All Chapters of 社長の子じゃありません――でも、逃がしてもらえない: Chapter 391 - Chapter 400

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第391話

「なんで車で帰ってこなかったんだ?」洲人は蛍光グリーンのド派手なランニングウェアを着ていて、手首のスポーツウォッチの文字盤がかすかに光を放っていた。全身がピカピカと光って見えるその姿に、三久はびっくりして反射的に二歩後ずさった。「俺だ」洲人がまた声をかけた。三久が目を凝らして見て、ようやく洲人だと分かった。「神崎、社長……?」「聞いてるんだけど」洲人は道路脇の縁石のそばにしゃがみ込んだ。三久は端的に答えた。「昨日ちょっとした車の事故があって、修理に出してるの。二、三日はかかりそう」「事故?」洲人は立ち上がって彼女に近づき、頭から足先まで心配そうに見回した。「体は大丈夫か?」近づいてきた彼の顔に街灯の光が当たり、目の下にできた青黒い痣が照らし出された。「あなたほど酷くはないですが」三久はその傷を一目見て気づいた。「その傷、一体どうしたんです?」洲人は白い歯を見せて笑った。「夜ランしてて溝に落ちたんだよ。今さっき這い出てきたところ」彼が体を少し傾けると、蛍光グリーンの服には土がべったりと付いていて、膝の擦り傷から血が滲んでいた。三久は直視できず、「こんな夜に、なんでジョギングなんてしてるんですか?」「俺、前から夜ランの習慣があるんだ。ここに来たばかりで土地勘がなくて、注意看板に気づかなかったんだ」傷を見られてしまった以上、洲人はもう取り繕うのをやめ、足を引きずりながら道端に座り込んだ。「十分以上休んでからやっと立てたんだ、めちゃくちゃ痛かった!」三久はスマホを取り出し、懐中電灯機能で照らしてみた。膝から流れた血が脛まで伝っていて、一部はすでに赤黒く乾いていた。彼が動くたびに傷口がまた開き、じわじわと血が滲み出てくる。「……病院まで送りましょうか?」洲人は手を振って首を横に振った。「いいよ、医者やってる友達に写真送ったんだ。消毒液塗って何日か静養すれば治るってさ」三久は懐中電灯を消した。「じゃあ早く家に帰って消毒液塗ってくださいよ。もう出歩かないで」「家にないんだ、ちょうど今から買いに行こうとしてたところで……」洲人は言いかけて口をつぐんだ。三久は彼を一瞥し、数秒黙り込んでから言った。「うちにあるから、ついてきてください」「本当か?」洲人は嬉しそうに
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第392話

洲人はそれなりに分別のある男で、三久が妊娠中の身であることをよく分かっていた。彼女の小さな体に体重を預けているように見えたが、実際にはほとんど力を入れていなかった。三久は彼の服の袖を掴み、まるでどうしようもない厄介者を引きずるかのように、深く眉をひそめていた。二人は前後になって、三久のマンションに入った。一階の明かりがパッとつき、部屋の中はまるで真昼のように明るく照らされた。外の光はそれに比べてずっと暗く、道端の深い陰に誰かが静かに立っていることなど、注意深く見なければ誰も気づかなかっただろう。「そこに座って」三久は洲人にソファに座るよう示すと、二階へ手早く薬箱を取りに行った。洲人は素直にふかふかのソファに腰かけ、興味深そうに周囲の様子を見回した。「言っちゃなんだけど、酒井が君に用意したこの部屋、なかなかいいんじゃない」三久のような役職なら、会社が用意する住居は普通、大型のワンフロアマンションが多いものだ。このマンションは室内の広さこそワンフロアタイプと大差ないものの、周辺環境は深川でも指折りの充実ぶりだった。比べてみると、一段上のグレードにあたる。三久は何も言わず、薬箱を持って一階へ下りてくると、すぐに彼の傷の手当てを始めた。「まず生理食塩水で洗浄しますから、少し痛いと思うけど我慢してくださいね」彼女は床に座り、室内の明かりの下で、頭を少し傾けて傷口の処置を始めた。「大丈夫さ、俺は男だし、その程度の……うっ!痛っ!」洲人の強がりが終わらないうちに、生理食塩水が傷口にかかり、肉をえぐられるような激痛が走った。体がびくりと大きく震え、両手でソファのカバーを固く握りしめ、気を失いそうになるほどだった。「痛かったら、何か適当なものでも噛んでください」三久が声をかけた。彼は痛みにソファを叩きながら、顔を真っ赤にしていた。「何を噛めって言うんだよ?」三久の手つきは淀みなく、顔も上げずに淡々と答えた。「自分の舌でも噛んでれば?じゃないと、痛い痛いってうるさいですから」洲人は思わず呻き声を漏らし、全身を震わせた。「我慢しろってのか!女は出産すると、肋骨を十本折るくらい痛いっていうよな。俺のこれなんて、それに比べたら蚊に刺されたようなもんさ。女より弱いなんて言われてたまるか!」三
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第393話

「じゃあ、もう追求しないつもりなのか?」洲人は三久の少し膨らんだお腹に目をやった。「もうすぐ出産するのに、これからお金が要る場面ばっかりだろ」「彼女の口座には、もうお金が残ってないんですよ。足がつくのを恐れて、どこかへ資金を移動させたんだと思います。残っている分は施設の子供たちのために残しておきましょう。私と梨々香もいくらか貯蓄があるから、出産に備えるくらいなら足りますし」三久がどう考えても、温子が短期間であれだけの大金を使い切れるとは思えなかった。三久と梨々香の見立てでは、温子はそのお金をどこかに隠し、ほとぼりが冷めたら少しずつ施設に戻すつもりだろうということだった。「君、随分と甘いんだな」洲人は呆れたように鼻を鳴らした。「あんなにたくさんの子供がいる施設だぞ。この先、施設への援助をやめられるとは、俺には到底思えないね」三久は黙り込んだ。「君だってもう母親になるんだ。これからは自分と子供のためにもっとしっかり貯めていくべきだろ……」洲人は実のところ、三久のことをあまり深く理解できていなかった。「私は施設で育ったんです。長年の間に一番多く目にしてきたのは、人との別れでした」三久の口調は淡々としていて、その目の光が次第に翳っていく。「施設の子供たちの多くは、何らかの病を抱えています。健康な子供でも、あの環境で育つと、他の子より心の病を抱える可能性がずっと高くなるんです。命は一度きりです。だからこそ、あの子たちにはあの場所から抜け出してほしい。それに、体は不自由でも心は正常で、その体という檻に閉じ込められている子たちだって、どんなに苦しくても、誰もが必死に生きようとしています……」洲人の心臓が、一度、また一度と激しく高鳴った。まるで、これまで知らなかった世界を初めて見せられたようだった。彼はこれまで、人の境遇なんて、金があるかないかくらいの違いだと思っていた。健康かそうでないかという区分など、これまで考えたこともなかったのだ。「そうやって聞かされると、昔あれだけ金を浪費してた自分が、とんでもなく申し訳なく思えてくるな」三久は小さく息を整え、薬を塗る作業を淡々と続けた。「あなたはずっと恵まれた環境で生きてきたんだから、人生を楽しむこと自体は悪いことじゃないです。ただ無駄遣いはしないで、
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第394話

由樹の手には、ピンク色の子猫の可愛らしいチャームがぶら下がっていた。血管の浮いた男らしい武骨な手の甲と、その可愛らしいチャームとの対比があまりにも不釣り合いだった。どれほどの長い時間が経ったのか、彼は無理やり視線を引き戻し、手の中のおもちゃに目をやった。まさか、そんなはずはない。洲人はきっと隣に住んでいるのだろう、あの高級車が停まっていたマンションに。きっと三久に何か用があって、ただ訪ねてきただけだ。十時、それほど遅い時間ではない。由樹はポケットからタバコを一本取り出し、火をつけると、指の間に挟んだまま、ゆっくりと燃え尽きるに任せた。彼は街灯の冷たい柱にもたれかかり、深い夜の闇にすっぽりと包まれていた。気づけば、もう十一時近くになっていた。由樹の眉間は深く寄せられ、薄い唇は固く結ばれ、顔つきはいっそう険しくなっていた。彼はもう、明るい室内には一度も目を向けなかった。室内の明るい灯りが漏れ出て、彼の横顔の半分を淡く照らしている。何本目か分からないタバコが、ゆっくりと燃え尽きた。彼はそれを無造作に揉み消し、ゴミ箱に投げ入れると、大股でその場を後にした。少しして、洲人が三久の家から出てきた。「明日、人を寄越して寄付金を届けさせるよ」彼は二段ほどある玄関前の階段の上に立ち、三久に大きく手を振った。「これで少しは俺の罪滅ぼしになったか?俺のこと、少しは好感持ってくれてもいいだろ?」三久はドアノブを握ったまま、半開きの状態を保っていた。「あなた自身は、そもそも悪い人じゃないですよ」洲人が嬉しそうに笑みを浮かべた。その笑みが完全に広がりきらないうちに、三久のこんな一言が続いた。「ただ、すごく面倒くさい人ですけど」「……」「もう遅いから、早く帰ってください」三久はそれほど眠くはなかった。午後に何時間か仮眠を取っていたからだ。だが洲人があまりにも喋りすぎるので、聞いているだけでひどく疲れてしまうのだ。「じゃあ早く寝ろ、おやみす!」洲人は、まさか自分がこんな風に三久と二人きりで何時間も話せる日が来るとは思っていなかった。もっとも、必死に話題を探し続けていたのは終始自分の方だったが、それでももう、二人の間のわだかまりは消えて、本当に友達になれたということだろうか。三久はドア
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第395話

スマホが鳴ったのは、まさにそのタイミングだった。コールが切れそうになったところで、彼はようやく画面をスワイプして電話に出た。「社長、早坂さんの妊娠の件について、いくつか有力な手がかりが見つかりました。彼女はかつて……」「もういい」由樹は冷たく吐き出し、哲朗の言葉をピシャリと遮った。哲朗は一晩かけて覚悟を決め、ようやく手がかりを打ち明けようとしていたのだ。ようやく真実を由樹に告げるところだったのに。もし話を聞いていれば、この先、どれほど大きな騒ぎになっていたことだろう。それなのに今さら、もう調べなくていいというのか。由樹は電話を一方的に切ると、身を翻してマンション街の外へと歩き出した。車に乗り込んでから、彼はふと何かを思い出したようにスマホを取り出し、龍太郎から送られてきたメッセージを開いた。【時期から逆算して考えてみろ。早坂さんがお前と離婚してから半年後に妊娠したことになる。お前が知る限りの早坂さんという人間なら、そんなに早く別の男と知り合って、誰かに体を許すと思うか?】三久は元来、とても慎重で落ち着いた性格だった。離婚からたった半年で、他の男との子を身ごもっただと……由樹の胸の奥に刺さっていた棘が、またじくじくと疼き始め、胸の奥をじわじわと焼かれるような、苦い嫉妬に襲われた。どうしようもない無力感と、ぐちゃぐちゃに乱れた思考に、いつも冷静なはずの彼の頭の中が、今にもおかしくなりそうだった。……三久はその日の午前中、由樹の姿を一度も見かけなかった。理紗がどこからか聞きつけてきた話では、由樹は千歳を連れて深川観光に出かけたらしい。「社長も社長ですよね、深川までわざわざ来て、何してるんでしょうね。結婚式も間近なんですから、普通なら忙しい時期でしょうに」三久は椅子に深く寄りかかり、静かに目を閉じて休んでいた。その言葉を聞くと、瞼がぴくりと震え、うっすらと目を開けた。「酒井家と村上家は親戚も多いから、結婚式の支度をする人手には困らないんでしょ」理紗は「そうなんですね」と納得したように応じた。「社長のお母様、村上さんのことすごく気に入ってるらしいよ。自分の実の娘より可愛がってるって話だし」これは依果からこっそり聞いた話だった。依果は昔かなり反抗的で、千歳のことで母親とは何度も激しくぶつ
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第396話

三久は周囲を一通り見回し、他に誰もいないことを確認した。自分を指差しながら、ひどく困惑した顔で智和を見た。その「母さん」というのは、まさか自分に向けられた言葉なのだろうか?「お坊っちゃま、人違いです!」使用人が急ぎ足で智和のそばに駆け寄り、慌てて小声で注意した。智和は目をこすると、ポケットから眼鏡を取り出してかけた。「遠目だと、本当に母さんに似てるな」彼は小声でそう呟くと、気まずそうに三久の方へ二歩近づいた。「あなたは誰ですか?ここで何を?」とんだ勘違いで、三久の方が智和以上に気まずくなった。「お誕生日おめでとうございます。パーティーに出席するために伺いましたが、連れがまだ来ていないんです」智和は「ああ」と頷きながら、彼女の顔を見つめ直した。やはり目元や眉のあたりが、近くで見てもどこか母親の面影がある。彼は小さくかぶりを振ってから言った。「こんなところで待ってなくていいですよ。お客様なんですから、まずは中へどうぞ」使用人たちが贈り物の仕分けを素早く終えた。智和は彼らを先に行かせ、自分は宴会場へ入って客の輪に加わった。三久も彼について中へ入った。中へ入ると、智和はすぐに取り巻きの若い連中に囲まれ、ふざけ合いながらある方向へと歩いていった。三久はスマホを確認したが、由樹からは相変わらず何の連絡もなかった。どこか待てる場所を探そうとしたが、振り返った瞬間、人だかりの中に、千歳と一緒に立っている由樹の姿が目に入った。由樹は仕立てのいい黒いスーツに身を包み、端正で理知的な顔立ちからは、控えめな気品が滲み出ていた。彼は千歳から半歩ほど身をずらして立っていたが、千歳の方はほとんど彼の胸にすり寄るように立っていた。二人の向かいには、大きく膨らんだお腹を抱えた紫織が立っていた。紫織は片手を腰に添え、もう片方の手でお腹を撫でながら、まるで先輩として経験談を語っているかのようだった。まもなく結婚を控えた二人が、妊娠出産の話題を前にしているのだから、少しくらい照れや期待があってもよさそうなものだ。だがなぜか、千歳の表情はどこかこわばっていた。由樹はいつもと変わらない表情に、どこか読み取れない感情を滲ませながら、千歳を見下ろしていた。三久はそっと視線を逸らした。それで由樹が電話に出なか
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第397話

紫織は使用人からその話を聞いて、すぐに警戒心を露わにした。――幸い智和は宴会場に入ってから忙しく立ち回っていて、三久に構う暇はなかった。そうでなければ、あの女好きの性格からして、間違いなく三久について回っていただろう。「頼んでおいた人、ちゃんと手配してくれた?」千歳が声を落として尋ねた。「彼女の件を片付けてくれたら、私と由樹さんはすぐ西戸に戻って、結婚式の準備に入るから」紫織は口元を隠して笑った。「もう待ちきれないって顔してるじゃない。安心して、全部手配済みだから」そう言うと、紫織はソファから立ち上がり、千歳に意味ありげにウィンクした。「見ててよ、面白いことになるから」千歳は笑った。「じゃあ、早く行って」……久留美は着飾った貴婦人たちに囲まれていた。三久は少し離れたところで、声をかけるタイミングを見計らっていた。「早坂本部長」背後から不意に声がかかった。三久が振り返ると、赤ワインのグラスを片手にした武司の姿があった。「高崎社長」三久は軽く会釈した。「あなたは……」武司は彼女の視線を辿り、ちょうど遠くにいる久留美の姿を捉えた。三久はありのままに答えた。「奥様にご挨拶をしようと思いまして」武司は愛想笑いを浮かべながらも、わずかに眉をひそめていた。「妻はあなたのことをかなり気に入っているようだ。最近もよくあなたに連絡しているようだが、迷惑をかけたなら申し訳ない。ただ、できればあまり妻と親しくしないでもらえると助かる」三久は一瞬戸惑った。前回の食事の席で、久留美が電話を受けて慌ただしく席を立ったことを思い出した。「誤解しないでほしい、私が言いたいのは……」武司は言い終えてから、その言い方が適切ではなかったと気づき、また取り繕おうとした。「別に変な意味ではありません。ただ、妻は専業主婦で、時間を持て余していることが多いんだ。あなたの仕事の邪魔になるようなことはさせたくない」三久は武司の表情から、彼が自分を久留美にこれ以上近づけたくないと思っていることをはっきりと見て取った。その理由は、はっきりとは分からなかったが。「高崎社長のおっしゃる通りです。仕事が忙しく、何度もお誘いをお断りしてしまいました。私からも、お詫びをお伝えいただければ幸いです」武司の眉間が緩み、安堵したように
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第398話

「私なんか、そういう立派なご子息たちにはまったく釣り合わないと思います」三久は紫織が仕掛けた悪意のある罠をかわそうとした。だが、紫織はすでに用意周到に次の罠を準備していたのだ。「あなたが来るって聞いて、もうあなたを気に入った人がいるのよ。私に仲を取り持ってほしいって頼まれてるの。身分や地位は全然気にしないって方だから、ちょうどいいわ。紹介させてね」そう言うと、紫織はくるりと振り返り、どこかへ向けて優雅に手を上げた。人だかりの中から、濃いグレーのスーツを着た、四十歳前後の男性が静かに歩み出てきた。古風な黒縁眼鏡をかけ、髪にはワックスをたっぷりと塗り込み、不自然なまでにてらてらと光っている。顎の青々とした無精髭の下、ややざらついた肌が、年齢相応の老けを感じさせていた。「石田さん、これがお話ししていた、あなたに興味を持ってる早坂さんですよ」紫織は小声で正仁に告げた。「家柄は少し見劣りするけど、仕事の能力はあるし、あなたより何歳も年下よ。しっかり掴んでね」石田正仁(いしだ まさひと)の熱を帯びた視線は、ほとんど三久の姿に貼り付いたままだった。「分かった」彼は紫織に気のない返事をした。紫織は彼を連れて、三久のもとへと向かった。「こちらは石田テックの石田社長よ」もし単なる遊び人のご子息であれば、三久は適当な口実をつけてさっさと立ち去ればよかった。だが相手はよりによって、同じビジネスの世界にいる人間だった。三久は礼儀として手を差し出した。「石田社長、初めまして。百栄支社の早坂と申します」「早坂さん、初めまして」正仁は彼女の白く柔らかな手を握り、顔にぱっと嬉しそうな笑みを浮かべた。「じゃあ、二人ともゆっくりお話ししてね。私は他の方の相手をしてくるから」紫織は正仁の肩を軽く叩き、彼に一つ意味ありげな目配せをすると立ち去った。正仁はその目配せにまったく気づかず、ずっと三久だけを熱っぽく見つめていた。彼は独身の実業家で、若い頃は仕事に打ち込みすぎて、恋愛の機会をすっかり逃してきたのだ。今や四十歳近くになり、相手選びにはかなり慎重だった。自分の金目当てで寄ってくる女には、一切目もくれなかった。だが金に興味のない女には、また別の細かい欠点を見つけ出してしまう。これまでずっとふさわしい相手が
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第399話

正仁はスマホを取り出し、ラインを開いて友だち追加用のQRコードを出し、三久に読み取ってもらった。三久は読み込みながら言った。「石田社長、久留美さんがどう伝えたのか分かりませんが、きっと誤解があるはずです、私……」言い終わらないうちに、突然周囲に慌ただしい足音が響き、悲鳴が上がった。「危ないっ!」振り返る間もなく、体にひやりとした感触が走った。強い酒の匂いが辺りに広がり、赤ワインが三久にかかり、衣服を無惨に濡らしていく。三久は慌てて立ち上がり、スカートの裾を軽く払ったが、生地はワインをすぐに吸い込んでしまう。濡れた服が体にぴったりと張り付き、彼女のふっくらとしたお腹の膨らみの輪郭をはっきりと浮かび上がらせた。正仁はハンカチを取り出し、まさに彼女に渡して拭かせようとした。だが、その膨らんだお腹の輪郭を目にした瞬間、彼はピタリと動きを止めた。「あ、あなた……妊娠してるんですか?」ホテルのスタッフも慌ててティッシュを持ってやってきた。三久はティッシュを受け取り、服についたワインを拭きながら、正仁に静かに頷いた。「申し訳ございません」「あなた……」正仁はひどく苛立った様子だった。「あんまりじゃないですか!」彼は冷たく鼻を鳴らすと、乱暴に袖を払って身を翻し、足早に立ち去っていった。同時に、ワインをこぼしたスタッフは、こっそりとその場を離れ、人混みの中を紫織の方へと消えていった。三久はそのスタッフの後ろ姿をじっと目で追った。紫織が一体何を企んでいるのか、見当もつかなかった。ティッシュを置き、三久は化粧室へと向かう。すでに六月とはいえ、海沿いの街の夜はどこかひんやりとしていた。酒で濡れた服が肌に冷たく張り付き、三久は体がどんどん冷えていくのを感じた。彼女はスカートの裾を持ち上げ、ハンドドライヤーの下にかざした。だが、その効果はあまりなかった。三久の肩に突然、温もりが触れた。黒いスーツの上着が彼女の肩にかけられ、周囲のひんやりとした空気を少しだけ和らげてくれた。服にはまだ男の体温が残っていて、三久にわずかな心地よい暖かさをもたらした。「社長」三久はスカートの裾を下ろし、乱れた身なりを整えた。由樹はスカートの濡れた跡に一瞥をくれ、瞳に鋭さをにじませた。「帰れ」その
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第400話

ホテルの前で、由樹は千歳の手を乱暴に振り払った。千歳は不意を突かれてよろめきながら後退し、痛む手首をさすりながら、不安げな目つきで彼を見つめた。「ゆ、由樹さん、どうしたの?」「お前にはわかるだろう?」由樹の瞳は夜風よりも冷たく、暗く沈んでいた。彼はじっと千歳を見据えていた。千歳の手が徐々に下がっていく。スカートの裾を強く握りしめ、必死に動揺を押し隠そうとした。「紫織とは、しばらく会えていなかったから深川に遊びに来ただけよ。それでもいけないの?検診のことは……戻ったらちゃんとやるから」由樹の薄い唇が動いた。「言ってみろ、今度は三久に何をしようとしてる」千歳の表情に、図星を突かれた気まずさと強い動揺がよぎった。だがすぐに心を落ち着かせた。「この件は私には関係ないわ。早坂さんがどういうわけか自分で紫織の機嫌を損ねたから、紫織が意地悪したくなっただけよ」とっくに用意していた言い訳だったが、由樹の前ではまるで通用しなかった。「そうか」彼はそれ以上追及もせず、淡々とこう告げた。「じゃあ、お前が紫織を宥めておけ」千歳は思わず顔を上げた。「私に、三久を助けろっていうの?」由樹の眉尻がわずかに上がった。「由樹さん、私、そんなに寛大じゃないわ。紫織が早坂さんに意地悪をしても、私自身が手を貸さないだけで精一杯なのに、助けるなんて無理よ!だってあの人はあなたの元妻でしょ。元妻のことはもちろん、その新しい相手にだって、男なら張り合いたくなるものでしょ……」千歳は正直な本音を語っているつもりだった。だが、その言葉が、由樹の胸の内に波紋を広げた。――元妻の新しい相手にまで、男なら張り合いたくなるものなのか。彼の瞳が一段と深く沈み、眉間がぎゅっと寄せられた。「なら、高崎紫織には俺が自分で話をつける」彼は千歳の言葉を冷たく遮った。千歳の喉が締め付けられ、思わず口にした。「待って、紫織は海外にいた時、私をずいぶん助けてくれた人なのよ……」由樹はそれ以上聞かず、身を翻して立ち去った。三久は帰りのタクシーの中で、突然左のまぶたが二度、ぴくりと痙攣した。まぶたを押さえると、心臓が不意に大きく脈打った。ラインの通知が鳴った。正仁が友だち追加を承認し、すぐにメッセージを送ってきた。【あなた、あ
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