All Chapters of 我が子より他人の子?産後ワンオペ妻の離婚: Chapter 431 - Chapter 440

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第431話

現れたのは仁哉だった。今日は仕立てのいいダークグレーのスーツに身を包んだ、いつも穏やかな仁哉の表情は険しく、普段の柔らかな雰囲気は影も形もなかった。そして彼の半歩後ろに立っているのは、深津市の政財界で多大な影響力を持つ正国。正国は厳しい表情で、美紀や充たちを鋭く見据えている。仁哉は周囲のどよめきなど意にも介さず、2通のDNA鑑定書を皆の前に掲げた。「1通目は、僕と美紀との子供のDNA鑑定書です。結果は、僕との親子関係なし」続いて2通目を開き、声を張る。「2通目は、奈緒さんの子供と充のDNA鑑定書です。結果は、充との血縁関係があることが証明されました。そして、今日わざわざ須藤本部長をここにお招きしたのは、この2通の鑑定結果が間違いなく本物だと証明していただくためです」正国が一歩前に出た。鋭い眼差しで会場を見渡し、威厳に満ちた声で告げる。「栗原さんのおっしゃったことに間違いはありません。私が今夜ここへ来たのも偶然ではなく、このチャリティーパーティーの場でDNA鑑定書を偽造し、他人を陥れようとしている者がいるとの通報を受けたためです。事実であれば、文書偽造や名誉毀損など、刑事責任を問われる可能性があるため、極めて悪質な行為。さらに、チャリティーの会計にも重大な疑義があるとの情報が寄せられておりますので、慈善事業を名目に騒ぎを起こし、他人を悪意をもって中傷した件も含め、第三者にこの後入ってもらうつもりです。私は、偽りで人を欺き、善人を装う者が何より嫌いです。だから、今夜ここへ来たのは、仁哉さんの証言を裏付けるためだけではなく、法を軽んじることは決して許されないということを、ここにいる皆さんに知っていただくためでもあるんです」正国がそう言い切ると、会場は水を打ったように静まり返った。仁哉が充を見据え、低い声で問いかける。「それで、充……君が持っているDNA鑑定書は、一体誰が偽造したんだ?奈緒さんを陥れるためなら、自分の娘まで実の子じゃないことにするなんてな。よくそこまでやれたな。僕はもう呆れてものが言えないよ」その一言をきっかけに、会場が一気に騒然となった。「嘘でしょ……青木家、いくらなんでもひどすぎない?」「やっぱり栗原家が言ってたことが本当だったのね。あんな恥になる話、よほどのことがな
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第432話

震える唇をどうにか動かし、仁哉を見る。「まさか……ずっと前から知っていたのか?」仁哉は鼻で笑うと、書類を無造作に地面へ放り捨て、蔑むような目を向けた。「僕が知っていたかなんてどうでもいい。問題は、君が真実じゃなく嘘を信じたこと。妻と娘じゃなく、嘘をついた人間を守ったんだ。今こうなってるのは、君自身が選んだ結果だろ?」充は言葉を失った。仁哉を見つめたまま、何も返せない。会場では非難の声がますます大きくなっていき、耳に入る言葉の一つ一つに、充の顔色が変わっていく。一方、薬を飲んですでに意識を取り戻していた翠は、少し離れた場所でまだ気絶したふりを続けていた。今起きたところで、この状況に対処できるはずがない。美紀と夢香、そして静香は状況の悪さを悟り、騒ぎに紛れてこっそり逃げようとした。ところが数歩も進まないうちに、怒りに燃える夫人たちに取り囲まれ、3人まとめて壁際まで追い詰められてしまう。青木家と佐野家が長年築き上げてきた評判は、完全に地に落ちた。これまで翠や静香を信頼していた者ほど、裏切られた怒りも大きい。「静香さん、逃がさないわよ!今すぐ会計担当に電話して、帳簿を全部持ってこさせなさい!」「そうよ!娘があんなことをしておいて、まだ逃げるつもり!?早く出しなさい!」「私、これまで2億円以上寄付してるのよ!善意で出したお金を1円でも懐に入れてたら、絶対に許さないから!」「早く帳簿を出しなさい!これ以上ふざけた真似したら、本気で引っぱたくわよ!」容赦ない罵詈雑言が、3人に向かって降り注ぐ。これほど大勢から責め立てられたことなどなかった夢香は、とうとう耐えきれず、怒鳴り返した。「うるさい!このヒステリー女ども!そこをどきなさいよ!」完全に火に油だった……「誰がヒステリー女ですって!?生意気な口をきくんじゃないわよ!」「もうひっぱたいてやりなさい!この女は海外にいた頃から男遊びが派手だったって聞いてるわ!本当、この国の恥晒しね!」「青木家が躾けられないなら、私たちが代わりに教えてあげる!」「二人とも逃がさないで!やっちゃいなさい!」パンッ!パンッ!パンッ……乾いた音が立て続けに響いた。一晩中騒ぎを見せつけられ、鬱憤の溜まっていた夫人たちが、とうとう夢香と美紀の顔に平手打ちを叩き込んだの
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第433話

正国らが動いたことで、翠、静香、夢香、美紀、そして充まで、全員が事情聴取のため警察へ連れていかれた。充は後に保釈されたものの、青木グループそのものがまるごと摘発されたというニュースは衝撃を与え、その日のSNSでトレンド入りし、各メディアのトップで大きく取り上げられた。青木グループは一躍、街どころか全国の財界から注目を浴びることになった。もちろん、最悪の意味でなのだが……慈善事業の会計についても関係当局の調査が始まり、青木グループには資金洗浄や横領の疑惑まで浮上している。株価は一夜にして暴落し、時価総額も大幅に減少。グループ内は収拾がつかないほどの混乱に陥った。……青木グループの会議室。重苦しい空気のなか、株主たちの怒号が飛び交っていた。充は青ざめた顔で席についている。これまで築き上げてきた若き経営者としての信用も評判も、今回の一件ですべて地に落ちた。麟太郎も急遽東都から駆けつけたが、会議室に入るなり役員たちに詰め寄られてしまった。「会長、採決をお願いします!我々は社長の解任を要求します」「そうです!家庭のスキャンダルで何度も会社を巻き込み、挙げ句の果てには警察沙汰ですよ。これ以上、会社を任せられません!」「このまま社長を続投させるなら、私は保有株を手放しますからね!今回の損失についても責任を取っていただきたい!」「……」役員たちが次々と声を上げ、麟太郎に決断を迫る。充に対する信頼は、もはや完全に失われていた。それに、以前から充を快く思っていなかった役員たちにとっては、絶好の機会でもある。このまま引きずり下ろし、別の人間をトップに据えたいのが本音だった。麟太郎は厳しい顔で黙り込み、怒りの籠もった目つきで充を睨みつける。長年、後継者として手塩にかけて育ててきた息子で、実際、充は経営者として目覚ましい成果を上げてきた。まさか、その自慢の息子が離婚をめぐる騒動でここまで会社を巻き込み、自分まで役員たちに責め立てられることになるとは思ってもみなかった。ここで充が解任され、社内から新たな社長が選ばれれば、誰が就任するにせよ、青木家の発言力は大きく落ちる。かといって麟太郎自身は高齢になり、最前線に立つほどの体力はもう残っていない。胡桃は優秀だ。だが麟太郎の古い価値観では、娘に家業を継がせるとい
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第434話

妻を蔑ろにすれば、運は逃げる。妻を大切にすれば、人生はうまく回る。昔はそんな言葉を聞いても、くだらないと一蹴していた。男が仕事で成功するうえで、妻の存在など大した影響はないと思っていたのだ。だが今になって、その意味を嫌というほど思い知らされていた。しかし、もう遅い。「俺は……」精神的に追い詰められた充は、自ら社長を退くと言おうとした。その瞬間、会議室のドアが勢いよく開いた。興奮した様子の秘書が飛び込んでくる。「会長!庄野グループの社長が、ご令嬢を伴ってお見えです。千億規模のリゾート開発プロジェクトの話で、ぜひ社長と直々に打ち合わせをしたいとのことなのですが」全員が驚きに目を見開き、慌ててガラス越しに外の様子を確認した。外には、ある一行がいた。先頭にいるのは50代ほどの男性。立っているだけで周囲を圧するような風格がある。その隣には、スタイルの良い、若々しいショートヘアの女性が寄り添っていた。その華やかな女は、ガラス越しに会議室の充をじっと見つめていた。その眼差しには、隠しきれないほどの想いが滲んでいる。「あの潮咲市で一番の資産家、庄野グループじゃないか!?まさかこんな土壇場で、手を差し伸べてくれるとは……」「願ってもない助け舟だ!ただ、うちは庄野グループと一度も取引をしたことがないはず。なぜ今、向こうからうちに?」取締役たちは顔を見合わせ、驚きを隠せない。麟太郎は、ガラスの向こうから何度も充の様子を窺っている女を見て、何かを察した。険しかった表情が、見る見るうちに和らいでいく。そして改めて充を見る目にも、意味ありげな色が浮かんだ。「お前、以前から庄野家のお嬢さんと親しくしていたのか?しかも、こんな大型プロジェクトまで計画していたなら、なぜもっと早く言わなかったんだ?これで全て解決じゃないか。庄野グループと契約して、二大グループが手を組めば、落ち込んだ株価も一気に回復するはずだ。千億規模のリゾート開発プロジェクトなんて、誰もが夢見るチャンスなんだぞ。充、何をぼやっとしている?会議は終わりだ、急いで出迎えてこい!」麟太郎に促され、充はようやく現実に戻った。そこでようやく、充も我に返った。驚いたように応接スペースへ目を向け、すぐに事情を察する。「分かった。先にお客様を迎えるので、
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第435話

麟太郎はわずかに表情を変えると、すぐに人のいない場所へ移動して電話に出た。受話器の向こうから、気だるげでどこか不気味な男の声が聞こえてくる。「例の人物の、手がかりがつかめたよ」麟太郎の表情が引き締まった。「話せ」「酒井豊は当時、金を持ち逃げして義妹と息子を連れ、A国へ逃亡した。その後ほどなく二人ともギャンブルにのめり込んで、持ち逃げした金をすべて使い果たしたみたい。唯一の息子は借金の片として、現地の裏組織に売り飛ばされ、その後は消息不明、完全に記録が消えている。でも……」麟太郎は思わず息を詰めた。「でも、なんだ?」男が低く笑う。「それ以外にもいくつか掴んだ情報がある。いつもの条件で……分かってるよね?」麟太郎は眉間に皺を寄せた。「金なら払う。金額を言え。すぐに振り込ませるから」男が即座に金額を告げ、麟太郎は涼子へすぐにメッセージを打った。ほどなくして、入金が完了する。「栗原はA国にいた頃、今の国際金融界で大物として知られる投資家のギルと親交が深く、頻繁に密会していたようだ。ギルはこの国出身みたいだけど素性は不明。でも、年齢的にも酒井が売り飛ばした息子と近い。ギルのプライベート写真をなんとか手に入れたから、すぐに送るよ」通話が切れると、すぐに写真が届いた。麟太郎が画面を開いた瞬間、その目に鋭い光が走る。長いあいだ引っかかっていた疑問が、一気につながった。その頃、充が会議室を出ると、佳乃がすぐに駆け寄ってきた。父親が見ている前だというのに、親しげに充の腕へ自分の腕を絡ませる。「充。私、来るタイミング完璧だったでしょ?」それは、甘えるような声だった。佳乃は充の肩越しに会議室を見やり、表情の固い役員たちを確認すると、満足そうに笑う。「これって……まさに救いの手、じゃない?」充は少し身を強張らせ、何食わぬ顔で腕を外そうとしたが、佳乃はより強く抱きついてきた。充は仕方なく笑みを作る。「ああ、助かった。ありがとう」少し先では、麟太郎と謙造がすでに挨拶を交わし、そのまま談話室へ入っていくところだった。佳乃は充の腕をつかんだままゆっくり歩き、充にだけ聞こえる声で囁く。「昨日の記事は読んだわよ。奈緒さん母娘と栗原家、やり方がひどすぎるわね。充があんなに尽くしたのに、相手はそれを利用して青木家まで
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第436話

佳乃の笑みも一段と深くなり、充を見つめる。「もちろん。私と向き合う気でいてくれるなら、急ぐ必要なんてないわ」そして自信満々に続ける。「それにね、私のことを知ってもらえれば、絶対に私を好きになるから」その点について、佳乃には揺るぎない自信があった。これまで数えきれないほどの男が佳乃に一目惚れをし、彼女の比類なき魅力にひざまずいてきた。そんな中で、接点を持ってもまるで靡かなかったのは充くらいだった。だからこそ、余計に執着してしまう。佳乃は元々、野心があり負けず嫌いな性格だった。だから、簡単に手に入らないものほど欲しくなるし、高い壁ほど越えたくなる。難しい相手ほど、自分のものにしたくなるのだ。それに、佳乃が求めているのは、今すぐ充が恋人になることではない。それでは簡単すぎて面白みに欠ける。ただ、付き合うことに同意さえしてくれればいいのだ。そうすれば、そのうちに絶対に自分を愛さずにはいられなくなる。4人の話し合いは午後いっぱい続き、共同事業について大枠の方向性までまとまった。佳乃たちを見送ったあと、麟太郎は充を自分のオフィスへ呼んだ。麟太郎は窓際に立ち、両手を後ろで組んだまま、いきなり本題に入る。「充、向こうから提携を持ちかけてきた件、どう見てる?相手の娘がお前に気があるのは見れば分かるが、お前自身はどうなんだ?」充は深く息をついた。やはり父の洞察力は鋭く、何もかも見抜かれている。充は真剣な眼差しで答えた。「今は恋愛をする余裕なんてない。けど、向こうからの提案が、今の青木グループに必要なのも事実。父さんはどう思う?」麟太郎は少し考えてから答えた。「ただ、共同事業となれば、青木グループも少なく見積もって800億円前後は出すことになるだろうな。資金繰りがかなり厳しい今、判断を誤れば取り返しがつかないことになる。慎重に考えるべきだな」充は真剣な表情で麟太郎を見る。「父さんの狙いは?」そのとき、麟太郎が振り返り、一枚の写真を取り出して、充へ差し出した。「充、この男を見てみろ。誰かに似ているとは思わんか?」充は怪訝そうに写真を受け取った。そしてじっと見た瞬間、思わず声を上げる。「誰なんだ、この人?目元が奈緒にすごく似てる」麟太郎の声が低くなった。「少し前から、奈緒の父親と兄
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第437話

仁哉との仕事の打ち合わせが終わった直後に、奈緒は充へ連絡をしていた。これまで何度もはぐらかしてきた充が、ようやく役所へ行くと言ったので、奈緒は長い安堵のため息をつく。「ついに充が役所へ行ってくれることになったから、今から行ってくる」仁哉はわずかに目を細めた。「それはよかった。おめでとう」その祝福の言葉を聞き、奈緒の胸に熱いものが込み上げた。ついに苦しみの終わりが見えたのだ。ようやく、すべてが終わる。傷だらけになったこの生活には、とうの昔にうんざりしていた。青木家の人間とも、青木家にまつわるすべてとも縁を切りたい。これからは仕事に集中して、黎の成長を見守りながら、穏やかに生きていきたかった。「エターナル・ピラー」への応募作品も、ほぼ完成していて、仁哉からいくつか意見をもらい、あと少し修正すれば提出できる状態だった。仁哉は経験と勘から、この作品なら受賞する可能性はかなり高いと、奈緒に言った。それに、もし受賞できればそのまま施工会社との開発へ進める可能性もあるし、順調にいけば、奈緒の作品は国際舞台へ進出し、A国に奈緒が手がけた大規模な建築プロジェクトを残せるかもしれない。そう考えるだけで、奈緒は胸が高鳴った。彼女はすぐさま車に飛び乗り、必要な書類を手に役所へと急ぐ。この歪んだ結婚生活を、今日こそ終わらせ、そしてこれからは、母と黎と3人で生きていくのだ。奈緒は高鳴る鼓動を抑え、握ったハンドルを何度も強く握り直した。30分後、待ち合わせ場所に到着した。車を止め、すぐに充に電話をかけるとすぐにつながり、充の声が聞こえてきた。「着いたか?俺はもう中にいる」奈緒は唇を引き結び、ようやく胸のつかえが取れた気がした。「うん。今行く」どうやら今回は、本当に腹を決めたらしい。もう離婚を盾に、これ以上振り回すつもりはないのだろう。奈緒は書類の入ったバッグを持ち、足早に建物へ向かった。だが、入口の前まで来たところで、ぴたりと足が止まる。そこには、巨大なフラワーウォールが設置されていた。中央には、嫌でも目に入る大きな文字。【妻へ。本当にごめん。もう一度だけ許してくれないか?】奈緒の心が一気に冷えた。嫌な予感しかしない。まさか充は、また同じ手段で離婚を先延ばしにしようというのか?奈緒が駆け寄
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第438話

奈緒はズキズキするこめかみを押さえた。もう、こんな意味のない言い争いに時間を使いたくない。「今日は離婚のためにここに来たの。喧嘩をしに来たわけじゃない。ねえ、離婚届に記入してくれるの?それとも、してくれないの?」奈緒はすでに我慢の限界だった。「まだごねるなら、もう裁判で決着つけるから」充にその気が無いと思った奈緒は、さっさと背を向け、立ち去ろうとした。それを見た充は、すぐさま追いかけて奈緒の手首を掴む。「待ってくれ。離婚に応じるけど、条件がある。この追加協議書にサインしてくれないか?」実のところ、充は奈緒に離婚に応じると伝えた時点で、すでに次の手を考えていた。ここまで来れば、ただ引き延ばすだけでは意味がない。奈緒は一度すでに離婚訴訟まで起こしているため、このまま拒み続けても、次の訴訟では離婚が認められる可能性が高い。もう、気持ちだけで押しとどめられる段階ではないのだ。それでも充の本心では、まだ離婚したくなかった。ただし今までのように感情のままに動き、奈緒に振り回されるつもりもない。ここ数日の騒動を経て、頭はむしろ異様なほど冷えていた。今、奈緒に愛だのなんだのを訴える気はない。必要なのは、駆け引きだ。花では駄目なら、別のやり方を使えばいい。奈緒側には奏介という弁護士がついているが、自分にも最強の法務チームがついている……奈緒が条件を出し、慰謝料を求めるなら、自分だって条件を出せるのだ。自分の手から離れたものを、もう一度掌の中へ戻さなければならない。「追加協議書」という言葉を聞いて、奈緒は勢いよく振り返った。眉間に深い皺が寄り、唇をきつく引き結んだ。充の視線と重なり、背筋に冷たいものが走った。「今度は何を企んでるの?充。私たちの関係はもうとっくに終わってる。こんなことでいつまでも引き延ばす意味はないの」しかし、充の表情は冷静だった。「離婚する以上、条件をすべて詰めてから合意するのは当然だ。お前が出した条件には全部応じたし、サインもした。なら今度は俺の条件も聞いてもらう。それは双方に認められた権利だろ?」奈緒は言葉に詰まった。またか……またこうやって、神経をすり減らされる。怒りが限界まで込み上げてきたが、それでもどうにか抑えた。感情を必死に押し殺し、奈緒は冷たく充を見つめた
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第439話

今回は、充が周到に準備してきたことが一目で分かった。しかも、これまでとやり方が全く違う。それも、奈緒にとっては、理解しがたいほど悪質な手だった。最初の数項目を読んだだけで、心臓が激しく脈打つ。奈緒は追加協議書をテーブルに叩きつけた。「充、結局何がしたいの?本当に欲しいものを言えばいいでしょ。娘のことを心から考えてます、みたいな顔しないで。吐き気がする」書かれているのは、どれもこれも娘の権利を守るためという建前ばかり。もっともらしい言葉を並べているが、中身は結局奈緒を縛るための条項なのだ。大勢の前で、自分の娘を実の子ではないと断言した男。妊娠中も、出産後も、娘のために何かしようとすらしなかった男。そんな男が離婚する段階になって、突然こんな条件を持ち出してきたのだ。奈緒は怒りで呼吸さえうまくできなくなる。奈緒が怒りに震えているのを見ても、充はいたって冷静だった。条項を指先で示しながら、まるで仕事の契約でも説明するような口調で言う。「俺が求めてるのは、ここに書いてあることだけで、どれも妥当だと思ってる。一つ目、黎の親権はお前でいいし、要求していた40億円の養育費も払う。ただし、それは黎用の成長信託に回して、もしお前が再婚した場合、黎の親権は無条件で俺に移ることになる。その条件に応じないなら、信託の受益権は凍結する」奈緒は息を呑んだ。その瞳が冷たく凍りついていく。「お金で私を縛るつもり?」充は肩をすくめ、当然だと言わんばかりの傲慢な態度を見せた。「縛るんじゃないさ。黎の将来を守るためだよ。娘のために用意したものを、別の家族と分け合う状況にもしたくないし、継父の顔色を窺って生きるような環境に、黎を置きたくないからな」言っていることだけ聞けば、すべて娘の将来を考えているように聞こえるが、実際には、奈緒の再婚の自由を牽制するための条件だった。今の奈緒は、再婚どころか次の恋愛すら考えていない。それでも、黎を使って自分の人生まで縛ろうとする充のやり方が、たまらなく不快だった。奈緒は深く息を吸う。爪が掌に食い込むほど、拳に力が入っていた。「ずいぶん先のことまで考えてるのね。それで?ほかの条件は?」ふっと微笑んだ充だが、その眼差しはナイフのように鋭い。「二つ目、親権がお前にあって、俺が
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第440話

今回は愛を語るなどという感情論ではない。充は「子供のため」という大義名分を盾に、奈緒が何より大切にしている黎を交渉材料にしている。そして、それによって奈緒の未来の選択肢まで塞ごうとしているのだ。奈緒の顔から血の気が引いた。怒りで全身が震える。「こんな契約書、絶対にサインなんかしないから!理由は一つ。黎を、私を脅すための道具にさせたくないから」充は奈緒の青ざめた顔を見ても、表情を変えなかった。むしろ満足したように椅子へ深く座り直す。「チャリティパーティーで仁哉が須藤本部長まで連れてきて、黎が俺の実の娘だと証明した以上、父親として、娘にできるだけ安定した環境を用意したいと思うのは当然だろ?この条件なら、裁判になってもある程度は考慮されると思うけどな」奈緒は勢いよく立ち上がった。そのまま手元のミネラルウォーターの蓋を開け、充の顔へ全部ぶちまける。「充……私、あなたがここまで卑怯な人間だとは思わなかった!でも、結婚してるって事実と黎の親権を使えば、私の人生を好きにできると思ってるなら大間違いだから!」充は顔にかかった水を拭い、怒るどころか、乾いた笑みを浮かべた。「俺が何をしても何を言っても、お前にとっては全部間違いなんだろ?だったらもう、間違ったままでいい……」充は顔を上げ、じっと奈緒の瞳を見つめた。「だから、離婚しないでくれとも、許してくれとも言わない。何度言っても意味がなかったからな。お前が俺たちの過去を一切考えず、感情なんてどうでもいいと言うならこれからは俺も同じようにやる。奈緒、俺の気持ちは最初から変わっていない。お前が戻ってきて離婚をやめるなら、俺が悪かったところは全部直すし、欲しいものがあるなら何でも与える。要求があるなら、できる限り全部応えるよ。でも、お前が強引に縁を切ろうというなら、父親として、黎のために条件を出すくらいは許されるだろ?お前が黎を大事にしてることは分かってる。でも将来、お前が選ぶ男が黎をどう扱うかなんて、俺には分からない。卑怯だと思うならそれでもいいし、やりすぎだと言うなら、それでも構わない。俺は父親として、やるべきことをやってるだけだから。昔の俺を思い出してみろ。本来の俺はこういう人間だったはずだ。感情で動かず、合理的に考える。最近の俺は、お前のことで頭に血が上がっ
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