All Chapters of 君に触れたい〜逃した未来は大きかった〜: Chapter 21 - Chapter 30

32 Chapters

21話

今度は弥一が慌てる番だった。 早苗に香水臭い上着を着ていることで冷たい目を向けられるのを避ける為に脱いだ上着だったが、脱いどいて正解だったと思った。 と、言うのもー かすみに他の女性の存在を気取られるのは避けたい、とそう思ったからだった。 たが、なぜそう思うのかは自分でもわからなかった。 きっと、早苗のような視線を彼女にも向けられるとなったら癪に障るからだろうと、そう思うことにした。 なので彼は頭をフル回転させると、「お酒のせいで身体が熱くなったんだ。だから脱いだ。」と、最もらしい意見を述べる。 かすみは「そうだったんですね。」と頷くと、「接待お疲れさまでした。いつものをご用意してありますので、どうぞダイニングにてお召し上がり下さい。」と言った。 弥一は唇を噛んで「うん。」と答えると、革靴からスリッパに履き替える。 そして、かすみが開けてくれたドアからリビングへと入っていった。 ドアノブに手を掛けたまま、弥一が通り抜ける様を伏し目がちに見ていたかすみだったが、ふと目線を上げた先で、弥一の首の襟元にべったりと付いた口紅の跡を見つけてしまう。 前に比べたら、彼の自分に対する態度はだいぶまろやかになった。 ただ、それはもちろん好意からではないことくらいわかっている。 彼なりにこの生活を少しでも過ごしやすくしようとの配慮からだろう。 そう思いながら、再びワイシャツの首の襟元に目をやる。 若い子が好むような、ツヤツヤとした可愛らしいピンク色の口紅の跡を、かすみはじっと眺める。 本来なら、このぐらいの年頃の女の子と付き合っているはずなのだ。 なのに、自分の私欲に付き合わせた結果、彼の輝かしい二年間を無駄にさせてしまった。 正直、かすみは弥一が居ないでいてくれたほうがありがたかった。その方が、自分の罪悪感から容易に目を逸らすことができたからだった。 けど、彼は帰ってきた。というか、連行されてきた。 その日から、彼は義務感からか毎日ちゃんと家に帰ってくるようになった。 かすみも、彼の迷惑にならない範囲で自分ができることをしようと思ったのだが、結局はご飯を作るというそれしか役に立てなかった。 かすみは何度目になるかわからない、声に出さない謝罪の言葉を、その背中に投げかけるのであった。 弥一がダ
last updateLast Updated : 2026-04-29
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22話

弥一は彼女が座ったのを確認すると、自身も席に戻り座った。 そして、いつも通りその手を行儀良く合わせると、「いただきます。」と、言った。 それなのに、なぜか弥一は料理に手をつけようとしない。 彼に出した鯛茶漬けは、いつも出すものと寸分違わぬものだった。まあ、少々味や盛り付けの違いはあるかもしれない。とはいえ、あくまでも"少々"だ。そうなはずである。 何が彼の気に触ったのだろう、とかすみは弥一に出した料理の粗探しをする。しかし、何がダメなのかがさっぱりわからなかった。 おずおずと視線を上げたところで、それが弥一の視線とぶつかった。 弥一は、かすみのそのハの字になった眉に内心笑ってしまったが、そんな感情は一切表に出すことなく、「食べてもいいの?」と、聞いた。 むしろなぜ食べてはいけないと? そう思ったかすみだったが、「もちろんです。どうぞお召し上がりください。」と言って微笑んだ。 その言葉に、弥一はそのゴツゴツと男らしくも、整った指先で急須を持ち上げると、どんぶりへと出汁を注ぐ。 注ぎ終わると、急須を箸に持ち替え食べ始めた。 かすみは彼に声をかけた後すぐ、その視線をテーブルへと落とした。人様が食事している様子をじろじろと見るのは不快だろうと思ったからだ。 ダイニングには弥一が食事をする音だけが静かに響く。 今日、かすみがいつもとは違う行動を取ったのは、今日という節目を迎えたことで、弥一に、この二年間の感謝と謝罪を述べようと思ったからだった。 早苗には先にそのことを伝えていた。だから、今日彼女は気を利かせ席を外してくれたのだった。 かすみは弥一の食事中ずっと、何と言って切り出そうかとそのことばかりに集中していた。 なので、弥一が食事をしながらも視線を自分に向けていることになど全く気づかなかった。 弥一は対面に座るかすみの顔を改めてまじまじと見つめる。 どこにでもいそうな平凡な顔だな そう思いながらも、彼はその視線を外さなかった。 いつからか分からないが、彼女は弥一が正面にいるときでも、話しかけているときでも、あまり彼の方を見なくなったことに気付いた。敢えて逸らされているらしいことにも気付いていた。 そのことに気付いてからの弥一は、彼女のほうを段々と見るようになっていた。どうせ見た所で彼女と
last updateLast Updated : 2026-04-29
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23話

確かに、最初の頃は自分の態度にも問題があったとは思う。それは認める。 けど、ある日突然、最愛の人がいながら全く面識もなければなんの思い入れもない人と結婚させられて、すぐ順応できる人など果たしているだろうか? いや、いない! いや、何かしらの策略がある人ならできるかもしれないが、そんな人そうそう居ないだろう? だから、自分があんな態度を取ってしまったとしても無理はないと思うし、それだって今となってはもう過去の話だ。 家に帰るようになってからは、徐々に、確実に自分は変わっていったと思う。 未だに妻としてだとかそんな風には見れないが、早苗に対するような、それなりの礼儀を持って自分は接しているつもりだった。 三雲の前ではかすみのことを"おばさん"だなんて呼んだりしてるが、それだって嫌味で言ってるわけじゃない。こんなのいわば、愛称みたいなものじゃないか。目くじらを立てるほどのことではないだろう。 それだってのにこの人と来たらー ある日突然、彼女は心を閉ざしたかのように、自分に対してよそよそしく接するようになってからというもの、態度を改めるつもりがないのか何の変化も見られない。 一応"妻"という肩書きなのだから、夫が出かける前には笑顔で「いってらっしゃい」と見送り、帰ってきたら「おかえり」と笑顔で出迎えるとか、そういうことをするべきなんじゃないのか? せっかく笑顔だけはそれなりに可愛いってのに、おばさんが何を出し惜しみする必要があるっていうんだよ。 そう考えれば考えるほど腹が立ってきた弥一は、かすみに対して不満たっぷりな視線を向けた。 と、その時だった。 唇を軽く噛んでいたかと思ったかすみが急に、その唇を舌で濡らすようにゆっくりと舐めたのである。 弥一は瞬間びくり身体を震わせると、みるみるうちにその顔が赤く染まる。 一気に熱が下半身に溜まっていくような感覚に、弥一は慌てて目の前のスポーツドリンクの蓋を開けると、一気にそれを飲み干した。 思案に耽っていたかすみだったが、目の端で弥一がものすごい勢いでスポーツドリンクに手を伸ばしたのを感じ取り、何事かと視線を上げる。 弥一は一気に飲み干したことでの息苦しさから、肩で息するように二度、三度と荒々しく息を吸っては吐いてを繰り返した。 見かねたかすみが「大丈夫
last updateLast Updated : 2026-04-30
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24話

そう思った弥一は、 「謝って済むことじゃないだろう。」 と、声を押し殺したように言う。 そうでもしないと、一気に欲望が爆発しそうだったからだ。 心の中で何度も、落ち着け落ち着け、と言って、その昂ぶりを何とか抑え込む。 だが、かすみにはそれがどうにかして怒りを抑え込んでいるように見え、再度「申し訳ありませんでした。」と、誠心誠意謝罪する。 それから、 「御子柴さん、どうかもう一度私に機会をいただけませんか?」 と、言った。 何か口直しになるようなものを作らせてほしい。そういう意味だった。 だが、弥一はその申し出にあからさまにうろたえる。 反省するどころか、更なる誘惑を仕掛けてこようというのか⁉︎一体…これ以上何をするつもりなんだ? 互いに盛大に勘違いをしていたが、互いにそれに気づかなかった。 というかー と、弥一はふと、あることに思い至る。 まさか、先程から彼女が緊張しながら一生懸命に何か考え込んでいるようだったのは、このことだったのか? 俺をどう誘惑しようか、とあれこれ考えていたとでも? 弥一はかすみをちらりと見やる。 そんなにも、俺に抱かれたかったっていうのか? 考えれば考えるほどに、弥一には合点がいった。 いつもは出迎えることのないかすみが出迎えた上に、早苗の姿はない。それはかすみが邪魔が入らないよう人払いをしたということなのだろう。 そして、かすみの緊張のあまり目の前の弥一に目を向けることができないでいる様子が、全て、点と点が線で繋がったかのように、一つの答えを導き出していた。 彼女は俺に抱かれたがっている。 その答えに辿り着いた弥一は、羞恥のあまり、言葉が出なかった。 顔を赤らめたまま、どうしよう、と目を泳がせる。 と、その目がかすみの目と交錯した。彼女は珍しく、弥一の目を真っ直ぐ見ていた。 弥一の感情に訴えるような真剣な眼差しだった。 弥一は赤面したまま、その眉根を下げる。 いくらなんでも急すぎる。心の準備が全然できていない。 けど、不思議と嫌な気はしなかった。 むしろ、何故か唇の端が、にやけるように吊り上がっていく。 弥一の心臓がバクバクと音を立てていった。息がうまくできていないのか、呼吸が苦しい。 彼はその唇を右手の手の平
last updateLast Updated : 2026-04-30
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25話

断られたことが余程ショックなのか、彼女は俯いたままその顔を上げようとしない。 その様子に、弥一は何か言葉を掛けようと口を開いたのが、かすみは弥一の予想を裏切ってその顔をぱっと上げると、 「御子柴さん、今日のことは本当に申し訳ありませんでした。」と言って頭を下げた。 弥一はさすがにそこまでしなくてもと思い、慌てて、「もういいから。何度も謝られてもこっちも困るし。」と言った。他意はなかった。 かすみは頭を上げたが、相変わらずその目線は下にあった。 弥一も再度、「本当にもう謝らなくていいから。」と念を押す。 かすみは困ってしまった。まだ謝るべき最大の件が残っているというのに、こうも念を押されては切り出し辛い。 しかし、そうは言われても、謝らないのではこの二年間への筋が通らないだろう。 そう思ったかすみは、意を決して口を開いた。 「御子柴さん、実はお話ししておきたいことがー」 そう言い終わらないうちに、弥一のかばんから電話の着信音が鳴った。 くぐもった音でも、弥一にはその音がはっきりと聞き取れた。 聞き取れたが故に、しばらくぶりに聞く、当時彼女のためだけに設定したその着信音に、弥一は瞬間、かばんに向かって走り出す。 弥一は素早くかばんを開けると、そこからスーツの上着を取り出した。かばんを開けた所から、たちまち辺りにはキツイ香水の匂いが広がったが、彼はそれを気にも留めなかった。 スーツの内ポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。 〈雪菜〉 着信画面に表示されたその名前に、弥一は複雑な表情を浮かべた。 喜んいるような、苦しんでいるような。それと、なんで今さら、といった責めるような視線。 そんな様々な感情が彼の中で入り乱れていることが見て取れた。 弥一はその画面を見つめるだけで、電話に出ようとはしない。 電話の着信音はその後もしばらく鳴り続けていたが、発信者がいよいよあきらめたのか、ふいに音が止んだ。 その場には、ただ静寂だけが広がっていく。 弥一はふらりと立ち上がると、「疲れたから、もう部屋に戻って休む。」 そう言うと、足元のかばんと上着を拾い上げ、魂が抜けたかのような頼りない足取りでリビングのドアへと向かって行った。 と、思い出したかのようにドアの前で足を止めると、少し後ろを振り
last updateLast Updated : 2026-05-01
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26話

二年前、かすみは八重子との間にとある契約を交わした。 八重子は孫の目を覚まさせるべく、少しの間、孫の妻(仮)としてを生活を共にしてくれる人を探していた。 そんな時に出会ったのがかすみだった。 八重子が出した条件は、弥一の妻(仮)として一緒に暮らすこと、ただそれだけだったが、お金をもらう以上はもっと厳粛にやろう、とかすみが自分の中でさらに条件を付け加えていった。 そして出来上がったのが、彼の食生活を支え、彼の邪魔にならない範囲で彼の生活を最大限整えること、だった。それがこの家でかすみが自分に課した仕事であったが、彼女は一度としてそれを、八重子が払う莫大な対価に見合うものとは思っていなかった。 というのも、八重子からは生活費と称して月々三百万円もの大金が振り込まれていたからだ。 かすみの作る料理に高級なものは一つもない。全てが家庭料理としての範疇に留まるものだった。 なので、生活費に充てたとしても、かなりの金額が残るわけである。そして、その残りのお金の全てがかすみの報酬金とされていた。 かすみは多すぎると言って八重子に減額するよう求めたが、八重子は当然の金額だと言って聞く耳を持たなかった。 さらには、二年後、この生活をやり遂げた日には、感謝の気持ちとして更に五億円を渡す、とそう言われた。 もちろんかすみは断ったが、八重子も八重子で譲らない。 「かすみちゃん、今後の人生のために良いこと教えてあげる。いい?もらえるものはね、なんでも遠慮なくもらっておくべきなのよ!」 そう言って、晴々とした、見ていて気持ちいい笑顔を浮かべる。 八重子のそれは、まるでちょっとしたお小遣いをあげるくらいの言い方だった。 文字通りの大金持ちな八重子と自分の価値観のあまりの違いに、当初からかすみは面食らってしまっていた。住む世界が違うとはまさにこのことか、と身をもって体験した出来事だった。 「それはかすみさんが要求したわけではなく、支払う側の八重子さまがそう決めたものなのですから、やはり気に病む必要はありませんよ?」 早苗に何度もそう言われたかすみは、そういうものなのだろうかと納得しようとした。 そして、かすみは気持ちを切り換える。 今日という日に有終の美を飾ることはできなかったが、せめて与えられた仕事はきっちりこなそう。
last updateLast Updated : 2026-05-02
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27話

「わざわざこんな暗い中出て行かなくても。」 玄関先まで出てきた早苗は、キャリーケースを手に靴を履き替えるかすみに、そう声を掛ける。 靴を履き終えたかすみは、振り返ると、 「そういう契約ですから。」 そう言って笑った。 それから、早苗に向けて深々と頭を下げると、 「早苗さん、本当にお世話になりました。」と、言った。 早苗は慌ててかすみにその頭を上げさせると、 「よしてくださいよ。私は何もしてはいませんし、してたとしてと大したことじゃありません。」 「早苗さんがいてくれたからこの二年間を乗り切れました。早苗さんが間に入ってくれてたからこそ、私たちの生活は成り立っていたのですから。」 「全てはかすみさんの努力あってこそのものです。」 温かい言葉に、かすみは目頭が熱くなる。 そんなかすみに、早苗も目元を潤ませると、 「まるで今生の別れのようになっておりますが、私はここであなたとの縁が切れるなどとは思っていませよ。」 かすみの頬を涙が伝う。 「っ、私もです。早苗さん、私は必ず夢を叶えます。その時は必ず、八重子さんと一瞬にいらしてくださいね!」 「ええ、約束です。」そう言って、早苗はかすみの手を取ると、その手を自身の手で軽く叩いた。 かすみは早苗の目を真っ直ぐに見つめると、「本当にお世話になりました。」と言った。 早苗はなんとか涙を堪えると、うんうんと頷き、 「身体に気をつけて。」 「早苗さんも。どうぞご自愛くださいね。」 二人は名残惜しそうにお互いの手を握り合っていたが、やがてその手を離すと、かすみはキャリーケースを引きずって玄関のドアを開けた。 最後にもう一度、かすみは早苗のほうを振り返ると、「ありがとうございました。」と言った。 早苗は今一度ただ頷くのみだった。今生の別れではないと自分で言ったものの、何か話そうものなら、泣いてしまいそうだったからだ。 早苗に頷き返したかすみは、次に背筋を正す。 そして背を向けると、ドアから出て行った。 早苗は堪らず目元を拭った。 かすみとの生活は日々穏やかに流れていったが、一緒に皿洗いをしたり、食事の下ごしらえをしたり、買い物に行ったりと、ささやかながらもその丁寧な暮らしはどれもが楽しく、心豊かになるものだった。 人生の本当の贅
last updateLast Updated : 2026-05-03
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28話

「まずいまずいまずいまずいー」 弥一は呪文でも唱えるかの如く、その言葉を呟き続けながら、とにかく手と足を動かした。 慌ただしくシャワーを浴びると、ドライヤーで髪を八割ほど乾かした。それから、クローゼットに駆け寄るとスーツやワイシャツを引っ掴み、バタバタと着替える。 着替え終わった弥一は、主寝室から出て階段を一気に駆け降りると、腕時計に目をやった。 7:42 もう歯は磨いてあるが、出勤前に何かお腹に入れておきたい。 お酒を飲んだ次の日の朝ごはんのメニューも決まっているから、いつも通り、しじみの味噌汁が出るはずだ。 そう考えた弥一の口は、もうしじみの味噌汁の口になっていた。味噌汁を一杯飲むくらいの時間はある。他のを残してしまうことは申し訳ないが、時間がないのだから致し方ないし、わかってくれるはず。あと、歯磨きは会社に着いてからすればいいだろう。 そう思い、弥一はリビングへ続くドアノブへと手を掛ける。と、弥一の頭にふと昨日のことが思い出された。 彼は自然と顔が緩むの感じ、それにはたと気づくと、まるで雑念を追い出すかのように頭をぶんぶんと振った。 それから、「よしっ。」と自身に掛け声を掛けてリビングへと入る。 「おはようございます。」 早苗は少し冷めたような目つきでそう挨拶しながらも、いつも通り朝食の準備をしてくれていた。 弥一はサッと辺りを見回したが、かすみの姿はなかった。 昨日のこと、引きずっているのだろうか? 弥一は少し申し訳ない気持ちになりつつ、椅子を引いて席に着いた。 ダイニングテーブルには、鮭の焼き物に、だし巻き玉子、漬物と、いつも通りのメニューが並んでいる。 そしてもちろん、お目当てのしじみの味噌汁もあった。 弥一は「悪いけど、時間がないから味噌汁だけいただくよ。」と、キッチンにも聞こえるよう、わりかし声を大きくしてそう言った。 それに対して早苗が、「そうでしょうね。」と言う。 早苗の小言に、弥一は咳払いを一つすることで払拭すると、「いただきます。」と、手を合わせた。 そして、しじみの味噌汁が入ったお椀に手を伸ばすと、一口啜った。 「ん?」 弥一は、不思議がるようにその眉をひそめる。 気のせいかと思い、もう一口啜ってみる。 あれ、何でだ? 弥一の眉間がさら
last updateLast Updated : 2026-05-04
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29話

かすみはアラームの音に、ぱっと目を覚ました。 昨日はお酒の席があった日だから、今日の朝ごはんはいつものやつを作らないと。 そう思いながら、まずはアラームを止めようとベッドから起き上がる。 彼女は手を伸ばしアラームを止めると、そこでやっと、部屋の様子がいつもと違うことに気づくのだった。 「ああ、そうか。もう終わったんだった。」 彼女はそう呟くと、再びごろりとベッドに横になった。 この二年間で久しぶりとなる二度寝に、彼女の顔が綻ぶ。 昨日は日付けが変わってから車移動したこともあり、彼女の身体はまだ睡眠を欲していた。 そして、彼女にはそれをする時間が与えられている。 ああ、なんて贅沢なんだろう。 そう思いながら、かすみはゆっくりとその目を閉じていった。 彼女が再び目を覚ました時、時刻は午後二時を回っていた。たっぷりと寝られたことに、かすみは満足そうに「ん〜!」と伸びをする。 それからベッドから出ると、そこを軽く整えた。 かすみの新しい家は、二階建ての店舗兼住宅だった。一階がお店で、二階を自宅として使用するタイプの家だ。 間取りはそこまで広くはないが、立地が立地なだけにかなりいい値段がした。そんな物件をかすみが購入できたのは、偏に八重子のおかげであった。 かすみは、洗面台で顔を洗うと、そのまま着替えることもなく寝巻き姿のままキッチンへと向かった。 彼女は寝巻きと称して高校の時の赤ジャージの下と、白地に丸文字で"世界着服"と縦に書かれたTシャツを愛用していた。 これとは別にもう1セット、赤ジャージの下に、黒字に白文字で"猫のしもべ"と書かれたTシャツもあって、彼女は毎日交互にそれらを寝巻きに着ていた。 もちろん、海老原市のあの家でもかすみはそれらを寝巻きにしていた。ただし、自身の部屋の中でのみ、だったが。 誰の目を気にすることもなく、くたくたに伸びて着心地の良い服に身を包み、自身のためだけに気ままに料理を作る。 材料は昨日、ここに来る前に寄った二十四時間営業のスーパーでに買い込んだものだ。 彼女はその、言葉通りの"自由"に、思わず鼻歌を歌っていた。だが、ふとその鼻歌を止めると、顔を左に向ける。 二年間そこにはいつも早苗がいて、ぺちゃくちゃと二人で話すこともあれば、ただ黙々と手を動かすだけの
last updateLast Updated : 2026-05-05
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30話

午前の業務を一頻り終えた弥一は、ふうとため息を吐くと、椅子の背もたれに深く沈んだ。 今朝は時間がなかったため朝食を食べられなかったことと、仕事で頭を使ったことで、弥一のお腹は究極に空いていた。 お昼には少し遅くなってしまったが、昨日約束したこともあり、三雲を誘って行きつけの寿司屋に行こうと椅子から立ち上がる。 ついでに、昨日と今朝の出来事について、三雲に意見を求めよう、とそう思った。 弥一があの家に帰るようになって以来、弥一にとって三雲は、自分の置かれた境遇を知る唯一の同期であり友として、信頼し、重宝していた。 その証拠に、一年前、自身が社長に就任することになった時も、自身の秘書に迷わず三雲を選んだのだった。 弥一が社長室を出たとき、ちょうど中に入ろうとしていた三雲と鉢合わせた。 「ちょうど良かった。約束通り寿司をご馳走するから、これから一緒に食べに行こう。」 そう、弥一は三雲に声を掛ける。 三雲は、「社長、毎回毎回そんな風にしてもらわなくても大丈夫ですよ。接待だって重要な仕事の一つなのですから、私は単に仕事したにすぎませんし。」と、気を遣う。 弥一はそんな三雲の耳に顔を近づけると、ヒソヒソ声で、「相談したいことがあるんだ。つべこべ言わずに行くぞ。」と、言った。 三雲は呆れたような顔をすると、「マーケティング部から企画書のことでお前のサインが欲しいと頼まれた。それにサインしてくれたら、俺がそれをすぐマーケティング部に届ける。そうしたら、晴れてお前の相談とやらに付き合えるけど?」と、小声で返す。 「どれだ?」と間髪入れず尋ねる弥一に、三雲は書類を差し出す。 弥一は書類を受け取ると、サッと目を通した。 企画書は、新しくデザインした下着の展示会についてのものだった。 よくまとめられた資料に、弥一は万年筆を取り出すと、最後のページに流れるようにサインをした。 そしてそれを、「ん。」と言って、三雲に差し出す。 三雲は書類を受け取ると、「先に車の方へ向かっていてください。」と、そう言って、走り去って行った。 弥一は言われた通り、先に車へ向かおうと思い歩き出した。 と、休憩室の前を通り掛かった時だった。 中から聞こえてきた話し声に、弥一は思わず足を止める。 ちらりと中に目をやると、そこには男が三
last updateLast Updated : 2026-05-06
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