LOGIN顔を火照らせ苦しげにもがき続けている奈緒を見つめる、仁哉の黒い瞳の奥に、一瞬だけ深い心配の色が浮かんだ。けれど、今の自分にできることは何もない。ため息をつき顔を上げた瞬間、ちょうど視線の先、少し離れた場所に、細身の人影が立っているのが見えた。駐車場の照明は暗く、顔までははっきり見えない。だが、女性であることは分かった。そしてその顔には、不気味な笑みが浮かび、手には携帯が握られていた。その瞬間、仁哉は頭を殴られたかのような衝撃を受けた。さっき奈緒の様子を確かめるために、自分は車内のライトをつけてしまった。つまり、あの人物がずっとカメラを回していたなら、先ほどの自分たちが揉み合う様子は、全て録画されている。あの女こそ、酒に薬を盛った人物だ。そう気づいた瞬間、仁哉は勢いよく車のドアを開け、素早くその方向へ走り出した。しかし、周囲を見回しても、まるで、最初から誰も存在していなかったかのように、先ほど女性が立っていた場所には誰もいなかった。自分の見間違いか?いや、そんなはずはない。顔はよく見えなかったが、間違いなく女がいた。仁哉はすぐに周囲を探し回ったが、すぐそばのキャンプ場から、変わらず楽しげな音楽と笑い声が聞こえてくるだけ。捜索を諦めて戻ると、そこへ奏介が息を切らして駆けつけてきた。奏介は両手を膝につき、力なく吐き捨てる。「危ねぇ。危うく喰われるところだった」奏介の姿を見た仁哉は、思わず息を呑んだ。奏介の首には、いくつもの赤いキスマーク。そして、シャツは完全にはだけていて、そこには口紅の跡までつき、髪もぐしゃぐしゃ。本当に、命からがら逃げてきたという様子だった。二人は顔を見合わせ、同時に苦笑いを漏らす。奏介が言った。「ほらな。俺の方が魅力があるって言っただろ?お前なんて無傷なんだから」仁哉は睨み返す。「くだらないこと言うな。僕の方が体力があっただけ」「俺と体力勝負?さっきは手を出さなかっただけだ。本気だったら、1時間じゃ足りないくらい楽しませられたぞ」仁哉は呆れた。「もし君が本気を出していたら、僕たちはもう友達じゃない」奏介が笑う。「でも、蛍ちゃんは昔から俺のことが好だろ?もしかしたら、間違いをそのまま受け入れて、一夜を共にしたかったのかもしれないぞ?」仁哉は溜め息をつく。
あまりにも突然の出来事だった。「……っ!」仁哉は一瞬にして頭が真っ白になった。脳の回路が完全にショートしたように、何も考えられなくなる。女性の柔らかな唇が自分の唇へと近づいてきて、あと少しで触れてしまう……その瞬間、仁哉の心臓は激しく波打ち、呼吸が乱れた。パニックになりながらも、仁哉は奈緒を強く押し返し、その手首を力任せに押さえつけた。危ない!あと少しで、本当にキスしてしまうところだった。仁哉はまだ動揺が収まらず、荒い呼吸を繰り返しながら、何度も唾を飲み込む。しかし、奈緒がまだ迫ってきていたため、仁哉はやむを得ず力を込め、彼女の手首を頭の上で押さえた。意識が朦朧としている奈緒の顔は、異常なほど赤く染まり、目は閉じたままなのに、身体だけが絶えずもがいていた。二人があまりにも至近距離だったため、仁哉は奈緒の体温が異常なほど高いことに気づく。おかしい、これは何かがおかしい……いくら酒に弱くても、酔っただけなら眠り込むか、せいぜい吐くくらいで、こんな状態になるはずがない。まさか、先ほど席を離れている間に、誰かが自分たちのグラスに何かを入れたのでは?そう確信した仁哉は、急いで携帯を取り出し、奏介に電話をかけた。奏介の車内では……蛍は、すでに奏介の上にまたがっていた。まるで獲物を見つけた小さな猛獣のように、彼の顔や首筋へ夢中で口づけを繰り返している。奏介のシャツのボタンは全て外され、蛍の手が、彼の鍛え上げられた胸筋や腹筋を自由気ままに撫で回していた。そして、蛍の手がさらに大胆な場所へ伸びようとした瞬間、奏介は驚きのあまり、一瞬はっと息を呑み、低く掠れた声で悪態をつく。「くそっ」必死に蛍を突き放そうとした。しかし、離そうとすればするほど、蛍がさらにしがみついてくる。彼女の小さな舌が何度も彼の唇をこじ開けようとしていた時、奏介の心の中では、激しい葛藤が渦巻いていた。今の若い女の子って、こんなに大胆なのか?少し酒を飲んだだけで、ここまで積極的に?確かに自分は普段、口が軽くて冗談も多い。でも、無茶苦茶なことをする人間ではない。仮に何かあったとしても、最低限のルールは守る。身近な女性には手を出すな……それだけは、ずっと自分に言い聞かせてきた。だが、今この瞬間、襲われているのは自分の方。奏介は完
蛍と奏介は、飲みの場でのゲームなどをして、かなり出来上がっていた。奈緒も蛍に合わせて「そうだね」と頷き、二人でグラスをぶつけ合うと、すぐに中身を飲み干した。すると、急に意識がぼんやりしてきた。最近ずっと疲れが溜まっていたせいだと思い、奈緒は椅子にもたれかかって休むことにした。蛍もこの一杯を飲み終えると、そのまま椅子に倒れ込み、完全に意識を失った。近くで煙草を吸っていた仁哉と奏介が戻ってみると、二人の女性が椅子に横たわって眠っている姿があった。奏介が苦笑いしながら言う。「まったく、酒に弱い子たちだな……今夜の集まりは、早めに終わりそうだな」仁哉も腕時計を見て、頷いた。「ああ、そうだな」キャンプ場から車を停めている場所までは、1キロほどの距離がある。仁哉は近づいて二人を軽くゆすってみたが、相当飲んだらしく、全く反応がない。仁哉は困ったように眉をひそめ、駐車場を指さした。「奏介、一人ずつ運ぶか?」奏介は頷き、奈緒に歩み寄った。そして何気なく腰をかがめ、彼女を支えようとした瞬間――突然、目の前に腕が伸びてきて、奏介の行く手を遮る。仁哉が蛍へと視線を向けた。「奈緒さんは僕が背負うから、奏介は蛍さんを送ってあげて」奏介はすぐに意味ありげな笑みを浮かべ、仁哉の肩を叩いた。「やっぱりお前は……」仁哉は慌てて奏介の話を遮り、きっぱりとした態度で言った。「いい加減な憶測はやめてくれ。奈緒さんの噂にでもなったら大変だろ?男は多少誤解されたところで大したことじゃない。でも、女性は一度悪い噂を立てられたら、一生消えない傷になることもあるんだから」奏介もすぐに真面目な顔で頷く。「了解。これからは気を付けるよ」奏介は横に回り、蛍の小さな体をひょいと軽々抱き上げた。162センチの蛍は、180センチ超えの奏介に抱かれると、子供のように小さく見える。体が持ち上げられた衝撃で蛍がかすかにうめき、反射的に奏介の首に腕を回した。まだ少し意識が残っていて、目を開けて状況を確認しようとしたのだが、瞼があまりにも重く、どうしても開けられない。仁哉も奈緒を負ぶった。まどろみの中で奈緒は、まるでブランコに揺られるような不思議な心地よさを感じていた。なんだか、懐かしい感覚だ。しかし、何か言おうとしても言葉が出ず、
40分後。美紀が月影の森に到着すると、どこからともなく心地よい歌声が聞こえてきた。辺りは驚くほど静かで、キャンプ場にいる人々は皆、自然と足を止め、リズムに合わせて手拍子を打ちながら、その歌声に聞き惚れている。美紀も立ち止まり、遠くに視線を向けた。たった一目見ただけで、その表情は一気に冷え切り、長く伸ばした美しい爪が、憎しみを込めるように手のひらへ深く食い込む。芝生の中央で歌っていたのは、仁哉と……奈緒だった。二人が歌っているのは、少し昔の曲ではあるものの、青春の甘酸っぱさが詰まったラブソング。一人一人出し物をしようと言い出したのは、蛍だった。蛍が芸を披露したあと、奏介も負けじと乗り出し、その場で即興の漫談を披露。皆を大笑いさせ、場の空気を一気に盛り上げた。順番が回ってきた仁哉も拒まず、得意のブラックジョークを披露する。それを見た奈緒は、すかさず便乗しておどけた表情を浮かべ、このまま簡単に済ませようとした。ところが、蛍と奏介が納得しない。「二人とも手を抜きすぎだから不公平」だと、周囲も一緒になって無理やり二人をデュエットさせることになったのだった。奈緒が昔から身につけてきたのは護身術ばかりで、歌やダンスといったものには縁がなかった。かろうじて人前で披露できるのは、歌だけ。奈緒が困っているのを見て、仁哉が代わろうと申し出た。しかし奏介は許さず、何としてでも奈緒に歌わせようと、その場のノリでこのラブソングを指定し、奈緒と仁哉は、無理やりステージに上げられたのだ。それまで二人は、お互いの歌声を聞いたことすらなかったし、相手がどんな声で歌うのかも知らなかった。ところが音楽が流れ出すと、二人の間には、仕事で息を合わせる時と同じような、不思議なほど自然な呼吸が生まれた。仁哉の声は穏やかで澄んでいて、奈緒の声は柔らかく甘い。まるで山間を流れる清らかな泉と、森の朝露が出会ったように、二つの声は自然に溶け合っていく。その場にいた全員が、いつの間にか会話を止め、二人へ視線を向けていた。リズムに合わせて手を叩き、携帯を掲げて撮影し、すぐにSNSへとアップし始める。歌が終わると、拍手が巻き起こった。蛍も手をたたきながら、笑みを浮かべた。「てっきり二人とも初心者だと思ったのに!まさかの最強コンビじゃん!息ぴった
このグランピング場は「月影の森」と呼ばれ、深津市のかなり辺鄙な場所に位置している。周囲から少し窪んだ地形になっているものの、その窪地は非常に平坦で、周囲を青々とした木々が取り囲み、中央には広々とした芝生が広がっていた。夜になると、芝生の中央では焚き火が燃え、木々には無数のイルミネーションが飾られる。奏介は早くから予約を済ませており、芝生の中心近くにある一番眺めの良いテントを確保してくれていた。彼らが到着した時には、屋外用のテーブルや椅子もすべて整えられており、テーブルの上には串焼き、フルーツの盛り合わせ、ドリンク、ビール、そして様々な料理がずらりと並べられていた。席につくと、奏介はすぐさま専属のスタッフを呼び、食材を焼かせ始める。現場の賑やかな雰囲気に乗せられたのか、自分の好きな音楽が流れてきたこともあり、蛍が張り切ってテントの前に進み出た。「皆さん、今夜は奏介さんがこんなにも素晴らしい場所を用意してくれたので、そのお礼として私が一曲踊らせていただきます!皆さんも、後で出し物してくださいね――」奏介がすぐに拍手して盛り上げる。「いいね!なかなか度胸があるじゃないか!」一方、奈緒は心の中で冷や汗をかいていた。蛍ったら、これは完全に自分たちへの無茶振りでは?自分が最後に人前で何かを披露したのは、大学時代のステージで歌った時くらい。考えてみれば、それから何年も人前で何かを披露したことなどない気がする。明るい性格の蛍は、そんなことも気にする様子もなく、着ていたカジュアルシャツを奈緒に放り投げ、腰を振りながら激しいダンスを披露し始めた。完全な屋外空間だったため、蛍のダンスはすぐに周囲の注目を集め、男女問わず、多くの人々が楽しそうに盛り上がり始める。遠くのテントでそれを眺めていた女性が一人。何かを思いついたように、ゆっくりとカメラを回し、奈緒たちの様子を収めた映像を誰かへ送った。美紀がその動画を受け取った時、彼女は病院にいた。数日前から続く高熱で、点滴治療を受けていた充。美紀は目を真っ赤に腫らし、ずっと充の傍を離れられずにいたのだった。こんなにも衰弱した充の姿を見るのは初めてで、この時ばかりは、美紀も本気で彼を心配していた。数日間、充はほとんど食欲もなく、ただ流動食を数口食べる程度。そのため、体重は急激に落ち、顔は
ドアの向こうにいたのは仁哉と奏介で、一人は淡いブルー、もう一人はシンプルな白のシャツ姿。二人が並んでいる姿は、アイドルグループさながらだった。「もう1週間も続けて残業してるよな。明日は土曜日だ。ビジネスパートナーとして、明日一日は休むように要求する」仁哉が笑いながら、そう奈緒に話しかけた。彼に言われて初めて、今日が金曜日だと気づいた奈緒は苦笑いを浮かべる。「でも、まだデザイン案が完成してないの。これだけはどうしても早く仕上げたくて」仁哉が眉を少し上げた。「焦らなくても大丈夫。仕事は休息とのバランスが大事だから。疲労が溜まりすぎると、かえってデザインの発想力を失う。これは僕自身の経験談だよ」奈緒はふっと笑みをこぼし、奏介の方へ向き直った。「先輩、今日はどうしてこちらへ?」すると、奏介が一枚の書類を奈緒に差し出した。「前に依頼してくれたゼニスビルの著作権紛争、判決が出たんだ。裁判所に十分な証拠を提出した結果、デザインの著作権が奈緒ちゃんにあると正式に認められた。今後、どの不動産会社と組むかは、奈緒ちゃんが自由に決められる」奈緒はその書類を受け取り、少し驚いた。「青木グループがこんなにすんなりと譲るなんて……このプロジェクト、あんなに大金を注ぎ込んでいたはずなのに」奏介が小さくうなずく。「それが少し奇妙なんだ。向こう側の弁護士はほとんど形式的な対応しかしなかったし、提出してきた証拠も十分とは言えなかった。まるで向こうから積極的に降りて、奈緒ちゃんに道を譲ろうとしているような……そんな雰囲気さえ感じたよ」奈緒は驚きを隠せなかった。過去の充なら、決して一歩も引かなかったはずだから。それに、あれほど青木グループが重要視していたプロジェクトを、こんなに簡単に手放すとは、予想外のことでしかなかった。奈緒は書類に目を通し、胸の中でようやく一区切りついた感覚を覚える。そしてそっと書類をしまった。「本当にありがとうございました。本当に、先輩のおかげです」奏介は笑いながら、片目を軽くつぶる。「どうやってお礼してくれる?口だけのお礼じゃ、さすがに……」奈緒は思わず笑ってしまった。「じゃあ……食事か、それともお酒がいいですか?それに、明日は休日なので、私はどちらでも大丈夫です。蛍も誘いましょうか?蛍は、先輩の熱
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…
一方、荒れ果てたリビングを眺めながら、充は力なくソファに腰掛け、タバコに火をつけ、胸が締め付けられるように苦しかった。「井上、俺は奈緒に優しくしてこなかったかな?あそこまで怒ることないだろう?」恵は、床を掃きながら、そっと声をかけた。「旦那様は奥様にとてもよくしてらっしゃいますよ。ご結婚されてから5年、お二人が言い争うのを見たことがありません。ですが、子供を産んだ後の女性は気持ちが不安定になりやすいんです。産後うつにもなりやすいですし、旦那様の支えがもっと必要なんですよ」充は眉をひそめた。「産後うつだって言うのか?でも、他の女は子供を産んだって、こんなに変わったりしない。今
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って







