All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 281 - Chapter 290

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第281話

奈緒は瞬きひとつせず、その場から一歩も動かなかった。なぜなら、自分のすぐそばには、どんな時でも自分を守ってくれる男がいると分かっていたから。案の定、麟太郎の杖が奈緒に振り下ろされるより速く、一つの大きな手が、雷光のような速さで彼の手首を掴んだ。麟太郎が何が起きたか理解する前に、杖は手から滑り落ち、乾いた音を立てて地面へ転がった。そして、麟太郎の腕は強引にねじ上げられ、背中側へ固定される。激痛に麟太郎はその場で悲鳴を上げ、その顔は一瞬で真っ赤になった。「あなた!」「麟太郎!」「お父さん!」先ほど麟太郎と共に屋敷から出てきた女たちは、年齢に関係なく一斉に叫び声を上げた。翠は怒りで震えながら奈緒を指差したが、怖くて前へ出ることはできない。「奈緒……何してるの!?早くその人に手を放させて!」理華も取り乱し、涙を流しながら泣き叫んだ。「奈緒ちゃん、どうしてこんなことをするんだい?何かあったんなら、話し合えばいいでしょう?なぜこんなにも部外者を引き連れて来て、麟太郎を痛めつけるの?」目の前で涙を流す年老いた女性を見つめる奈緒の心の奥に、ほんのわずかな哀れみが湧いた。だが、その感情もすぐに湧き上がってきた憎しみに飲み込まれる。確かに、この青木家の中で、理華だけはまだ自分に比較的優しくしてくれた。けれど、それは本当の意味で自分を大切にしてくれた優しさではなかった。結局のところ、翠に叱責され、侮辱され、嫌がらせを受けていた時、理華は横から軽く数言たしなめるだけ。ただ、それだけだった。本当に自分を守ってくれたことなど、一度もない。薄い氷の上を歩くように生きてきた5年間。誰一人として自分を対等な人間として見てくれなかった。本当の意味で尊重してくれる者などいなかったのだ。だから……報復の時を迎えた今、誰に対しても情けをかけるつもりなどない。奈緒は唇を引き結んだ。「今さら話し合おうなんて、遅すぎるんです。あなたたちが一線を越えたから……私が何より大切にしている娘を利用して、私を屈服させようとしたその時から、私は二度とこの家に足を踏み入れないと決めました」奈緒はゆっくりと周囲を見渡した。青木家の屋敷、何年経っても、何一つ変わっていない。そしてこの空間には、自分が侮辱され、理不尽に耐えた時の澱んだ空気がま
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第282話

奈緒はこの星影荘に足を踏み入れた瞬間、受けた数々の屈辱がすべてフラッシュバックしていた。今まで、自分がどれほど愚かにも充の言いなりになり、充の家族からの酷い扱いに耐え忍んできたのか。ようやく気づいたその事実が、胸に突き刺さる。当時の自分は弱かったわけではない。ただ、自分には、彼らに対抗できる力がないということを分かっていたのだ。だから黙って耐え、すべてを心の奥に刻み込んできた。この5年間、デザインの世界で死に物狂いだったのは、いつか見返してやりたいという思いだけがあったから。充と対等に肩を並べられる人間になりたかった。自分の足で立ち、青木家の人間から受けた屈辱を清算するその時を、何度も夢見てきた。そして今日が、その時なのだ。兄という最強の存在が守ってくれる今、もう恐れるものは何もない。奈緒が淡々と語った過去の出来事を聞いて、翠、夢香、胡桃の顔色に動揺の色が走った。彼女たちにとってそれは、些細なことだったから。身分不相応に青木家に入ったのなら、冷遇されるのは当然。どんな嫌がらせを受けても、それが当たり前だと考えていたのだ。だから、奈緒がそんな細かなことまで覚えているとは、思ってもみなかったし、何よりそれらをこんな場所で暴露されるとは考えたこともなかった。充は自分の耳が信じられなかった。「本当なのか?なんで誰も教えてくれなかったんだ?俺のいないところで、みんなが……奈緒をそんなに虐げていたなんて」奈緒は、皮肉な笑みを浮かべた。「充、本当に気づいてなかったの?それとも見て見ぬふりをしていただけ?あなたのお母さんや、あなたのお姉さんたちが、あなたの前で私を貶めていたことも少なくなかったと思うけど?そんな時、あなたはいつも私に何て言った?『彼女たちは口が悪いだけで、根はいい人なんだ』とか、『家族なんだから、お前が耐えれば済むことだ』って。あなたが言ったんだよ?覚えてる?」充は何も言えなかった。「私だって根は悪い人じゃないんだよ。だから、私がされたことをそのまま返すだけ。充、お母さんやお姉さんたちには、少しだけ我慢してもらって。だって、家族だもんね?少し耐えれば、済むことだから……」やはり、充は黙ったまま。奈緒は真司の方に視線を向ける。「坂本さん、私がされたことを、彼女たちにも同じようにして
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第283話

奈緒は充を鋭く睨みつけた後、すぐに黎へと視線を戻した。しかし、再び顔を上げ、涙が零れ落ちないように必死で耐える。黎を胸に抱き寄せ、その少し痩せてしまった顔を見て、奈緒の心は引き裂かれるように痛んだ。たった2日。充のところにいたせいで、黎には苦痛を味わわせてしまった。奈緒の顔を見た瞬間、黎のぼんやりとした瞳が揺れ、そこに光が戻った。次の瞬間、小さな口をきゅっとへの字に曲げ、堪えていたものが溢れたように泣き出した。奈緒は黎を抱き締め、優しくあやす。母親の匂いを感じたのか、黎はやがて泣き止んで深い眠りに落ち、奈緒の腕の中ですやすやと寝息を立て始めた。奈緒は、傍にいた真司にそっと黎を預けた。そして充に歩み寄り、彼の頬に思い切り平手打ちを喰らわせた。しかし、充は避けようとしなかった。奈緒は必死に感情を押し殺し、冷静に問い詰める。「どうして黎の手の甲に点滴の跡があるの?」充は頬を押さえたまま、表情を強張らせた。「熱を出したんだ。それから、熱は下がったんだけど酷い咳が残るから、医者が早く治すために点滴を打った方がいいって言って……」それを聞いた瞬間、怒りで意識が飛びそうになった奈緒は、充のみぞおちに拳を叩き込んだ。「これがあなたの言う、家族みんなで黎を可愛がってるってこと?充、連れていって1日で熱を出させて、おまけにまだ生後3か月なのに点滴を打つなんて正気?本当に……信じられない……」奈緒は怒りと苦しさで胸が詰まり、もう言葉にならなかった。充は眉間を揉みながら、必死に言い訳を探す。「俺が黎をちゃんと見られなかったことは認める。でも今回は、家族みんな必死だったんだ。母さんも最初は文句を言ってたけど、黎の顔を見たら態度が変わって。この2日間はずっと付きっ切りで看病してくれていた……昔は俺に隠れて奈緒にきつくあたったこともあったかもしれないけど、でも……本当にそんな悪い人間じゃないんだ」翠が黎の面倒を見ていたと知り、奈緒の怒りはさらに燃え上がった。充の胸に、もう一度拳を叩きつける。「本当に信じられない!まさか、あなたの母親に黎を預けたなんて!あの人がどれだけ私を嫌ってるのか、本当に分かってないの!?しかも、この期に及んでまだあの人をかばうなんて!」奈緒は静かに目を閉じ、胸を押さえた。そして、ふと
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第284話

「ここ数年、お前が青木家で酷い目にあってきたこと……本当に気の毒だと思うし、俺も申し訳なく思ってるんだ。なあ、こうするのはどうだ?私の妻と娘たちに、どれだけ怒りをぶつけても構わないから、今回だけブラックストーン・キャピタルに青木グループをこれ以上追い詰めないよう頼んでくれないか?今後、青木家で二度と同じようなことが起こらないと俺が保証する。俺の顔に免じて、充のことを許してやってくれないか?家族なんだ。どんな困難だって、乗り越えられないものはないだろ?」奈緒は自分の耳を疑った。傲慢であれほどまでに自分を見下していた麟太郎の口から、こんな言葉が出るなんて。だが奈緒はすぐに理解できた。やはり年季が違う。麟太郎は充よりも、状況判断が遥かに早いうえに、時勢を読むことに長けているのだ。最近、奈緒は徹底的に青木家を追い詰めていた。それはもはや、青木家どころか、深津市全体を揺るがしかねない勢いだった。それができたのは、奈緒の後ろに強大な存在がいるから。充は渦中にいて事態が見えていなかったが、商売の世界を長く生きてきた麟太郎は、その背後の巨大な気配を感じたのだろう。だからこそ、態度を一変させた。しかし、そんな戯言などに、奈緒は耳を貸す気にもなれなかった。「その変わり身の早さには、本当に感心いたします」奈緒は唇の端をわずかに上げた。そこには嘲笑の色しかない。彼女の鋭い視線が、麟太郎の作り物の笑みをゆっくりと切り裂いていく。「私と充が籍を入れた時、ご自身でなんとおっしゃったか覚えていらっしゃいますか?『こんな身分の女が青木家の門をくぐるなんてあり得ない。仮に入っても苦労するのは自分自身だ。離婚してやり直すなら今しかない』っておっしゃいましたよね?それなのに、私と充が離婚を決めた途端、息子にチャンスをくれとすがるんですか?」麟太郎の笑みが一瞬固まった。だが、さすがは老獪な商人。すぐに表情を切り替え、今度は深い後悔を滲ませた顔を作る。「奈緒、過去のことはすべて誤解で、うちの女たちが愚かなだけだったんだ。俺もあいつらの言葉に騙されていて、物事がしっかりと見えていなかった。お前は、あいつらと違って心が広い。なあ、お前はあいつらと同じ土俵に立たないでくれ。すべてを水に流してくれるなら、充の妻の席は永久に奈緒のもの。出産のとき、奈緒
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第285話

充の意思かどうかなど関係なく、奈緒の前に跪かざるを得なかった。だが、そんな充を見ても、奈緒の心は静かなままだった。その瞳の奥には、氷のような冷ややかな静けさが広がっているだけ。麟太郎は相変わらず愛想笑いを浮かべていた。その笑顔は、先ほどよりもさらにわざとらしい。「充もこうして謝っているんだ。これまでのことは、もう水に流してくれないか?」奈緒は、麟太郎の本心を見透かしたように鼻で笑った。「もしかして、世の中の女性が全員、肩書きを与えられて、少し甘い言葉をかけられれば、どんなことでも許して、すべてを水に流すものだと思っているんですか?言っておきますけど、私はそんな簡単な女じゃありません。私はすでに充にチャンスをあげました。でも、それを無下にしたのは充の方です。だから、もう二度とチャンスなんてありません。株なら資金を投入すればいいんです。それで元に戻せたら、青木グループの力ってことですから。もし無理なら、どう後始末をするか考えることですね。青木会長。あなたがこれまで築き上げた青木グループが、あなたの息子の判断力のなさによって、完全に崩壊してしまうのではないかと、私は本気で心配しているんですよ」「お前っ!」充が顔を上げた。その目は血走り、こめかみには青筋が立っている。「お前!いい加減にしろよ!」「いい加減にしろ?」奈緒はあざ笑うように吐き捨てた。「あなたは黎に点滴を打たせた。5年もの間、私に屈辱と苦痛を与え続けた。私のほうが、ずっと優しいと思わない?充、チャンスはもう与えた。でも、それを拒んだのはあなた自身。だから、これから先は勝手にして。青木グループがこの危機を越えられるかどうか、お手並み拝見ってところね」奈緒はそう言い捨てると、動揺する二人を置いて、黎を抱える真司と共に背を向けた。一度も振り返らずに、青木家を去っていく。奈緒の背中を見つめる麟太郎の顔から笑みが消え、その顔色は、どす黒く沈んでいた。そして、充に視線を向ける。その声には、抑えきれない怒りが滲んでいた。「お前というやつは……本当に無能だな!もっと早くに気づくべきだった。あの女はもう普通ではない……後ろにいる力が大きすぎる。俺たちにも計り知れないんだ」充は拳を強く握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。誰もいなくなった玄
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第286話

まさか自分の家と、奈緒の家との間に、これほど深い確執が昔から存在していたなんて、充は一切知らなかった。麟太郎の言葉は、充にとってあまりにも衝撃的で、思わず父親の腕を掴んだ。「当時父さんが篠原グループの株を空売りするために画策したって……それって、今青木グループが直面している状況と一緒じゃないか?それじゃあ、黒幕は……奈緒の父親、あるいは奈緒の兄が、力をつけて俺たちに報復しにきたとでも言うのか?」充は脂汗を流し、全身から力が抜けるような感覚で椅子に倒れ込んだ。麟太郎は鋭い眼光を充に向けた。「今やっと分かったか?なぜ俺がさっき奈緒に頭を下げたのか」麟太郎は充の肩を強く叩いた。「青木グループを守るためだ。賢い者は身を引くべき時も心得るもの。相手の正体や背景が判明するまで、奈緒には低姿勢で接しろ。正面衝突なんて以ての外だ。何を言われても逆らわないことだ。それで少しは時間稼ぎができる……もし今回お前が、あの子供を無理やり奪おうとしなければ、奈緒もこれほど怒って、青木グループの株価に影響を及ぼすような事態にはならなかったはずだ。俺が恐れているのはあの女ではなく、その背後にいる得体の知れない者たちなんだ。万が一に備えて動くぞ。青木グループが完全に崩壊した場合、……お前と俺は、それでも生き残る道を考えておく必要がある。なにしろ、かつて篠原グループが倒産した時、俺もお前の母さんも深く関わっていたからな」充は衝撃でその場から動けず、言葉を失って立ち尽くしていた。その時突然、過去の記憶が蘇る。奈緒と二人、家族に隠れて婚姻届を出した日のこと。その後、互いの家へ初めて挨拶に行った。あの時、父が奈緒に向けていた複雑な視線と、かつて蘭が自分に向けていた視線は、確かに酷似していた。さらに母は自分たち二人を認めず、奈緒に対して罵声を浴びせ、出ていけとまで言い放っていた……ただ母が奈緒を嫌っているだけだと思っていたが、そこには深い確執という隠された理由があったなんて……充の声はもう枯れていた。「父さん、なんでこんな大事な話を、もっと早く教えてくれなかったんだ?」麟太郎が後ろ手に手を組みながら、深くため息をつく。「お前たちは俺たちに内緒で婚姻届を出した。もう後戻りできない状況で、何を言えたっていうんだ?それに、これは我々
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第287話

二人の視線が交差する。互いの表情は冷めきっていた。仁哉は腰を上げようとせず、かといって充を同席させる気配もない。充もまた意地を張るようにして、別のボックス席に座った。充はバーテンダーに、度数の高いブランデーを注文する。最近の充は、普通の赤ワイン程度では胸の奥で燃え続ける怒りや焦燥を抑えきれなかった。強い酒だけが、かろうじて彼の心の奥に積み重なった重圧を麻痺させてくれる。充と仁哉は背中を向けるような位置で、それぞれの席に座り続けた。充は目を伏せたまま、あっという間にブランデーを2杯空にした。午後10時を回った頃、仁哉が帰り支度を始める。美紀と離婚して以来、毎晩ここで軽く飲んで、少し酔いが回ったら、そのまま帰って寝るのが日課だった。背後の物音に、充が重い口を開いた。「なあ、お前はA国にいた時、ギルと仲良くしてたよな?」仁哉の体が小さく強張ったが、振り返りもせず、淡々と答える。「君に答える筋合いはない」充の胸の中で、苛立ちが沸々と湧き上がる。「時々、あいつとゴルフを楽しんでいたって美紀から聞いたんだ。なんで、そのことを俺に隠す?」仁哉は冷たく言った。「今の僕たちに、話すことなんて何もないから」充は無意識に指を握り締めた。しばらく沈黙した後、彼は立ち上がり、ポケットから煙草の箱を取り出し、一本仁哉へ差し出す。かつて、二人が一番好んで吸っていた銘柄。仁哉は迷いを見せつつも、それを受け取った。充はライターを取り出し火をつけると、その火を仁哉の煙草へ近づけ、自ら火をつけてやった。その後、自分の煙草にも火をつける。薄い煙草の香りが、静かな空間に漂う。淡く青白い煙が、二人の間でゆっくりと絡み合った。二人は同時に、過去を思い出していた。まだ互いを本当の親友だと思っていたあの頃……充は唇をわずかに動かし、低く呟く。「俺とお前と奈緒。あの頃の俺たち、どうしてこうなっちまったんだろうな」仁哉の表情は変わらない。「そうだな」充は少し迷った後、乾いた声で続けた。「お前は絶対に何か知っている。ただ……俺には言いたくないだけなんだろ?」仁哉が静かに煙を吐き出した。認めもしなければ、否定もしない。充は何かを悟ったように、力なく笑った。「だったら教えてくれ。俺はこれからどうすればいい?どうしたら、
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第288話

仁哉は、そう言い残して去った。充はしばらく呆然としていたが、再び席に戻り、3杯目のブランデーを注文した。今度はゆっくりと時間をかけて飲む。頭の中には、奈緒との遠い記憶が次々とあふれ出してきた。昔の自分は、奈緒の前でどれほど自信に満ち、威厳を振りかざしていただろう。自分のほうが数歳年上で、さらに長くビジネスの世界で揉まれてきた。だから彼女の前では、強い男であるべきで、仕事のやり方も、人としての在り方も、自分が導いてやるべきだと思っていた。付き合い始めた頃の奈緒は細くて髪も短く、どこか幼くて守ってやらなければいけない存在に見えた。だから充は年上の男として、時には叱りつけ、時には優しく抱きしめ、愛情を与えた。自分は奈緒の頭を撫でるのが好きだった。叱られて目を赤くした彼女を抱き寄せ、慰めるのが好きだった。なぜなら、そんな自分に彼女がまた心を開いていく瞬間を見るのが好きだったから。自分に憧れの眼差しを向ける奈緒。そんな奈緒を抱きしめ、仕事で成し遂げた成果を語り聞かせる。「俺を見習え」そう思っていた。奈緒にとって自分は光だったはず。それなのに自分は、その純粋な憧れを利用するように、無意識のうちに彼女の自尊心を削っていった。彼女を「自分の言うことを聞く、理解ある妻」へと変えようとしていたのだ。自分は、奈緒がデザインの世界で少しずつ成長していく姿を見ていた。最初はアシスタントデザイナーだった。そこから独立したデザイナーになり、やがて、デザインチーム全体を率いる存在になった。奈緒が優秀であることを、充は知っていたが、心の奥底では、ずっとこう思っていた。奈緒がここまで来られたのは、自分がいたから。自分がいなければ、奈緒には何もできないとさえ信じ込んでいた。奈緒がデザインコンペで賞を獲り、認められたあの日、充は自分のことのように胸を張って彼女を抱きしめた。「俺が5年かけて鍛え上げたから、今のお前があるんだ。嬉しいだろ?」そして、あの日が5年間で初めて奈緒が反論してきた瞬間だった。「私がここまで来られたのは、私自身が努力したから。夢は自分で手繰り寄せるもの。あなたに育ててもらったからじゃない。それに、あなたの指導はプレッシャーや迷いになることもあった。私の人生は、全部あなたに決められるものじゃないと思う。でも……」それは、奈緒が初
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第289話

家に連れ帰られた後も、黎は時折せき込んでいた。奈緒と蘭はすぐに病院まで連れていき、全身検査をしてもらった。その結果、風邪気味なだけで特に大きな問題はないと分かり、二人はやっと胸を撫で下ろす。病院から家に戻ってきた頃、すでに日は暮れていた。香織が夕食を用意してくれていたが、奈緒も蘭も食欲はなかったので、少しだけ口にして、すぐに黎のそばに付き添った。この2日間、黎はずいぶん怖い思いをしたのだろう。寝入ってもすぐに身体をびくりと震わせ、泣き出してしまうのだ。その夜、奈緒と香織で交代しながら黎を見守り、ここ数日間まともに眠れていない蘭のことは、半ば強制的に休ませた。こちらでは夜だったが、A国はちょうど朝を迎えていた。奈緒の元に、ギルからの電話が入る。「青木グループが市場の回復を狙って資金を大量投入しているから、少しずつ戻り始めているようだけど、今後奈緒はどうしたい?」奈緒は目を伏せ、寝付いたばかりの黎の寝顔を見ながら、静かに答えた。「お兄ちゃん、今の損失はどのくらい?」「ざっと数百億円かな。今回の一件での損失を補うには、しばらく時間がかかるだろうな」「じゃあ、今回の一件はお灸を据えるってことで。私と充はまだ婚姻関係があるから、もし彼が借金まみれになっちゃったら、法的に私にも影響が出る」「分かった。奈緒の言う通りにするよ。それより、黎ちゃんは大丈夫?いい子にしてるか?」奈緒は微笑んだ。「いい子にしてるよ。でも怖い思いをしたみたいで、あまり寝てくれないの」「坂本に周囲の警備を強化するように指示をしたから、二度とあんな思いはさせないよ。でも、奈緒も母さんも気を抜くな。長引けば長引くほど、何が起こるか分からないから、できるだけ早く離婚するんだぞ」「うん。なるべく早く離婚届を出すようにするよ。私だって、もう一秒たりともあの男と夫婦でいたくないから」通話が終わった瞬間、今度は充からメッセージが届いた。画面を見た瞬間、奈緒の胸にはどうしようもない疲労感が押し寄せた。彼女は深いため息をつき、窓辺へ歩いていくと、カーテンを少しだけ開けた。予想通り、外のコンクリートの上に人影が跪いている。背筋をピンと伸ばし、両膝の上で手を揃えるその姿は、本当に自ら罪を償うようだった。奈緒はそれを見ても、心配するどころか、本能的
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第290話

奈緒は力の入らない身体を無理やり起こし、彼のためにうどんを作った。しかし、その一杯のうどんは、充によってことごとく否定された。その後、恵が居たたまれなくなったのだろう。奈緒が熱を出していることを、充にやんわりと伝えた。その時になって初めて、充は奈緒の顔が赤く、やつれていることに気づいたのだった。それから充は必死で謝罪し、高級ジュエリーをお詫びの品として贈った。だが、あの日受けた心の傷は今も消えていない。それに、その一件があって初めて、奈緒は充が自分のことを本当の意味では気にかけていなかったのだと悟り、彼に対する愛情を少しずつ閉ざし始めたのだ。自分がどれほど充を愛し、どれほど我慢してきたかも、彼は一度も見ようとはしてくれなかった。だから今、たとえ充が雨の中で土下座していても、見なかったことにできる。心は静かなままだった。奈緒はカーテンを閉めて再びベッドに戻り、充にどこか似ている黎の横顔を見つめた。胸の奥にわずかな寂しさが込み上げる。子供さえできれば、夫婦関係も変わると思っていた。けれど、まさか……子どもが二人の関係を修復する存在ではなく、決裂を加速させる引き金になるとは思ってもみなかった。でも、もうすぐ充との関係も終わる。そうすれば、青木家という地獄のような場所からも、やっと抜け出せるのだ。充は3日間、木蓮邸の入り口で跪き続けた。毎回、夜にやって来て、朝になると帰っていく。雨風にかかわらず、ただひたすら、背筋を伸ばして跪き続けていた。それでも、奈緒と蘭の態度は徹底していた。充の存在には一切触れず、扉を固く閉ざし、そこにいないものとして振る舞い続ける。3日後、充は高熱を出し、肺炎まで併発して、そのまま病院へ運ばれた。そうして、この独りよがりなパフォーマンスはやっと終わりを迎えたのだった。充がそこまでしても奈緒の心を変えられないと知った麟太郎は深く溜息をつき、家族全員に厳しい通達を出した。奈緒の後ろにいる人物がはっきりするまで、誰一人として彼女に手を出してはならない。今回、圧倒的な力で叩きのめされた青木グループは一旦おとなしくなり、奈緒の怒りを買うような真似はしなくなった。ようやく奈緒に、青木家の誰にも邪魔されない静かな日々が戻ってきた。黎が回復してからは、奈緒は全ての力をエターナル・ピラーへの応
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