手も借りるつもりはありません。この先どれだけ非難されようと、相手を恨んだりはしません。産むと決めたのは私自身ですから」「随分と物分かりがいいんだな」由樹は突然立ち上がった。ネクタイを乱暴に緩める手の甲に、青筋が浮いている。そのまま、じりじりと彼女へと距離を詰める。凛とした威圧感が全身から滲み出し、周囲の空気まで薄くなっていくようだった。三久は息苦しさを覚える。壁際まで追いやられ、背中が壁にぶつかると、思わず両手を前に突き出して彼を制した。「……社長」夜遅く、洲人が三久の部屋へ入っていく光景。そして翌朝、彼女の家から出てくる光景が、由樹の脳裏を次々とよぎっていた。由樹は強く歯を食いしばる。強く噛み締められた顎の線から、理性を失いかけている危うさが滲んでいた。「三久、この子は……」問い詰めるようでもあり、探るようでもある。信じられない。あるいは、信じたくない。あらゆる感情が、その短い一言に凝縮されていた。由樹はその感情の渦に、危うく呑み込まれそうになっていた。その時、会議室のドアがけたたましく
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第408話

依果は黙り込む。それは紛れもない事実だった。由樹の存在があまりに大きすぎるため、彼の傍にいる人間は、否応なく業界内で注目を集めてしまう。哲朗でさえ、何人もの社長から名刺を渡され、娘との縁談を持ちかけられたことがあるほどだ。三久が会議室を後にし、扉が静かに閉まる。「お兄ちゃん、まさかその退職、認めるつもりなの?」依果は由樹に歩み寄り、尋ねた。由樹はその場から動かない。西日に包まれ、その輪郭が黄金色に縁取られていた。「ニュースを消したのは誰だ」「神崎でしょ」依果は迷いなく答えた。洲人以外に、こんな厄介事にわざわざ首を突っ込むような物好きは他にいない。それに、メディアをまとめて訴えるなんて真似ができるのも、彼くらいなものだろう。依果はただの憶測で口にしたにすぎなかった。けれど由樹には、彼女が確証を得た上で報告しているように聞こえた。由樹は踵を返し、大股で会議室を後にした。社長室へ戻る途中、帰ろうとする三久とちょうどすれ違う。二人は秘書室のフロアを挟んで、互いに振り返ることなく、逆方向へ歩いていった。ネットのニュースはきれいさっぱり消し去られていた。帰りのタクシーの中で各メディアのサイトを開いてみたが、痕跡ひとつ見当たらない。まるで最初から存在しなかったかのようだ。依果の言葉を思い出し、マンションに着いたものの自室へは戻らず、三久は先に洲人の部屋へと向かった。インターホンを二度鳴らすと、中から足音が聞こえてくる。洲人はドアを開けて彼女を見るなり、一瞬表情を強張らせ、言葉を失ったが、すぐに彼女の手を引いて部屋の中へ招き入れた。「ちょうどいいところに来た。今君に連絡しようとしてたんだ。ネットのニュース、消してやろうかってな。もう収まったみたいだけど、あれ酒井の仕業か?」三久は玄関に立ち止まったまま彼を見つめた。「……あなたじゃないんですか?」洲人も一瞬呆気にとられた。「俺?君に何も言わず、勝手に動いたりしないさ」もし彼が出しゃばれば、世間は彼こそが三久のお腹の子の父親だと勘違いするに違いない。「酒井でもないみたい」三久は困惑を浮かべた。洲人以外に誰が助けてくれるのか、まるで見当がつかなかった。「じゃあ、一体どこの誰が……?」洲人が目を瞬かせる。「君の親友か?」「まさか
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第409話

ニュースを消すだけなら、そこまで難しいことではない。けれど高崎家がわざわざあの何社かを相手に一斉に訴訟を起こすとなると、時間も労力も金もかかる。以前、武司が久留美を三久に近づけまいとしていた態度からすれば、むしろ真っ先に反対しそうなものだった。「実はね、お恥ずかしい話なんだけど」久留美は三久を席へと促しながら、視線を転じて紫織を睨みつけた。「あなたから説明しなさい」紫織は逆らえず、バツの悪そうな顔をした。「……本当に、ごめんなさい。あのニュース、私が流させたの」彼女の他に、正仁も一枚噛んでいた。けれど紫織が正仁のことまで持ち出せば、彼を騙していたことまで露見し、自分の非がさらに増えるだけだ。だから彼女は、いっそすべて自分のせいにすることにしたのだ。「うちの高崎家は、人様に後ろ指をさされるような家ではありません。この子も誰かに唆されただけなのだと思います。早坂本部長も、今回のことはどうか大目に見ていただきたい」武司の口調は、以前久留美に近づくなと言い放ったときとは打って変わって、ひどく穏やかなものだった。「そうよ、あなた、紫織と妊娠の月数もそんなに変わらないでしょ。同じ妊婦同士、話も合うでしょうし。これから何かと顔を合わせて、きっと仲良くなれるわよ」久留美は笑みを浮かべながら、二人を取り持とうとする。その口ぶりは、まるで仲違いした子ども同士を取り持っているかのようだった。「お気遣いありがとうございます。高崎社長、久留美さんもご安心ください。過ぎたことは気にしておりませんので」その言葉の端々には、紫織と親しくなるつもりなど毛頭ないという意思がにじんでいた。それに、高崎家の人間ともこれ以上深く関わりたくはない。久留美は武司へと視線を送った。武司は咳払いをして言った。「まさか、あの日私が申し上げたことをまだ気にしておいでですか。あの発言についてはお詫びいたします。妻は情に脆いあまり、以前ある人物を信じすぎて、危うく利用されるところだったものですから。それ以来、妻の交友関係には私も少々神経質になっておりまして……勘繰りすぎたのは私の落ち度です」「高崎社長のお気遣いには及びません。若奥様のせいでも、高崎社長のせいでもございません。私自身が、人と打ち解けるのに時間がかかる性分なだけです。そ
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第410話

妊娠が発覚して以来、梨々香の細やかな気遣いを除けば、三久を気遣ってくれる者は数少なかった。思わず、久留美の顔をもう一度見つめてしまう。頑なだった三久の態度にも、ほんの少しだけ和らぎが見えた。「ありがとうございます。気をつけます」「そんなに気を遣わなくていいのよ」久留美は慈しむように笑い、優しい眼差しを向けた。「妊娠中は何かと大変なんだから、自分を追い詰めちゃだめよ。特に気持ちを溜め込んじゃいけないの。分かった?」三久は頷いた。「怒ることなんて何もありません。もう車が来るので、向こうへ渡らないと。それでは」そう言って、彼女は踵を返しかけた。けれど久留美が不意に呼び止める。「待って、髪に何かついてるわよ」三久が振り返る間もなく、髪を引かれ、頭皮に鋭い痛みが走った。ちくり、ちくりと二度、針で刺されたような感覚があった。「あら、うっかり髪を抜いちゃった。どこかで汚れがついてたみたいね」その指先には綿埃と、黒々とした髪が二本挟まれている。三久は手を上げて頭皮をさすった。「あっ、ごめんなさい、痛かったでしょう?」久留美はすぐさま手を伸ばし、三久の頭を撫でようとした。三久はとっさにその手をかわす。「大丈夫です。ありがとうございます」久留美の表情にほんの一瞬、寂しさがよぎり、そのまま手を下ろした。「気をつけて帰ってね。深川に身内も友達もいないんでしょう。何かあったら、いつでも頼ってきていいからね」三久はもう、久留美に何度「ありがとう」と言ったか分からなかった。理由も分からないまま向けられる好意に、三久はただ力のない礼の言葉を返すことしかできず、心が動かされることはなかった。先ほど一瞬だけ胸に温かさが差し込んだものの、それ以上、心が揺れることはなかった。三久は身を翻し、道路の向こう側へと歩いていった。久留美は指を握り込み、抜いたばかりの二本の髪を固く握りしめた。レストランへ引き返す途中、個室に戻る前に、血相を変えた武司が出てくるのが見える。「彼女は帰ったのか?」久留美は頷き、二本の髪をチャック付きの袋へ収めた。「これ、彼女の髪よ。DNA鑑定に回して」「そんなことは後回しだ」武司は彼女の手を苛立たしげに押しのけた。「早く彼女に電話しろ。酒井の奴がうちの大型プロジェクトを奪って
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