Tous les chapitres de : Chapitre 501 - Chapitre 510

532

第501話

本当に怖いのは、敵が増えることじゃない。味方だと思っていた人間が、敵に回ることだ。哲朗は由樹と長年の付き合いがあり、何を最も嫌い、何を最も大切にしているかをよく理解していた。哲朗の本来の狙いは、この件を洲人に押し付けるよう由樹を誘導することだった。由樹がこのまま深川の人間と揉め事を起こせば、酒井家から責任を問われることになる。それを避けたかったのだ。由樹が聞き入れないのではと焦るあまり、つい失言してしまった。由樹の表情が一瞬で強張り、引き締まった頬が暗く沈む。「やれと言ったらやれ。四の五の言うなら西戸へ帰れ!」哲朗は首をすくめ、それ以上は何も言わずに、由樹の指示通り動くことにした。だが洲人のほうの調査も、温子の失踪という一点で行き詰まっていた。部下がすぐさま報告してきた。「うちだけでなく、酒井家の人間もあの女の行方を調べているようです」「酒井が?」洲人は驚きを隠せなかった。酒井は三久の子供が自分の子だとは知らないはずだ。それなのに、三久の件にまだ首を突っ込んでいるとは……これは、なかなか見応えのある芝居ではないか。洲人は口の端を持ち上げようとしたが、どうしてもうまく笑みが作れなかった。彼はどすんとソファに腰を落とし、眉間に無意識のうちに皺を寄せた。「酒井に何の関係があるんだ?酒井を見張らせて、奴らの狙いが分かり次第、横取りしろ」この恩を由樹に先に売らせるわけにはいかない。金を払って浅野をカジノから連れ出そうとしたが、相手の言い値は四億円だった。年増で、しかもギャンブル狂いのろくでなし。四百円の価値もないような女に四億円とは、洲人は思わずむせそうになった。カジノの責任者は足元を見て値をつり上げてきた。「嫌なら、酒井家に持ちかけるだけだが」「明らかに酒井を巻き込もうって魂胆だろうが。俺は馬鹿じゃないから払わないし、酒井はなおのこと払わないぞ!あいつがどれだけ抜け目ないか分かってるだろ」洲人は値切りにかかった。「その気があるなら、四百万出してやる。さらに四十万上乗せする」四億を一気に四百四十万まで値切った。「神崎さん、からかってるんですか」カジノの責任者は顔つきを変えた。「こっちも人を放すのにリスクを負ってるんですよ。高崎武司さんに捕まえろと言われた人間を渡
Read More

第502話

「何を言ってるのか分からないわ。みくちゃんはただの孤児よ、出生の秘密なんてあるわけないでしょ!?彼女に連絡取ってもらえない?あの子もりっちゃんも、私が育てたようなものよ。助け出すためのお金くらい出してくれるはずだから!」温子は必死に車のドアを引っ張って閉め、また外に放り出されてあの陽の当たらない場所に戻されるのを恐れていた。「あの二人は、あんたを助け出すために四億も払わないだろうな」洲人は容赦なく言い放った。「ここのオーナーは四億を要求してる。あいつらに助ける気があっても、そんな金は用意できないだろうよ!」温子は息を呑み、顔色が死人のように青白くなった。四億。それはつまり、最初から誰も救い出せないようにという値段だった。三久も梨々香も、そんな大金は持っていないはずだ。「神崎さん、どうか最後まで助けてください。みくちゃんとりっちゃんの生い立ちを知っているのは私だけ。四億払ってでも知る価値はあるはずよ……」さっきまで三久には出生の秘密なんてないと言っていたくせに、変わり身の早いこと。洲人は嫌悪感を露わにして言った。「まず話せ」「わ、私が言えるのは、あの二人が二人とも高崎家の血を引いてるってことだけ。詳しいことは、自分の身の安全が確保できてから話すわ!」温子は時折、カジノの入り口のほうを見ては、誰かに連れ戻されるのではないかと怯えていた。洲人はここでようやく核心に気づいた。「今、なんて言った?あの二人?三久と梨々香?」「そう、二人とも高崎家の人間なの。まず私を連れて行ってくれれば、話すから!」それを聞いた洲人はアクセルを強く踏み込み、温子を連れてその場を後にした。彼は温子を、とあるマンションの一室に連れて行った。温子が腹が減ったと言えば食事を届けさせた。体が汚れて気持ち悪いから風呂に入りたいと言えば、着替えも用意させた。ところが、腹が満たされ喉が潤うと、温子は途端に図々しい態度を取り始めた。「神崎さん、助けていただいて本当に感謝しているわ。どんな形でもお礼はさせてもらうからね」洲人はソファに座り、彼女が食べたり飲んだりするのを我慢強く待っていた。だが、いきなりそんなことを言われて、思わず呆れ笑いが漏れた。「はぁ?何言ってんだ。三久と梨々香の生い立ちの話はどうした?」
Read More

第503話

もちろん、それも現実的ではない。梨々香自身も分かっていた。由樹に目を向けたのは、あくまで人数が少なすぎて盛り上がりに欠けると思ったからだ。できることならフォロワー全員を呼び集めて、何万人規模のお祝いにでもしたいくらいだった。もちろん金もないし、そもそも自分の子供でもないのだから、そんな真似はできない。「じゃあ龍太郎を呼ぶのはいいわよね?」「彼の怪我、もう治ったの?」三久が尋ねる。梨々香は頷いた。「だいぶよくなったみたい。体の内側の怪我はもう少し安静が必要だけど、外傷はもう治ったって」三久は今もなお、龍太郎がどうして怪我をしたのか知らないままだった。帝王切開のあの日の様子を後から思い返しても、半ば意識の朦朧とした状態で見た手術室の混乱には、強い違和感と夢の中のような曖昧さがつきまとっていた。もしかすると、それが由樹の言っていた「危険」の正体だったのかもしれない。産後の静養中はずっと聞けずにいて、静養が終わって聞こうと思った時には、ちょうどいい機会がなかった。「分かった。じゃあ秦先生を呼んでいいわ」ちょうどいい機会だから、その時に事情を聞いてみようと思った。梨々香は頷き、すぐに龍太郎へメッセージを送った。結人のお披露目会は自宅で開くことになり、青木がテーブルいっぱいの美味しい料理を作り、梨々香が飾りつけを担当することになった。梨々香は二、三日前から準備に取りかかり、洲人を「パシリ」として引っ張り出して買い出しと荷物運びをさせていた。洲人はここ数日、温子に足元を見られている件で頭を悩ませていたのだ。「どうしたの。お母さんにまた結婚しろ結婚しろってうるさく言われた?」梨々香は一目で彼の顔色の悪さに気づいた。洲人は言った。「おい、言い方!普通に聞けよ」「何よ、言いたいことくらい分かるでしょ」梨々香はハンドルを切りながら尋ねた。「どうしたの。あたしに手伝えることある?」二人は三久を介して仲良くなったとはいえ、どちらも三久の親しい友人として、すっかり打ち解けていた。洲人は横目でちらりと見て尋ねた。「なあ、君らの施設長、何か弱みでもないか?」「……誰?」梨々香は一瞬反応が遅れた。「浅野さんのこと?」「そう」梨々香は振り向いて彼を見た。「見つけたの?」
Read More

第504話

夜の帳が下り、街にネオンが灯り始めた頃。夜七時、梨々香と洲人が家に戻ってきた。三久はソファに座り、腕の中には眠りに落ちた結人がいた。青木は蒼汰を連れて子供部屋で遊んでおり、家の中は静まり返っていた。ドアの開閉音が響き、帰ってきた二人と三久の視線がぶつかった。三久は一目で、梨々香の目元がわずかに赤くなっているのに気づいた。一方の洲人は、後ろめたそうな視線をどこにも定められずにいる。「ずっと何してたの?」三久はその場に立ったまま、動かずに言った。「もう、聞かないで。あんな装飾用の変わった形の風船、ずっと見つからなくて。ある業者が取り寄せてくれるって言ったのに、いつまで経っても届かなくて、業者と揉めちゃったのよ」梨々香は変わった形のヘリウム風船を手に持って歩み寄り、三久の手に押し付けた。「見て、可愛いでしょ?」三久は風船を一瞥してから、梨々香に目を戻した。「本当は何しに行ったの」「本当に買い物してたのよ。ゆいのために、ちゃんとしたお祝いにしてあげたくて、こだわりすぎちゃったの。それに今日、全部揃えられたから時間がかかったのよ」梨々香は鼻をすすりながら三久の腕にしがみついた。「信じられないなら、彼に聞いて」洲人はそのまま二人の横を通り過ぎてソファに座り、結人の様子でも見るつもりだった。いきなり名指しされて、一瞬体が強張る。梨々香から向けられた視線を受け、彼は「あ、ああ」と頷いた。「そうだよ、まったく面倒くさかったよ。あの短気さは、誰だって引くレベルで、俺が止めてなかったら本気で警察沙汰になるところだったんだから。さっき帰る途中でも説教したんだ。もう母親なんだから、自分のことは考えなくても子供のことを考えろって。もし本当に警察沙汰になったら、子供はどうするつもりだって」「そんなに揉めたの?」三久は眉をひそめ、梨々香を見た。「よく『揉めただけ』なんて簡単に言えたわね」「揉めた」の一言で片づけられているが、実際は警察沙汰寸前まで発展していたということだ。きっとかなり大ごとになったのだろう。そうでなければこんなに時間がかかるはずがない。「神崎の言う通りよ。これからはそんなに感情的になっちゃだめ。お披露目会だけじゃなくて、これから一歳の誕生日とか、いろいろお祝い事があるんだから
Read More

第505話

「機会を見計らってからだ。むやみに警戒させるな」由樹は胸の内に燻る怒りを抑え込んだ。「次にまたこんな失態を繰り返すようなら、西戸に帰れ」哲朗は冷や汗をだらだらと流した。「か、かしこまりました」「出ていけ」由樹は薄い唇からその一言だけを吐き出すと、頭を下げて仕事に戻った。哲朗が退室すると、部屋は静けさに包まれた。由樹は書類を見つめたまま、しばらく何の反応も示さなかった。瞬きすらしていなかった。やがてスマホが鳴った。龍太郎からの電話だった。「明日、結人のお披露目会があるから、行く時に俺も拾っていってくれ」由樹は目を細めた。「お披露目会?」龍太郎は一瞬言い淀んでから言った。「まさか、早坂さんから招待が来てないなんてことはないよな」あくまでも大きなパーティーではなく、梨々香が明言していたのは親しい友人だけで食事をするというものだった。龍太郎は無意識のうちに、由樹もその「親しい友人」の一人に含まれるだろうと思い込んでいたのだ。なにしろ梨々香の話によれば、由樹は三久の世話を一ヶ月間し、結人の面倒も見ていたというのだから。「まあ……」龍太郎は取り繕うように言った。「確かに元妻の子供のお披露目会に出るのは、ふさわしくないかもしれない。でも、あの子にお祝いを包んでやりたいなら、元上司って立場で行くのも自然な流れなんじゃないか」その言い訳は、まったく理にかなっていなかった。元上司どころか、現職の上司でさえ、部下の子供のお披露目会に顔を出す理由などない。しかも招待されてもいないのだから、なおさらだ。「彼女は今どこに住んでる」由樹は眉を上げ、声には不機嫌さが滲んでいた。「後でスマホに送る」龍太郎は一瞬言葉を切って尋ねた。「お前、行く……」「か」まで言い終わらないうちに、電話は切られてしまった。龍太郎は住所を由樹に送り、もう一度尋ねた。【おい、行くのかよ】由樹からの返事はなかった。梨々香と洲人が丸一日かけて家を飾りつけ、ようやくお披露目会当日を迎えた。朝早くから、洲人は結人のために買い集めた山ほどのプレゼントを抱えて、上の階へやってきた。食べ物から衣類、日用品まで、それぞれ一番良いものを選んで一通り買い揃えていた。贅沢というより、とにかく量が多すぎて
Read More

第506話

「はあ!?」梨々香は怒りで息巻いた。「なんだよ、わざとあたしに喧嘩売ってるでしょ?」「そんなこと言ってないし、やってもいない。君こそ勝手に突っかかってきてるんだろ」洲人は三久の隣まで移動すると、ふいに彼女の肩へ軽く触れながら小声で言った。「でも、さっき言ったことの中には、本気で言ったこともある」本気で言ったこともある?さっきあんなにいろいろ言っていたのに、どれが本気なのだろう。三久が考えをまとめる間もなく、梨々香はぬいぐるみを掴んで洲人に投げつけた。「くっ!この梨々香様と張り合う気なんて――」洲人はそれをまともに食らって慌てふためき、部屋のあちこちを逃げ回る羽目になった。三久は二人の間に割って入った。「もういいから。子供たちが怖がっちゃうでしょ」結人は眠っていたが、蒼汰はプレイマットの上で小さな顔を上げたまま二人を見つめ、怯えて口をひくひくと震わせ、今にも泣き出しそうになっていた。梨々香が振り返り、ようやく蒼汰が怯えていることに気づく。「もう知らない、ねえみくちゃん」彼女は身をかがめて蒼汰を抱き上げると、また三久の傍らに戻ってきた。「あたしたち二人はずっと世界で一番の親友。あたしたちの子供たちも、将来絶対に一番の親友にならなきゃだめ。何があってもね!」「そうね」三久は無意識にそう答えた。だが梨々香は不満そうだった。「『そうね』ってなによ。『もちろん』でしょ。私たち一緒に育ってきたし、子供たちだって年がほとんど離れてないんだから。何があっても、誰が相手でも、邪魔させないんだから!」三久はてっきり、梨々香が洲人への当てつけとして言っているのだと思っていた。無意識にした相槌はいくらか適当な調子を帯びていたが、それがかえって梨々香の強い不満を呼んでしまったらしい。「もちろんよ。何があっても、私たちはずっと一番の親友。あの子たちも、ずっと仲のいい幼馴染でいてほしいわ」梨々香は重々しく頷き、三久を一瞬見つめた。その場の空気が一瞬張り詰める。「ねえ、聞いた?みくちゃんはあたしと一番仲がいいの。嫁にもらいたいなら、まずあたしの許可を取りなさいよね!」数秒の間を置いて、梨々香は顎を軽く上げ、得意げに洲人を見やった。「はいはい、君ら世界一の仲良しだよ」洲人は張り合わず、言葉を
Read More

第507話

洲人は黙り込んだ。「どうしたの?さっき結婚したいって言ったの、嘘だったの?」梨々香の穏やかな笑みには、探るような色が混じっていた。「あんたさぁ、みくちゃんのためにどこまで責任持てるの?」洲人は視線を逸らした。「……嘘じゃない」だが、その後に続くはずの言葉には答えなかった。「みくちゃんは、それだけ大事にされていい人なの。ちょっと人を見る目を間違えただけで、本人は本当にいい子なんだから。ねえ、ちゃんと向き合う気がないなら、もう近づかないで」そう言い終えると、梨々香は蒼汰を抱いてキッチンへ入り、青木の手伝いに向かった。洲人の心は複雑だった。三久が由樹と結婚していたことそのものは、別に気にならない。なにしろ三久は由樹の子供まで産んでいるのだから、今さら過去の婚姻関係を気にする必要もない。ただ、二人が結婚していたという事実は、三久の由樹への思いが片思いなどという単純なものではないことを証明していた。叶わないと分かっていながら、それでも溢れる想いを抱えたまま、飛んで火に入る夏の虫のように突き進んだのだ。三久ほど聡明な女が、由樹と結婚することが一か八かの賭けで、負ける可能性のほうがはるかに高いと分からないはずがなかった。それでも、彼女は迷いなく由樹と結婚した。感情が、彼女から理性を奪ったのだ。とその時、インターホンが鳴った。梨々香が子供を抱いてキッチンから出てきた。「龍太郎とは面識あるでしょ?あの人、酒井とは仲がいいけど、あんたはあまりギスギスさせないでよ。せっかくのお祝いを台無しにしたら、承知しないからね!」そう釘を刺して、彼女は洲人にドアを開けに行かせた。ドアの外には、差し入れを抱えた龍太郎が立っていた。その脇をすり抜けるように、手ぶらの由樹の姿もあった。「……なんであんたまで来たの?」梨々香は内心「まずい」と冷や汗をかいた。洲人がいることはさておいても、三久と由樹が同じテーブルで食事をするというだけで、胃が痛くなるような空気になるのは目に見えていた。入院中の一ヶ月間、あの二人がどう過ごしたのかは詳しく知らないが、想像するだけでこちらまで冷や冷やしてくる。「俺はまだ体調が万全じゃなくて、車の運転ができないんだ。由樹に付き添ってもらうしかなくてね」龍太郎はマンションの
Read More

第508話

由樹は肘掛けに肘をつき、体をわずかに傾けていた。その均整の取れた長身から、抑えきれない存在感がにじみ出ている。「いや。その借りは、三久自身に返させる」洲人が言葉巧みに由樹の心をちくりと刺すことはできても、真面目に考えれば、彼には三久の代わりに借りを返す資格などなかった。一瞬にして立場が悪くなったものの、彼はそれ以上言い返せなかった。「そういえば、神崎家は深川に商売でもあるのか」龍太郎が口を開き、二人が見えない火花を散らしているのを止めようとした。洲人は首を横に振った。「ない」「じゃあ、何しに深川に来てるんだ?いつ戻るつもりなんだ?」龍太郎がさらに尋ねる。洲人はふと笑みを浮かべ、子供部屋のほうへちらりと目をやった。「三久に会いに来てるんだよ。落ち着いたら帰るさ」その言葉は、これ以上ないほど意味深なものだった。三久を九洲に引き抜いて以来、腹の子まで洲人の子供だと周囲に思われているような状態だった。あとは神崎家の誰かがそれを認めるだけの状態だ。つまり、彼はこれをもって暗に由樹へ「この子は自分の子だ」と伝えているようなものだった。由樹の瞳の奥が冷たく沈み、端正な顔つきがピリッと張り詰めた。龍太郎は、何気なく尋ねた数言で、かえって場の空気が悪くなるとは思ってもみなかった。「お客様は全員お揃いですか?」青木が昼食の準備をほぼ終え、キッチンから出てきた。三久と梨々香の姿は見えず、由樹や龍太郎のことも知らない彼女は、洲人に尋ねるしかなかった。「いつ頃お食事にしましょうか」「三久が出てきてからにしよう」洲人はますます主人らしい振る舞いを見せる。青木は頷き、またキッチンへと戻っていった。そのころ、子供部屋では。ゆいは乳を飲み終えて再びうとうとし始め、半分眠りかけた状態で、三久が少しでも動くとぐずってしまう。三久はその傍らに横たわるしかなく、外から話し声が聞こえてきた。かすかに男性同士が話しているのが分かる。おそらく龍太郎が来たのだろう。しばらくしてようやくゆいを寝かしつけると、三久は身を起こし、着替えようと浴室へ入った。授乳期はどうしても母乳の匂いが服に残りやすいので、人と会う前に着替えておかないと失礼にあたる。ところが服を脱いだ途端、外から結人のぐずり泣く声
Read More

第509話

三久が焦れば焦るほど、手元はますます狂っていった。しばらくしてようやく服のホックを留め終え、彼女は振り返って結人を抱き取ろうとした。だが目に入ったのは、由樹が結人を抱いて座っている光景だった。思わず息を呑むほど、強く胸を打たれる。普段は情け容赦のないこの男が、白いシャツを着て、節ばった大きな手で結人の小さな体をとても優しく支えている。厳しさと優しさが入り混じったその姿には鮮やかなギャップがあり、三久はふと、この傲岸不遜な男にこんな一面があったのかと、目眩にも似た感覚を覚えた。「酒井のやつはどこへ行ったんだ?」扉の外で慌ただしい足音がした。声とともに洲人が姿を現し、由樹が子供を抱いているのを見た途端、顔つきが険しくなる。「おい、ここはお前の家じゃないんだぞ。勝手に上がり込むな。道理でタバコに誘っても行かないと思ったら、こっそりこっちへ来る口実にしてたのか?」龍太郎もついてきて戸口に立ち、まるで家族三人のように見えるその光景を目にして、表情にどこか安堵の色を滲ませた。「タバコはもうやめた」由樹は座ったまま、慌てず騒がず、短く答える。洲人は皮肉っぽく笑った。「ふーん。誰が信じるかよ。何年も吸ってたくせに、いきなり今日からやめたって?」由樹は百栄グループを引き継いでから、接待や過酷な仕事のプレッシャーの中でタバコを吸うようになった。三久は、彼がどれくらいの期間タバコを吸っていたのか、はっきりとは覚えていない。だが「やめた」という言葉を聞いて、ようやく気づいた。もうずいぶん長い間、由樹がタバコを吸う姿を見ていないことに。病院でのあの一ヶ月、日夜ずっと一緒にいたが、由樹は一本もタバコを吸わなかった。さらに前の記憶を辿ると、何度か彼女の前で、取り出したばかりのタバコをそのまましまい直していたこともあった。「みくちゃん」梨々香はリビングに誰もいなくなったのを見て、慌てて場を取りなそうとやってきた。「青木さんの準備、ほとんど終わったからご飯にしましょう」三久は頷き、また由樹へ向き直った。「私が抱っこするわ」「ああ」由樹は結人を抱いたまま立ち上がった。一ヶ月間の世話を経て、彼が子供を抱く動作や姿勢はすっかり手慣れたものになっていた。力強い腕が小さな体を優しく支えたまま三久の傍らま
Read More

第510話

梨々香が場を盛り上げようとしたものの、食卓の空気はそれでも重いままだった。食事は終始ぎこちない空気のまま終わった。食後、三久は結人のへそから少し血が滲んでいるのを口実に、龍太郎に子供部屋で見てもらうことにした。龍太郎は彼女について子供部屋へ入った。「大した問題じゃないよ。乾かしておけば大丈夫だ。肌が少し敏感なタイプみたいだから、へその治りが遅いだけだよ」龍太郎は振り向いて尋ねた。「消毒液ある?今、俺が処置しておくよ」「あります」三久はサイドテーブルから綿棒と消毒液を取って渡した。「様子を見ると、もう薬を塗ってあげたみたいだね」龍太郎は彼女をちらりと見て、呼び出した口実がすでに成立しないことを見抜いた。三久は綿棒を一本取って彼に渡した。「秦先生、手術のあった日、何があったのか教えてもらえます?誰かが手術室に押し入ってきたりしませんでしたか?」「何を覚えてる?」龍太郎は綿棒を受け取り、消毒液を含ませて結人のへそに軽く塗った。「夢だったのか現実だったのか、区別がつかないんです。誰かが押し入ってきてゆいを連れ去ろうとして、由樹が出てきて子供を取り戻したような……」直感的に、三久はそれが実際にあったことのように感じていた。だが由樹以外に、誰が自分の子供に手を出そうとするだろうか。そして由樹自身は子供を狙ったことなどないし、何も知らないはずだった。だからこそ三久は、やはりあれは荒唐無稽な夢だったのではないかとも思う。龍太郎は薬を塗り終えると綿棒を捨て、結人の小さな服を整えて紐を結んだ。「早坂さん、事情は少し複雑で、俺からどう伝えればいいか分からない。いずれ知る日が来るとは思うけど、これだけは言っておきたい。由樹は君にとって、間違いなく頼りにできる人だ」三久は薄い唇をきゅっと結んだ。「君が何を心配してるかは分かってる。由樹とのことに口を出すつもりはないけど、これだけは言わせてほしい。早坂さんのやり方はあまりに冷たすぎるし、不公平だ」龍太郎は表情も口調も落ち着いたままだった。三久の心は鉛のように重くなり、その言葉に息が詰まりそうになった。「大丈夫なのか?」洲人が入ってきて、三久の顔色があまり良くないのを見て、急いで駆け寄ってきた。「病院行ったほうがいいんじゃないか?」
Read More
Dernier
1
...
495051525354
Scanner le code pour lire sur l'application
DMCA.com Protection Status