All Chapters of 死ぬほど大嫌いな幼馴染と、政略結婚することになりました。: Chapter 81 - Chapter 90

105 Chapters

第81話 決死のSOS

二重人格としか思えない、その感情の激しい高低差。 黒瀬は初めこそ暴力で俺を捩じ伏せたが、欲が満たされると、俺と一緒に本を読んだり画集を眺めたりと、穏やかな時間を過ごすことがあった。 ベッドの中で上体を起こし、背中を宗佑に預けながら童話を読んであげることもあったし、宗佑自身が俺のために料理をして「美味しいですか?」なんて、寮生活の時のように優しく微笑んでくれることも。『俺のこと、少しずつでも好きになってくれていますよね?』『…………』 けれど、ひとたび俺の反応に不安や不満を感じると、それは瞬時にレイプ紛いの衝動と変貌する。 その引き金は全て、俺が彼の「愛情表現」に完璧に答えなかった時だった。『一体、何が不満なんですか? 衣食住を整えて、こんなにも貴方の為に俺は尽くしているのに。 何が足りないって言うんですか?』『そ、それは……』『教えてください、美森様。何でも俺が与えてあげますから』 前髪を鷲掴みにして、そのまま床を引き摺るようにしたり、俺が泣いて「ごめんなさい」と言っても止まらないほどの苛烈な暴力だった。 * 黒瀬に言われた通り、シャワーを済ませ、バスタオルに身体包む。 それだけでも、消えそうになっては重ねられていく痣や傷はヒリヒリと痛む。 黒瀬は自分で俺に暴力を振るうくせに、手当も必ず欠かさなかった。『ごめんなさい、美森様。俺、本当はこんなこと――』 そう言って泣きながら、許しを請う。彼自身が負わせた傷に、自ら包帯を巻く。 そんな黒瀬の心が壊れたのは、きっと母親を亡くしたからで。 満たされない愛情がゆがんで、そうさせているのだなと思うと、こんな酷い目にあっていても同情する気持ちが俺の心にわいていた。 久しぶりに「まともな服」に腕を通していた、その時だった。 玄関の呼び鈴が鳴り、使用人が扉を開ける音がした。「どちら様でしょうか」「本日、黒瀬様よりご依頼を受けました呉服屋です。打掛と白無垢を数点、持参いたしました」 約束の時間とは違う。けれど、黒瀬と監視以外の他人の声を聞くのは、一体何日ぶりだろうか。 俺は藁にもすがる思いで、部屋のドアの隙間からその様子を盗み見た。 スーツ姿のその男性は、ゆるくパーマのかかった茶髪に、縁の太い眼鏡とマスク姿。顔は判然としないが、落ち着いた物腰の男性だった。 使用人
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第82話 ふたりだけの逃避行

男性は渡された紙に目を落とし、微動だにせず沈黙した。 瞳が滑るように文字を追い、やがてゆっくりと俺の顔へと上がる。 その視線に射抜かれ、俺は息を呑んだ。やはり、関わりたくないだろうか。 ――でも、お願いだから、見捨てないで。 心の叫びを込めて縋りつくと、彼は静かに眼鏡を外し、続けてマスクの紐を耳から解いた。 さらりと、自らの髪をかき上げる。 「え……?」 現れたのは、見慣れすぎた、あの青みがかった黒髪だ。 思考が停止する間もなく、俺はその腕の中に強く引き寄せられる。 骨が軋むほどの、強引で切実な抱擁。 何度も夢に見ては、朝の冷たさの中で絶望した、あのかけがえのない体温。 「俺だ、美森」 聞きたくて、ずっと死ぬほど願い続けていた声。 硬直する俺の唇に、冴は一度だけ、全てを投げ捨てるような深く熱い口付けを落とした。 そして、俺の目を射抜くように凝視して告げる。 「助けに来た。二人で逃げよう。 ――家も、地位も、何もかもを捨てて」 その言葉の裏にある代償や、ここを突き止めるまでに彼がどんな方法を使ったのか、いまさら聞き返す必要はなかった。 この檻を見つけ出すために、彼がどれほど自分という存在を削り、「後堂」という名の呪縛をどれほどの覚悟で引き裂いたのか。今の俺には、冴の体温が確かにここにある、という事実だけで十分だった。 黒瀬に何を与えられても冷え切っていた心臓が、再び脈を打ち始める。 「冴、俺……っ」 「時間がない。林の先にタクシーを待たせてある。そこまで走るんだ。いいな?」 冴が俺の冷え切った手を、熱い掌で包み込み、力強く引く。 部屋を出ると、廊下の向こうで使用人たちがスマホを片手に話し込んでいた。 『呉服屋が時間を間違えた件、一応、宗佑様にお知らせしたほうがいいのでは?』 『そうだな。念の為、電話だけでも……』 その会話を背に、俺と冴は音もなく、ついにあの「家」から外へと滑り出した。 一歩歩み進める度に、息が切れる。監禁され、嬲られ続けた俺の身体は、驚くほど筋力が落ちていた。 ガクガクと震える膝、胸いっぱいに酸素を吸い込む喉。 それでも、隣で繋がれた冴の温度だけを唯一の命綱にして、泥にまみれながら林を駆け抜けた。 木立の先に、ヘッドライトを消した一台のタクシーが溶け込んでいる。 後部座席に飛び乗ると、冴はあ
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第83話 出来るだけ遠くへ

◇ できるだけ遠くへ。誰にも辿り着けない場所へ。 北へ北へと向かう新幹線の車窓は、まるで黒瀬の家での出来事を、走馬灯のように切り裂いて流れていく。 流れる景色は光の残像となっては視界の端へ消えていた。 いくつもの駅を乗り継ぎ、最後は山道に揺れるタクシーの振動に身を任せる。 そして、夕陽が地平線の彼方へ光の色を残して沈む頃。 俺と冴は、荒波に洗われる断崖の縁、ひっそりと息を潜める一軒の民宿にたどり着いた。 『いらっしゃいませ』 迎えてくれたのは、かつての贅を尽くした俺たちの家とは対極にある、塩害で白く粉を吹いた寂れた家屋だった。 剥げ落ちた看板の文字。冴は帳場で偽名を書き連ね、素泊まりを告げる。 耳の遠い老夫婦は、余計な勘繰りもせず、ただ静かに奥の部屋へと俺たちを案内してくれた。 『こちらのお部屋です。ごゆっくりどうぞ』 最奥の和室。古びた匂いのする畳に、簡素な卓袱台。 そして、寄り添うように並べられた二組の薄い布団。 襖が閉まり、完全に二人きりになった瞬間、張り詰めていた鋼のような緊張がプツリと途切れた。 「……さ、さっ……」 冴、と呼びたいのに、舌が麻痺したように強張って動かない。 拒絶すれば冷徹な制裁が下され、名前を呼べば「躾」と称して弄ばれる。 あの日々、黒瀬の別荘の冷たい床で、俺の神経に深く刻み込まれた条件反射が、喉元を鉄の枷のように締め付けていた。 「美森……。ごめん、遅くなって。本当に、ごめん……」 冴の震える腕が、壊れものを扱うような手つきで俺を抱きしめる。 その声には、凍てついていた冬を溶かすような、湿った熱が混じっていた。 「時間が掛り過ぎた。あいつらにも事情を話して手伝ってもらった、だけど……」 冴は語った。 位置情報を徹底的に遮断され、学園や香月の家が口裏を合わせて俺を「療養中」という隠蔽工作に閉じ込めていたこと。 玲央や苑真たちの手を借り、政略結婚の利権が絡む不動産を洗い続けたこと。 そして、黒瀬が所有するあの監禁場所を突き止めるまでの、正気を保つのが困難なほどの焦燥を。 「本当にすまなかった」 慈しむように、何度も何度も頭を撫でられる。 けれど、その清廉な温もりが今の俺には眩しすぎて、直視できないほどの痛みとなって突き刺さる。 耐えきれず、俺はその胸を力任せに突き飛ばした。 「…
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第84話 ここを満たして

「お前は汚くなんかない。黒瀬に傷つけられたんだ」 冴は俺を抱いたまま、そっと畳に座り込み、その瞳を真っ直ぐに俺へと向けた。 そこには、俺が恐れていた嫌悪なんて微塵もない。 ただ、引き裂かれた俺の心を繋ぎ止めようとする、切実な熱だけがあった。 「美森、いま、どこが痛む? 怪我は……」 俺は震える指先を、自分のシャツのボタンにかける。 ひとつ、またひとつ。 真実という名の醜い瘡蓋(かさぶた)を剥がすように。 冴にすべてを晒せば、やっぱり軽蔑されるだろう。 震えで上手くいかない手元に、冴がそっと自らの大きな手を重ねた。 ゆっくりと、肩から腕へと布地が滑り落ちる。 露わになった俺の裸体を見た瞬間、冴の吐息が止まった。 「…………」 蛍光灯の冷たい光の下、俺の身体に黒瀬という男が刻み込んだ「所有の証明」。 手首を縛り上げられ、擦れて腫れ上がった赤。 しがみつくように残された、執拗な歯形。 鎖骨にかけては、薄くなるたびに上書きされた紫色の吸い痕が、これでもかとばかりに生々しく浮き出ている。 「……求めないと、殴られたんだ。冴に嫌われるのが怖かったのに、いつのまにか……『もっと、して』って、自分から縋ってた」 堰を切った告白は、冴がどれだけ強張った顔をしても止まらなかった。 ここでちゃんと言わないと、全部吐きださないと。 それで冴が俺を嫌いになっても可笑しくはないから。 それでも受け容れると言ってくれたら、なんてほんの一握りの願いを込める。 「黒瀬のそれを咥えて『精子、おいしい』って、あんなに笑って見せたんだ。冴の知ってる付き合ってた頃の俺は、もうどこにもいない。……俺、黒瀬に媚びるだけの体になっちゃったんだよ」 冴の顔を見るのが怖かった。 けれど、彼は俺の嘆きをただ黙って見つめ、覗き込むように俺の肩に触れる。 震える唇に、何度も、何度も、重なるだけの愛に満ちた接吻を繰り返した。 「……美森。全部、俺に預けろ」 冴は俺を布団に横たえ、残された衣服をすべて剥ぎ取った。 互いの肌が触れ合う。冴は服を脱ぎ捨て、裸のまま俺に覆い被さった。 絡め合わされた指先の温もりだけを命綱にして、俺はそっと目を閉じる。 冴の指先が、俺の傷痕に触れていく。 連日の酷使で柔らかくなりすぎた粘膜、黒瀬の歪んだ美意識で剃り上げられた下肢。 冴はそ
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第85話 朝陽に包まれて

目を覚ますと、窓の外には白み始めた黎明の空が広がっていた。 鈍色の海が、水平線から滲み出す淡い光を吸い込み、ゆっくりと白銀の輝きを増していく。 背後から冴の腕に抱かれ、ただ静かに波音に耳を澄ませる。 愛する人の鼓動と体温を背中に感じながら迎える朝。 これまでのどんな目覚めよりも、痛いほどに美しく、温かかった。 (冴の腕も、胸も。全部あったかい……) 今だけは、すべてを忘れられた。 自分たちが家を捨て、血筋を捨て、何者からも追われる逃亡者であることすら。 心も体も冴の熱に満たされ、このまま熱が冷めないうちに走り続けていれば、いつか本当に「自由」という名の、誰の手も届かない場所へ辿り着けるような気がしていた。 「……冴がいてくれれば、それだけでいいよ」 祈るような独りごちに、眠っていたはずの冴の腕に力が込められ、背中からきつく抱き寄せられる。 「俺もだよ」 耳元に落ちてきたのは、目覚めたばかりの掠れた声。起きてたの? と恥ずかしくてそう言い返したいのに、鼻の奥がツンと熱く痛む。 現実には、こんな平穏が許されるはずがない。 それでも、喉から手が出るほど、この泡沫の夢を見続けていたかった。 「今日は近くで腹ごしらえをして、夜に向けて別の場所へ移動しよう。……行けるところまで行くぞ」 「うん」 黒瀬も、冴の父親も、そして俺の父も。 今頃はプライドを逆なでされ、血眼になって俺たちを捜しているだろう。 冴が用意してくれた、ロゴ一つない地味な既製品の服に袖を通す。 窮屈な制服や、身体を締め付ける仕立ての良い着物とは違い、驚くほど軽くて、頼りなかった。 民宿の古びた扉を押し開けると、現金以外のすべてを捨てた俺たちは、老夫婦から聞いた小さな店を目指して歩き出した。 「……どうした?」 俺が冴の腕にしがみついて歩いていると、ふと足元が目に入り、思わず笑みがこぼれた。 いつもの磨き上げられたローファーや革靴ではない。 冴が履いている、不釣り合いなほど無骨なスニーカーが、ちょっと可笑しかった。 「体育の授業の時くらいしか、冴ってスニーカーなんて履かないから。なんだか、新鮮で」 「……自分でも、あまり似合っていないのは自覚している」 照れを隠してふいっと顔を逸らす仕草は
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第86話 浜辺のふたり

店内の奥、衣料品が並ぶ一角には、剥き出しの錆びたハンガーラックに「最終処分!」という鮮やかな赤白の幕が垂れ下がっていた。そこから俺は、埃を被った安価なキャップを手に取り、冴の背中を振り返る。 「どうかな?」 軽く被り直して見せると、冴は少しだけ目を細めた。 「……新鮮だな。小学生の頃の、まだ何も知らなかったお前を思い出す」 幼さを指摘された気がして、気恥ずかしさから棚に戻そうとする俺の手を、冴は強く制した。 そのまま彼は、無造作にそのキャップをカゴへ放り込む。 「え、本当に買うの? 似合わないよ」 「変装用だ」 ぶっきらぼうに吐き出すと、冴は『セルフレジ』と書かれた未知の機械へ向かって歩き出した。 (……素直に「似合っている」って言えばいいのに) けれど、そうして照れを隠すような不器用さこそが、今の俺にはたまらなく愛おしかった。 「……これ、どうやってお金を払うんだ? 投入口がいくつもあって、見当がつかない」 「初めて見る形式だな。銀行のATMとも、学園の券売機とも違う……」 機械の前で、二人の高校生が石像のように立ち尽くす。 世間知らずな俺たち二人の有様に、見かねた年配の女性が苦笑いを浮かべて操作を教えてくれた。 「あなたたち、見ない顔ねぇ。このへんの子じゃないわね? どっから来たの?」 「……観光です」 冴はそれ以上の追求を断ち切るように短く答えると、品物を受け取り、足早に店を出た。 いつもなら使用人たちに持たせていた、高級なブランドの紙袋ではない。 カサカサと安っぽい音を立てる、薄い白い「レジ袋」を提げて歩く冴の背中。 それは俺たちの逃亡生活を象徴するように、あまりにも軽やかだった。 「ねえ、気持ちいいね」 「ああ、そうだな」 海から吹き付ける塩気を含んだ風が、髪を乱す。 俺は乱れた前髪を耳にかけながら、隣を歩く冴の横顔を見上げた。 迷子になった子供のような心細さと、何物にも縛られない自由という名の蜃気楼。 それらを抱えて、俺たちは海沿いの道をただ歩く。 ふと会話が途切れた瞬間、冴が立ち止まり、慈しむように俺を見つめた。 人目も憚らず、彼はそのまま俺の頬にそっと口付けを落とす。 「ん……っ、ちょっと冴。誰かに見られたら困るよ」 不意を突かれた接吻に、俺は慌てて周囲を見渡した。 誰もいない砂浜。
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第87話 夢のおわり

俺たちは海岸沿いの砂浜に深く腰を下ろし、さっきスーパーで買い求めた衝撃的な値段の弁当を広げた。プラスチックの容器に入っただけの簡素な食事だったけれど、二人で顔を見合わせて笑い合う。「うわ、何これ……普通に、すごくおいしい」「ああ。……普段、どれほど無駄な金をかけていたか馬鹿馬鹿しくなるな。俺も、これで十分だ」金と血筋という名目に縛られ、贅沢という名の冷たい鎖に繋がれていた日々。けれど、潮風の香りに包まれて食べるこの弁当と、すぐ隣に冴がいてくれるという事実だけで、俺の心は満たされていく。生まれて初めて知る、底の抜けない安らぎだった。***その日の夕方まで、群青色の闇が海岸線を飲み込んでいくまで、俺たちはあてもなく歩き続けた。誰の目も気にすることなく、ただ二人で。幼稚園の記憶。中等部で冴が告白されるたびに感じていた、刺すようなヤキモチの痛み。何だかんだと言いながらも、俺たちの行く末を案じてくれていた玲央や苑真への懐かしさ。語っても語っても、俺たちの間に言葉は尽きなかった。「……寒くなってきたね」「もう少し歩けるか? あの辺りの灯りまで」遠くで灯台の光が規則正しく首を振り、その淡い白光が時折、俺たちの横顔を冷たくかすめていく。潮騒の合間に、冴が指さす先へ目を凝らすと、数軒の民宿の温かな灯りが見えてきた。「昨日の宿より、少しだけ立派そうに見える……」「……金なら心配はいらない」冴が淡々と告げたその数字の裏にある不安に、俺はそれ以上問い返すのをやめた。それは、普通の人間が一生をかけて稼ぐような、浮世離れした金額なのだろう。けれど……そのほとんどは、亡くなった冴のお母さんの遺産のはずだ。俺は冴が選んでくれた帽子を目深に被り直し、叶うはずのない「夢」を、祈るような心地で紡ぎ出した。「……もしも、普通の家庭に生まれていても、俺はまた、冴を好きになったんだろうな」かじかんだ指先を、深く絡め合わせる。「このまま、二人でずっと逃げて……。古くて狭いアパートを借りるんだ。テレビなんてなくていいから、小さなキッチンで俺が毎日ご飯を作って。冴の好きなものをたくさん並べてあげたい。……アルバイトもしてみたいな。自分の手で、冴と生きていく分だけを稼いで。贅沢なんて、もういらない。だから、ずっと……」言葉にすればするほど、鼻の奥が熱くなり、じわぁ…
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第88話 引き裂かれる愛

「この……欠陥品がっ! どこまで私の手を煩わせれば気が済むんだ!」怒声とともに腕を乱暴に掴まれ、俺は逃げる間もなく、アスファルトの冷たい荒い地面に叩きつけられた。全身に走る衝撃で視界が白く明滅する。助けようと駆け寄る冴の前に、黒塗りの車から降り立った屈強な男たちが黒い壁となって立ちはだかった。「……本当に、何の役にも立たないな。お前のような出来損ないを貰ってくれる黒瀬の家に、泥を塗るような真似をして。一体何が不満でこんな愚行を重ねる? 冴くんに逃亡を手伝わせ、どこまでその利己的な我儘で彼を振り回すつもりだ!」胸ぐらを力任せに掴み上げられ、俺はぎゅっと目を瞑った。常に氷のように冷徹で、感情を仮面の下に押し殺していた父が、これほどまでに醜く憤怒を剥き出しにしている姿を初めて見た。怯えて震える俺の姿が、父の苛立ちをさらに煽ったのか、夜の海辺に乾いた音が響き渡る。頬に走る灼熱の痛み。視界の端がぐらりと揺れた。「お前なんか……やはり最初から産ませるんじゃなかった! 躾直しが終わったら、二度と香月の敷居は跨がせない。家系図からも抹消してやる。さっさと車に乗れ!」父の罵倒とともに、側近の棗が俺の腕を掴み、無理やり車へと押し込もうとする。「やめて、棗……お願いだから……離して、冴のところへ行かせて……っ!」ここで連れ去られたら、もう二度と冴の光には触れられない。死に物狂いで抵抗する俺に、棗は父には聞こえないほどの微かな声で囁いた。「……このままでは、旦那様は冴様を誘拐の罪で告発しかねません。貴方の心をより深く抉り、冴様の未来を潰すためなら、旦那様は手段を選ばないでしょう。……冴様を守りたいのなら、ここでどうか大人しくしてください」その言葉は、俺の身体から最後の一滴の抵抗力を奪い去る魔法だった。視線の先には、数人がかりで抑え込まれ、喉を枯らさんばかりに俺の名を呼び続ける冴の姿。俺たちの、あまりに無謀で、稚拙で、それゆえに何よりも美しかった逃避行は、傲慢な大人たちの手によって呆気なく踏みにじられた。――冴、愛してる。声には出せない。ただ、唇のわずかな動きだけで俺は伝えた。父に背中を突き飛ばされるようにして、冷たいレザーのシートへ放り込まれる。「美森!」冴の絶叫が潮騒に掻き消されていく。ドアが閉まる音と共に、俺はもう二度と顔を上げることが
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第89話 実家での折檻

「いつまで息子面をして、本邸をうろついている。この穀潰しが」 父の容赦ない一言に、雲雀兄さんは肩を小さく震わせ、使用人たちの寝床がある別邸の方へ、亡霊のように消えていった。 兄たちと会話する時間さえ与えられず、俺は和室の畳の上で、額を擦り剥くようにして土下座を強要された。「……大変、申し訳ございませんでした」 黒瀬の家から逃亡した罪。 「香月と黒瀬の絆」という名の醜い利権を汚した罪。 虫を見るような眼差しで俺を見下ろし、父さんは『躾け直せ』とだけ命じた。「……承知しました。美森様、行きましょう」 その汚れ仕事はすべて、俺の世話を長年務めてきた棗に委ねられた。 それは暴力そのものよりも、ずっと悪趣味で残酷な拷問だった。「……っ、棗、やめて……お願い、やめてっ……!」 地下室で冷水を浴びせられ、髪を掴み上げられる。 俺が床を這い回って許しを請うても、棗の拳が止まることはなかった。 鈍い衝撃が走るたび、骨が軋むような音が頭蓋に響く。 ふと、脂汗の向こう側で見上げた棗の瞳から、声もなく涙が溢れ落ちているのが見えた。「美森様……申し訳ございません」 彼もまた、俺と同じだったのだ。 香月の権力に魂を縛り付けられ、俺を壊すことでしか自分を守れない、無力さ。 たった一人の当主という人間が、家族の人生も、使用人の心も、その一存で蹂躙できるという絶望的な構図を悟ったとき、俺の心は身体の痛み以上に激しく悲鳴を上げた。 *** 深夜。身体中の痣が熱を持ち、暗い部屋の隅で泥のようにうずくまっていた俺の元に、音もなく誰かが忍び寄ってきた。「美森……」 掠れた声に顔を上げると、そこには百合兄さんがいた。 俺の無惨な姿を直視できぬまま、震える手でお粥をそっと差し出す。「これ……食べなさい。少しでも、腹に入れて……」「……ありがとう」 掠れた声で礼を告げると、百合兄さんは崩れ落ちるように畳に膝をつき、嗚咽混じりの告白を始めた。 黒瀬への秘めたる想いを募らせたあまり、その見返りとして、俺と冴の政略結婚の契約書を黒瀬へ漏らしたのは、自分なのだと。「ごめん……本当に、すまない……。まさか、あんな……あんな恐ろしいことになるとは思わなかったんだ……」 謝罪の言葉は、今の俺にはただの音にしか聞こえなかっ
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第90話 親子同士の対話

海辺で引き裂かれてから、空白の二週間。 俺は父さんの制止を振り切り、痣だらけの身体を軋ませて階段を駆け降りた。 玄関ホールには、苦虫を噛み潰したような顔の冴の父と、その横で、凍てつくような静寂を纏った冴が立っていた。「折り入ってお話ししたいことがあります。――当事者、四人で」 冴の声は、逃避行の時よりも低く、そして重い。 案内を待つこともなく、彼は迷いのない足取りで応接間へと踏み込む。扉が閉まり、室内には刺すような沈黙が満ちると、俺の隣に座った冴はテーブルの下で、震える俺の手を力強く握りしめた。「羽鳥の実家、その裏金問題と不透明な資金源をすべて洗い出しました。後堂があの一族と縁を結ぶメリットは皆無です。……ですから俺たちは婚約を正式に破棄した。そして祈里さん。あなたが選んだ黒瀬に関しても、それ以上に致命的な『毒』があります」 父は鼻で笑い、優雅に脚を組み替える。 冴は射抜くような視線を真っ直ぐに父へ向け、淡々と話し出した。「黒瀬宗近の息子……宗佑が、全てを俺に吐きました。真の目的は、香月の解体と乗っ取りだ。美森との結婚を皮切りに、百合さんと雲雀さんにも罠を仕掛け、内部から香月を食い破る。……そして、黒瀬の父親の最終的な標的は、他でもない、あなた自身だ」 父の喉が、ひくりと大きく鳴った。 「あの一族は、かつてあなたが彼らを切り捨て、屈辱を与えたことを片時も忘れていない。すべてを奪い、尊厳を剥ぎ取り、息子の宗佑が美森にそうしたように……あなた自身を捕らえ、足の立たない檻で飼い殺すこと。それが彼らの描いた復讐の全容だ」 応接間に、父の浅く、狂ったような呼吸音だけが響く。 かつての恋敵からの歪んだ執着を突きつけられ、父の瞳は焦点の定まらないまま虚空を彷徨い始めた。「……それで、君は一体どうしたい? また美森と君が結婚すれば気が済むのか。ならば、そうすればいい。香月だって、黒瀬という泥舟より、後堂という盤石な盾を選ぶだけのこと」 形勢不利と見るや、即座に息子を「盾」として差し出そうとする父さんの浅ましさ。 冴は握る手にさらなる力を込め、宣告を突き立てた。「ああ、俺たちは結婚する。だが、この婚姻は一切、世間に公表しない。香月と後堂の繋がりを誇示するパーティーも、醜悪なビジネスの提携も、すべてこの俺が拒絶する。そして――」 冴の声が、
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