All Chapters of 君に触れたい〜逃した未来は大きかった〜: Chapter 11 - Chapter 20

32 Chapters

11話

同時刻、御子柴家二階の廊下にて。 弥一はかれこれ30分以上そこに立ち尽くしていた。 かすみに声をかけられたことがあまりに気まずかったため一目散に逃げてきたわけだったがー 「俺の部屋どこだよ?」 そう、一人呟いた。 自分の部屋がわからないのも当たり前である。 何せ、彼がこの家を訪れるのはこれが初めてだったのだから。 あの日、かすみと初めて会って結婚させられた日。 弥一は早苗に家の駐車場まで送ってもらうと、 「早苗さん、急で悪いんだけどこの後予定が入っちゃったんだ。だから、海老原市には早苗さん一人で帰ってくれる?」 そう言って、満面の笑みを浮かべる。 早苗はそれを冷ややかな目で見つめ返すと、 「かすみさんが一人お家でお待ちだということをお忘れですか?そんな冗談を言ってる暇がおありでしたら、早く支度してきてください。」と、言った。 ちっ、やっぱり騙されないか。 そう思った弥一は真面目な顔つきになると、 「早苗さん。俺の心には雪菜しかいなんだ。他の女性なんて愛せない。」 そう真摯に伝えた。 だが、早苗の表情に何の変化も見られなかったため、弥一はさらに言葉を続ける。 「それに、中途半端な態度を取ることは、却ってあのおばさんにも失礼でしょ?だから、ここは敢えてー」と、弥一が言い終わらない内に、早苗が「あのおばさん?」と、眉間に皺を寄せる。 弥一は、自分が自然とそう口にしていたことに指摘されて気付いたようで、 「あー、っと、失礼。おばさんなんかじゃなかった…あの女性。そう、あの女性にだって失礼だと思うんだ!だからー」と言いかけたところで、再び早苗が口を挟む。 「彼女のお名前はご存知ですか?」 「あ?名前?えーっと…」 あれ、何て言ってたっけ?全然覚えてない。 そんな弥一に、早苗はその目を細めると、 「わかりました。では、私は海老原市に戻ります。失礼致します。」 そう言って素早く運転席に乗り込むと、その後は弥一に一瞥もくれることなく、華麗な運転捌きで走り去って行った。 その場に取り残された弥一は、「あー、まあ。うん…とりま、オーケイかな?」と独り言を呟くと、くるりと踵を返して家の中に入って行った。 その後、弥一が取った行動は周知の通りである。 なので、彼は二階に駆け
last updateLast Updated : 2026-04-23
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12話

「何してるの?」 お盆を手に階段を昇りきった咲希は、片方の手を壁につき、もう片方の手を腰に当て、こちらに背を向ける形で立っている弥一を目にし、そう尋ねた。 「あ、何?俺?見ての通り考え事ですけど?それぐらい聞かなくてもわかるだろ。」 そう言って壁から手を下ろして二人に振り返る弥一に、三雲は苦笑した。弥一もわりかしプライドが高いのだな、と。 そんな弥一に咲希は、見透かしたように、 「自分の部屋もわからなければ、ドアを開ける勇気もなくて立ち尽くしてたわけね。」 さすがの妹。 咲希にずばりと言い当てられた弥一はわかりやすく動揺した。 そして、「立ち尽くしてなんてないっ!」と、間髪入れずに大声で否定したのだが、それはもう肯定したも同然だった。 へえ、そうなの? とでも言うよな視線を投げかけてくる咲希に、弥一は、 「あの、あれだ。部屋に入ろうと思ったら会社から仕事のメールが来ちゃったんだよ。で、それについて考えてた所に二人が来たってわけ。な?」 「どの部屋に入ろうとしてたの?」 あー、もう! 何でうちの妹は"察する"ってことができないんだよ!本当にこいつH大学通ってんのか⁉︎だとしたら、頭悪すぎないか? そう心の中で毒づく弥一に、"仕方ない、見逃してやるか"そう思った咲希は、「これ、かすみさんから。」と言って、お盆を少し弥一の方へ近づけた。 お盆の上には、先程咲希が食べた鯛のお茶漬けのセットと、なぜかスポーツドリンクが置かれていた。 「何これ。どういう組み合わせ?」なんて文句を付けるような言い方をしつつ、弥一のその目はお盆の上の食べ物たちに釘付けだった。 正直、立ち尽くしてる間家中を満たすカレーの香りと出汁の香りに、弥一のお腹はグーグーと鳴りっぱなしだった。それに、アルコールを摂取したことでかなり喉も渇いていた。 だから、そんな弥一にとってスポーツドリンクは正に喉から手が出るほど欲しいものだったし、刺身や薬味が乗ったご飯にも涎が出そうだった。なにより、ほんのりと香ってくる出汁の匂いがたまらない。 彼はガツンと来るカレーの匂いよりも出汁の香りが気になっていたので、かすみがそっちを用意してくれたことに、内心驚くと共に感謝していた。 だが、またしてもあんな態度を取った手前、素直な感情を表現するわけに
last updateLast Updated : 2026-04-24
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13話

咲希の胸を高鳴らせたことに気付く様子はなく、三雲は背を向ける弥一に歩み寄る。 今日の二人のやり取りを見ていた三雲には、二人が一度ヒートアップすると鎮火するまでに時間がかかるということを学んでいたことと、弥一のかすみに対する態度を少し改めて欲しい。 そんな思いから、説得役に名乗りを上げたのだった。 「喉は乾いてるし、腹も減ってるんだろ?かすみさんはそれに気付いてくれて、こうやって準備してくれたんだぞ?お前のことをちゃんと気に掛けてくれる人に、その態度はないんじゃないか?」 そう言われた弥一の身体が強張った。彼だって本当はわかっているのだ。自身の態度が行き過ぎていることをー しかし、おそらく彼自身ではこの状況に収集がつけられないのだろうということも、三雲たちには分かっていた。 だから三雲はそれ以上責めるようなことは言わず、 「お前の書斎は突き当たりの右の部屋だって。その向かいの部屋が主寝室らしい。残りの部屋はゲストルームだそうだ。」 そう説明された弥一は、顔を上げると、廊下の突き当たりにある左のドアに目をやった。 主寝室、ということは、そこは弥一の寝室でもあり、かすみの寝室でもあるということだ。 その事実に弥一はうろたえる。 一体どんな顔して眠ればいいって言うんだ?無理だろ! そんなことを思っていた弥一だったが、三雲の「ちなみにかすみさんと早苗さんの部屋は揃って一階だってさ。」 その一言に、「え?」と言って、振り返ると、 「じゃあ、二階は俺だけの部屋ってこと?」 「ああ。」と、三雲は答える。 「寝室も?」 「そうだって言ってるだろ。」 それを聞いた弥一が、あからさまにほっとしたのを見て取った三雲は、「俺たちはお前に食事を渡したら今日はもう帰るから。お前はこれから書斎ででもご飯を食べるんだろ?」 「え?ああ、まあ…」 「そっか。冷めない内に早く食べろよ。」 と、弥一に言うと、今度は咲希に向かって、「これ、もらうね?」と言って、咲希からお盆をもらい受けると、 そのまま「はい。」と言って、弥一に渡した。 「あと、かすみさんからの伝言で、食べ終わったら階段のとこにでもお盆ごと置いといてくれってさ。」 「え?ああ、うん。わかった。」 「階段より先には立ち入らないから安心してください、だっ
last updateLast Updated : 2026-04-25
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14話

「いや、もうないよ。」 そう三雲は答え、さらに、 「じゃあ、俺たちはこれで帰るから。また明日職場で。」そう言うと、咲希に「行こうか。」と、声を掛ける。 咲希が、「うん。」と答えると、三雲はすぐさまくるりと背を向け、そのままスタスタと階段を降りて行ってしまった。 何だか怒っているような三雲に、弥一と咲希は少し呆けたように立っていたが、咲希は、はっとすると、 「今日の貸しは高く付くからね!あと、自分で食べたものくらい自分で洗いなさいよ!」そう捨て台詞を残し、三雲を追いかけるように、急いで階段を降りて行ったのだった。 階下に降りた咲希の目に、階段下で立ち尽くしている三雲の姿が目に入る。 「どうしたの?」と、その背中に咲希が問いかけると、 三雲は振り返って、 「お金持ちって大変だね。」 「え?」 「俺は、結婚相手すら自由に選べばない御子柴のことをかわいそうだと思う。」 それを聞いた咲希は、それは相手の女が悪すぎるからだと抗議しようとした。しかし、三雲はすぐさま言葉を続けると、 「だからって。かすみさんにあんな態度で接する御子柴に俺はすごく腹が立つ。」 そう言って拳を握る三雲の背中を、咲希はポンポンと叩いた。 「かすみさんだって、別に御子柴のことが好きなわけじゃないと思う。」 「そうだね。」と、咲希は三雲の背中をさすりながら答えた。 「けど、かすみさんはそれでも思い遣りを持って接してくれてるのに、御子柴だって本心では分かってるはずなのに。御子柴は確かにかわいそうだけど、かすみさんのほうがもっとかわいそうだ。」 咲希は答えず、ただその背中をさすった。 しばらくして、三雲が落ち着いたのを感じ取った咲希は、三雲の正面にまわり込むと、その顔を下から覗き込んだ。 「諭くんって本当にいい人だね。いい人だし、すごくかっこいいなって思ちゃった。」 そう言って見つめらた三雲は、ぱちりと瞬きをすると、 次に驚いたような顔をしたと思ったら、みるみるその顔が赤くなっていく。 先程はかすみのことを弥一にどう言えば伝わるかなど、そのことに集中していたため、咲希のことをあまり意識せずに済んでいた。 しかし、一度意識しだしたらもう、このクオリティーの前にはあたふたするより他なかった。 「からかわないでよ、咲希ちゃん。」そう言って三雲はネクタイを緩めると、さ
last updateLast Updated : 2026-04-25
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15話

静かに扉が閉まり、残されたかすみはその場にひざを着くと、二人が脱いだスリッパを丁寧に片付けた。 二人が自身を心配してくれたことに心が痛む。 そんなことをしてもらう権利は自分にはないのに、と。 そう思いながら、かすみは後ろめたさにずきずきと痛む胸に手を当てると、自嘲気味に笑ったのだったー その頃二階では、弥一が書斎の机の上にお盆を置いて食事をしていた。 カラカラに乾いていた喉に、冷えたスポーツドリンクが染み渡っていく。弥一はそれを一気に飲み干すと、ふうと深く息を吐いた。 次に、咲希がしたように弥一も急須の蓋を取ると、その香りを嗅ぐ。上品な昆布の香りに思わず目を閉じる。 弥一はそっと目をあけると、急須の蓋を閉め、急須を手に持ち、どんぶりの中にさらさらと注いでいった。 そして手を合わせると、「いただきます。」と言って食べ始めた。 美味しい。 強いアルコールでダメージを負った胃を労わるような優しくも旨みがしっかり出たその味付けに、弥一は一口一口味わうように食べ進めていった。 最後にどんぶりを傾けて出汁の一滴まで飲み干すと、彼は満足そうに息を吐いて、書斎の椅子の背に深くもたれかかった。 それから、机の上の空になった食器たちを目にする。 いらないなんて言っておきながら、出されたものを全てきれいに食べ切ったことに、今さら体裁が悪いと思った弥一は、食器から目を逸らした。 だがすぐ、聞かれたあの時はそう思ったけど、あれから時間が経ったのだから、気持ちが変わるのは当然だろう、そう思い直した。 そして、お盆を手に持つと書斎から廊下へと出る。 階段の所まで来た弥一は、咲希に言われたことを思い出し、自分で洗おうかと考えた。 しかし、その際かすみと出会したら、と想像しただけで気まずさが込み上げたため、そこは伝言通りにお盆をその場に置くことにした。 その時、静かに置いたのでは気付かないだろうかと考え、わざと一つ咳払いしてみた。気付いただろうかと階段の下を覗き込んだが、リビングのドアが開くような音は聞こえてこなかった。 しばらくその場で様子を伺っていた弥一だったが、かすみが来る気配がなかったため、くるりと踵を返すと、主寝室のドアを開け中へと入っていった。 弥一が主寝室に入って十秒ほど経った後、リビングのドアが開きかす
last updateLast Updated : 2026-04-26
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16話

次の朝。 スッキリと目を覚ました弥一は、ベッドの上で伸びをすると、スリッパを履いてバスルームに向かった。 いつもなら、酔うほど飲んだ次の日の朝は、起きるのが億劫になるほどの頭痛に見舞われるのに、今日はそれが一切ない。 洗面台の鏡に映る顔も、ぐっすりと眠れたからか、クマもなければ血色も良かった。 弥一は満足そうに鏡の中の自分を眺めた後、顔を洗い、髪を整えた。 そしてベッドルームに戻ると、クローゼットから新しいスーツやワイシャツなどを取り出すと、着替えに取り掛かった。 最後に軽くネクタイを締めると、スーツの上着とカバンを手に、ドアノブに手を掛ける。 彼は、ふうと一つ息を吐くと、ゆっくりとドアノブを回して廊下へと出る。 と、開けらたドアの隙間から、味噌汁の良い香りが漂ってきた。 弥一は普段この時間にお腹が空いていることがないため、基本朝食は食べないのだが、昨日は夜ご飯を軽く済ませただけだったからか、結構お腹が空いていた。 なので、その匂いに釣られるように階下へと降りて行ったのだが、リビングのドアの前まで来ると、その足を止めた。 昨日は書斎で食べられたから良かったが、朝食はおそらく、この先のダイニングテーブルで取らなければならないのだろう。 かすみに遭遇すると思うと、彼はそのドアを開けられないでいた。 朝飯なんて、会社前にコンビニでも寄って適当に何か買えばいいじゃないか。そう思ったのだが、昨日の料理の味をふと思い出す。 朝食もきっと美味しいに違いない。 どうする、どうする、と思考を巡らせる弥一だったが、結局は食欲の誘惑に負けてしまうのだった。 彼は深く息を吸い、「よしっ。」と小声で呟くと、敢えて冷たい表情を作ってからドアを開けた。 弥一がドアを開けて中へ入ると、ダイニングテーブルの上には、既にいくつかの料理が置かれているのが目に入った。 置かれた料理からは湯気が上がっており、それがまだ温かいことを示していた。 辺りを見回したが、かすみの姿は見当たらなかった。 それでも、弥一は幾らか辺りを警戒しながら席に着く。 そして、目の前の料理に目をやった。 控えめに盛られた白く輝くご飯に、じじみの味噌汁。 四角く平らな皿の上では焼き上げられた鮭のサーモンピンクと、出汁巻き玉子の黄色が鮮やかに映
last updateLast Updated : 2026-04-26
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17話

強張っていた弥一の顔が綻ぶ。 口に入れた出汁巻き玉子は、噛んだ所からじゅわ〜っと出汁が溢れ出ると共に丁度いい塩味が広がっていく。 うま〜。 あとまだ箸を付けていないのは、「お新香か。」 そう言って、弥一はキャベツを箸でつまみ上げると、そのまま口に入れた。 あっさりとしたその味は、まさに箸休めに丁度良く、何よりシャキシャキとした歯ごたえ心地良い。 弥一はうんうんと頷くと、残りの料理を次々に平らげていったのだった。 弥一が用意されていた全ての料理を食べ終えると、自然と手を合わせ「ごちそうさまでした。」と、声に出して言っていた。 普通の声量で言ってしまったことに、はたと気付いた弥一は、すぐさま辺りを見回した。 幸い、近くにかすみの気配はなく、安心したようにほうと息を吐いた弥一は、気恥ずかしさを隠すように厳しい顔つきを作ると、すくっと立ち上がった。 そのままドアの前までいくと、そこで一度立ち止まる。 耳を澄ましてみたが、やはり、人の気配は感じられなかった。 「部屋にでも戻ってるのか?」 そう呟いた弥一だったが、まるで彼女を気に掛けているような口ぶりだったことに、その頭をブンブンと振ると、記憶からそのことを追い出そうとした。 そしてそのままリビングのドアを開けて出ると、玄関でスリッパから革靴に履き替え、そのまま玄関から外へと出て行った。 弥一が出て行ってしばらくした頃、キッチンで息を殺していたかすみが、ようやくダイニングルームへと顔を出す。 ダイニングテーブルに目をやると、そこには綺麗に平らげられた後のお皿だけが並んでいた。 かすみはお盆を手にダイニングルームへ入ると、手際よく皿を片付け始めたのだが、ふとかすみはその手を止めた。 先程キッチンで息を潜めている時に聞こえてきた、弥一の「ごちそうさまでした。」という声が、不意に頭の中に響く。 事前に早苗さんから彼の好みを訊いておいて良かったなと思った。 まさか彼がこの家に帰ってくる日が来るとは思っていなかっただけに、今朝の朝食作りには苦戦した。 特に出汁巻き玉子。 かすみは甘い出汁巻き玉子が好きで、それしか食べたことがなかったため、美味しい塩味の出汁巻き玉子というものをうまく想像できなかった。 そこで、ネットのレシピにあった通りに作ってみた
last updateLast Updated : 2026-04-27
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18話

そうやって突如始まった二人の生活は、順風満帆とは到底いかないまでも、かすみの行き届いた配慮のおかげで、割りかしスムーズに過ぎて行った。 彼女は弥一と顔を合わせることがないよう徹底していた。 最初は失礼がないよう、笑顔をモットーに丁寧に接することで少しでもこの生活が穏やかにいけばと思っていた。 しかし、初めて会ったときも、二度目に会った時も、彼の自身に対する拒絶反応はすさまじく、結局自分と会わないようにしてあげることが一番の解決策なのだと悟ったからだった。 そこに早苗が戻ってきて、二人の仲介役を買って出てくれたことで、さらに生活は安定していった。 食事はかすみが作り、出来上がった料理を早苗が弥一の元へ運ぶ。 彼女は弥一の食事中その傍らに行儀良く立つと、弥一の表情一つ一つを、本人に悟られることのないよう観察した。 弥一はというと、本家でもそうだったため、自身の食事中に早苗が傍で立っていることを特に気にすることもなければ、まさか観察されているとも思っていなかったために、思い思いに食事を楽しんでいた。 そして、早苗は弥一が食べ終えた食器をキッチンへと運びながら、そこで息を潜めて待機していたかすみに向かって、弥一の表情から読み取った料理の味の感想を伝えるのであった。 そうやって、少しずつ少しずつ、かすみは弥一の好みを完璧に把握していったのである。 そうやって、この二年間を過ごしてきたのだ。 ただ、一年程経った頃からだろうか。弥一のかすみへのよそよそしく、拒絶するような態度はだいぶ和らいでいった。 忘れもしない、あの日ー その日、かすみはご近所さんからのお裾分けでいただいた野菜の段ボールを、キッチンへと続く裏口から中へと運び込もうとしていた。 野菜は両手で持てる段ボールいっぱいに入っており、女性の中だったら割りかし力があるかすみでも、一苦労しそうな重さだった。 無理せず小分けにして運ぼうか、そう思い、かぼちゃと大根をまずは運んでしまおうと、段ボールに手を伸ばしたその時だった。 ふいに背後から、「何それ、野菜?もらったの?」 と、男に声を掛けられる。 この家にいる男など弥一しかいない。 瞬間かすみは硬直した。 今日は土曜日で、弥一の会社は休みだった。そのことはかすみも知っていた。 だが、早苗からは、土曜日は弥一はいつ
last updateLast Updated : 2026-04-27
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19話

「おっ、かぼちゃだ!俺かぼちゃのサラダ好きなんだよね。マヨネーズとチーズと黒胡椒たっぷりのやつ。前作ってくれたでしょ?あれまた食べたいな。」 そう言ってから、「また作ってくれる?」と、かすみを見た。 かすみは、弥一が不快にならないよう、目が合う前に視線を逸らし、さらに俯くことで自身の横髪で顔が隠れるようにすると、「もちろんです。早速今夜の晩御飯にお作りしますね。」と、丁寧に答える。 少しの間、そのかすみの横髪をながめていた弥一だったが、顔を正面に向き直すと、 「これキッチンに運ぶの?」 「ああ、はい。そうですね。」 「ん。」 そう言って、弥一は少し立ち上がると、次に段ボールを持ち上げた。 かすみは慌てて自分も立ち上がると、「私がやりますから、置いてください。」 弥一はその魅惑的な唇の端を持ち上げると、 「俺ってそんなに非力そう?」と、聞く。 かすみは視線を伏せたまま、「いえ、そういう意味ではなくて。これは私の仕事ですので。」 そう、本当にこれは彼女の仕事だった。 やるべきことをやり、その対価として報酬をもらう。 彼女がこの家に来てからしていることは、仕事以外のなにものでもなかったのだが、私欲のために10歳も年が離れた子にこんなことを付き合わせていることに、かすみは自身を最低だと思うと自嘲気味に笑った。 弥一がそう問いかけたというのに、またしてもかすみとは目が合わなかった。だが、今度はその横顔が見て取れた。口元には微笑を浮かべているように見える。 けど、さっきのとはまるで違うー さっきはおじさん相手にあんなに楽しそうに笑ってたっていうのに。 弥一は今日、先方の体調が優れないとかで、いつもの面倒な接待ゴルフがキャンセルされた。 なので、再びベッドに戻ると昼過ぎまでぐっすりと二度寝した。その後、起きて軽くシャワー浴びた。 お腹は空いていたが、今日自分は夕方までいないことになっている。予定のない食事を作らせるのはさすがに悪いかな、そう思い、ゴルフの最中小腹が空いたら食べようと前もって買っていた惣菜パンで空腹を凌いだ。 夕食まで時間をつぶそうと、弥一が書斎で本を読んでいた時。 外から車のドアが閉まる音がしたと思ったら、男性の声がし、次に明るい女性の声が聞こえてきた。 窓から覗いて見てみ
last updateLast Updated : 2026-04-28
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20話

その背中をぼんやりと見送りながら、かすみは無意識に携帯電話を取り出すと、カレンダーのアプリを開く。 358日。 この生活が始まってからのクセで、かすみは事あるごとにカレンダーのアプリを開いてはこの数字を確認する。 もう折り返しは過ぎた。 あと少し。もう少しの辛抱ですからー そう思いながら、かすみはキッチンの方へ目を向けると、「ごめんなさい。」と、呟いたのだった。 かすみは思考を過去から現在へと戻した。 先程、かすみの携帯電話に三雲から、「接待が今終わりました。これからそちらへ帰ります。」とのメッセージがあった。 かすみは、「承知致しました。お帰りの際は、どうぞお気をつけて。」と、メッセージを返す。 と、画面を閉じる前に、カレンダーのアプリを開いた。 そこには0日と表示されている。 今朝、いつものように早苗に弥一からの伝言だと言って、接待で帰りが遅くなること。今日の相手とはお酒をかなり飲むことになるだろうから、いつものを用意しておいて欲しいとのことを告げられた。 かすみはあの日、酔い覚ましにはスポーツドリンクが良いとのネットの情報を信じてそれを買ってきたのだが、よくよく考えると、甘いものが苦手な彼にそんな飲み物を用意してしまったことを後悔していた。 きっと、あの日の彼は無理をしてそれを飲んだに違いない。 そう思ったかすみは、次からはただの水を用意するようにしたのだが、後日弥一から、お酒を飲んだ日はスポーツドリンクを用意してもらいたいと言われた。 それと、鯛茶漬け。 だから、弥一がお酒を飲んで帰ってきた日には必ず、鯛茶漬けとスポーツドリンクをセットで出すようになった。 弥一に出会ったのがちょうど二年前の今日だった。 彼に初めて出した食事は鯛茶漬けとスポーツドリンク。 今考えてもとんでもない組み合わせであることに、かすみは苦笑した。 そして今日、初めて出したのと全く同じ食事を出すことになる。 幕引きには丁度いいのかも。 そう思い、かすみは食事の準備に取り掛かるのだった。 玄関に着いた弥一は、ドアを開けようと取手に手を伸ばした所で、ふとその手を止めると、スーツの上着に目をやった。 嗅ぐまでもなく、香水臭いことがわかるその上着に、弥一はため息をつくと、上着のボタンを外し素早くそれ
last updateLast Updated : 2026-04-28
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