Tous les chapitres de : Chapitre 491 - Chapitre 500

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第491話

三久はベッドの柵を掴み、上体を起こした。その拍子に帽子が滑り落ち、長い髪がふわりと肩へ散る。隠しきれないその狼狽ぶりに、由樹はわずかに目を細めた。「あんた……」梨々香は赤子を抱いたまま思わず立ち上がり、少し後ずさった。背中が壁にぶつかり、ようやく足が止まった。「ノックもなしに入ってくるとか、どういう神経してるの?もしみくちゃんが授乳中だったらどうするつもりよ。非常識にもほどがあるわ」由樹はドアを閉め、両手をポケットに突っ込んだまま部屋へと足を踏み入れた。「彼女の体は、隅から隅まで知っているけど?」梨々香は眉をひそめて反論する。「それとこれとは話が別でしょ!前は夫婦だったけど、今はもう離婚してお互い自由の身なんだから。あんたは……あ、そういえばまだ結婚してないんだっけ。村上との結婚式、キャンセルしたんでしょ?まさかそれ、みくちゃんのせいにするの?」暗に、二人の結婚式が中止された裏事情を探ろうとしているのだ。由樹の視線が、ふと三久へ向く。その冷ややかな一瞥だけで、三久は背筋がぞくりと粟立つのを感じた。ここ数日のやり取りを通じて、二人の間には言葉にできない奇妙な空気が漂い始めていた。互いにその空気を感じ取りながらも、二人とも敢えて触れずにやり過ごしてきたのだ。そのかりそめの平穏を、梨々香のひと言が容赦なく打ち砕いてしまった。「ま、そんな都合のいい偶然、あるわけないでしょ。みくちゃんが出産する当日に合わせて西戸から駆けつけて、しかも結婚式までキャンセルして……」梨々香は勝手な想像を膨らませ、思いつくまま口にする。話せば話すほど、我ながら筋が通っているような気がしてきた。「酒井、まさかあんた、うちのみくちゃんにまだ惚れてるんじゃないでしょうね?何よ、結婚してた頃はろくに構いもしなかったくせに、離婚した今さら片思いでもしてるつもり?」「梨々香」三久はベッドから降りようとした。子供を抱き取ることを口実に、会話を打ち切るつもりだった。「動かないで、寝てなさいって。まだ産後でしょ」梨々香は三久を制し、赤子を抱いたまま体を少し横へずらす。「とりあえず、みくちゃんはあたしが連れて帰るから」梨々香はなおも由樹と睨み合った。由樹は身を沈めるようにしてソファへ腰を下ろす。「却下だ」「
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第492話

「じゃあね、ゆい。今度会ったら、あたしのこともママって呼んでねー!」梨々香は意味ありげに言い添えた。三久は梨々香の背を押して病室の外へと促した。「もう無理して来なくていいから。そうちゃんをちゃんと見ててあげて」梨々香は声を潜めて言った。「無理よ。どんな邪魔が入っても、這ってでも会いに来るんだから。連絡待ってなさい」廊下の突き当たりでは、龍太郎が待っていた。周りのボディーガードたちは彫像のように直立していたが、耳だけはしっかり働かせているに違いない。込み入った話などできる空気ではなく、梨々香はそのまま去るしかなかった。ただ、三久があれほど命がけの出産を迎えた時、自分がそばにいてやれなかったことを思うと胸が痛む。それなのに三久は、由樹の監視下でびくびくしながら子供と過ごすしかない。そう考えるだけで、腹の底から怒りが込み上げてくる。龍太郎の横まで来ると、梨々香は思わず憎々しげに吐き捨てた。「あんた、頭おかしいんじゃないの。酒井みたいな人間とつるむなんて!」龍太郎は言葉もなく、とんだとばっちりを食らいながら、梨々香が去っていくのをただ見送るしかなかった。病室に戻った三久は、ドアを閉めて由樹のもとへ歩み寄った。「私に抱かせて」小さな体は由樹の腕の中ですやすやと眠っていた。由樹は薄い布で赤子の目元を覆い、日当たりのいい場所に腰掛けて日光浴をさせている。結人には多少黄疸が出ており、龍太郎からは毎日最低三十分は日に当てるよう言われていた。「俺が抱いて日に当てておく。これでちょうどいい」由樹は三久にベッドへ戻るよう促す。三久はベッドに腰掛け、傍らに並んで座る父子の姿を眺めながら、言葉にできない複雑な思いを抱えていた。血のつながりがそうさせるのか、由樹はこの子を疎んじる様子が微塵もない。彼の目から見れば、本来なんの関係もないはずの子供だというのに。梨々香とこっそり連絡を取り合うようになってから、三久はかえって気が休まらなくなった。マナーモードにしたスマホには、絶えずメッセージが届く。梨々香は由樹への愚痴をこぼすか、結人の写真を送れとせがむかのどちらかだった。三久は、由樹が目を離した隙を狙っては返信を打つ。しかし、梨々香からのメッセージを見る限り、今の状況はまだ何もはっきりしていな
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第493話

「その前に教えて。いったい何があったの?」三久は唇を引き結んだ。由樹は静かに告げる。「今の段階では、はっきりした答えは出せない。ただ、これだけは言える。この件は高崎家と関係があるし、お前の子供とも関係がある」高崎家。自分の子供。そういえば、紫織も子供を産んでいる。久留美の様子だって、どこかおかしかった。そうした断片を繋ぎ合わせても、絡まった糸のようで、どうにも筋道が見えてこない。ただ、三久が唯一確信できたのは、この一件は由樹とは無関係だということだった。「教えてくれてありがとう。それに、ずっとそばにいてくれたことも。でも、あなたの家に住むわけにはいかないわ」由樹は指を組み、目を細めた。瞳の色がすっと暗く沈む。しばらくの沈黙の後、彼は背筋を伸ばし、掠れた声で言った。「……好きにしろ」病室の温度が一気に数度下がったような気がした。由樹は立ち上がり、病室を出ていく。三久はその背中が病室のドアの向こうへ消えるのを見送った。固く閉ざされたドアが、彼女の視界を冷たく遮断する。三久は視線を戻し、梨々香へメッセージを送った。ようやく届いた退院の知らせに、梨々香は興奮気味にスタンプを大量に送りつけてきた。【退院の日、サプライズ用意しておくからね!】三久の脳裏に、冷たい顔で去っていった由樹の姿が浮かぶ。彼女は画面を消し、ベビーベッドの中の結人にちらりと目をやった。ずっと手のかからなかった息子は、退院まで残り五日となったところで、急に手のかかる子になった。産後ヘルパーが熱湯で手を火傷し、辞めざるを得なくなったのだ。すぐに代わりの産後ヘルパーは見つからず、三久が自分で世話をするしかなくなった。すると結人は夜通し眠らなくなり、抱いて部屋の中を歩き回っていないと泣き止まなくなった。由樹は昼間に仕事を片付け、夜は結人の世話を引き受けた。由樹は眠気が限界に達すると、結人を抱いたままソファでうたた寝することもあった。三久は何度か交代を申し出たが、そのたびに断られた。まるでこの子が、自分ではなく由樹の実子であるかのように。最後の五日間は、目まぐるしく過ぎていった。三久の検査結果は良好で、軽い貧血を除けば傷の治りも良く、体調もすっかり回復していた。顔には健康的な血色が戻っていたが、由樹はそ
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第494話

三久が笑っていたのは、ようやく退院できるからだった。だが、洲人の姿を目にした途端、その笑顔は強張り、すっと薄れて、足が止まった。梨々香は彼女に向かっておどけた顔をしながら、洲人と並んで歩いてきた。「やっと退院ね。色々とお世話になったわね」梨々香はまっすぐ由樹の前まで来ると、クーファンを受け取りながら、引き攣った笑みを浮かべてそう言った。洲人は花束を三久に差し出した。「お疲れさま」三久は花を受け取ったものの、礼の言葉が喉の奥で詰まってしまう。洲人からそう労われることに、どうにも言葉にできない違和感があったからだ。「酒井社長、結婚式をキャンセルしたせいで、西戸中が大騒ぎになってるんだぞ。まさかこんなところに逃げてきてたなんて、誰も思わないよね」洲人は由樹より二段低い場所に立ち、顎を上げて悪戯っぽく笑いかける。「知ってる?今、村上家と酒井家はもう完全にこじれてるぞ。村上の母親が酒井家の前に一週間以上居座ってるのに、お前の母親はずっと居留守でさ。とうとう向こうの母親がキレて、『息子が心変わりして浮気したのに、母親まで庇ってる』って、あちこちで言いふらしてるよ」三久は無意識に由樹へ目を向けた。結婚式が破談になった以上、村上家がこのまま黙っているはずがない。この一ヶ月、酒井家も相当に慌ただしい状況だったに違いない。「社長、この間はお世話になりました。西戸に戻って、様子を見たほうがいいんじゃないですか」由樹は三久の手にある花へ一瞬視線を落とし、数秒黙り込んでから、そのまま駐車場の方へ踵を返した。「え、もう行っちゃうの?」梨々香はここまで来るのにしっかり戦闘態勢を整えてきたというのに。三久を連れ帰るにあたり、一悶着あるだろうと覚悟していたのだ。洲人が言った。「行かないでどうする。西戸の状況は、君たちが思ってるよりずっと深刻だぞ」「じゃあ早く教えてよ、一体どうなってるの?というかあんたもよ。酒井の結婚式に出るために西戸に戻ったのに、結婚式をすっぽかした本人がもうこっちに来てるのに、なんであんたはまだあそこにいたのよ?」梨々香が文句をこぼす。「歩きながら話す」洲人は車のところまで戻り、トランクを開けて三久と結人の荷物を積み込むと、二人を乗せて車を走らせた。三久は後部座席に座り、隣に結人の
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第495話

「なんだって!?」梨々香が甲高い声を上げる。「みくちゃんの生い立ちって?まさか本当の親が見つかったとか?」洲人は首を横に振った。「いや、それは違う。ただ、君らがいた施設の施設長が昔西戸に来た時、一人の子供を連れていたことが分かったんだ。俺の調べじゃ、その子供が三久だったんだ」梨々香は振り返って三久を見る。「浅野さんは確か、西戸の神社の裏山であなたを拾ったって言ってなかったっけ?」三久はクーファンの持ち手を握る手が白くなり、手の甲には青筋が浮き出ていた。呼吸を整え、梨々香の視線を受け止めながら言う。「今更、そんなのどうでもいいわ」「どうでもよくないだろ!」洲人がバックミラー越しに彼女を見た。「浅野は深川出身だ。つまり君も、深川生まれの可能性が高いってことだ」梨々香は洲人に向き直る。「じゃあ、もっと調べてよ」彼女の前のめりな様子が、余計に三久の沈黙を際立たせる。洲人がしびれを切らして言った。「で、三久。結局どうするんだ?調べるのか、調べないのか?」「調べるに決まってるでしょ!」梨々香が三久を振り返って言う。「調べた上で認めるかどうか決めればいいのよ。もしかしたら本当の両親、この何年もずっとあなたを探し続けてるかもしれないじゃない」三久の眉間の皺は、一向に解けなかった。「もし、私たちが想像してるようなことじゃなかったら?」梨々香は言った。「その時はその時で、今まで通りいないものとして生きればいいだけよ。最悪のケースを考えてみなさいよ。あなたを捨てたのが本当の両親だったとしても、あなたがこの何年も親を探そうとしなかったのは、まさにそういう現実を恐れてたからでしょ。最悪でもそれで済むし、今の生活に戻ればいいだけの話じゃない!でももし逆に、ずっと探し続けてたとしたら?二十数年もの間、あなたのいない毎日を、涙に暮れて過ごしていたとしたら……」以前の三久は子供を持ったことがなかったから、我が子を失う親の気持ちなど想像もつかなかった。だが今は、結人がいる。もし当時、自分が本当に迷子になった子供だったとしたら、両親はどれほど心を痛めたことだろうか。そう考えるうちに、彼女の頑なな心が少しずつ解けていくのが分かった。「俺のほうでも調べておくけど、もっと手っ取り早い方法
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第496話

由樹はわずかに眉を上げたが、とても信じているようには見えなかった。「あの、早坂さんの件は、今後どうされますか?このままにして西戸に戻られますか?」哲朗が探りを入れるように尋ねる。もし今ここで由樹が三久を放って西戸に戻れば、摩美も哲朗に調べさせるのをやめ、由樹本人を直接問い詰めるだろう。そうなれば、この厄介事から自分は逃れられる。「彼女を放って、お前の面倒でも見ろっていうのか?」由樹が問い返す。「高崎恒雄に相応の礼を届けろと言っておいたが、届けたか?」あの日、西戸から慌てて飛び出した由樹はスマホすら持っていなかったが、たまたま空港で恒雄と鉢合わせた。恒雄がその場で手下を手配してくれたおかげで、由樹は人手を得て病院まで駆けつけることができたのだ。「お届けしましたが、向こうは受け取られませんでした。お時間がある時に、お願いしたいことがあるとおっしゃっていました」「なら一度会おう。そろそろ明るみに出すべき話もある」由樹は指先を軽く顎に当て、その表情からは内心を読み取れなかった。その日の昼、由樹は恒雄とホテルのラウンジで顔を合わせた。「酒井社長。お会いする機会は多くありませんが、それなりに腹を割って話せる仲だと思っていますので、単刀直入に申し上げます」恒雄は、この面会を心待ちにしていたようだった。「今になってはっきりしたのですが、俺の娘は生まれた当時に誰かに連れ去られたのです。亡くなったわけではありません。連れ去ったのは、この人物です」彼はポケットから一枚の写真を取り出し、由樹の前に置いた。「俺の子供がどこへ連れて行かれたのか、そして今どこにいるのかも、ほぼ確信を得ています。ただ一つ気がかりなことがあります。その、早坂三久さんですが……」由樹はソファに腰掛けたまま、その写真にちらりと目をやった。二十数年前の古い写真ではあるが、写っている女性は若かった。だが由樹は一目で、それが三久の育った児童養護施設の施設長だと見抜いた。「彼女が何者か。それこそが、あなたがまだ解き明かせていない謎のはずだ」恒雄の顔がさっと青ざめた。まだ確証こそ掴めていなかったが、彼はすでに大体の見当をつけていた。もし自分の推測どおりなら、武司一家はあまりにも悪辣だ。「教えてくださって感謝します。酒井社長がこ
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第497話

「誰が手を出すと言った」由樹の胸の内に苛立ちが渦巻き、その表情が一段と険しさを増す。哲朗を睨みつける瞳には、有無を言わさぬ鋭い威圧の光が宿っていた。哲朗は言葉を失った。――車の中であんなことを言っていたくせに、結局手を出す気満々ってことじゃないのか?図星を突かれ、今の自分にはもう関わる資格がないと自覚しているからこその苛立ちだろうか。「……行くぞ」由樹は立ち上がり、上着を肩に引っ掛けて歩き出した。哲朗はついていくしかない。とはいえ、西戸へ戻らずに済むならそれはそれで好都合だった。こちらのほうが仕事も少なくて済むのだから。……洲人は三久のために、市の中心部に三百平米はある、高層階の広々とした部屋を借りていた。公私混同も甚だしく、ちゃっかり梨々香まで同居させている。部屋には六つもの寝室があり、両端に分かれて配置され、中央にリビングとキッチン、ダイニングが設けられたゆとりのある造りだった。これだけ距離があれば、子供二人の泣き声が干渉し合うこともないだろう。「ここ、いいだろ?見つけるのにけっこう苦労したんだぞ」洲人は荷物を持って入ってくるなり、両手を広げてドヤ顔をする。「あんまり感謝しすぎるなよ」三久はそのままリビングへ進んで腰を下ろすと、結人をベビーキャリーから抱き上げ、移動式のベビーベッドへ寝かせた。梨々香はすでに入居しており、蒼汰はリビングのプレイマットに座り込み、おしゃぶりをくわえながら、濡れたような真っ黒い瞳で身を乗り出して結人を見つめている。キッチンで昼食の準備をしていた青木が、物音を聞きつけて飛び出してきた。「三久さん、ようやく帰ってきたんですね。早く顔見せてください……」三久が挨拶をする間もなく、青木は彼女を通り過ぎてベビーベッドのほうへまっすぐ向かっていく。「あらまあ、この子、目鼻立ちがくっきりしてて、大きくなったら絶対男前になるわね」梨々香がパタパタとスリッパの音をさせて入ってきて、プレイマットに座り込む。「青木さん、うちの蒼汰を初めて見た時も同じこと言ってたじゃない。もうちょっとボキャブラリーに変化つけてよ、ワンパターンすぎ」青木はちらりと彼女を見た。「あの時はお世辞で言ったんですよ。今のは本気で褒めてるんです」「どういう意味よ?うちの蒼汰はかっこよ
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第498話

「君らは呼ばなくていい、俺一人で呼ぶから」洲人には彼なりの考えがあった。ゆい坊。自分で呼んでいても正直古いとは思っている。しょっちゅう呼ぶつもりもない。「古い人間」である酒井の前で、ここぞという時に呼んで嫌がらせしてやるためのものだ。あるいは、酒井に腹を立てさせられた時にでも、ささやかな仕返しとして呼んでやればいい。二人は互いに軽口を叩き合い、すっかり満足したようだった。洲人は同じマンションのすぐ下の階に住んでおり、昼食後には満足げに自室へ戻っていった。梨々香がふと何かを思い出したように言う。「浅野さんにメッセージ送ってからだいぶ経つのに、全然返事が来ないのよね」三久の退院祝いと称して、食事に誘っていたのだ。つい数日前まではあれほど三久を気にかけていたのに、急に音信不通になっている。「私、本当に調べたほうがいいと思う?」三久の心は揺れ動いていたが、まだ踏ん切りがつかずにいた。梨々香は彼女を一瞥した。「例えばよ、もし酒井がゆいを奪おうとしたら、取り返しに行く?」「もちろん」三久は即座に答えた。「ほら。あなただって、実の父親である酒井のところにいるほうが、ゆいは経済的に恵まれた環境で暮らせるって分かってるはずなのに、それでも自分の子供を手放せないでしょ」梨々香は理路整然と続ける。「じゃあ本当のご両親はどうよ?あなたを失って、自分を責めて後悔して、ちゃんとご飯を食べられてるか、継母や継父に虐められてないか、そんなことばかり考えてるはずよ。あなたを取り戻したいって気持ちは、あなたがゆいを取り返したいって気持ちに、絶対負けてないはずだから!」三久の胸の奥が、大きく震えた。心はもうずっと前から揺れ動いていたが、梨々香のこの言葉で一気に片方へ傾き、三久の中で答えが決まった。「ほらね、みくちゃんがこんなに優しいんだから、ご家族だってきっと悪い人たちじゃないはずよ。子供を非情に捨てるような真似、するはずないもの」梨々香は、三久がこれほど良い子である以上、きっと幸せになれるはずだと固く信じていた。三久は笑みを浮かべながら言った。「梨々香だって同じでしょ。あんなに長く家族を探してるのに、まだ手がかりないの?」「……あたし?」梨々香は笑顔を作りながらも、瞳の奥に隠しきれない落胆を
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第499話

「スマホ」由樹はポケットから三久のスマホを取り出した。梨々香の全身から漂っていた刺々しい拒絶のオーラが、一瞬で霧散する。顔を引きつらせながら手を伸ばした。「ま……まあ、ありがとうございます。わざわざ足を運んでいただいて」由樹は静かに目を細め、伸びてきたその手をわずかに避けた。梨々香の手は宙で固まる。「ありがとう」三久が前に出て、由樹の手からスマホを受け取った。「中に入って、お茶でも飲んで?」梨々香は露骨に嫌な顔をして、両腕を組んでドアの前に立ちはだかった。中に入れる気がないのは誰の目にも明らかだ。「いや」由樹に中へ入るつもりはないようだった。彼は無意識にリビングのほうへ視線を向ける。ベビーベッドから、小さな手が少しだけ突き出ているのが見えた。その視線が一瞬止まり、それから由樹は踵を返して去っていった。玄関の正面はすぐエレベーターだった。白いシャツに黒いスラックスというありふれた組み合わせですら、彼が着るとどこか特別なオーラを放って見える。エレベーターに乗り込み、瞼を軽く伏せると、輪郭のはっきりした端正な顔立ちが、静かに閉まっていく扉の向こうへと消えていった。梨々香は三久を見る。「あいつ、スマホ届けるためだけに来たの?」「他に何があるの」三久は玄関口にもたれかかりながらドアを閉め、部屋の中へと戻っていく。結人は手がかからず、新しい環境になっても泣きもぐずりもしなかった。三久は小さな体の横に腰を下ろすと、スマホの電源を入れた。無数の不在着信とメッセージが一気に流れ込んでくる。画面は二分ほどフリーズした後、ようやく動き出した。三久は一件ずつ確認していく。不在着信の大半は梨々香と洲人からのものだった。温子、久留美、摩美からも、それぞれ何度か電話が入っていた。メッセージの多くは、なぜ電話に出ないのか、メッセージに返信がないのかという内容だった。その中で久留美だけが、退院したらすぐに連絡するようにと書き残していた。三久はそのメッセージをしばらく見つめてから、画面を消して脇に置く。「かけ直さないの?」梨々香が寄ってきて、少し考えてから言った。「思うんだけど、あなたの生い立ちって、高崎家と関係あったりしないかな」「考えても仕方ないわ。無駄に振り回さ
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第500話

「そういえば、あたしのフォロワーさんが会いたいって言ってきたの」梨々香がスマホを持って駆け寄ってきた。「ほら、前に話した、投げ銭ランキング一位の人よ」三久は画面を消し、顔を上げて梨々香を見た。「連絡先、交換してないって言ったよね?」梨々香は頭を掻いた。「だってさ、ある日突然、DMが来てね。あたしが娘さんにすごく似てるから投げ銭してたんだって。せめて繋がりだけでも欲しいって言われたら、断れないでしょ」情に訴えられると、つい心が揺らいでしまう。梨々香は典型的な、口は悪いが押しに弱いタイプだった。「それで、会う約束したの?」「ううん、さすがにしてない。なんか変な感じがして。一番の親友が産後で、家で世話してるからって伝えたら、向こうが……嫌じゃなければ家まで行ってもいいって言ってきたの」梨々香には、相手が少々図々しく感じられた。三久は少し笑って言った。「ふふ。会いたいなら、外で会う約束をすればいいわ。でも十分気をつけてね」「やっぱ行かない」梨々香は首を横に振った。「万が一悪い人だったら、あたしが売り飛ばされたらどうするの。蒼汰にはママが必要なんだから」彼女はきっぱりと相手からの面会の申し出を断った。二人は自宅にこもって子供の世話に専念し、育児のプロである青木のサポートのもと、穏やかな日々を過ごしていた。……「社長、高崎家の人間が何度か早坂さんのマンションに来ましたが、すべてこちらの警備で追い返しています」哲朗がスマホを手に部屋へ入ってきた。「高崎恒雄さんからたった今電話がありまして、警備の人員を撤収してほしいとのことです」由樹は執務机の前に腰を下ろした。ここのところ百栄グループの深川支社の業務に追われており、文則の後押しもあって、政界との連携プロジェクトも軌道に乗り始めたところだった。厄介な事案が次々と持ち上がり、自ら対処せねばならないことが多い。「高崎恒雄に伝えろ。もっと具体的な情報を掴めない限り、誰にも三久に手を出させるつもりはない、と」哲朗は「あの」と言葉を挟んだ。「彼がおっしゃるには、探しているのは早坂さんではないとのことです」由樹は書類にサインする手を止め、目だけを上げて彼を見た。「もちろん分かっている。だが、そう言わなければ、あの男が俺の思い通
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