LOGIN蘭は、振り上げかけたバッグを止めた。奈緒と充も同時に振り返る。3人が一斉に振り向くと、そこには宗時と琴葉、そして仁哉が足早にこちらへ向かってくる姿があった。先ほどのよく通る大声は、宗時のものだった。あのチャリティーパーティーでの一件をきっかけに、両家の距離は一気に縮まっていたのだ。宗時と琴葉は黎をすっかり気に入り、初めて会ったその日から、とても可愛がっていた。だからこそ、黎が発熱したことを知るや否や、二人して仁哉を運転手として呼び出し、急いで病院へと駆けつけてきたのだった。仁哉と充の視線がぶつかった瞬間、二人の表情が同時に険しくなる。「どうしてお前が?」「どうして君が?」ほぼ同時だった。口調までそっくりなほど、互いに敵意を隠していない。充は口元を歪め、鼻で笑った。「仁哉。お前は何の立場で、俺にその質問をしてるんだ?」仁哉は前に進み出ると、冷ややかな視線を向けながら低く言い放った。「単に疑問に思っただけだよ。僕が君の立場なら、家族そろってあれだけのことをしたあと、奈緒さんや蘭さんの前に顔を出すなんて恥ずかしくてできないからね」充のこめかみが、ピクリと痙攣する。「仁哉!これは俺と奈緒の問題だ。お前に関係ない!」充は救急処置室のドアを指差し、言った。「娘が高熱を出して中にいるんだ。今、お前と喧嘩する気はないから、空気を読んで帰ってくれ」仁哉が言い返すよりも先に、堪りかねた琴葉が仁哉を後ろにかばい、充に向かって怒声を上げた。「引き下がるべきなのは、そっちの方でしょ?それと、仁哉にそんな口をきかないで。次に同じ言い方をしたら、私が許さないから」あの夜の一件以来、琴葉はすっかり吹っ切れていた。以前なら、どれほど腹が立っても年下相手に大人げない、こんなことで揉めるべきじゃないと、自分に言い聞かせていたはずだ。だが、もうそんな遠慮はやめた。気に入らないことがあれば言うし、腹が立てば怒る。一度開き直ってしまえば、品よく我慢し続ける教授でいるより、言いたいことを言ってやるほうがよほど気分がいい。充は、奈緒側と栗原家が完全に一枚岩になっている光景を見て、苛立ちを募らせた。麟太郎から聞いた話まで思い出し、宗時と琴葉、仁哉を見る目がますます複雑になる。家族も、そして美紀も、今な
蘭の声は、今にも泣き出しそうに震えていた。「わかった。今すぐ行くから」電話を切った瞬間、奈緒の顔から血の気が引いた。今は充に構っている余裕などない。奈緒はそのまま充の肩を押しのけるようにして、外へ飛び出した。通話の内容は充にも聞こえていた。黎が高熱を出し病院へ運ばれている、そう分かった途端、充も奈緒を追った。奈緒が車のドアを開けて運転席に乗り込んだ瞬間、充もすぐ助手席のドアを開け、半ば強引に乗り込む。呆気に取られた奈緒。「何してるの?」充は声を落として言った。「黎が熱を出したんだろ?俺も行く」奈緒のこめかみに青筋が浮いた。「こんなときまで邪魔しないでよ!早く降りて!」充はシートベルトを締めると、断固とした態度で言った。「降りない。黎は俺の娘だから、あいつの具合が悪いなら、俺も行く」奈緒はもう言葉も出なかった。一刻を争う状況だ。こんなところで言い争っている場合ではない。奈緒は目を閉じ、深く息を吸った。込み上げる苛立ちを無理やり飲み込むと、そのままアクセルを踏み込む。車は勢いよく走り出した。病院へ着くと、奈緒は車を降りるなり救急外来へ駆け込んだ。奈緒は蘭の肩を掴む。「お母さん!黎は?大丈夫なの?」玄関で右往左往していた蘭は、奈緒を見るなりすがるように手を握った。「午後から急に熱が出て……解熱剤を二回飲ませたのに、下がったと思ったらまた上がって。もうどうしたらいいか分からなくて……奈緒、どうしよう……」黎を預かるようになってから、蘭にとって黎はまさに目に入れても痛くない存在だった。少し咳をしただけでも気になって仕方がない。まして今は高熱だ。冷静でいられるはずもなかった。蘭がさらに状況を説明しようとしたそのとき、視界の端に、見覚えのありすぎる男の姿が入った。途端に蘭の表情が変わった。さっきまでの不安げな顔は消え、一瞬で全身に棘が生えたようになる。冷え切った目で充を睨みつけた。「なんであんたがいるの?どの面下げて、奈緒に付いてきたわけ?青木家があれだけのことをしておいて、まだ奈緒につきまとうつもり?図々しいにもほどがある」蘭は怒りに任せて吐き捨てるように罵った。青木家が黎に向けた冷たい言葉。そして、実の子ではないとまで侮辱したこと……思い出す
奈緒はその場で固まった。まさか充が「ギル」――つまり兄の存在にまで辿り着いているとは思わなかった。その瞬間、奈緒は心臓が止まるような衝撃を受けた。兄がギルだという事実を知っているのは、この街では奈緒と蘭、そして仁哉だけ。兄と正式に再会し、本人が帰国するまでは、外に漏らすつもりなど一切なかった。兄は電話でも、海外でどんな苦労をしてきたのか決して語ろうとしない。けれど奈緒も蘭も分かっていた。今のギルが異国の地でこれほどの力を持つのに、どれほどの苦難と死線を越えてきたのか――決して平坦な道ではなかったはずだ。奈緒を守るために国内にいてくれている真司だが、何度も急な任務でA国へ飛んでいる。真司は何も話さないが、それだけでも十分だった。兄の周囲には、表には見えない大きな敵がいる。兄の傍、あるいは視界の及ばぬ闇には、強力な敵が息を潜めているに違いない。自分たち母娘には、今のところ兄を助けられるだけの力はない。だからこそ、二人は決めていた。決してギルの正体を外に漏らさないこと。そして兄を脅すための弱点として利用されないこと。兄がギルであることは、家族にとって最大の秘密だった。兄が戻ってくるまでは、何があっても守り抜く。奈緒は即座に平静を取り戻すと、冷めた口調で切り捨てた。「ギルって誰?何を訳の分からないこと言ってるの?」充はゆっくり距離を詰め、奈緒の目を探るように見つめた。「青木グループを潰せるほどの人間なんて、国内どころか世界を見てもそう多くない。奈緒、教えてくれ。お前の後ろには一体誰がいるんだ?」奈緒は視線を逸らさなかった。やはり、充は何かしらの手掛かりを掴んでいる。だからこそ、こんなふうに探りを入れているのだ。なら、なおさら悟らせるわけにはいかない。奈緒はふっと鼻で笑った。「今の青木家を見てよ。本当に外から誰かが手を出さないと潰れないと思ってる?外面だけは立派でも、中はもうボロボロじゃない。青木家を潰すくらい、私一人で十分よ。誰かの力を借りる必要なんてないんだから」以前の奈緒なら、嘘をつけばすぐ顔に出た。目を逸らし、頬を赤くして、何か隠しているのがすぐ分かった。だが今は違う。目の前に立つ奈緒は、あまりにも落ち着いていて、表情にも眼差しにも、何一つ揺らぎがない。もしかして…
今回は愛を語るなどという感情論ではない。充は「子供のため」という大義名分を盾に、奈緒が何より大切にしている黎を交渉材料にしている。そして、それによって奈緒の未来の選択肢まで塞ごうとしているのだ。奈緒の顔から血の気が引いた。怒りで全身が震える。「こんな契約書、絶対にサインなんかしないから!理由は一つ。黎を、私を脅すための道具にさせたくないから」充は奈緒の青ざめた顔を見ても、表情を変えなかった。むしろ満足したように椅子へ深く座り直す。「チャリティパーティーで仁哉が須藤本部長まで連れてきて、黎が俺の実の娘だと証明した以上、父親として、娘にできるだけ安定した環境を用意したいと思うのは当然だろ?この条件なら、裁判になってもある程度は考慮されると思うけどな」奈緒は勢いよく立ち上がった。そのまま手元のミネラルウォーターの蓋を開け、充の顔へ全部ぶちまける。「充……私、あなたがここまで卑怯な人間だとは思わなかった!でも、結婚してるって事実と黎の親権を使えば、私の人生を好きにできると思ってるなら大間違いだから!」充は顔にかかった水を拭い、怒るどころか、乾いた笑みを浮かべた。「俺が何をしても何を言っても、お前にとっては全部間違いなんだろ?だったらもう、間違ったままでいい……」充は顔を上げ、じっと奈緒の瞳を見つめた。「だから、離婚しないでくれとも、許してくれとも言わない。何度言っても意味がなかったからな。お前が俺たちの過去を一切考えず、感情なんてどうでもいいと言うならこれからは俺も同じようにやる。奈緒、俺の気持ちは最初から変わっていない。お前が戻ってきて離婚をやめるなら、俺が悪かったところは全部直すし、欲しいものがあるなら何でも与える。要求があるなら、できる限り全部応えるよ。でも、お前が強引に縁を切ろうというなら、父親として、黎のために条件を出すくらいは許されるだろ?お前が黎を大事にしてることは分かってる。でも将来、お前が選ぶ男が黎をどう扱うかなんて、俺には分からない。卑怯だと思うならそれでもいいし、やりすぎだと言うなら、それでも構わない。俺は父親として、やるべきことをやってるだけだから。昔の俺を思い出してみろ。本来の俺はこういう人間だったはずだ。感情で動かず、合理的に考える。最近の俺は、お前のことで頭に血が上がっ
今回は、充が周到に準備してきたことが一目で分かった。しかも、これまでとやり方が全く違う。それも、奈緒にとっては、理解しがたいほど悪質な手だった。最初の数項目を読んだだけで、心臓が激しく脈打つ。奈緒は追加協議書をテーブルに叩きつけた。「充、結局何がしたいの?本当に欲しいものを言えばいいでしょ。娘のことを心から考えてます、みたいな顔しないで。吐き気がする」書かれているのは、どれもこれも娘の権利を守るためという建前ばかり。もっともらしい言葉を並べているが、中身は結局奈緒を縛るための条項なのだ。大勢の前で、自分の娘を実の子ではないと断言した男。妊娠中も、出産後も、娘のために何かしようとすらしなかった男。そんな男が離婚する段階になって、突然こんな条件を持ち出してきたのだ。奈緒は怒りで呼吸さえうまくできなくなる。奈緒が怒りに震えているのを見ても、充はいたって冷静だった。条項を指先で示しながら、まるで仕事の契約でも説明するような口調で言う。「俺が求めてるのは、ここに書いてあることだけで、どれも妥当だと思ってる。一つ目、黎の親権はお前でいいし、要求していた40億円の養育費も払う。ただし、それは黎用の成長信託に回して、もしお前が再婚した場合、黎の親権は無条件で俺に移ることになる。その条件に応じないなら、信託の受益権は凍結する」奈緒は息を呑んだ。その瞳が冷たく凍りついていく。「お金で私を縛るつもり?」充は肩をすくめ、当然だと言わんばかりの傲慢な態度を見せた。「縛るんじゃないさ。黎の将来を守るためだよ。娘のために用意したものを、別の家族と分け合う状況にもしたくないし、継父の顔色を窺って生きるような環境に、黎を置きたくないからな」言っていることだけ聞けば、すべて娘の将来を考えているように聞こえるが、実際には、奈緒の再婚の自由を牽制するための条件だった。今の奈緒は、再婚どころか次の恋愛すら考えていない。それでも、黎を使って自分の人生まで縛ろうとする充のやり方が、たまらなく不快だった。奈緒は深く息を吸う。爪が掌に食い込むほど、拳に力が入っていた。「ずいぶん先のことまで考えてるのね。それで?ほかの条件は?」ふっと微笑んだ充だが、その眼差しはナイフのように鋭い。「二つ目、親権がお前にあって、俺が
奈緒はズキズキするこめかみを押さえた。もう、こんな意味のない言い争いに時間を使いたくない。「今日は離婚のためにここに来たの。喧嘩をしに来たわけじゃない。ねえ、離婚届に記入してくれるの?それとも、してくれないの?」奈緒はすでに我慢の限界だった。「まだごねるなら、もう裁判で決着つけるから」充にその気が無いと思った奈緒は、さっさと背を向け、立ち去ろうとした。それを見た充は、すぐさま追いかけて奈緒の手首を掴む。「待ってくれ。離婚に応じるけど、条件がある。この追加協議書にサインしてくれないか?」実のところ、充は奈緒に離婚に応じると伝えた時点で、すでに次の手を考えていた。ここまで来れば、ただ引き延ばすだけでは意味がない。奈緒は一度すでに離婚訴訟まで起こしているため、このまま拒み続けても、次の訴訟では離婚が認められる可能性が高い。もう、気持ちだけで押しとどめられる段階ではないのだ。それでも充の本心では、まだ離婚したくなかった。ただし今までのように感情のままに動き、奈緒に振り回されるつもりもない。ここ数日の騒動を経て、頭はむしろ異様なほど冷えていた。今、奈緒に愛だのなんだのを訴える気はない。必要なのは、駆け引きだ。花では駄目なら、別のやり方を使えばいい。奈緒側には奏介という弁護士がついているが、自分にも最強の法務チームがついている……奈緒が条件を出し、慰謝料を求めるなら、自分だって条件を出せるのだ。自分の手から離れたものを、もう一度掌の中へ戻さなければならない。「追加協議書」という言葉を聞いて、奈緒は勢いよく振り返った。眉間に深い皺が寄り、唇をきつく引き結んだ。充の視線と重なり、背筋に冷たいものが走った。「今度は何を企んでるの?充。私たちの関係はもうとっくに終わってる。こんなことでいつまでも引き延ばす意味はないの」しかし、充の表情は冷静だった。「離婚する以上、条件をすべて詰めてから合意するのは当然だ。お前が出した条件には全部応じたし、サインもした。なら今度は俺の条件も聞いてもらう。それは双方に認められた権利だろ?」奈緒は言葉に詰まった。またか……またこうやって、神経をすり減らされる。怒りが限界まで込み上げてきたが、それでもどうにか抑えた。感情を必死に押し殺し、奈緒は冷たく充を見つめた
一方、音を聞きつけた恵が慌てふためいて部屋から飛び出してきて、声を張り上げた。「地震です!地震が来たんですよね?」そして、香織もギャンギャン泣いている赤ちゃんを抱っこしていたけど、その音を聞いて、裸足のままバッグを掴んで外へ飛び出し、靴を履くのも忘れてしまうほどだった。……しかし、二人がリビングに駆け込むと、いつもは冷静な奈緒が、狂ったように大切にしていた置物を次々と床に叩きつけていた。その光景に、二人はあっけにとられた。それを見て恵が慌てて駆け寄り、止めに入った。「奥様、おやめください!ちゃんと話し合ってください、奥様!」香織も泣きやまない赤ちゃんをあやしながら、
一方、奈緒は会場を出るとアクセルを踏み込み、二人の新居である水鏡ヶ丘の家へと車を走らせた。そして、ドアを開けると、昔からいる使用人の井上恵(いのうえ めぐみ)と、奈緒が雇ったベビーシッターの黒崎香織(くろさき かおり)が、一緒になって赤ちゃんをあやしていた。二人は、奈緒の顔が真っ青なのを見て、ぎょっとした。「奥様、どうかなさいましたか?」そう言われ奈緒は、なんとか笑顔を作って答えた。「なんでもないの。お腹が空いちゃって。温かいうどんかなんかを作ってくれる?」そして、香織から赤ちゃんを受け取ると、奈緒の荒れ果てた心は、そのあどけない寝顔を見てようやく落ち着きを取り戻した。
パーティー会場のなか。奈緒は、充から目を離さずにいた。彼は上機嫌な様子で、グラスを片手に美紀を連れて、各テーブルに挨拶回りしている。「仁哉は今、大事な仕事で海外なんだ。戻ってくるのに1年はかかりそうだから、今日は、彼の代わりに、俺が皆の相手をするよ。それに美紀は産後でまだ本調子じゃないし、お酒とかは控えた方がいいだろうから、彼女の分も、俺が飲むよ」……一方、それを聞いた奈緒は、口にしたオレンジジュースが、やけに冷たく、苦く感じた。そして、その冷たさは胸の奥まで、染み渡っていくようだ。二人は長年一緒に仕事をしてきたが、どんな付き合いの場でも、充は彼女のことを酒豪だと言って
「充、今日で赤ちゃんが産まれてから1ヶ月経つの。私たちを迎えに来てくれない?」青木奈緒(あおき なお)は、おくるみに包まれた娘を抱きながら、期待を押し殺した落ち着いた声で言った。しかし電話の向こう、夫の青木充(あおき みつる)は感情の起伏がなく、平坦な声で言った。「すまない、急に予定が入った。運転手にお前たちを迎えに行かせるよ」出産も、産後の大事な時期も、充はずっと仕事で忙しいと言ってそばにいなかった。今日は赤ちゃんと一緒に産後ケアの施設から帰る、記念すべき日なのに、やっぱり彼は来てくれない。奈緒は切なくなったが、それでもこぼれ落ちそうになる涙を必死にこらえた。「…







