All Chapters of 死ぬほど大嫌いな幼馴染と、政略結婚することになりました。: Chapter 91 - Chapter 100

105 Chapters

第91話 祈里と嶺

「嶺……お前の息子だろ、どうにかしろ!」 そのか細い、泣き声のような叫びに、冴の父は顔を歪めた。「お前が、俺への愛を示すために、永久に愛し続けると言った。……子供同士を結婚させて、家同士を繋ぎ、生涯俺たちが繋がる『印』を残すと言った……っ! お前の妻……あの役に立たない“孕み袋”の代わりに、俺が三人も種を植え付けさせられた。大金を払って違法な遺伝子操作までして、女が産まれるように調整もした……! その結果が、このザマだ」 その告白に、俺は血の気が引くのを感じた。 俺が生まれてきた理由さえも、父親同士の歪んだ愛を繋ぎ止めるための「道具」でしかなかったと、突き付けられたから。「お前は金に目がくらんで黒瀬と羽鳥の息子をあてがったが、それすら今、縋ることはできない。……お前は後継者を持てず、香月には金も齎されない。なあ、……この状況で、お前はどうやって、俺に死ぬまで愛してるって、結びつきが解けないって示してくれるんだ!?」 父の叫びが、豪奢な応接間の空気を切り裂く。 家門の断絶。愛の破綻。築き上げてきたすべてが砂の城のように崩れ去っていく中で、父さんは虚空を見つめ、ひきつった笑い声を漏らした。その瞳にはもはや理性の光はなく、ただ真っ黒な執着だけが、瞳を濡らしている。「俺を死ぬまで愛すと言ったよな 」 父さんは笑いながら、冴の父の胸ぐらを掴み、その端正な顔に自分の顔を近づけた。「……祈里、落ち着いて」 慈しむような、けれどどこか冷めた声で宥める。その声が、心のなかに火をつけたようだった。 父さんの指が、冴の父さんの首筋に食い込み、血管が浮き上がる。その形相は、かつての冷静な当主としての面影を完全に失っていた。「俺のことを本当に愛してるなら……今すぐここで死ね。俺の目の前で。お前の命が尽きる瞬間、その瞳に俺だけを映して死ね! 俺のためなら命なんか惜しくないってことを、今、その喉を掻き切って証明してみせろよ!」 狂気に満ちた叫び。父さんはテーブルの上にあったペーパーナイフを掴んだ。 自分への愛を信じられない不安を、相手の死でしか埋められない――それは、あまりにも歪で、あまりにも純粋な深淵だった。 冴は、自分の父親の首を絞めるようにしてネクタイを引っ張って発狂する俺の父と、その狂気を憐れみの混じった眼差しで見つめ続ける自分の父を、静かに見つめ
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第92話 そして僕たちの未来

「……祈里、二人で話そう」まるで壊れた人形のように抱えられ、よろめきながら奥へと去っていく父さんの後ろ姿。俺は、その頼りなく細くなった背中が、重苦しい闇の奥へと吸い込まれていくのを、ただ静かに見送っていた。自分の腕に残る、父さんがつけた痣の熱。肌が焼き切れるようなその感覚を、俺はもう一度だけ強く噛み締める。この痛み、そして紫色の痣は、あまりにも歪で凄惨な結末――俺たちに向けられた、あまりに冷酷な餞別となってしまった。「美森」冴の低く、静かな声が、凍りついていた俺の意識を現実へと引き戻す。広い香月の応接間には、もう誰もいない。父親たちの罵声も、張り巡らされていた監視の目も、家柄という名の分厚い鎖も、今はもうどこにもない。その事実が不意に胸を突き上げ、俺は溢れ出す涙を止める術を失った。「…………冴……っ」冴の胸元に顔を埋め、その首筋に必死にしがみつく。「……っ、お前がどんなものより愛おしい」冴は心から、ほんとうに心から込み上げる想いを、言葉で紡ぐようにして言った。二度と離すまいと、爪が食い込み、指先が白くなるほどそのシャツを掴み、喉を鳴らして泣く。冴の体温。肌の匂い。力強く、逃がさないとばかりに俺を抱き返すその腕の感触。そのすべてが、どれほど世界が敵に回ろうとも、これだけは嘘ではないという真実の愛として俺を包み込んでくれる。何もかもが引き裂かれた果てに、ようやく辿り着いた静寂。俺たちの未来がどうなるのかは分からない。けれど、今こうして冴の心音を聴いていることだけが、俺にとっては何にも代えがたい幸福だった。***【 side:後堂冴 - 数年後 - 】「ただいま」 三月の中旬。冬の肌寒さがしぶとく残る時期、俺は古びたアパートのドアノブを回した。 一歩踏み込めば、そこには一気に春を先取りしたようなあたたかい空気が満ちている。 キッチンに立っていた美森は、湯気の上がった鍋をかき混ぜながら、柔らかな表情で顔を上げた。「おかえり、冴」 その朗らかな顔を見るだけで、外の世界で張り詰めていた胸の奥がふっと緩むのを感じる。 マフラーとコートをハンガーにかけると、吊戸棚から皿を取ろうとする美森の背後から手を伸ばした。「ほら」 代わりにとって手渡すと、「ありがとう」と穏やかな声が返ってくる。 鞄から空の弁当箱を
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第93話 暗い時間をぬけて

ただ、暗い部屋の隅で膝を抱え、嵐が過ぎ去るのを待つ小鳥のように、ひっそりと息を潜めていただけ。 そのあまりに静かで献身的な絶望こそが、傍にいる俺の心を、どんな叫び声よりも激しく揺さぶり続けていた。 一方で、黒瀬と羽鳥は、謝罪の一つもないまま海外の兄弟校へ「留学」という名の逃げ道を辿った。 彼らの親も、愛息の人生に「誘拐」や「窃盗、盗撮」といった噂が付くのを恐れたのだろう。 最後に俺が黒瀬と顔を合わせて話したのは、祈里さんたちと四者で話し合いを終えた後。学園の生徒会室でのことだった。『……失礼します。私に話があると、お聞きしたのですが』『とりあえず座れ。……単刀直入に訊く。お前が俺の後を継ぐ意思があるかどうか知りたい』『……今、そのようなことを悠長に話していられる余裕がおありで?』『ない。お前の顔を見るくらいなら、美森の傍にいる時間を一秒でも多くしたいくらいだ。……けれど、いずれにせよ次に生徒たちから指名されているのはお前だ。名前が挙がっているうちは候補として検討しなければならない。お前の意思確認も含めてな』 次期生徒会長に選任されていたものの、美森の心を完全に手に入れることは出来ないと悟った黒瀬は、その打診を断った上で、生徒会室を出て行った。 そんなやりとりから一ヶ月もしないうち――学園を去った黒瀬には、どんな謝罪も、愛の言葉も届かない自覚があったらしい。 俺への恨み言ひとつ言わず、どこか心は別の場所にあるかのような表情だった。 そうして、黒瀬との婚約は、後堂家が違約金を肩代わりすることで清算された。 美森の父・祈里さんは、精神的な失調を理由に当主の座を退き、今は長男の百合さんと、次男の雲雀さんが、傾きかけた香月家を立て直そうと奔走している。 そして、俺の父親は――。 祈里さんの執着的な愛を満たすべく、毎日その入院先を訪れ、病棟で献身的な看病に明け暮れているという。 祈里さんは記憶が乖離する症状があり、日によっては自分を高校生だと思い込んで父に甘えることもあるらしい。 自分に子供がいること、もう十数年の時が経っていることを理解することは、難しいようだった。 心を病んだものの、片時も離れない恋人を手に入れた……それは、ある意味彼の求めていた「究極の愛」が叶ったのかもしれない。 父はこれまでの埋め合わせをする
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第94話 君へのプロポーズ

美森は人生で初めての「節約」にも凝り始めた。遠くの店まで自転車を走らせる。俺が仕事から帰ったとき、少しでも食べ応えを感じられるようにと、安価な食材を工夫して献立を考えてくれる。 キッチンに立つ背中は、それまで見たどんな姿よりも真っ直ぐで、一生懸命だった。「あーっ! 冴、見てよ。芽が出てきた」 ベランダで育て始めたサラダ菜に、慈しむように水をやる姿。 サロンの仲間に感化されて「今度は糠床を育ててみたい」なんて照れ臭そうに語る横顔。 そのどれもが、今までにないくらい愛らしかった。 これ以上の愛情がこの世にあるなんて、俺には思えない。 自分の飯を一食抜いてでも、帰り道に一輪の花を買ってやりたい。 美森がショーケースの前で足を止めていた、あの好物を買ってやりたい。 一刻も早く、もっと余裕のある暮らしをさせてやりたいと焦る一方で、俺はこの静かでささやかな平穏を、何よりも尊く感じていた。 世間が求める豊かさとは違うかもしれない。 けれど、この狭い部屋の中で、俺と美森は、間違いなく満ち足りていた。 ……ただ、一つを除いて。「美森」「ん? どうしたの」 カレーの皿を洗い終えた俺は、畳の上にぺたんと座る美森の正面に腰を下ろした。 窓の外では、春を待つ静かな夜風がそよいでいる。「話がある」 俺の真剣な声に、美森は居住まいを正すと、少し緊張した面持ちで「なに?」と首を傾けた。「……俺たちがまだガキだった頃。お前は『ずっと大好きだったら、結婚と同じことだよ』と言ったよな」「それ……まだ覚えてたの?」 少しだけ照れたように、はにかむ。 その柔らかな微笑みを、俺はもう二度と逃したくないと、失いたくないと思いながら見つめていた。「……俺は、この国で法的に認められないからといって、妥協したくない。お前と本当に籍を入れたいんだ。海外へ行って、夫婦として正式に結婚したい。……要するに、実生活のすべてにおいて、お前と分かちがたく結ばれたいと思ってる」 俺は鞄から小さな箱を取り出すと、それを開き、美森へと向けた。慎ましいアパートの照明の下で、白く、強く、純粋な光を放つプラチナの輪。 これを手渡せるようになるまで、随分と遠回りをしてしまった。 かつての金銭感覚なら、一日の小遣いで買えたかもしれない指輪。 けれど、自分の力で働いて用意し
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第95話 新婚旅行編①

【――同棲開始・プロポーズから数年後】 美森との二人暮らしが始まってから、早三度目の春が巡ってきた。 この小さなアパートでの生活にも、いつの間にかすっかり馴染んだ。慣れない環境に振り回されて熱を出したり、体調を崩したりすることも、めっきり少なくなった。 俺の塾講師のアルバイトと、美森のフラワーアレンジメントの非常勤講師。互いの稼ぎを合わせても、いまだに贅沢な暮らしとはとても言えない。それでも慎ましく、節約を重ねるこの日々の中で、俺たちはいつしか「ささやかな幸せ」を言葉にしなくても自然と共有できるようになっていた。 ふと思い立って、自分の預金通帳と一緒に、引き出しの奥から眠っていたもう一冊の通帳を取り出す。 早くに亡くなった母の遺産。あの切迫した逃亡生活のただ中で、一度はすべてを下ろして使おうとしたお金だ。その後、美森に「もうそのお金には手を付けないで」と静かに諭され、少しずつ、少しずつ預け直したものだった。 いつか俺にやりたいことができた時のために、と彼は言う。自分のことよりも、俺の未来を先に考えてくれるその優しさに、改めて美森らしさを感じてしまう。(……本当なら、このお金は、あいつの幸せのためにこそ使いたい) そう心の中で呟いて、俺は静かに通帳を閉じた。「冴、電話鳴ってるよ」 「あぁ、玲央だと思う。……ちょっと向こうで話してくる」 向こう、と言ってもそれほど広い部屋でもないので、扉を閉めたところで声が完全に消えるわけではない。それでも、なんとなく美森にはまだ聴かせたくなくて、俺は出来るだけ声をひそめながら通話ボタンをタップした。 「おぉー、冴。元気してたか? ごめんな、そっちはもう夜遅いのに」 「時差があるんだから仕方ないだろ。そっちこそ、うまくやってるのか」 「あぁ、毎日楽しくやってるよ。インスタやってんのに、お前全然見てくれてないじゃん」 「生憎、そういうのを覗きたいと思ったことが一度もない。……美森はちゃんとチェックしてるみたいだけどな」 玲央は今、ニューヨークでMBAの取得を目指して留学中だ。先にドイツへ渡った苑真の後を追うように、大西洋を越えていった。親父さんの跡を継ぐことを見据えれば、自然な選択ではある。その明るさの裏に親との軋轢を抱えていた時期もあったが、高校を出てからは少しずつ折り合いをつけ、今はうま
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第96話 新婚旅行編②

【side:香月美森】 最近、冴の様子がなんだかおかしい。 いつも冷静沈着で、どこか余裕があって。大学の課題も、塾講のアルバイトも、家のことだって率先してそつなくこなす彼が、家に帰ってくるとどこか落ち着きをなくしている。 ソファーに座ったかと思えばすぐに立ち上がって掃除を始めたり、意味もなくキッチンをうろついたり——まるで自分から忙しくしようとしているみたいだった。 何かあったのかな、とは思う。でも、ありのままを冴が話してくれるとは、正直あまり思えなかった。 悩みも、不安も、できるだけ一人で抱えて解決しようとする。恋人として、もっとそばに寄り添えたらとも思うけれど——待つことだって、大事な信頼関係のひとつだ。そう自分に言い聞かせて、ずっと耐えていた。◇ 夜、寝室のベッドに横たわると、ふ、と頬を撫でられた。柔らかい手つきだった。回数こそ高校時代よりずっと減ったけれど、身体を求められているのかなと思って、俺がパジャマのボタンに自分で手をかけると、冴がちょっと目を見張って、その手をそっと掴んできた。「……冴、するんじゃないの?」「ごめん、そういうわけじゃなくて」 なんだそれ。めちゃくちゃ恥ずかしい。俺がしたがってるのが、無言のアピールみたいになってしまった。思わず顔に熱が集まって、「そっか」とだけ言って目を逸らす。すると冴は、そんな俺の方へそっと体を寄せながら、少し改まった声で言った。「ちょっと……その、話したいことが」 珍しく緊張気味の顔をしている。大学や塾で何かあったんだろうか、と思って眉を下げると、冴は俺の身体をそっと抱き寄せて、髪の間にゆっくりと指を滑らせた。梳くように撫でながら、静かに続ける。「美森……一か月後に、デンマークに行かないか?」「……えっ? どうしたの、急に。旅行ってこと……?」 真っ先に、お金の面での不安が浮かんだ。 子どもの頃は、親同士の集まりに混じるような感覚で、毎年のようにバカンスで海外へ行くことがあった。玲央も苑真も一緒に——四人で、それこそたくさんの夏と冬を海外で過ごしてきた。 けれど今の俺たちに、そんな贅沢ができるほどの余裕はない。 それを窮屈だとは思っていない。ただ、常に財布の紐をかたく締めながら暮らしているからこそ、手放しにその誘いを喜ぶことができなかった。「いや、旅行じゃないんだ。そうい
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第97話 新婚旅行編③

優しく包み込まれるようにして、彼に背中を預ける。 肩をぽん、ぽんと慈しむように撫でられ、そのまま指先でぎゅっと部屋着の布地を掴まれると、抗いようのない熱が背筋を駆け上がった。視線が絡み合った瞬間、どちらからともなくキスがはじまる。 最初は触れるだけの淡いものだった。けれど、彼の呼気が俺の吐息と混ざり合うたび、心臓の奥が締め付けられるように熱くなる。重なり合う唇の隙間には、これまでの不安や、ようやく手に入れた幸せが、言葉にならない愛おしさとなって溶け出していた。 「ん……嬉しい。ほんとに、俺たち結婚するんだよね?」 荒れた息を整えながら、熱を帯びた彼の瞳をまっすぐに見つめた。 俺の心に居座っていた小さな不安——本当に自分なんかでいいのかという迷いを、冴が深く頷くことで掬い取ってくれる。 「あぁ。……プロポーズしてから間が空いて、悪かったな。不安にさせたか?」 「ううん……。俺はずっと、ずっと待とうって思ってたから。でも、こんな大事なことなのに、俺ばかり受け身でいたかなって。今は少し反省してる」 そう言って笑うと、照れ隠しに俺は彼のパジャマのボタンへ手をかけた。一粒ずつ、慎重に外していく。自分の手つきがわずかに震えているのが分かった。彼への、不器用で真っ直ぐな愛情をここに込めたかったから。 「そんなことない。主導権は、いつだって俺が握っていたいと思っているから」 脱がされたパジャマが床に滑り落ち、シーツの冷たさが肌をかすめる。冴は俺の肩を引き寄せ、耳元で低く声を響かせた。 「そうやってお前が俺を立ててくれる方が、男として格好が付けやすいし。何より……お前がこうして、全身で俺に身を委ねてくれる実感が湧くんだ」 「……そんなこと、考えてたの?」 驚いて目を見開いたあと、恥ずかしさで耐えきれなくなり、彼の胸元に顔を埋めた。 薄い皮膚越しに伝わってくる、力強く早い鼓動。俺たちは分かちがたく結ばれたいと、あの日誓い合った。それがこうして未来として形になり、今この瞬間に互いの温もりを確かめ合えている――その事実が、胸が痛くなるほど嬉しくて、どうしようもなかった。 溢れ出す愛おしさに身を任せて、彼を強く抱きしめ返そうとした――その時だった。 「あ……ん、待って。……隣の人、帰って来てる。たぶん」 身を強張らせ、耳を澄ます。壁の向こうからは、重いド
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第98話 新婚旅行編④

日本からデンマークへの直行便は、およそ十一時間のフライトだった。 久しぶりの飛行機に少し緊張したけれど、隣の窓際の席には冴が座って、手を握ってくれている。ほんのりと灯った機内の明かりの中、その腕にそっと頭を預けるようにして、窓の外を眺めた。 そういえば、最後に冴と海外旅行をしたのはいつだっただろう。確か、ふたりとも中学生になっていた頃だ。俺たちは親の前では仲のいい素振りを装っていたけれど、裏では視線を交わすたびに火花が散るような状態で。 冴のお母さんに、その空気を読まれてしまって、「喧嘩でもしたの?」なんて苦笑いで聞かれたっけ。 ……そのすぐあとに、病気が見つかって。冴のお母さんは、あっという間に逝ってしまった。 それ以来、冴は四家族の恒例行事だった海外旅行に、姿を見せなくなったのだ。「……美森? どうかした」「ううん、なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」 冴のお母さんと最後に言葉を交わした日のことを、今も時折思い出す。当時の俺は思春期のただ中で、冴にたくさん悪口を言われて、冷たい態度を取られて、正直ひどく傷ついていた。 だから、おばさんに「冴のことをよろしくね」と言われた時、うまく返事ができなかった。 とりあえず「はい」とだけ答えたら、おばさんは少しだけ眉を下げて、それでも穏やかに微笑んでいた。 今思えば、あの人はもう分かっていたのかもしれない。俺たちの間にあるものを、大人の目でちゃんと見ていたのかもしれない。 でもまさか、本当に結婚するだなんて——思いもしなかった、はずだ。……多分。「眠れない? ……ちょっと顔色、悪くないか?」「大丈夫。冴が頭撫でてくれるでしょ?」 そう言う時はいつも、と微笑むと、冴はおばさんと同じ、少し困ったような顔で俺の頭をそっと撫でた。 子供の頃のつたない「おまじない」の代わり。 冴がそういうあたたかい思い出を、心の中で失わないように残そうとしてくれていることが、たまらなく好きだった。* 空港を降り立った先に広がるデンマークの空は、思っていたよりずっと広かった。 コペンハーゲンの空港を出た瞬間、六月の涼しい風が頬を撫でた。日本の梅雨の湿気とはまるで違う、乾いていてどこか澄んだ空気。思わず深く息を吸い込むと、隣を歩く冴がちらりと俺を見た。「え、なに?」「いや……美森がいつもより浮かれた
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第99話 新婚旅行編⑤

チャペルは、市内から少し離れた静かな場所にあった。 白い壁と木の温もりが混ざったような、こぢんまりとした礼拝堂。天井から差し込む光が祭壇の前の石畳を柔らかく照らしていて、大きな教会にあるような荘厳さとは少し違う、どこかアットホームな空気がある。 式の前、控え室で冴と並んで鏡を覗き込む。俺たちはどちらもスーツを着ていた。冴のはグレーで、俺のはネイビー。土壇場になって苑真がツテで手に入れてくれたものだ。(やっぱり俺もグレーが良かったかな、でもここまで来て色や形なんて気にしてる場合じゃないか) そんな独り言を心の中で呟くと、自分が本当はすごく緊張して、必死に別のことを考えようとしてるのに気付いて、なんだかおかしく思えて。笑いをこらえていると冴に気づかれた。「何がおかしい?」「なんでもない。……なんか、実感が湧いてきたなって」 冴はそれには答えずに、俺のネクタイの結び目をわずかに直した。それだけの仕草なのに、胸がぎゅっと切なくなる。「冴……このスーツ、似合ってる」「オーダーしたのかと思うくらいフィットしてて驚いてる。……苑真は案外ただのバカじゃなかったみたいだな」「ほんと。俺たちのなかで一番派手に豪遊してたけれど、まさかファッションの才能があるとは思わなかったよね」 こんな時ですら、思い出すのはやっぱり支えてくれた幼馴染ふたりのことで。 チャペルの扉を開けて中へ入った瞬間、俺は思わず足を止めた。 祭壇に向かって並んだ木の椅子に、見知った顔が座っている。「……玲央? 苑真も……?」 玲央がぱっと立ち上がって、にかっと笑った。ニューヨーク仕込みの日焼けが、チャペルの柔らかい光の中でもよく分かった。「サプライズ、成功?」 隣に座っていた苑真も立ち上がって、静かに微笑む。ドイツ暮らしがすっかり板についたのか、立ち姿がどこか洗練されて見えた。「……冴、知ってたの?」 振り返ると、冴は小さく頷いた。「ず、ずるいよ……! なんでこういう風にビックリさせるの、ちょっ……また泣きそうになるって」「泣くなよ、美森」と玲央が笑った。「泣いてない」「目、赤くなってるぞ」 今度は苑真がそっとハンカチを差し出してきた。受け取りながら、笑ってるのか泣いてるのか自分でも分からなくなってきて、俺は何度も「ありがとう」と言って、玲央と苑真と久し振りの再会を喜
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第100話 新婚旅行編⑥

運河沿いに続く、歴史を感じさせる石畳の路地。その一角にひっそりと佇む小さなレストランが、挙式を終えた今夜の俺たち四人の目的地だった。テーブルのあちこちで揺れるロウソクの灯りが、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。窓の外に目をやれば、夜のコペンハーゲンが静かに息づいていて、水面に街の灯が映ってきらきらと揺れていた。六月のデンマークは驚くほど日が長くて、時計の針が九時を過ぎていても、空の端には絵の具を薄く溶かしたような残照がまだしがみついている。その不思議な薄明かりが、俺たちの特別な夜を祝福してくれているようだった。「じゃじゃーん! どうよこの店! 俺のオシャレセンサーとリサーチ能力が奇跡の融合を果たした結果がこれよ。褒めていいぞ、二人とも!」メニューを広げながら、苑真がさっそく両手を広げて大袈裟に胸を張った。高校時代から変わらない、調子のいいおちゃらけた口調だ。 すかさず、隣に座る玲央から鋭いツッコミが飛ぶ。「はいはい、ネットのレビュー星四つ半だったって、スマホ見せながらドヤ顔してたの知ってるから。自分で足使って開拓したみたいに言うな」「えー、いいじゃん別に! プロセスの違いなんて些細なことだよ。大事なのは結果!」相変わらずの二人のやり取りに、俺は思わず頬が緩む。「さすが苑真、仕事が早いのは本当にありがたいよ」俺が苦笑交じりに感心していると、隣に座る冴が静かにワインリストを閉じた。「美森、飲めるか?」覗き込むような冴の低い声と視線に、胸が小さく跳ねる。普段、お酒は飲まない。冴と暮らしてからだって、お互いの誕生日にちょこっと嗜む程度だった。「うん、今日くらいは」指輪のはまった冴の大きな手が、ウェイターにスマートに合図を送る。その一連の動作の格好良さに、未だに少しだけ照れてしまう。「あ、美森がデレてる。見せつけてくれるじゃーん」「そ、そんなつもりは……」「いいんだぜ? 久しぶりの再会なんだし。もっとイチャイチャしてんの見せつけても」乾杯のグラスが運ばれてくるのを待つ間も、テーブルの上は賑やかだった。「いやーしかし、まさかこんな北欧の地で再集合するとはな。ニューヨークから飛行機乗ってきた甲斐があったわ」玲央がしみじみと呟くと、苑真がチッチッチ、と大袈裟に指を振った。「甘いね玲央。ベルリンからの愛の距離に比べたら、ニューヨークなん
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