جميع فصول : الفصل -الفصل 20

22 فصول

第11話

保乃香ちゃん?直樹は何秒か考え込み、ようやく意味を理解した。彼の記憶が呼び起こされる。結婚して2年目、自分と真奈美はお互いを深く想い合っていた。絢香の話さえ出なければ、それは幸せな日々だった。会社が農村支援のプロジェクトを計画したとき、自分は真奈美を連れて現地視察に向かった。広がる黄金色の稲穂を見て、自分は穂を編んで束にし、真奈美に贈った。のちに、真奈美はその穂をデザインの中心に据え、国際コンクールで見事特等賞を獲得した。直樹は、ようやく絢香が勘違いをしていることに気づいた。「保乃香」ではなく、「穂花」だ。まだ若く向こう見ずだった頃、たしかに直樹は絢香に、将来子供ができたら「ほのか」という名前にしようと約束したことがある。だが、同じ約束を違う女二人にするはずなんかない。二人は違う存在なのだから。「絢香、勘違いだ」直樹は静かに言い放った。「俺の妻は真奈美しかいないから」「でも、あなたは本当に彼女を愛しているの?」直樹は表情を硬くした。頭の中に、真奈美の顔が浮かぶ。自分を心配する顔、期待に満ちた瞳、失望した横顔、つらそうに堪える表情……自分の中ですでに、真奈美という存在が大きな比重を占めていることに、彼は気づいた。「当たり前だ。俺は彼女を愛している」それだけ伝えると、直樹は席を立った。絢香の横を通り過ぎようとすると、彼女が腕を掴んできた。潤んだ瞳、やつれた顔。だが絢香が放った言葉に、直樹は背筋が凍った。「でも、あの女はもうあなたを愛してなんかない。だって、私はあの女に言ったから。保乃香ちゃんって名前は、私とあなたの未来の約束の証だって!」直樹は雷に打たれたような衝撃を受けた。人生で初めて絢香に対して冷酷な感情が浮かび、しがみついてくる彼女の指を一本ずつ引き剥がす。そして、振り返ることもなく、大股で歩き去った。ここ数日、直樹は真奈美が外で羽を伸ばしていて、気が済めば戻ってくるだろうと高を括っていた。以前までは、いつもそうだったから。だが今夜、子供の名前にまつわる事実を聞き、不安が胸を駆け巡った。あれほど子供を望んでいた真奈美が、あんな「真実」を聞かされれば、どれほど傷ついたことか。以前なら泣き喚いて離婚だなんだと騒いでいたはずだが、今回は一言の問い詰めもなかったのだ。
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第12話

どのように帰宅したのか、直樹本人にもわからなかった。途中で真奈美に何度も電話をかけたが、すべて空しい機械音声が返ってくるだけだった。「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないためお掛けすることが……」あきらめきれずビデオ通話もかけてみたが、やはり繋がらなかった。ソファに力なく崩れ込み、重苦しい表情を浮かべる。直樹は幼い頃から、どんなに嬉しくても悲しくても、感情を顔に出さないよう厳しくしつけられてきた。それでも、柔らかな照明の下では、秀明にも彼の深い失意が見て取れた。秀明が溜息をつき、部屋を出ようとした時、直樹は急に彼を引き留めた。「俺は……夫として最低だったのかな?」秀明は直樹を真っ向から批判することはできず、言葉を濁す。「旦那様はお忙しいので、奥様の心に寄り添う余裕がなかっただけかと……」「そうか」直樹は自嘲気味に笑った。その夜、直樹は寝室へは戻らず、ソファに座り続け、朝を迎えた。寝室の中は以前のままで、真奈美は何も持ち出していなかった。枕元に置かれたタッセルのついたナイトランプは、直樹が贈った誕生日プレゼントだった。それは、真奈美のお気に入りで、「自分が死んだら棺桶に入れてほしい」と笑っていたものだ。真奈美の賞状も、二人の写真も、直樹がプレゼントした服もバッグも、ジュエリーも……全てが残されている。直樹は白み始めた窓の外を見つめ、今日までの、特に最近の自分の行いを反芻した。そして、自分がとんでもない過ちを犯してきたことに、ようやく気づいた。どうしようもないほど重い過ちだった。昔は絢香を一番大切にし、彼女のわがままを何でも聞いてきた。それからも、妹のように扱い、絢香を拒絶することすらなかった。しかし、妻であった真奈美に、自分は何を与えられたのだろうか?絢香が自殺未遂をしたあの日、自分は一方的に真奈美を責め立て、お前も一緒に死ねなどという冷酷な言葉を投げてしまった。真奈美がプールに落ちた時も、真奈美は絢香のせいだと主張し、証拠の録音までも用意していたのに、自分は、録音を聞こうともせずに、真奈美を「悪」だと決めつけた。絢香があんなにも詳細に穂花の名前の由来を語れるなら、他のこと怪しいのではないか?真奈美は筋を通す女だ。絢香を嫌っていたことは確かだが、
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第13話

真奈美はF国に戻り、穏やかで静かな日々を過ごしていた。家でゆっくり休養する日々。毎日朝日と共に自然に目が覚め、食事の後はフラワーガーデンで新鮮なバラを眺め、飼い猫を可愛がる生活を送った。猫はもう6歳になるが、この猫を引き取った時のことを真奈美ははっきりと覚えていた。あの時はまだ小さな毛玉みたいで、大きな鏡の後ろに隠れては、自分の鳴き声に驚いていた。その年、真奈美は父親の吉田慎吾(よしだ しんご)と一緒に帰国した。そしてあの日から、二度とここへは戻ってきていなかったのだ。そんなことを思い出し、真奈美の柔らかな表情にふと悲しみがよぎる。6年間の献身と我慢は、男の心を変えることはなく、終わりのない非難と蔑視だけを招いた。真奈美の固く結ばれた眉間を見て、母親の吉田陽子(よしだ ようこ)はため息をついた。ここ数日、真奈美は何も言わない。しかし、母親である陽子が、彼女が受けてきた苦痛を知らないはずがない。陽子は心を痛めながら言った。「真奈美、こっちに来てからずっと家にこもってばかりだし、たまには友達でも誘って外へ遊びに行ったらどう?」真奈美は我に返り、陽子が自分に気分転換をさせたいのだと理解した。「それもいいかもね。そろそろ家も退屈になってきたし」と真奈美は素直に応じた。強がっていることに気づいた陽子は、あえて触れた。「真奈美、過ぎたことはもう忘れたら?これからの人生、まだまだ長いんだからさ」陽子がそっと真奈美の眉を撫で、慈しむように言った。「あなたにはずっと幸せでいてほしいの。どんな決断であれ、お母さんは応援するよ」心を動かされた真奈美は、ついに堪えきれず目に涙を浮かべた。「お母さん、心配をかけてごめん……」真奈美は鼻をすすった。「帰国したいって言った時、反対してくれてたのに。直樹が私を好きになってくれると信じていたけど……彼は見かけだけ穏やかで、心の中は冷酷な人だった」真奈美は陽子の胸に飛び込み、声を上げて泣いた。「人を好きになるって、どうしてこんなに辛いのかな。もう二度と恋なんてしない」陽子も涙ぐんだ。大切に育ててきた娘が、たった6年で以前の天真爛漫な姿とは別人のようになって帰ってきたのだから。陽子は真奈美の頭を撫でて、真剣に言った。「真奈美、人を愛することは悪いことじゃない。でも、あれだけ綺麗な
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第14話

結局、噂を流していた女たちは懲戒免職となった。真奈美は以前と変わらず、デザインのことだけを考えて日々を過ごしていた。真奈美は大胆にも、伝統的な和風の趣と洋風のエレガントさを融合させた。春らしいドレスのデザインは、発表されると多くの衣料メーカーの注目を集めた。わずか3ヶ月で、彼女はF国のファッション業界で一躍有名になった。仕事もますます忙しくなる。描いても描き終わらないデザイン画、絶え間なく続く打ち合わせ、週に一度の現地調査など……それでも疲れることはなかった。それどころか、日々が充実していて幸せだった。ある日、残業を終えて車を走らせていた真奈美だったが、急に車が動かなくなってしまった。降りてエンジンを確かめようとしたのだが、そこが人通りのない寂しい場所で、街灯さえほとんどないことに気がついた。突然、背筋が凍るような恐怖に襲われる。脳裏には、【深夜に車が故障し、女性ドライバー姿を消す】などという、嫌な想像が浮かぶ。……心を決め、ドアを開けようと、ドアノブに手をかけたその時だった。車の窓がノックされた。コンコンという音に驚き真奈美が顔を上げると、そこには見覚えのある整った顔があった。数秒経ってから思い出したのだが、それは中学時代の同級生、鈴木浩(すずき ひろし)だった。真奈美は安堵のあまり、大きく息をつく。ドアを開けると、浩は少し驚きながらも慣れた様子で車をチェックしてくれ、家まで送ってくれることになった。それからというもの、真奈美は浩とよく「偶然」出くわすようになった。実はそのデザインスタジオの筆頭株主が浩だったのだと、後に知ることとなるのだが……農村へ出かけた先でランニング中だった浩を見かけた。冬なのに黒のタンクトップ一枚で、逞しい腕の筋肉が剥き出しになっている。取引先との食事中にも連れて行かれた真奈美は、みんなから「奥さん」などとからかわれた。浩は、「やめろよ」と厳しく嗜めていたが、口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた。図書館で気になっていた本に手を伸ばすと、本棚の隙間から浩の整った顔立ちが見えたりもした。浩は真奈美に対して、かなり積極的だった――真奈美が薔薇が好きなことを知れば、毎日異なった品種を贈ってきた。月曜はヴェンデラ、火曜はクールウォーター、水曜はアバランチェ…
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第15話

直樹は、すぐに真奈美の行方を見つけ出した。渉に翌日の航空券を手配させ、F国へ真奈美を迎えに行くことにした。その夜、何とかして直樹の心を取り戻そうとする絢香が、直樹に縋り付いてきた。しかし、直樹は終始、冷ややかな態度のまま。絢香は絶望し、泣き崩れながら問い詰めた。「直樹、私が死ななきゃ、私を許してくれないの?」直樹は書類に目を落としたまま、顔一つ上げようとはしなかった。絢香はテーブルの書類を激しく払いのけ、「直樹、何か言ってよ!」と叫ぶ。直樹は冷淡な瞳で彼女を見つめ、突き放すように言った。「絢香。いい加減にしてくれ。警備員に引きずり出させたくなかったら、さっさとここから出ていけ」絢香は泣きながら飛び出していった。翌日、空港に向かう途中で白石家から電話が入り、絢香がいなくなったという報告を受けた。彼女の芝居に、もう飽き飽きしていた直樹は、相手にするつもりなどなかった。ところが、遺書を残していったと告げられのだ。直樹の頭に、絢香の悲痛な声が蘇り、嫌な予感が背筋を走る。彼は必死に捜索して、廃ビルの中にうずくまる絢香の姿を見つけた。直樹が近づこうとしたとき、隼人が現れた。「白石。あの女がいなくなれば、お前は木村夫人になれるんじゃなかったのか?あの女は消えたっていうのに、なんでまだ木村はお前と結婚してくれてないんだろうな?」直樹はその場に凍りついた。あの拉致事件は絢香が仕組んだ自作自演だったのか。では、自分は何をした?自分は絢香を救うために真奈美を切り捨てた……真奈美を救おうと駆けずり回っていたあの時、絢香はことあるごとに自分を邪魔していたなんて。直樹の喉が張り付くように熱くなる。かつて天真爛漫で純粋だと思っていた絢香は、いつの間にこんな醜い姿に成り果ててしまったのだろう。動揺しながらも、絢香はまだ強がりを捨てなかった。「直樹は私と結婚してくれますから。私たちは、幼い頃から一緒に育ってきたんです。直樹は私のことを愛してます……」隼人は下品な笑みを浮かべる。「そうか?俺には希望もクソもないように見えるけどな」彼はぎらついた目で絢香を舐めるように見回した。「今のお前には、何も残ってないんだろ?それに、約束していた白石グループの株20%も渡せない。だったら、その代わりに、今夜は俺と寝てくれよ、
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第16話

すべてを片付けると、直樹は再びF国行きのチケットを取った。しかし、思わぬことに出国を制限されてしまった。直樹の乗った車はすでに空港に着いていた。一刻も早く真奈美に会いたかった。バックミラー越しに見る直樹の顔色は青ざめ、両手は力なく握られ、全身から凍りつくような殺気を放っていた。運転手は視線を戻す。直樹のこんな顔を見るのは初めてだった。その時、木村家の屋敷から電話がかかってきた。直樹が出ると、電話の向こうからは屋敷の古い執事の重々しい声が響いた。「直樹様、大旦那様が今すぐ帰ってこいとおっしゃっております」直樹は答える。「今、急用があるんだ。戻ったら……」相手は淡々としているが、拒絶を許さない響きで言った。「今すぐ、とおっしゃっております」執事がそれだけ言うと、電話は切れた。出国を制限できるような力を持つのは、祖父である木村武智(きむら たけち)以外にはいないだろう。屋敷へ戻ると、武道着姿の武智が護身術の稽古を行なっていた。「おじいさん。何か御用ですか?」直樹は恭しく頭を下げる。武智は最後の動作を終え、ゆっくりと立ち上がった。「なぜ白石グループへの融資を引き上げた?」直樹は事実を話す。「絢香が陣内と結託し、俺の妻を騙したので」「元妻だろ?」武智は言い返した。図星を突かれた直樹は背を伸ばす。「すぐに関係は戻ります。だから、おじいさん。俺は真奈美を探しに行かなきゃならないんです」武智は彼を真っ直ぐに見据え、命を下す。「探しにいくことは許さん。もう終わったことだ」しかし、直樹も一歩前へ出て、必死に訴える。「まだ終わってなんかいません。ただの誤解で、俺がちゃんと会って話せば済むことなんです」武智は声を荒らげた。「前はあんなに融資しようとしていたのに、今日は一転して撤回だと?仕事に関してはいい加減で、私生活でも馬鹿なことしおって。お前は、木村家の恥だ」直樹は視線を落とし、認めるしかなかった。「俺が悪いのは分かっています」武智は深いため息をついた。「会社のことには、とやかく言わん。お前にも考えがあるだろうからな。だが、私生活に関しては、人生の先輩として忠告しておいてやる。もう、いい加減にしろ。言っている意味が分かるよな?」直樹は唇をかみしめ、顔を硬くしたまま沈黙した。「二人でしょっち
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第17話

武智は数秒間、驚きに固まった。元々はただ諦めさせるつもりだっただけで、直樹が自ら罰を望むとは思いもしなかったのだ。だが一族の長として、一度口にしたことを取り消すわけにはいかない。武智が知る限り、直樹と真奈美の間にそれほど深い愛情はなかったはず。なのに、なぜ彼女のために家法に服するのだろうか?竹刀が空を切り、鈍い音を立てて肉に食い込んだ。直樹は冷や汗を流しながら額に青筋を浮かべ、奥歯を噛み締め、耐えた。打たれるたびに、心臓まで達するような灼熱の痛みが全身を駆け巡る。真っ白なシャツも血に染まっていた。99回の竹刀打ちを耐え凌いだ直樹は、もう体を支えられず、そのまま床に倒れ込んだ。周囲の者たちも、同情の視線を直樹に向ける。長い間を置いてから、彼はなんとか座りなおすと、震える声で尋ねた。「もう……帰ってもよろしいでしょうか?」武智は返事もせず、竹刀を投げ捨てると背を向けて立ち去った。古い執事が歩み寄り、不憫そうに言った。「直樹様、家法により24時間はそのまま正座を続けていなければなりません」直樹は手を上げ、こぼれ落ちそうになる涙を拭うと、背筋を伸ばそうと努めた。人影は消え、庭には彼ひとりだけが取り残された。痛みで全身の毛穴から汗が噴き出し、それが背中の傷に染みて、新たな苦痛を生む。石畳は凸凹としており、膝に全体重がかかり、麻痺するような痛みに襲われていた。夜になると気温が急激に下がり、シャツ一枚の直樹は寒さに震える。真夜中、意識が朦朧として視界がぼやける中、自分の額に触れると熱があることに気づいた。それでも直樹は耐え続けた。ふと、真奈美が高熱を出した時のことを思い出す。彼女もあの時は、こんなに辛かったのだろうか?その時、自分は真奈美に何をした?真奈美を責め、帰ってきてほしくて仮病を使っているのだと言い放ったではないか……胸が締め付けられ、終わりなき苦痛と後悔が胸に渦巻く。翌朝、直樹の目元は隈で青く、顔面は蒼白で、かつてないほど憔悴しきっていた。だが彼は気にせず、歯を食いしばり、足を引きずりながら屋敷を出た。武智は約束を守り、直樹の海外渡航制限を解除した。直樹は急いで服を着替え、そのまま飛行機に乗り込んだ。道中、直樹の脳裏には常に真奈美の楽しげな姿や笑顔が浮かんでいた。早く
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第18話

しかし、真奈美の背中は、振り返ることなく遠ざかって行った。直樹は、その場に立ち尽くした。体も痛みを感じていたが、今の苦しみに比べれば取るに足りないものだった。真奈美の隣には、もう新しい誰かがいる。当然といえば、同然だろう。二人はすでに離婚しているのだから、自分に彼女の生活をとやかく言う資格などない。だが、直樹は諦められなかった。ずっと探し求めていた人が目の前にいる。たとえ過去の過ちや真奈美へのひどい仕打ちが許されなくても、どうしても償いがしたかったのだ。直樹は大股で、真奈美の後を追った。近くまで行き、彼は声を震わせて呼びかけた。「真奈美……」すると真奈美は歩みを止め、背中を強張らせた。しばらくしてから、まるでスローモーションの映画のようにゆっくりと振り返る。人混みの中、二人は見つめ合う。その一瞬だけ世界が止まったかのように、周囲の景色が虚構のように溶けていった。騒がしい喧騒が嘘のように静まり返る。直樹には、自分の激しい鼓動と、すぐそばにある真奈美の澄んだ瞳だけが鮮明に感じられた。店員が二杯のモカを運んできた。真奈美は受け取り、笑顔で、「ありがとうございます」と言う。だが、向かいの男の顔を見た瞬間、その笑顔は霧散し、まるで初めからそんな表情はなかったかのように冷めきったものへと変わった。直樹の心に鋭い痛みが走る。「真奈美……」直樹の声は詰まった。かつてあれほど弁の立った彼が、今やろくな言葉さえ紡げない。真奈美は腕時計を一瞥して、冷ややかな口調で言った。「直樹、急いでいるの。コーヒーを飲み切るまでの時間しかないから」直樹は息を深く吸い込んだ。「どうして何も言わずに出て行ってしまったんだ?もう、帰ってきてはくれないのか?」その声に、いつもの傲慢な響きは一切ない。「帰る?」真奈美は鼻で笑った。「直樹、私たちはもう赤の他人なの。だから、私がどこへ行こうと勝手でしょ?あなたが私を問い詰める権利なんてないから。その情熱は、白石のためにでも使ったら?」真奈美は視線をそらした。かつて愛した分だけ、今は同じぐらいこの男を恨んでいる。自分は全てをこの男に捧げた。しかし、直樹は平気で踏みにじり、馬鹿にしてきたのだ。直樹はうなだれ、聞こえないほど微かな声で呟いた。「真奈美、お前がつらい思いをしたことは
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第19話

「あなたがその名前を口にしないで!」真奈美は声を荒らげた。娘を失った苦しみは、一生消えることはない。平気な顔などできるはずもなかった。「あなたに何を言われようが、どう傷つけられようが構わない。でも、あの子を殺したのは、あなたと白石。人殺しがあの子の名前を軽々しく口にしないで」感情を露わにする真奈美を見て、直樹の胸はひどく締め付けられた。「一緒に帰ろう。これからだって、子どもは作れる。それに、調べたんだ。これまでのことは全部、俺の勘違いだった。本当にごめん」直樹がこれほどまで頭を下げたことがあっただろうか。直樹本人さえ信じられなかった。「絢香がお前をプールに突き落とした件も、きちんと彼女を叱っておいたから」真奈美は鼻で笑った。「叱るって、どうせ痛くも痒くもないお説教でしょ?直樹、私はもう全部捨てた。あなたにも、あの頃の全てにも、もう何も興味がないの」真奈美は涙を拭い、「過去のことなんてどうでもいいし、あなたたちからの侮辱や指図を受けるために、あそこへ戻るつもりなんて毛頭ない。白石と好きに暮らして。子どもが何人生まれようと、私の知ったことじゃないから」と言い捨てた。「保護の『保』の保乃香じゃないんだ」直樹は慌てて釈明した。「稲穂の『穂』に『花』で穂花だよ」真奈美は顔を上げ、不信感を露わにした。直樹は自嘲気味に笑った。「お前が昔、デザインコンテストで受賞した時のこと覚えてる?あの時のモチーフが麦の穂だっただろ?だから、お前が妊娠したと知った時、娘にその名前を付けたんだ」真奈美は何も言わず、ただ虚ろな目で歩き出した。駆け寄ってきた浩は、今にも崩れそうな真奈美を強く抱きしめた。真奈美を傷つけた直樹に対し、激しい憤りを感じながら鋭い視線を投げつける。「木村、早く帰って」自分で決着を付けると真奈美から聞いていなければ、浩はすでに直樹を力尽くで追い出していただろう。何よりも大切な人をこれほど傷つけた男を、浩は許せなかった。もし浩の目線に形があるとすれば、直樹は今頃何度も突き刺されていただろう。二人の背中を見つめながら、直樹はこめかみに青筋を立てた。直樹は拳を強く握りしめる。「諦めない」その後、直樹は真奈美の実家の吉田家へ出向き、なかなか手に入らない高級食材や、宝石や美術品といったものを贈ろうとし
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第20話

直樹は、病院で3日間意識を失っていた。ここしばらく白石家のことで無理を重ね、寝ずに働いていたところに、激しい家法を受け、浩にやられたのが決定打となり、ついに力尽きて倒れたのだ。夢の中にはいつも、真奈美の姿があった。楽しそうな顔、大人びた表情、期待を寄せる瞳、失望、喜び、そして悲しみに満ちた横顔が次々と浮かんでくる。夢から覚めるたび、額からは冷や汗が流れた。浩にやり返そうとは思わなかった。すべてが真奈美の仕組んだことなら、自分が受けるべき報いだと思ったから。退院した日から、直樹は海外と国内を忙しく飛び回る生活を送るようになった。週に3日は国内で過ごし、残りの時間を海外で過ごす日々だ。あの日、別れてから、二度と真奈美に近づこうとはしなかった。遠くから彼女を見守ること。同じ空の下で呼吸しているだけで、それで十分だった。真奈美も、直樹の気配に気づかないわけではなかった。夜になると、窓の外の街灯の下に必ず背の高い影があるのだ。しかし、彼女はそれを見なかったことにして、そっとカーテンを閉める。真奈美が公園に遊びに行くと、普段は着飾っている直樹が着ぐるみを着て、正体を知られずに彼女と握手しようとしていることもあった。初冬の初雪の日。真奈美はいつもの通勤路で、見事な雪だるまを見つけた。その顔が自分にそっくりだと、誰かが笑いながら話していた。そんな、ある日のこと。真奈美は両親を連れてイベントに向かっていたが、路上で突発的な事故が起き、車が動かなくなった。それに、慎吾が驚きのあまり、発作を起こしてしまった。真奈美はパニックになり、近くの病院まで慎吾を運ぼうとしたが、細い体では抱えきれない。汗が止まらず、涙が次々と溢れてきた。大切な人を失う辛さを誰よりもわかっているからこそ、もう二度と耐えられないと思った。言いようのない不安と恐怖が彼女を飲み込み、心の中が真っ暗になる。その時、直樹が駆けつけてきて、無言のまま慎吾を背負って病院へと走った。この瞬間、真奈美はこれまでのわだかまりを忘れかけていた。病院に到着し、医師からは運ばれるのが遅ければ心臓停止や半身不随になっていたと言われ、胸を撫でおろした。真奈美は直樹に頭を下げ、真剣に感謝を伝えた。直樹の心はキュッと締め付けられた。あれからずっと会えずにいたの
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