Tous les chapitres de : Chapitre 481 - Chapitre 490

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第481話

結局千歳自身が車から降りて、幸子をなだめた。「お母さん、由樹さんと結婚すること以上に大事なことなんてないの。もう少しの辛抱よ、あと一歩なんだから!」幸子は娘が不憫でならなかった。「由樹は一体何を考えてるの?あなたが今日自分一人で車を降りて中に入っていったら、あの奥様方に陰で何を言われるか分かったもんじゃないわ!これは由樹が心変わりして、あなたに諦めさせようとしてるんじゃないの?」「大丈夫。おばさんがついてる限り、由樹さんが心変わりしようとしたって、そうはさせないから!」千歳は、由樹がすべてを知ってしまったのではないかと疑っていた。だが、それでも由樹と結婚する、という歩みを止めるつもりはなかった。幸いにも摩美はずっと自分の味方だった。摩美さえ味方につけておけば、必ずあの家に嫁ぐことができるはずだ。「体が手に入っても、心が手に入らなくて、もし将来離婚することになったらどうするの?」幸子はここ数日、ますます不安を募らせていた。千歳を嫁がせたいという気持ちに嘘はない。だがそれは名声のためではなく、ただ千歳に幸せな暮らしを送ってほしいという純粋な思いからだった。由樹が最近まったく姿を見せない態度を見て、彼女は千歳を後押ししたことを後悔し始めていた。「おばさんが間に入ってくれてるんだから、由樹さんと私を離婚させたりしないわよ」千歳は幸子の腕を引いた。衆目の中で、すでに何人もが異変に気づき始めている。これ以上話し続ければ、余計にみっともない事態になるだけだ。幸子はしかたなく、彼女を支えながら披露宴会場へと入っていった。披露宴会場は人でいっぱいで、記者たちに幾重にも取り囲まれていた。この後の出来事はすべてメディアに撮影され、ネットに流れることになる。千歳は夢にも思っていなかった。最終的にこの式をぶち壊したのが由樹ではなく、摩美だったとは。千歳は控え室でウェディングドレスを脱ぎながら、大粒の涙をこぼして泣き崩れた。幸子は追いかけて摩美の車を止め、説明を求めた。摩美は車の窓を開け一枚の紙を投げつけると、そのまま走り去っていった。幸子はその紙を拾い上げる。それは検査報告書だった。彼女は目を大きく見開き、走り去る摩美の車を恨めしげに睨みつけると、慌てて階段を駆け上がり千歳のもとへ向かった。その紙が千歳の手に
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第482話

一晩明けると、結婚式に関するニュースはすっかり消えていた。まるで最初から何もなかったかのように、跡形もなく消え去っていた。経済系のモーニングニュースでは、グループの支社と深川政界との新たな提携プロジェクトの話題でもちきりだった。三久はいくつも経済チャンネルを切り替えてみたが、由樹に関するニュースは二度と見当たらなかった。彼女は眉をひそめ、リモコンを置く。「そろそろ小林が来る。その時、新しいスマホを持ってきてもらう」由樹はベッドの足元のソファに座り、パソコンを膝に乗せて仕事を片付けていた。眉間にはわずかに皺が寄っている。昨日のニュースは表向き沈静化したものの、事が大きすぎたためにすでに広く知られてしまっていて、厄介な問題を残していた。彼は腕時計に目をやる。「遅くとも十分後には来る」「私のスマホ、返してくれてもいいんじゃない?」三久には、由樹がどうして自分のスマホを取り戻してこないのか理解できなかった。由樹は言う。「今みたいな時期に、余計なことに気を取られないためだ」今、梨々香以外にも三久を探している人間は多すぎる。龍太郎のところに置いてきたあのスマホは、着信が続いて、今頃はバッテリーも切れているはずだ。それを手元に返せば、安心して産後の療養に専念できるわけがない。「何に気を取られるって言うの?手元にあった方が安心なだけよ」スマホがないと三久はどこか手持ち無沙汰な気分になった。由樹はパソコンを閉じ、組んでいた足を下ろす。「安心って何のために?神崎に連絡するためか?お前が大変な目に遭っていた時、あいつはどこにもいなかったじゃないか。今探したところで、あいつがお前のために動くと本当に思ってるのか?」由樹は彼女の面倒を見てくれている。だが物の言い方はまったく優しくない。容赦のない、棘のある言い草だった。三久と洲人の間に由樹の思うようなことなど何もなかったが、こんな言い方を聞くとそれでもカチンとくるものがあった。三久が何か言い返す前に、病室のドアが開いた。「社長?」哲朗の声が響く。「入れ」由樹は薄い唇からその一言だけを吐き出した。哲朗はドアを開けて入ってきた。手にはスマホが二台と、一束の書類を抱えている。「早坂さん」彼は一度足を止め、まず三久に挨拶をした。小さなベビーベッ
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第483話

由樹の眉間に力が入り、不機嫌な声が響いた。「暇ならその書類でも整理してろ」哲朗は背筋が凍る思いで無言のまま由樹のそばへ戻った。「どの書類を整理しましょうか」由樹はきちんと整えられた書類の束を投げ渡した。すでに整理された書類をこれ以上どう整理すればいいのか、具体的な指示もなく、哲朗はただ手持ち無沙汰にそわそわするしかなかった。「西戸のほうはどうなってる」由樹がまた口を開いた。「ニュースは抑え込みました。ただ村上幸子さんが門前で丸一日待ち続けていて、摩美さんに会いたいと」そこまで言って、哲朗は少し腑に落ちない様子を見せた。「どうして社長のところではなく、摩美さんに会いたいなんて言うんでしょうね」由樹が唇を動かし何かを言おうとしたところで、ベビーベッドの中の小さな子が小さくぐずるような声を上げた。三久は首を伸ばしてそちらを見ようとしたが、赤ん坊が足をばたつかせ手を振っているのが見えるだけでどうしても手が届かなかった。「書類は龍太郎の病室に置いてこい。俺が後で処理する」そう言うと由樹は立ち上がってベビーベッドのほうへ歩み寄り、ヘルパーの見よう見まねで、そっとベビーベッドを揺らしてみせる。「腹が減ってるんじゃないか」三久は首を横に振った。「わからない。ヘルパーさんもすぐ戻ってくるはずだから、この子を私に渡して、あなたは仕事に戻って」「今はまだ無理に抱き上げないほうがいいって、ヘルパーさんが言ってた」由樹は腰を屈めて大きな手で赤ん坊のお尻を支えたが、どうしても首の座っていない頭をうまく支えられない。ビジネスの世界で自由自在に立ち回り、一瞬で億単位のプロジェクトを決断する男が、たった三キロの小さな存在を前に、すっかり持て余している様子だった。哲朗はそれを一目見て、書類を抱えたまま黙って病室を後にした。ドアが完全に閉まった時、彼はもう一度中を覗きたくなる衝動を抑えられなかった。元夫であり元上司。今では友人と呼ぶにも微妙な関係。三久が今、まな板の上の鯉のような立場で、流れに身を任せるしかないことは分かっている。だが由樹が何を考えているのか、哲朗にはまったく見当がつかなかった。どの立場から見ても由樹自らこの子供の世話をし、三久を守る理由などないはずだ。とはいえ、高崎家の件は話せば長くなる
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第484話

「そうか」龍太郎は画面をもう二度タップした。彼がスマホを置くより先に、病室のドアが押し開けられた。すると、由樹がやってきた。彼はまっすぐ龍太郎に近づき、スマホを取り上げると、未読のメッセージや着信を一つひとつ確認しながら、ソファへ向かって歩いていく。大半のメッセージは酒井家からのものだった。結婚式が始まる直前、祖父母からは「腹を括ったのなら余計な真似はするな」とメッセージが届いていた。摩美からはすぐに戻ってこいという命令も入っている。結婚式が中止になった後は酒井家の人間からの連絡はぱたりと止まり、代わりに会社の各株主からの詰問のメッセージが並んでいた。由樹はそれらに一通り目を通し、いくつかだけに返信すると残りはすべて放置してスマホを伏せ、また書類に向かった。「社長、早坂さんのほうは……」哲朗が尋ねる。「ヘルパーが戻った」哲朗は「そうですか」とだけ言って、それ以上は口を挟まなかった。「そうだ」由樹が顔を上げ、龍太郎を見た。「お前、俺にメッセージを送ったって言ってたな?」龍太郎は二度瞬きする。「さっき気づいたんだが、電波が悪くて送信エラーになってたみたいだ」そう言うと彼はベッドサイドのスマホを指した。「これは早坂さんのスマホだ。さっき充電しといた。ずっと鳴りっぱなしでうるさかったからマナーモードにしといた。ついでに持って行ってやったらどうだ」彼がそう言っている間にスマホの画面がまた点灯した。着信が入っている。龍太郎はそれを一瞥し由樹を見た。「神崎からだ。電源を入れてから、心拍より速いんじゃないかってくらいの勢いで電話がかかってきてる。相当焦ってるみたいだが……出るか?」由樹は書類を置き、歩いて行ってそのスマホを取り上げると、そのまま戻って作業を続けた。「放っておけ」出る必要はない。洲人と話すことなど何もない。「これは三久さんのスマホだろう。放っておくかどうかは、お前が決めることか?お前、少し我を通しすぎてないか?」龍太郎は何気ない口調で続ける。「三久さんはお前とは何の関係もないだろ。助けるのはいいが、彼女を縛る権利はお前にはない」その言葉は耳に刺さるほど鋭かった。助ける権利はあっても彼女のことに口を挟み、代わりに決断する権利はない。それはひどく他人行儀
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第485話

「痛いだろうが、血栓を防いで、回復を促すためだ。後々余計な苦労をしないためにも、少し我慢しろ」由樹は、彼女が痛みに怯えているのを察していた。痛みに顔面から血の気が引いていくのを見て、由樹は思わず口調を和らげた。それはなだめるようでもあり、言い聞かせるようでもあった。「うん」三久は腕を持ち上げた。由樹はその手首を掴み、もう片方の手を彼女の背中に添えて、そっと力を添えて体を起こさせた。病室には消毒液の匂いが濃く漂い、ほのかなミルクの匂いが混じっている。そこに、今は由樹の体からかすかに漂う沈香の香りが加わっていた。入り混じった匂いが、三久の鼻腔をくすぐった。三久には自分の心臓の音が聞こえた。ドクドクと、力強く。少しでも気を抜いた瞬間、傷口が引きつり、痛みのあまり額に脂汗がにじんだ。由樹は彼女の肩を抱き、自分の胸に預けさせた。「焦る必要はない。ゆっくり動けば、それだけ苦しみも少なくて済む」産後ヘルパーは、小さな赤ん坊を抱きながら、三久の気を紛らわせるように声をかけた。「早坂さん、赤ちゃんも生まれてもう二日ですし、そろそろお名前を考えてみませんか?」三久は由樹の胸に頭を預けていた。彼の胸板は厚く引き締まっていた。その姿は、傍から見ればひどく親密で艶めかしいものだった。だが彼女はそれを気にする余裕もなく、痛みに体を丸めていた。「……まだ決めてないんです」その声は由樹の胸の中でくぐもって響いた。産後ヘルパーが善意で話題を逸らそうとしてくれているのはわかっていたが、顔を上げて愛想よく応じる余裕など、今の三久にはなかった。由樹は彼女の肩を支えながら乱れた後れ毛をかき上げ、指の腹で額の細かい汗を拭った。「確かにそろそろ考えたほうがいいな」三久は何も言わなかった。痛みで名前を考える余裕などまったくない。産後ヘルパーは由樹を見て言う。「父親が考えて差し上げたらどうですか。それを早坂さんに選んでもらえば、きっといい響きの名前になりますよ」三久は力を振り絞り両足をようやく床につけて、一気に立ち上がろうと、身を切るような痛みに耐える覚悟を決めた。産後ヘルパーの言葉が終わった時、三久はちょうど中腰になっていた。立つことも座り直すこともできない。そのまま数秒姿勢を保つと、息を止めてなんとか立ち上がろう
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第486話

だがこれは紛れもない現実だった。それから二日間、由樹は病院にいながら仕事を続けた。廊下に立つ数十人のスーツ姿のボディーガードたちが、何かが起きていることを三久に告げていた。しかもかなり大きな何かが。ただ、由樹がそれをすべて遮っている。水面下には大きな危機が潜んでいる。この時期の彼女にこれほどの重圧を与えようとしている相手が誰なのか、三久には思い当たらなかった。今もまだその正体が掴めずにいる。何度か外で騒がしい物音がして誰かが強引に病室に入ろうとし、ボディーガードたちに阻まれたようだった。それでも由樹は一度も様子を見に行こうとしなかった。すでに事情を把握しているようだった。三久がドアのほうをじっと見つめているのに気づくと、彼は一言だけ言った。「安心しろ、梨々香じゃない」三久はいい加減我慢の限界に達し、何度も一体何が起きているのか尋ねようとした。だが由樹は険しい表情を崩さず、何か抱えている様子だった。もしかしたら、摩美が結婚式を中止したことのせいかもしれない。由樹はほとんどの時間を仕事に充て時折三久にベッドから起きて歩くよう促すだけで、それ以外の会話はほとんどなかった。三久はもう尋ねるのをやめ、辛抱強く待つことにした。だが、激しい気性の梨々香が、おとなしく待っていられるはずもなかった。三久と会えなくなってから十日も経つと、彼女は半狂乱になりかけていた。矛先を龍太郎に向け、数日おきにメッセージを送り、怪我の具合を気遣うそぶりを見せていた。【一体何の用だ。用があるなら直接来てくれ】龍太郎は、無理に話題を作って連絡してくる彼女の相手をするのは、かなりの苦痛だった。【秦先生、これは心配してるだけよ】【口先だけの心配はいらない】梨々香は何かを思いついたように目を輝かせると、バッグを掴んで家を飛び出し、まっすぐ病院へ向かった。一時間もしないうちに、彼女は龍太郎の病室に姿を現した。花束に、高級なフルーツバスケット、さらには有名ホテルの料理まで持参していた。「秦先生、蒼汰も診てもらってるし、私たち西戸出身同士なんだから、入院してるあなたを見舞うのは当然でしょ」梨々香が両手いっぱいに荷物を抱えて入ってきた時、龍太郎は思わず驚いた。彼女は自分でもやりすぎたと気づき、そう言い訳した。龍太郎
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第487話

梨々香の家には小さな子供がいる。龍太郎の世話をするなら、病院に泊まり込まなければならない。だが三久のことを放っておけるはずもない。「わかった、あなたの世話をしてもいい。でも約束して。絶対にみくちゃんに会わせてくれるって!」龍太郎は意外そうな表情を浮かべ、心の底から思いがけない喜びがこみ上げてきた。「安心しろ、必ず会わせてやる」梨々香は得意げに胸を張った。「取引成立。ただ、少し時間をちょうだい。家に帰って息子の預け先を手配しなきゃ」蒼汰を青木に任せておけば、100%安心できる。だが、何日家を空けることになるかわからないと思うと。ドアのところまで来て、病室の外へ踏み出しかけた足を彼女は引っ込めた。「で、いつまで面倒見ればいいの?」子供の話を聞いて、龍太郎の心は少し沈んだ。彼はしばし考え込んでから言う。「最低三日、長くても五日」「わかった!」梨々香は覚悟を決めて頷いた。「早坂さんとの仲、本当に良いんだな」龍太郎は、子供と離れたくないのにそうせざるを得ない彼女の、切なさと未練が入り混じったような表情を見て取った。梨々香はドアを閉めながら外へ歩いていく。その声がドアの隙間から聞こえてきた。「当たり前でしょ!」その日の午後、梨々香は小さなキャリーケースを転がして、龍太郎の病室にやって来た。怪我もかなり回復していた龍太郎に、突然家族同然に付き添う女性が現れたことで、看護師たちの間ではひそかに噂が広まった。その話は由樹の耳にまで届いた。三久の病室の前に立つボディーガードたちが噂しているのを、由樹が耳にしたのだった。数週間の療養を経て、三久はもう普通に起きて歩けるようになっていた。彼女は日差しの中に立ち、日光浴をする小さな赤ん坊を見つめていた。薄いピンクのコットンのパジャマを着た彼女は、以前より一段と柔らかな雰囲気を纏っている。産後ヘルパーの強い勧めで、白いもこもこの帽子まで被せられていた。由樹がドアを開けて入ってきた時、彼女は慌てて我に返り、人差し指を唇に当てて静かにするよう合図する。赤ん坊はちょうど眠りについたところで、ドアの音に一瞬体をびくりと震わせた。由樹は歩調を緩め、そっとドアを閉める。「龍太郎の病室に女が来て、住み込みで世話をしてるらしい。誰だかわかるか?」彼は
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第488話

「梨々香がそっちにいたら、お前の怪我がさらに悪化しそうで心配だ。一度会わせて、さっさと帰らせたほうがいい」今日で梨々香が龍太郎の世話をして四日目になる。最長五日という期限まで残りあと一日だった。梨々香の堪忍袋の緒も、今にも切れそうになっている。「なら明日の朝にしよう。俺が連れていくから、見張りを外しておいてくれ」龍太郎は由樹の嫌味を受け流した。由樹は快諾する。「わかった。ただし彼女が出た瞬間、すぐに俺にメッセージを送れ。万が一誰かに付け入られたら、お前の責任だからな」そう言うと彼は三久の病室に戻り、この知らせを伝えた。出張以外で、三久と梨々香がこれほど長く会わないでいたことはなく、これほど長く連絡が取れなかったこともない。三久は明日の面会を心待ちにしていた。梨々香に子供を見せて、ついでに名前の相談にも乗ってもらうつもりだった。病院の入口で、梨々香は買い物を抱えて戻ってきた。ここ数日、龍太郎に小間使いのようにこき使われていることに腹を立てていた。彼女の顔はひどく不機嫌そうだった。だが、突然誰かに行く手を遮られ、その顔はさらに険しさを増した。「あんた誰よ?」目の前に立つ四十代くらいの上品な女性を見て、梨々香の顔色はますます暗くなった。「梨々香さん、前に会ったことがあるわね」久留美が薄く微笑んだ。「前に産後ケア施設で、早坂さんと一緒にいたよね」梨々香は思い出したものの、思い出していないふりをした。「覚えてないわ」そう言うと、久留美を避けて通り過ぎようとする。「梨々香さん、お話ししたいことがあるの」久留美は六センチのハイヒールを鳴らしながら、急ぎ足で梨々香についてきた。「あんたのこと知らないし、話すことなんて何もないわ」梨々香は彼女と会話をする気などまったくなかった。久留美は足を止めた。「早坂さんに関わることなのよ!あの子、酒井由樹に監禁されてるわ!」梨々香の足がぴたりと止まる。彼女は振り返って久留美を見た。「適当なこと言わないでくれる?酒井が何のためにみくちゃんを監禁するっていうの?」久留美はため息をついた。「はぁ……詳しい事情は今はまだお話しできないわ。ただ、あなたから伝えてもらえないかしら。酒井由樹の目を盗んで、いつでも私に連絡してきなさいと。私はあの子を救
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第489話

柔らかく温かい感触が、龍太郎の頬に触れた。頬から耳の裏にかけて、火がついたように熱が広がっていく。彼の黒い瞳が、梨々香の黒目の際立つ瞳を見つめ返した。「……本当だ」彼は喉仏を動かしながら、その一言を絞り出した。梨々香は狂喜し、龍太郎から手を離すとその場でくるりと一回転した。「やったぁー!ついにこの時が来た。明日、みくちゃんに会えるー!」彼女はソファにどさりと座り込み、明日三久を救出できる見込みを頭の中で計算し始めた。しばらく考えた結果、その可能性はゼロだという結論に達する。まずは一度目の面会で三久の様子を探り、話を聞く。きっと二度目の面会も必要になるはずだ。「あんたまだ完全には治ってないよね。明日みくちゃんに会った後、家に帰って息子の様子を見て、それからまた戻ってきてあと二日くらい世話をしてあげる」龍太郎は彼女の意図をすぐに見抜いた。「君がそこまで俺を気にかけてくれるとは、ありがたい話だ」梨々香は手を振った。「はいはい、同郷のよしみってやつよ、水くさいこと言わないで。じゃ、そういうことで決まりね」その夜、梨々香は興奮のあまり一睡もできなかった。翌朝八時、三久がちょうど子供に授乳を終え、すやすやと眠る小さな体を腕に抱いた時、病室のドアが開いた。ドアを開けたのは龍太郎だった。彼が体を横にずらすと、その後ろから梨々香が顔を覗かせた。三久を見るなり、梨々香は龍太郎を押しのけ、大股で駆け込んできた。「大丈夫だった?心配で死にそうだったんだから!まさか酒井の奴、こんな私の目と鼻の先にあなたを隠してたなんて!」梨々香は、三久がこの病院で手術を受けたことを知っていた。だが三久はてっきり退院して由樹の家に連れて行かれて療養しているのだと思い込んでいたのだ。ここ数日あの手この手で龍太郎から情報を引き出そうとしていたが、何も聞き出せずにいた。腕の中の三久の子供を見下ろして、梨々香は咎めるように眉をひそめた。「あんた、産んでからそんなに経ってないのに、抱っこしちゃだめでしょ。早くこっちに寄越して」彼女はバッグをソファに放り、手を服でさっと拭ってから、両手で赤ん坊を受け取った。矢継ぎ早の質問攻めに、三久は胸が締めつけられた。三久は赤ん坊を渡すと、鼻をすすってから一つずつ答えていった。「大丈
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第490話

「人の考えなんて、分かったもんじゃないよ」この子供は、三久にとって命そのものだった。梨々香はあらゆる面で準備を整え、誰にもこの子を、ひいては三久の命を脅かすような真似はさせないつもりだった。「普段、病室の外に人がいないことなんてある?」「いる。私は出たことないけど、少なくとも五、六人はいるはず」梨々香は困り顔になった。「ほら、それを監禁と言わずして何て言うのよ。あいつの魂胆はともかく、今のところあなたが閉じ込められてるのは事実でしょ」三久の視線は息子に落ちた。しばらく冷静に考えてから、彼女は言った。「梨々香、由樹はそんな人じゃないと思う。もしそうだったとしても、今は正面から敵対するわけにいかない。様子を見ながら、隙を突いて抜け出すしかないわ」「それも一理あるね」梨々香はこれ以上三久に不安を与えたくなかった。「あたし、龍太郎のところに居座っていれば、あいつがあなたに会わせてくれるし。外で情報も探ってくるから、何か分かったらすぐに連絡する。そうだ、スマホは?」三久は枕の下からスマホを取り出した。「私のは由樹のところにある」そのスマホにはSIMカードが入っていないが、ネットには繋がるので、LINEをダウンロードすることができる。梨々香は自分の番号でもう一つLINEアカウントを作り、三久のスマホでログインして連絡先を追加した。「マナーモードにしといて。何かあったらすぐメッセージ送るから」三久はLINEアプリを隠し、頷いて答えた。「うん。でも、あなたずっと病院にいなくていいから。そうちゃんにはあなたが必要でしょ。私にかかりきりにならないで」「蒼汰は青木さんに任せてるから大丈夫」梨々香は頭を下げ、小さな子供の頬をつついた。「この子、酒井にほんと似てるね。抱いてると、まるで酒井を抱いてるみたいな錯覚に陥るわ」話題が急に飛んで、三久は言葉に詰まった。梨々香は何かを思い出したのか、突然噴き出した。「ぷっ……いや、あなたの方が悲惨だわ。授乳の時は、酒井にお乳飲まれてる錯覚に陥るんじゃないの」「ちょっと何を!」「冗談ってば」梨々香は三久の耳が一瞬赤くなったのを見て、また真面目な顔に戻った。「ただ、あなたが緊張しすぎて、産後の療養がスパイ活動みたいになっちゃうのが心配なだけ。まだ事の
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