LOGIN結婚して3年、離婚届を出すのはすでに9回にものぼる。 そのどれもが、木村直樹(きむら なおき)が自分の「初恋の人」を助けるために仕組んだ、「その場しのぎの偽装離婚」だった。 そして今日で、10回目を迎える。 木村真奈美(きむら まなみ)は役所のベンチで一人、ポツンと座っていた。スマホのアルバムを開き、過去の思い出を一枚一枚指でスクロールしていく―― 3年前の今日、直樹がプロポーズした。 写真の中で微笑む真奈美は、まるで世界で一番幸せな女のようだった。しかし、そんな彼女を見つめる直樹の優しい眼差しは――今思えば、すべて周到にリハーサルされた演技でしかなかったのだ。
View More直樹が帰国すると、武智はため息をつき、毒づいた。「本当に情けないな。俺がここまで動いてやったというのに、結局連れ戻せなかったのか?」直樹は辛そうに口元を歪め、苦々しく答える。「連れ戻せませんでした」そう言い残すと、直樹は背を向けた。武智は、直樹のあまりに孤独で力ない背中を眺め、深くため息をついた。それからというもの、直樹は仕事に没頭した。暇な時間を作らないように自分を追い込んだのだ。邸宅の寝室には、真奈美のものがすべてそのまま残されていた。彼女が着ていた服、半分になった口紅、出窓の多肉植物たちに、ベッドサイドテーブルのタッセルのついたナイトランプまで。その部屋は木村家の「聖域」となり、直樹は誰一人ともたち入ることを許さなかった。時は過ぎ、3年が経った。木村グループは国内屈指の巨大企業へと成長していた。直樹はソファに座り、テレビ画面をじっと見つめていた。映っていたのは、真奈美の独占インタビューだった。洗練されたメイクを施した彼女は、キャスターの質問に淡々と、そして自信を持って答えていた。3年で、真奈美は世界的に有名なデザイナーへと成長していた。かつて直樹に寄り添っていた時は控えめだったのに、彼のもとを離れた真奈美は、誰よりも眩しく輝く星になっていた。その時、直樹は誰もが驚くような決断を下した。何の変哲もない日、彼は会見を開き、木村グループの代表を退くと発表したのだ。そのニュースは一瞬にして経済界を駆け巡り、世間を驚かせた。直樹は肩書きをすべて捨て、世界を巡る旅に出た。ある時、オーロラを仰ぎながら、彼は空に向かって静かに呟いた。「真奈美、約束しただろう。だから、オーロラを見せに来たよ!」海の深くへ潜った時も、頭の中は真奈美でいっぱいだった。真奈美とした約束は、どれも果たした。すべて直樹一人だけだったが……その横に彼女がいることは、一度もなかった。真奈美を忘れようとして、ロッククライミング、サーフィン、スカイダイビング……死と隣り合わせのものに身を投げた。しかし、心臓が口から飛び出しそうな激しいスポーツの最中でも、ふと訪れる静寂の中でも、どうしても真奈美の姿を思い出してしまう。これは天が与えた自分への罰に違いないと、直樹は悟った。10年後、想いを抑えきれなくなった直樹は、再
浩の告白に対し、真奈美はもう一度断った。「浩さん、あなたはとても素敵な人。だから、私なんかにこれ以上無駄な時間をかけないでほしいの」浩の顔には、隠しようのない挫折と落胆が浮かんでいた。「木村がいるから?」真奈美は静かに首を振った。諦めきれない浩が続ける。「前に、君のお父さんの心臓が急変した時も、俺は出張中だった。もしあの時、俺が側にいれば……」「あの人とは、何も関係ないから」真奈美は浩の目をまっすぐに見つめ、穏やかに言った。「浩さん、私があなたを断る理由には、誰一人関係ない。ねえ、知ってる?こっちに戻ってきたばかりの頃の私は、まるで心臓の動きが止まってしまったみたいだった。毎日猫と花を世話していても、心の中はぽっかり空いたままだったの。でも、仕事を始めて画筆を握ったとき、世界には愛よりも素晴らしいものがたくさんあるって気づいたんだ」半年ほど前から、真奈美のデザインは世間から高い評価を受けてきた。今では生産ラインを増やしてでも彼女のデザインを製品化したいというアパレル企業が後を絶たないのだ。真奈美は今、ちょっとした有名デザイナーだった。「だから、分かってくれる?」真奈美は、浩を深く傷つけないように慎重に言葉を選んだ。真奈美の瞳に宿る輝きを見て、浩は諦めたように優しく笑った。「じゃあ、ずっと待ってるから。いつか愛が必要だと思ったときには、必ず俺を思い出して。俺は、いつでも君の側にいるからさ」浩は真奈美の手をそっと引き、自分の唇を寄せた。真奈美がよく利用するカフェでは、いつものように直樹が彼女を待っていた。ここしばらくの間、直樹は決して真奈美の前に姿を現さず、遠くから静かに見守り続けていたのだ。慎吾が発作を起こし、予断を許さない状況になって初めて、彼はその姿を見せることにした。直樹は今もはっきりと覚えている。あの時の真奈美の赤い目元と、こぼれ落ちた心細そうな涙を。真奈美が歩み寄り、直樹の目の前の椅子に腰を下ろした。「直樹、父を救ってくれて本当にありがとう!」直樹の胸は高鳴った。直樹が厳しい家法を受けたことを知った真奈美は、明らかに直樹を心配していた、と祖父から聞いていたのだ。「でもね、それはそれだから。父を救ってくれた恩には、とっても感謝してる。でも、私はもうあなたを愛してはいないの。だからも
直樹は、病院で3日間意識を失っていた。ここしばらく白石家のことで無理を重ね、寝ずに働いていたところに、激しい家法を受け、浩にやられたのが決定打となり、ついに力尽きて倒れたのだ。夢の中にはいつも、真奈美の姿があった。楽しそうな顔、大人びた表情、期待を寄せる瞳、失望、喜び、そして悲しみに満ちた横顔が次々と浮かんでくる。夢から覚めるたび、額からは冷や汗が流れた。浩にやり返そうとは思わなかった。すべてが真奈美の仕組んだことなら、自分が受けるべき報いだと思ったから。退院した日から、直樹は海外と国内を忙しく飛び回る生活を送るようになった。週に3日は国内で過ごし、残りの時間を海外で過ごす日々だ。あの日、別れてから、二度と真奈美に近づこうとはしなかった。遠くから彼女を見守ること。同じ空の下で呼吸しているだけで、それで十分だった。真奈美も、直樹の気配に気づかないわけではなかった。夜になると、窓の外の街灯の下に必ず背の高い影があるのだ。しかし、彼女はそれを見なかったことにして、そっとカーテンを閉める。真奈美が公園に遊びに行くと、普段は着飾っている直樹が着ぐるみを着て、正体を知られずに彼女と握手しようとしていることもあった。初冬の初雪の日。真奈美はいつもの通勤路で、見事な雪だるまを見つけた。その顔が自分にそっくりだと、誰かが笑いながら話していた。そんな、ある日のこと。真奈美は両親を連れてイベントに向かっていたが、路上で突発的な事故が起き、車が動かなくなった。それに、慎吾が驚きのあまり、発作を起こしてしまった。真奈美はパニックになり、近くの病院まで慎吾を運ぼうとしたが、細い体では抱えきれない。汗が止まらず、涙が次々と溢れてきた。大切な人を失う辛さを誰よりもわかっているからこそ、もう二度と耐えられないと思った。言いようのない不安と恐怖が彼女を飲み込み、心の中が真っ暗になる。その時、直樹が駆けつけてきて、無言のまま慎吾を背負って病院へと走った。この瞬間、真奈美はこれまでのわだかまりを忘れかけていた。病院に到着し、医師からは運ばれるのが遅ければ心臓停止や半身不随になっていたと言われ、胸を撫でおろした。真奈美は直樹に頭を下げ、真剣に感謝を伝えた。直樹の心はキュッと締め付けられた。あれからずっと会えずにいたの
「あなたがその名前を口にしないで!」真奈美は声を荒らげた。娘を失った苦しみは、一生消えることはない。平気な顔などできるはずもなかった。「あなたに何を言われようが、どう傷つけられようが構わない。でも、あの子を殺したのは、あなたと白石。人殺しがあの子の名前を軽々しく口にしないで」感情を露わにする真奈美を見て、直樹の胸はひどく締め付けられた。「一緒に帰ろう。これからだって、子どもは作れる。それに、調べたんだ。これまでのことは全部、俺の勘違いだった。本当にごめん」直樹がこれほどまで頭を下げたことがあっただろうか。直樹本人さえ信じられなかった。「絢香がお前をプールに突き落とした件も、きちんと彼女を叱っておいたから」真奈美は鼻で笑った。「叱るって、どうせ痛くも痒くもないお説教でしょ?直樹、私はもう全部捨てた。あなたにも、あの頃の全てにも、もう何も興味がないの」真奈美は涙を拭い、「過去のことなんてどうでもいいし、あなたたちからの侮辱や指図を受けるために、あそこへ戻るつもりなんて毛頭ない。白石と好きに暮らして。子どもが何人生まれようと、私の知ったことじゃないから」と言い捨てた。「保護の『保』の保乃香じゃないんだ」直樹は慌てて釈明した。「稲穂の『穂』に『花』で穂花だよ」真奈美は顔を上げ、不信感を露わにした。直樹は自嘲気味に笑った。「お前が昔、デザインコンテストで受賞した時のこと覚えてる?あの時のモチーフが麦の穂だっただろ?だから、お前が妊娠したと知った時、娘にその名前を付けたんだ」真奈美は何も言わず、ただ虚ろな目で歩き出した。駆け寄ってきた浩は、今にも崩れそうな真奈美を強く抱きしめた。真奈美を傷つけた直樹に対し、激しい憤りを感じながら鋭い視線を投げつける。「木村、早く帰って」自分で決着を付けると真奈美から聞いていなければ、浩はすでに直樹を力尽くで追い出していただろう。何よりも大切な人をこれほど傷つけた男を、浩は許せなかった。もし浩の目線に形があるとすれば、直樹は今頃何度も突き刺されていただろう。二人の背中を見つめながら、直樹はこめかみに青筋を立てた。直樹は拳を強く握りしめる。「諦めない」その後、直樹は真奈美の実家の吉田家へ出向き、なかなか手に入らない高級食材や、宝石や美術品といったものを贈ろうとし