All Chapters of バ先のダウナー男子に、気付けば毎日溶かされています。: Chapter 71 - Chapter 80

104 Chapters

第71話 俺なりの仕返し

*** ちーん。 まさに、そんな効果音が俺の頭の中で鳴り響いている。 だって、あんな……え、えろ、エロい画像を送りつけたというのに、既読無視が継続中なんですが。 一瞬、インターネット回線のせい? 海外だし? って都合のいい言い訳が頭をよぎったけど、いやいや、既読はしっかりついてる。 つまり――届いてる。見てる。無視してる。 あの、着エロとハメ撮り大好きなド変態・佐伯向けに、満を持して撮ったやつだぞ。 佐伯のパーカーを着て、サイズが合わないせいでずるっと肩が落ちて、乳首が片方だけ覗いてる写真。 万が一流出したら、社会的に死ぬタイプのやつ。 さすがに顔はスマホで隠した。でも、破壊力はそれなりにあるはずだった。 というか、あれで無反応ってどういうこと? 普通、なんか来るでしょ。 「何やってんだ」とか、「やめろ」とか、「後で覚えとけ」とか。 怒られてもいいから、反応が欲しかっただけなのに。「意味わかんない……俺、ビジネスアカウントと喋ってるみたいじゃん」 ぽつりと呟いた声が、誰もいない部屋に落ちる。 俺が送ったメッセージには、ことごとく既読だけが付いていて、返信は一切なし。 この構図、完全にアウトじゃない? こっちが一方的に送りつけてる感じ、もはやストーカーか、情緒不安定なメンヘラだ。 悔しい。 もしかして、これくらいじゃ興奮しないってこと? え、ハードル高すぎない? ……まぁ、確かにアイツの性癖は天井知らずというか、底なしというか。 普段はクールで、何考えてるか分からなくて、基本やる気ゼロの面倒くさがり。 なのに、ベッドの上ではどうしてそうなる?ってレベルで偏りが激しい。 そのギャップ込みで好きになったんだけどさ。 今はその“偏り”に、完全に振り回されてる。 スマホを握ったまま、画面を何度も更新する自分が情けない。 来ない通知を待って、勝手に期待して、勝手に落ち込んで。 海外にいるだけで、こんなにも遠い。 距離だけじゃなくて、心まで離れてるんじゃないかって、最悪の想像が頭をよぎる。( ……なにやってんだろう、俺) 画像送って、既読無視されて、ひとりで勝手に傷ついて。 それでも、スマホを置けないあたり、もう完全に負けてる気がした。 しかも、また佐伯に構ってほ
last updateLast Updated : 2026-05-14
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第72話 フランスでの二週間

【side:佐伯澄人】 二週間のフランス研修。 可もなく不可もなくと言いたいところだけれど、正確には不可の比重が大きかった。 新鮮さはない。驚きもない。 感情が動く余地が、最初から用意されていなかった。 朝は早い。 出てくるのは決まって、観光客向けに最適化されたタルティーヌ。 味に飽きて、三日目には食事はただの「作業」になった。 昼も夜も、大学のクラスメイトと引率教員と同席する義務がある。 食事というより拘束だ。逃げ場がない。 日中は重要らしい観光名所を順番に消化し、姉妹校の学生とフランス語で会話をする。 指示された言語で、指示された内容を、指示された態度でこなす。 夜は相部屋のホテルに戻る。一人になれる時間は、分単位ですら与えられなかった。 生まれた国に戻され、知っている場所をなぞらされ、話せる言葉を話して終わる。 それ以上でも以下でもない。 大学では普段、誰も俺に近寄らない。 それなのに、この期間だけは、浮ついた男女が距離感を誤ったまま声をかけてくる。 その一つ一つが神経に障った。 この研修は、俺にとって経験でも交流でもない。ただの持続的な負荷だ。 「ストレス」以外の名前を与える理由が、どこにも見当たらなかった。 《お土産買ってきて♡》 通知を見た瞬間、ため息が出るほどではなかった。 ただ、予想通りだと思っただけだ。 数日前に俺の部屋に置いてきた南緒は、今日も今日とて、軽薄で中身のないメッセージを投げてくる。 《今日はなにたべたの?》 《澄人が居ないとバイトたいへん >_》 《おやすみ〜》 どれも読む価値は同じくらいだ。意味がない。 送ったところで、南緒の寂しさが埋まるわけでもないし、むしろ逆に、期待値だけが上がっていく。 そのことを、本人だけが理解していない。 実際、日を追うごとに通知の間隔は短くなり、文面は湿り気を帯びていった。 《寂しくなっちゃった 》 《俺がお昼か夜中にかけたら電話でられる?》 《なんで返事くれないの?》 予測はできていた。 出国する前から、もっと言えば、この研修が決まった数ヶ月前の時点で、こうなる未来は簡単に想像できた。 南緒はそういうやつだ。 距離が
last updateLast Updated : 2026-05-15
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第73話 帰国した夜

――その数日後に訪れた結果は、これだ。 画面に表示された画像を見た瞬間、声が漏れた。「…………は?」 間の抜けた音だった自覚はある。 すぐ隣で、相部屋のクラスメイトが訝しげにこちらを見る。「え、佐伯? どうかした?」「いや、何でもない」 反射でそう返し、「風呂入る」とだけ言って席を立った。 余計な説明をする気はなかった。シャワールームに入り、鍵をかける。ようやく一人だ。 スマホを開き直す。そこにあったのは、ベッドの上で、俺がバイト先で着ている制服を身につけ、四つん這いになってカメラに向かって臀部を突き出している南緒の姿だった。しかも、その後孔に片手で解すように指を添えている。構図も、角度も、狙いが露骨すぎる。 ……なんで、そうなる。 しかも、その画像のあとにメッセージはない。 つまり、言葉はいらない、反応だけ寄越せという、前回と同じ意思表示だ。 俺がどう思うかより、俺をどう動かすかだけを考えた結果なんだろう。 考えが浅い。実に、分かりやすくて浅い。 スマホを伏せ、シャワーの水量を強める。 南緒は、自分だけが追い詰められていると思っているんだろう。でも、それは間違っている。「……っ、くっそ…………」 シャワーの音にかき消されるように、静かに手を動かして欲望を吐き出した。 排水溝に流れていくそれを見つめ、蛇口を止める。 めちゃくちゃ、屈辱的。 こんな画像一枚に転がされている自分が惨めすぎて、南緒が送信取り消しを押す前に「保存」を苛立ったままタップする。 何事もなかったかのようにシャワーを終えると、クラスメイトが俺の顔を見るなり言った。「あ、佐伯。さっき先生が部屋を回って伝言してたんだけど」「――何?」「パリで予定されていた施設見学、急なストライキで中止になったって。列車も飛行機も元の便じゃ帰れないから、まだ三日残ってるけど、明日の朝イチ、[[rb:CDG > シャルル・ド・ゴール]]発の便で帰国だってさ」 不満げな声でそう告げられ、俺は学生向けに教員が配信したメールを開いた。 明日の朝一番の飛行機なら、今回は乗り換えなしで十三時間ほど。 南緒も、たぶんバイトを終えて家にいる時間だ。 帰ったら、きっと驚くんだろう。 玄関まで走ってきて、わぁわぁ質問攻めにする光景が目に浮かぶ。 けれど――そ
last updateLast Updated : 2026-05-15
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第74話 抱き潰すから

「っん、ぁ…………あっ、えっ、、ええっ!?」 南緒が、裸に俺のシャツ一枚の姿で、自慰に耽っていた。 しかも、その白い太腿はもうすでにグチャグチャに濡れていて――シーツにも染みが出来ている。 想像の遙か斜め上を行く恋人の痴態に呆然としていると、嫌な音が聞こえてきて、俺は布団を更に下まで剥ぎ取った。「す、澄人、なんでここに……」 慌てて隠そうとしているけど、もう手遅れ。 いつものむっちりとした臀部と太腿の間から、振動音が聞こえ、卑猥な色の細い紐が見えている。 頭の中で、ぷつん、と何かが切れるような音がした。「こ、これは、その……あの、」 しどろもどろになる南緒は、手元に持っていたリモコンらしきそれをカチカチと操作して、音が止んだ。 恥ずかしいのか、恐ろしいのか、驚いているのか。 色んな感情が混じった顔で、俺と目を合わせないままでいる。「へー、良い買い物してんじゃん」 ベッドの濡れた部分を避けるように腰を下ろすと、面白いくらい南緒の肩が震えた。 そのまま太腿を開かせ、まだ中に埋め込まれたままのローターを一気に引き抜くと、控えめなサイズのそれがとろりとローションを纏って吐きだされた。 こんなもんか、というのが正直な気持ち。けど、南緒はすぐに脚を閉じて、ぎゅっと目を閉じている。 何を言われるのか怖い、とでも言いたげだった。「……言いたいことは山ほどあるけど、シャワー浴びてくる」 ベッドを立ち、頬を赤らめて熱い吐息をこぼす南緒は、責められなかったことを安堵しているようだった。 じっ、とさっきまで恋人の胎内を掻き乱していたそれと、南緒を交互に見た後、寝室のゴミ箱にそれをぶち込んで俺は言った。 「お前、あとで抱き潰すから準備しとけよ」 ***「じゃ、時系列に沿っていきますか。――まず、あの画像なんなの?」「あ、ふっ……あ……」 シャワーを終えて、ベッドに戻ってすぐに南緒は機嫌取りのように俺の首に両腕を巻き付けて、唇を舐めとった。 しばらくキスをつづけた後、俺は南緒の口から舌を引きだし、代わりに人差し指と中指を入れてやる。 唾液が指から手に伝う。それでも口の中を掻き回し、俺は蕩けた瞳で見つめてくる南緒に質問を重ねた。「これ送って、俺にどうして欲しかったわけ? なんて返事して欲しかった? 俺がこれ見て
last updateLast Updated : 2026-05-16
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第75話 永遠の愛の象徴

*** その後も二回目、浴室で南緒の中に残ったものを掻きだすために、シャワーを浴びていたはずが三回目。 湯気で曇った鏡に、重なった影だけがぼんやり映っていた。 しかも全部、ゴムなし。 中出し。 あんなに大事にしたかったのに。 自制心なんて言葉は、南緒の前では意味をなさなかった。 この二週間の遠距離と、あいつのあからさまな挑発。 それに抗えるほど、俺は出来た人間じゃなかったらしい。嫌というほど思い知らされる。 約二週間ぶりの恋人の体を、お互いに確かめ合うみたいに、貪るように求め合って。 時間の感覚が溶けて、どこまでが夜でどこからが朝なのかも分からなくなって。 気が付いたら、俺たちは絡み合ったまま、ようやくベッドに沈み込んでいた。 翌朝――目を覚ました時、カーテンの隙間から差し込む光がやけに明るかった。 時計を見ると、もう九時を回っている。「……やば」 けれど、今日は二人ともバイトがない。 それだけが、奇跡みたいに救いだった。 南緒は先に目を覚ましていたらしく、ベッドから降りようとして―― その瞬間、膝が抜けたみたいにその場に座り込んだ。「ちょ、南緒?」「……無理……」 力なくそう言って、床に手をついたまま動かない。 内腿には無数の痕が残っていて、筋肉痛みたいに小刻みに震えていた。「一人じゃ立てない……」 情けない声でそんなことを言われて、胸の奥がちくりと痛んだ気がした。 腰が痛いだの、声が掠れてるだの、次から次へと不満をぶつけられた。「俺のせい? あんなの送ってきた南緒も悪くない? しかも、ゴミみたいに小っっさいローターまで買ってさぁ」「だ、だって寂しかったし!  佐伯、全然返事くれないし! えっちなの送っても、既読スルーみたいなもんだったじゃん!」 言い返しながら、南緒は布団を頭まで引き上げる。 拗ね方が完全に子どもで、まるで小学生だ。 正直に言えば、俺だって南緒のことを考えながら一人で処理することくらい、普通にある。 でも、そういう想像がこいつには出来ないんだろう。 ……いや。 出来ていたら、そもそもこんな騒動にはなっていない。 頭の中で一人、どうでもいい推論の証明を終えてから、俺は南緒の名前を呼んだ。「南緒」「……」 返事はない。 完全にだんま
last updateLast Updated : 2026-05-16
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第76話 実家に帰省します

店の忙しさがピークを越え、ようやく客足が落ち着いた頃。 アイスケースのガラスを曇りひとつ残さず拭き上げていた佐伯の背中に向けて、俺はわざとらしく溜息をついて言った。「……しばらく、実家に帰らせていただきます」 佐伯の手が、ほんの一瞬だけ止まった。 すぐにまた動き出したが、振り返った佐伯は、冬の空気よりも冷ややかな目で俺をじっと射抜いた。「お前を妻にした覚えも、婚姻届を受理した記憶も皆無なんだけど」「つれないなぁ。そこは『俺が悪かった、行かないでくれ』って縋り付く場面でしょ」 思わず口元が緩みそうになるのを堪えながら、俺は肩をすくめる。 いい。すごくいい。この嫌そうな顔。 俺のウザ絡みが、今日も元気に佐伯の神経を逆撫でしている。「でも、いつかしてくれるんですよねぇ~?」 冗談めかして語尾を伸ばすと、佐伯は答えず、壁のカレンダーに視線を移した。 なんなんだ、そこは即答で『YES』って答えるんじゃねぇのかよ。「……ていうか、小瀧の実家ってどこ」「仙台。こっから新幹線で一時間半。意外と近いでしょ?」「あっそ」 興味なさそうな相槌。 だが、自ら「どこ」と聞いた時点で、佐伯の中に一石は投じられたはずだ。 俺は脳内で勝手に加点する。「え、何、来たいの? 牛タン食べる? 観光しちゃう?」 畳みかけると、佐伯は今度ははっきり俺の目を見て、眉ひとつ動かさず言い放った。「一ミリもそんなこと言ってない。頭、常夏なの? 冷やすために、また冷凍室に閉じ込めてやろうか」「……っ、その脅しやめろよ! ガチでトラウマなんだよ!」 躊躇なく過去の受難をほじくり返されて、俺は戦慄する。 こいつ、中身は絶対ハン●バル・レクターか何かに違いない。 俺は視線を逸らし、販促用のチラシに「スモール一個無料」のチケットをパチン、とホチキスで留めながら話題を変えた。「……佐伯こそ。お盆、実家に帰らないの?」「帰る必要がない」 即答。 「それ以上掘り下げるな」という無言の壁が、バッサリと俺との間に築かれる。 ふきんを洗い始めた佐伯は、すっかり「スン」とした表情に戻っていた。 だが、皆さん。俺には最近わかるようになってきた。 これ、佐伯なりの「もっと構え」という、極めて難解な拗ねのサインなのだ。 俺がいなくなる夏休みを想像して、無意識にイライラしている。
last updateLast Updated : 2026-05-17
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第77話 実家での穏やかな時間

***「初めまして。南緒さんと同じアルバイト先に勤務している、佐伯澄人と申します。……こちらの急なお願いで伺ったので、宜しければ受け取ってください」 玄関の引き戸を開けた瞬間、佐伯は一切の迷いなく一歩前に出て、出迎えに来た母さんに深々と頭を下げた。 その所作があまりにも凛としていて、背筋が真っ直ぐで。 横で見ている俺の方が、なぜか居住まいを正したくなるほどの気品だ。「あらー、ご丁寧にどうもありがとう。息子がいつもお世話になってます」 母さんはぱっと表情を明るくして、差し出された袋を受け取る。「長距離運転、疲れたでしょう? 自分のお家だと思っていいから、ゆっくりしていってね」「はい、有難うございます」 にこやかに、でも決して馴れ馴れしくはならない絶妙な距離感で頷く佐伯。 ……いやいや、違うのよ母さん。気遣うポイントはそこじゃない。「帰省ラッシュの新幹線なんて、他人と二時間も密室に閉じ込められる苦行だ。死んでも嫌だ」という佐伯の異様なまでに強い主張に押し切られ、車で帰ってきただけだから。 駐車場に停まった、この田舎町には似つかわしくない水色のポルシェを一瞥しながら、俺と佐伯は、どこか浮かれた様子の母さんの後について家に入った。 すると、二階からドタドタと野性味溢れる足音が響いてきた。「兄貴、おかえり!」 弟の理緒だ。 久しぶりに会ったけれど、前より背が伸び、声も少し低くなった気がする。 小学生、思春期の真っ只中だ。「理緒、これ俺のバイト先の。今度友達と食べろよ」 そう言って差し出したのは、アイスのギフト券。 本当は現物を差し入れしたかったけれど、夏場の長距離ドライブにアイスはあまりに無謀だった。「うわ、マジ? やば。これ全部俺が食うわ」 即・独占宣言。 相変わらず分かりやすくてよろしい。「あと、こっち俺の友達。挨拶して?」「……何、お前。誰?」 理緒は一瞬で表情を「よそ行き」に切り替え、警戒心剥き出しで佐伯を見上げた。 あーあ、反抗期スイッチが入っちゃってる。「こら、お兄ちゃんの友達に向かってその口の聞き方――」 母さんが咎めるより先に、佐伯が一歩前に出た。「佐伯澄人。お前の兄貴が働いてるバイト先の、バイトリーダーだ」 淡々と、感情を削ぎ落とした声。 視線は少しだけ下ろしているが、そこには圧倒的な「上位個
last updateLast Updated : 2026-05-17
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第78話 佐伯と母さんの会話

湯呑みの緑茶を一口飲み、喉を整えてから言う。「いいえ。迷惑になるようなことは何も。むしろ南緒さんが居てくれると、店も明るくなりますから」 ……なにそれ。 隣でそんな風に語られると、たとえ営業スマイルだと分かっていても、心臓の鼓動が跳ねる。 チラ、と横目で見たが、佐伯は俺の方を見ないまま続けた。「初出勤の時から、素直で優しそうな子だと思っていました。……ですが今日、お母様にこうしてお会いして、納得がいきました。南緒さんのそういう素敵な部分は、お母様譲りなんですね」 こいつ、クッッッソ嘘つくじゃん! 初対面で俺に「Fラン」だの「脳みそ何グラム?」だの吐き捨て、二歳児扱いしたあの男はどこへ行ったんだ。 佐伯の完璧な「好青年」の仮面に、母さんは一気に頬を赤らめた。まるで二十歳若返ったような声が弾む。「やだ~、もう。佐伯くんみたいな男前にそんなこと言われると、お世辞でも――」「本音です」 被せ気味の即答。 どんだけ俺の母さんの懐に入り込むつもりだ。 今は思う壺だろうが、こいつが俺を冷凍庫に閉じ込めた過去を知ったら、母さんは速攻で不動明王にジョブチェンジするからな。 俺は心の中で毒づきながら、脂の乗った大トロを口に運んだ。「でも、この子、家を出るまで料理もしてないし不器用だし……本当にアイスなんて作れているのかしら?って、親としては不思議なのよ」 ぐさ。悪気ゼロの言葉が、正確に急所を突いてくる。「確かに」 理緒まで相槌を打つ始末だ。俺は無言で理緒の皿からサーモンを一貫奪い取った。「あーっ! それ俺の!」「……確かに、器用ではないと思います」 佐伯はあっさり同意した。おい、そこは否定しろよ。「けど、俺が思う南緒さんの良いところは、テクニックではなくて――」 その一言で、空気が変わった。 佐伯は一拍置き、ほんの一瞬だけ、隣の俺を横目で見た。 目が合った。その一瞬で、体温が跳ね上がる。 彼はすぐに母さんの方へ視線を戻し、静かに言葉を繋いだ。「……接客です。その点に関しては、他のスタッフより抜きんでたものがあると思っています」 母さんは箸を止め、理緒も口をもぐもぐさせたまま動きを止めた。「お客さまの赤ちゃんをあやして、お母様が少しでも息抜きして食べられるように配慮したり。この前は、ご年配のお客さまに、カウンターを出て隣でフレーバーの
last updateLast Updated : 2026-05-18
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第79話 ザルというよりワク

「先取り学習しすぎてさー。数学だけ、もう高校レベルになっちゃったんだよね」 小学生で、高校レベルの数学。 幼稚園の頃から、パズルや数字遊びを異様な集中力でこなしていたのは覚えている。なんとなく地頭がいいんだろうな、とは思っていた。でも、ここまでとは正直知らなかった。 俺が内心で軽くショックを受けていると、ダイニングの椅子に座っていた佐伯が、自然な動作でこちらに身を寄せ、プリントを覗き込んだ。「……加法定理じゃん」 そう前置きしてから、迷いのない口調で続ける。「sinαはγ分のb、cosαはγ分のa。だから、aはγcosαで……」 さらさらと式を追いながら説明していく佐伯の声は落ち着いていて、まるで授業でもしているかのようだった。 理緒も、口を挟まず黙って聞いている。 その様子を横目で見ながら、キッチンですし桶を洗っていた母さんが、意外そうに声を上げた。「あら、佐伯くんって数学得意なの? 大学が理数系なのかしら?」 視線が佐伯に向けられると、彼は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。 困ったような、照れたような微妙な笑みを浮かべて、静かに首を横に振って答えた。「いえ、三ツ橋の国際教養学部です」 ――その瞬間だった。 がちゃん、という派手な音がキッチンに響き、母さんの手からすし桶がシンクへと落ちる。「えーーっ!? 三ツ橋大学!?」 驚愕の声が上がるのと同時に、今度はダイニング側から甲高い叫び声が重なった。「くっそ頭いいトコじゃん! やばぁ!」 理緒が椅子から立ち上がりそうな勢いで身を乗り出し、目を輝かせて佐伯を見る。「えっ、東帝大の次に頭いい所でしょ!?」「うん。東帝も受かってたけど、自分の家から遠いから」 それからというもの、母さんに加えて理緒まで、すっかり佐伯に懐いてしまった。 目をきらきらさせて隣に張りつき、佐伯はさっきの続きを丁寧に教え始めた。 理緒の理解度に合わせて言葉を選び、確かめるように問いかける。 宿題が終わった頃、玄関のドアが開く音と共に大きな明るい声が響いた。「たっだいまぁ~♪」「あ、父さん帰ってきた!」 次の瞬間、理緒はスリッパの音も軽やかに玄関へと駆けていった。 リビングへやってきた父さんは、ネクタイを緩め、上機嫌そのものといった様子だった。 そして俺と佐伯を交互に見比べるなり、
last updateLast Updated : 2026-05-18
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第80話 佐伯の生い立ち

先に風呂を済ませた佐伯のあと、俺もシャワーを浴び、少し火照った身体のまま廊下へ出た。 髪を拭きながら、何気なくリビングの前まで来て、ドアノブに手を掛けた――その時だった。「佐伯くん、本当にお盆にご実家に帰らなくてよかったの?」 母さんの声が、思ったよりもはっきりと耳に届いた。 その問いに、佐伯はすぐには答えなかった。 ほんの一瞬。だが確かに、言葉を選ぶための、深すぎる「空白」があった。「……海外で生まれたので、そういう習慣が無くて」 その言葉を聞いた瞬間、俺はドアノブからそっと手を離した。 今まで、どうしても聞けなかったこと。佐伯の、家族の話。 俺はその場に留まり、ドア一枚隔てた向こう側に、そっと耳を澄ませた。「まぁ、帰国子女なの?」「はい。七歳までフランスで過ごしました」 ――知らなかった。佐伯のことを、俺は分かっているつもりでいた。 普通に、俺と同じように、日本に生まれて日本で育ってきた人間なのだと、どこかで勝手に決めつけていた。 でも、それは全部、俺の都合のいい想像に過ぎなかったのだ。「ご両親はどんなお仕事をされてたの?」「父は、外資系の投資銀行に勤めていました。海外赴任が多くて……今も国外です」「お忙しいのね。お母さまは?」「……俺を産むまでは、コンサルティングと広報の仕事をしていました」 淡々と、履歴書を読み上げるような説明が続く。 事実だけが、綺麗に並べられていく。 思い出を語る時に混じるはずの、熱や色彩が、そこには一切存在しなかった。「男の子って、お母さんに似るって言うじゃない? きっとお綺麗な方なんでしょうね」 その言葉に、佐伯の返事は一拍遅れた。「……南緒さんはお母様似ですね。目元が特に」 質問を正面から受け取らず、鏡のように跳ね返して会話の主導権を奪う。 それは、佐伯が自分を守る時に使う、いつもの「完璧な接客」と同じだった。 佐伯が語った家族のことは、感情がすべて削ぎ落とされた、抜け殻のようだった。 自分の家族の話であるはずなのに、佐伯自身がそこにいない――そんな、絶望的なまでの心の距離を感じた。*** 二階の客間に二つ並べられた布団の間には、ほんのわずかな隙間。 佐伯は無言のままスマホを操作し、機械的な指の動きでアラームをセットした。 画面を伏せると、何
last updateLast Updated : 2026-05-19
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