バ先のダウナー男子に、気付けば毎日溶かされています。 のすべてのチャプター: チャプター 61 - チャプター 70

104 チャプター

第61話 【佐伯視点】小瀧南緒との出会い

高校生になると、父が再び海外赴任になり、俺はマンションでの一人暮らしを始めた。同時にアルバイトも始めた。 毎月、生活費としてほぼ七桁の金が振り込まれていたが――それでも早く自立したくて、駅近で時給が高く、売り上げ次第で自分にもマージンが入るアイス店を選んだ。 働き続けるうちに時給は勝手に上がり、バイトリーダーの話も避けられなくなった。面倒だったが、手当がつくなら受けてもいい。結局はそれだけの判断だった。 どこまでも合理的に、自分の得だけを拾い続けて生きていた。 胸が高鳴るような楽しみも、明日を迎えたくなる理由もない。 もちろん、“生きたいと思える根拠”なんてものも、最初から持っていなかった。 気づけば、学生生活の只中で、周囲は笑って泣いて恋をして、自由を謳歌しているのに、俺だけは常に、遠くの席から眺める側にいた。 金の問題も、人間関係の摩耗も、すべて事前の計算で排除できた。 評価や肩書き、整った未来だけが自動的に積み上がっていく。 俺はただ、一段高い場所から“人間の人生”という現象を観察しているだけだった。 俺が欲していたのは、成功でも幸福でもない。 「一刻も早く、この人生から離脱すること」だけだった。 ただ、生きる工程をどれだけ削れるかを計算し続ける毎日。 摩耗しないように、音を立てないように、感情を抑えて生きて、そして終わる。 それが――二十歳になった“佐伯澄人”という人間の、出来上がった最終形だった。 壊れる理由なんて、どこにもないはずだった。 隙も、余白も、期待もない。 完璧に組み上げた、無風で、無感動で、無傷のはずの人生設計。 ――それなのに。 予兆もなければ、警告もなかった。 気づいたときには、俺の内側で積み上げてきたすべてを、ぐしゃぐしゃに、原型ごと持ち去っていった人間がいた。 それが、小瀧南緒だった。 『あ……えっと、小瀧です。宜しくお願いします』 少し緊張しながらも、明るい声でそう言って頭を下げた。 その仕草だけで、明るさと素直さ、そして、疑うことも警戒することも知らずに生きてきた人間特有の無防備さが滲んでいた。 ――ああ、なるほど。こいつは、人生で大した苦労をしていない。 人から当然のように愛され、守られ、笑ってきた。 それが一目で分かる。 俺の人生とは正反対
last update最終更新日 : 2026-05-09
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第62話 【佐伯視点】満ち足りるということ

小瀧に対して、自分が「特別な感情」を抱いたと明確に理解したのは、あの冷凍庫の出来事の後――。 怒り、不安、恐怖が混ざった声で、小瀧は言った。 『佐伯って、なんでこんな意地悪ばっかすんの?』 責めるようで、泣き出しそうで、それでもどこか俺に縋る視線。 その瞬間、胸の奥で何かがひどく軋んだ。 それが恋愛感情だと気づいた時、自分でも笑えるほど滑稽だった。 気づいた頃には、小瀧が笑うだけで可愛いと思っていたし、泣かせたいとも思っていた。 袖を引っ張る子供みたいだと見下していたはずが、実際には――俺の方こそ、幼稚だった。 こっちを見てくれと、母親の気を引くために必死に袖を掴む子供と変わらない。 与えられなかったものを、小瀧に無意識のうちに求めていた。 俺の人生で初めて芽生えた感情は、優しさでも温もりでもない。 歪んだ独占欲と、遅すぎる渇望だった。 * 紆余曲折の末に小瀧と付き合ってみて、いちばん予想外だったのは――小瀧が、想像以上に「恋人に尽くす」タイプだったことだ。 『じゃーん♪ 今日はトマト煮込み作ってみた! 食べよ?』 弾んだ声でそう言いながら、湯気の立つ鍋を指さす。 俺のいい加減すぎる食生活を見かねて、不器用なくせに料理まで始めていた。 正直に言えば、「温かい食事が嬉しい」とか「色どりがきれい」とか、そんな価値観は持ち合わせていない。必要な栄養を最短で摂ればそれでいい。 その結果が、サプリとゼリーとプロテイン。 そもそも“家庭の味”と呼ばれるものを、俺はほとんど知らなかった。 それだけじゃない。 小瀧は何のためらいもなく、俺の日常へ踏み込んできた。 風邪を引いた時も、来るなと言ったのに、マスク姿で当然のように現れて、 『俺、馬鹿だからうつんないの! インフルになったこと、一回もないし!』 根拠のない自信を掲げながら、食べやすい味付けのお粥を作ってくれた。 熱が上がった夜中、咳のたびに起きては、黙って背中をさすり、氷枕を替えて、ベッドの横で今にも泣きそうな声を落とす。 『……早く、元気になって』 離れろと言っても離れず、俺の腕に額を押しつける。 朝方、ベッドにもたれたまま座って眠る姿を見た瞬間、頭がおかしくなりそうだと思った。 (――なんで、ここまでするんだろう) 小瀧は、捻りっぱなしの蛇口みたいに、止まること
last update最終更新日 : 2026-05-09
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第63話 留年の危機!?

やべー。マジでやばい。 いやほんと、冗談抜きで笑えない事態が起きている。 大学三年になってから突然焦りだして、「あっ、卒業単位、意外とギリじゃね?」って気付いた俺は、間抜けにも追加でフランス語を履修登録したわけだが――これがまあ見事に、地獄だった。 一年から四年までごちゃ混ぜの大教室。 前列にはガチ勢っぽい学生、後ろの方には単位だけほしい幽霊学生、そしてその真ん中あたりで、ハテナを大量に頭に浮かべている俺。 授業のたびに、フランス人教授が口から、ぺっ、ぺっ、ぺっ!と細かい唾を飛ばしてくるのも地獄ポイントが高い。しかも、その唾のリズムと一緒に、俺の発音がいちいち否定される。「ノンノンノン、舌が丸い! もっと前で、前で発音シナサーイ!」 いや前ってどこだよ。鼻? 唇? てかそんな前に出したら俺の魂まで抜け落ちるわ、と思いながら、毎回「オウ」と「オ」の違いで詰んでた。 そして決定打は、個室で行われた音読の小テストだった。 狭い部屋。教授と俺だけ。閉じられたドア。逃げ場ゼロ。 頑張って読んでも、教授は眉間にしわ寄せて、「小瀧クン、本当に君のフランス語は通じマセン。 ――もはや、喃語デス」 喃語。 赤子レベル。 あれ、俺、二歳児からますます退化してるくない? その瞬間、俺の平常点と期末テストの淡い希望は粉々に吹っ飛んだ。 成績は、ほぼ確実にD評価。 もうそれが頭の上にでっかい墓標みたいに乗って、ぐらぐら揺れていた。 ただ、なんとかそれだけは避けたかった。マジで。 なぜなら学期末には大学から成績通知が自動で親に送られる。アルファベットでバッチリ。点数もバッチリ。 「なんでこれ落としたの?」っていう追及までバッチリついてくる。 うちは弟が優秀なだけに、俺のポンコツ具合がめちゃめちゃ目立つらしくて、親はこと成績に関しては、そこそこガチでうるさい。絶対、家の食卓の空気が死ぬ。 だから、だからこそ必死だった俺に、教授はため息をついてから、ふいに言った。「……仕方がないデスね。じゃあこれ、読めるようになったら、Cマイナスにしてあげマス。ただし、期限は来週の火曜日デス」 その瞬間、天井から後光が差した気がした。 トレビアーン。いやほんと、メルシーメルシー。「えっと……これ、何て書いてあるんですか? 日本語訳ないんですか?」「私
last update最終更新日 : 2026-05-10
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第64話 恋人のお願い

「本当だ……手書きだし、筆記体。しかもすごいクセ強いですね。なんか、くねくねしてるっていうか、ニョロニョロしてるっていうか」 そう、ニョロニョロ。 俺は頭抱えながら床を見つめて、最終手段を考えた。 ……期限、延ばしてもらう? でも成績の異議申し立てって、大学が決めた短い期間しかダメだったはず。俺みたいなやつが期限延長なんて、聞いてもらえる気がしない。 そんな絶望の海でプカプカしていたら、橋本くんが「あ、でも」と何か思い出したように言って、顎に人差し指を添えた。「心強い佐伯さんが居るじゃないですか! 第二外国語、フラ語って言ってましたよね?」「いや……それだけは無理」 俺は瞬時に即答した。本能が“NO”を叫んだ。「どうしてですか?」「あの面倒くさがりが、勉強なんて付き合ってくれるわけないじゃん!」 そう、絶対無理。 佐伯のやつの顔がありありと浮かぶ。 いつもの無表情で、見下ろすような冷めた視線。腕組み。 で、その無慈悲な口から放たれる暴言は想像するだけで胸が痛い。 “それって俺になんのメリットがあんの?” “落第して、バブちゃんからやり直しな” “小瀧とは偏差値が30離れてるから無理” …………はい、刺さる。全部刺さる。 似たようなこと、既にもう言われたことあるから想像がつくんだ。「そっかぁ……あ、大夢くん! 一緒に帰ろ〜っ」 橋本くんが朗らかに声を上げ、高橋が「唯〜♡」と語尾にハートが付いた声で返す。 そしてそのまま、自然すぎる動作で恋人つなぎ。 いちゃいちゃフルスロットルで従業員出口から出ていった。 ……はいはい、甘酸っぱいの満腹です。 なんだかんだ言っても、あの2人は恋人としてめちゃくちゃ順調らしい。羨ましいけど、あんまり堂々と見せつけられるとこっちが照れるわ。「はーーーー……マジでどうしよう……」 俺はイスに沈み込むように座って、これ以上ないくらいの溜息を吐いた。 肺の中にいた空気、全部引っ張り出したくらいの勢いだった。 その瞬間、休憩室のドアがと開いた。「小瀧、ちょっと混んできた。手貸して」 いつも通りの不機嫌そうな声。いや別に不機嫌なわけじゃなくて、佐伯の標準装備なのは分かってるけど。「今、いく……」 俺は未練がましくプリントをカバンに突っ込み、佐伯に呼ばれるまま店頭へ
last update最終更新日 : 2026-05-10
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第65話 俺のお家にご招待!

……え、今の無視? 生きてる? 心ある? 人でなし? 鬼? 悪魔? 今度こそ俺が佐伯を冷凍室に閉じ込める番か? そんな俺の心の叫びをよそに、時間は淡々と進み、いつも通りレジ締めをして札勘を終えた。 店長に「先に上がっていいよー」と声をかけられ、俺と佐伯はほぼ同時に退勤。 ……橋本くんと高橋みたいに手を繋いで帰るわけでもないけどね。 今日は泊まりに行く約束なんてしてなかったから、いつもならここで「じゃ、また明日」で終わる。 だから俺はそのつもりで、いつもの方向に歩き出そうとした。なのに。「……南緒」 佐伯が、ふいに足を止めた。 歩幅ぴたり。 俺もつられて止まる。「え、なに?」「あのさ」 佐伯は夜風に揺れる前髪を押さえもせず、ただ淡々と俺の方を見て言った。「メリットは?」「……メリット?」「南緒の頼みごと聞いて、俺が得られるメリット。最低三つ提示して」 いやいやいや、お前はどこの傍若無人な社長様だよ。 でも俺の立場としては“頼む側”。 選択肢は“ひざまずく”一択。 だから、ポケットに手を突っ込んだまま必死で脳みそをフル稼働した。「えーと、まずは……今日の夜ご飯作ってあげる」「ふーん。あとは?」 食いつきゼロかよ。 いや分かってはいたけどさ。「うーん……肩たたきとか、マッサージ……?」「それ、子どものプレゼントじゃん。母の日のやつ。で、最後は?」 え、いいんだ。 マッサージ、まさかの合格なんだ。 採点基準ガバガバすぎん? 俺は最後の一つをひねり出すように考えた。 考えて、考えて――あ、と思った。「家!」「は?」「俺の家に、初めて佐伯をご招待しまーす!」 じゃじゃーん、と両手をぱぁっとキラキラしている風に振ってみた。 実際はキラキラしてないけど、気持ちはキラキラ。 しかし佐伯は、めちゃくちゃ薄い目で俺を見ていた。 例えるなら、チベットスナギツネ。 いや、あれより冷たいかもしれん。「……それってメリットなの?」 「え、だって一度も来たことないじゃん。レアだよレア。プレミア感すごいよ?」 俺が思わずふふ、と笑ってしまうと、佐伯はほんの一瞬だけ視線を逸らした。 そのままくるりと踵を返し、「……まぁいいけど」 と言って俺の歩く方向に着いてきた。 え
last update最終更新日 : 2026-05-11
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第66話 実は眼鏡とか聞いてない!

「えー……フラ語を落しかけてまして……これを流暢なフランス語で読めたら、落単回避でして……」 佐伯は一瞬だけ眉をしかめる。 やっぱネチネチ言われそう、って覚悟した瞬間――自分の鞄を開けて、中から黒い眼鏡ケースを出してきた。 (え? なにそれ……なんでメガネ?) パカッとケースを開けると、中にはシンプルなメタルフレーム。 佐伯はそれを掛け、もう一度プリントを上から下まで目で追った。「内容自体は……そんな難しくはない。全然。字ぃ汚ねぇけど」 眼鏡佐伯が、やばい。 似合いすぎ。反則級に、美の暴力。 メガネのブリッジを中指で軽く押して位置を直す仕草なんて、俺の心臓が拍手喝采しそうだった。 俺が完全に石化して何も言えないでいると、痺れを切らした佐伯が言った。「で、発音指導をすればいいわけね? 要するに」 「は、はひ……」 語尾が幼児レベルに縮む。 情けない。でも仕方ない。 俺が土下座レベルで頭を下げると、佐伯は深く、大きなため息をついた。「……じゃあ、メシ。先に作って」 なんで当然みたいな顔してんの、この男は。「なんで前払いなの!?」「時間かかりそうだから。サクッと飯済ませてからにしたい」 はいはい、俺の知能レベルをご存じの上での発言なんですね、ありがとうございます。 俺はプリントを佐伯に投げ渡し、キッチンへ戻る。(昨日、買い出ししといて良かった……!) 冷蔵庫を開けると、豚肉、タマネギ、味噌、万能ネギ。ギリ形になるラインナップ。 調味料を並べて、肉を広げて、フライパンを温め始めると、佐伯はソファからつまらなそうに外を眺めていた。 膝の上にプリントを放り投げたまま、退屈そのものの顔で。「テレビつける?……それか、その辺の本とか読んでていいよ」 棚をあごで示すと、佐伯は無音の反応で立ち上がり、ひょいっと一冊抜き取った。「ああ、それね、アルバム。中学から高校くらいの時かなぁ」 肉を炒めながら言うと、佐伯はページをめくる手を一瞬止め、また淡々と読み進めた。 入学式、青春の無駄遣いみたいな日々、くだらない誕生日サプライズ、卒業旅行。 独り暮らしが寂しくて、お気に入りだけ印刷してまとめたやつなんだけど……佐伯に見られるのは、なんか変にドキドキした。「こいつ、誰?」 最後のページを指差されて振り返ると
last update最終更新日 : 2026-05-11
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第67話 うまく出来たご褒美

湯上がりの佐伯、髪が少し濡れたまま乾ききってなくて、部屋着の襟元からのぞく鎖骨とか、余計に視界に入ってくる。 集中力が削られる。主に俺の。 「じゃあ、最初っから。とりあえず読んでみて」 促されて、俺はプリントを持ち直す。 たぶん、自分でも分かってる。めちゃくちゃ不安しかない読みだし。 「ぱるれず、だもーれ?」 「真面目にやれよ。意味わかんねぇ、新生児かよ」 秒で切り捨てられた。容赦ゼロ。 見ると佐伯は、開始1ターン目にして既に“おまえ……”と言いたげな顔をしている。 「ちゃんと普段の授業聞いてんの?」 「え、聞いてるよ!」 聞いてる“だけ”とも言うけど。 むすっと反論すると、佐伯はボールペンのノック部分でこめかみをちょいちょい押しながら、深いため息を吸い込んだ。 まるで「頭痛薬持ってくりゃよかった」みたいな動き。 「意味は分かる?」 「いや、まったく」 俺が即答すると、佐伯は「やっぱ和訳はいらねぇ」と首を振った。 余計な情報入れると、さらに俺の脳みそが迷子になることを分かってくれてるらしい。 「発音だけ。とにかく音で覚えて」 そう言って、 「Parlez-moi d'amour」 すらすらと読み上げた。 え、ちょっと待って。 佐伯、フランス語しゃべるとこんな声するの? いつもの低めの声の、さらに柔らかいバージョンみたいで、やたら耳に残る。 頬杖つきながら、練習する俺の口元をじっと見る佐伯。 その視線に軽く緊張するくせに、見ていたいのは俺の方だった。 「カタカナでふりがな振ってほしい」 甘えたくなって言ってみたら。 「それやると、流暢には程遠くなるからダメ。ちゃんと音で覚えて」 はい、秒で却下。 だけど、言い方がちょっと優しいのずるい。 佐伯は、その一文を何度も同じテンポで繰り返してくれた。 俺が間違えるたび、少し眉が寄るけど、すぐに直し方を教えてくれる。 「舌の位置と動きが悪い。そこで止めるな、流れが切れてる」 「ここ、もっと滑らかに。喉からじゃなくて口先で」 「ほら、ゆっくりでいいからやり直して」 何行目か、分からなくなる頃。 俺の頭はだんだん軋んできて、こめかみも痛い。 フランス語が呪文にしか聞こえない。 終わりがどこか見えないトンネルに突っ込んだ気分。
last update最終更新日 : 2026-05-12
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第68話 俺もお前を愛してる

……いや、てかそれはそれでズルい。 上手くなりたいのか、キスさせられたいのかわかんないし、 でも下手だと文句言われるし。 どんな地獄の個人授業なのこれ。 佐伯はそんな俺の混乱なんて完全スルーで、次の文を読む。 「Je vous aime」 柔らかい声が耳に落ちて、思わず首を傾けながら聞き入ってしまう。 「ジュ… ブ… ゼイム」 恐る恐る言うと、佐伯はまた、俺にしか見せない優しい微笑みを口元にだけ浮かべた。 目元はそんなに変わらないのに、口角だけふわっと上がるこの表情。 ずるい。ずるすぎる。 「Je vous aime aussi.」 返事をするみたいに、落ち着いた声で。 どこかくすぐったそうに。 意味なんか全然わからないけど、“会話してる” 感じがして胸がきゅっとなる。 え、ちょっと待って。 なんか今のは、プリントに載ってない言葉のような……。 「それ、どこに書いてあるの?」 「いいから次。早く読んで」 また、今度は瞼に軽くキスされた。 そこからは、耳が慣れたのか、 それとも佐伯の指導が単純にうますぎるのか、つっかえたり詰まったりはしつつも、さっきより格段にスムーズに口が動くようになった。 「そう、もっと舌を前。……違う、そこ。はいもう一回」 「う、うん……ジェ…ヴ…ゼ…」 「惜しい。ほら、ちゃんと見ろ」 佐伯は時々、俺の顎をくいっと軽く指で上げたり、発音の時の唇の形を見せるように自分の口元を指したりして。 気づけば距離がずっと近い。 息が触れそうな距離で、ずっと俺の声と佐伯の息が混ざってた。 授業より集中できるの、なんでだよ。 でも、順調に言えるようになるたびに佐伯がちょっとだけ満足そうに頷くのが嬉しくて、俺は必死で覚えようと頑張った。 ***「もぉ疲れたぁ〜〜」 喋りすぎて、もう舌が自分のものじゃないみたいに疲弊してきた。 フランス語ってこんな喉とベロに負担かける語だったっけ? もはや授業より拷問。 「きゅう……」 「休憩」って言いたくて口を開いた、その“う”の音の途中で。 またしても佐伯に、ふっと唇を奪われた。 軽く塞がれるだけのキスじゃない。 ゆっくりと押し当てられて、ほんの少しだけ隙間を作るように離されて、じれったくて、呼吸が迷子になる。
last update最終更新日 : 2026-05-12
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第69話 何度でも囁いて

朝方の乾いた空気の中で、俺はキッチンに立って、ぼんやり湯気を見つめながらインスタントのチャイラテを啜った。 昨夜の名残がまだ部屋に漂ってる気配がして、胸の奥が温かくなる。 フローリングが冷たくて、ちょっと身震いしながらベッドに戻ると、佐伯は上裸のまま、いつもの寝相で無防備に寝息を立てていた。 「…………」 あんなに普段ツンケンしてるくせに、寝顔はなんでこんなに子どもっぽく見えるんだろう。 佐伯の淡いプラチナ色の髪に、朝の光が触れた途端、きらきらと溶け合う。 ひと束ひと束が、まるで光そのもの。 思わず指を伸ばして触れる。 角度を変えると、銀が強く浮き上がったり、また別の角度では、金色がふわっと灯ったりする。 (染めるタイプには見えないけど、これって地毛……なのかな) 澄人は瞳も、ライトブラウンで、蜂蜜色に近い。 そのことは気になってたけど――なんとなく、家族の話をさせるのは嫌で、今まで触れてこなかった。 俺はその隣にゆっくり潜り込み、プリントを手に取る。 昨夜、口が攣りそうになるくらい練習したおかげか、フランス語のニョロニョロ達が、なんとなく“記号”じゃなくて“文字”に見えてきてる……気がする。 でも休み明けには絶対忘れるパターンだ、これ。 (……あ、そうだ。動画で撮ればよくね?) 今さらの大発見に小さくガッツポーズして、寝返りを打った佐伯の背中にそっと声をかけた。 「……おはよ」 低く唸るみたいな返事と同時に、半分寝たままのおでこキス。 けどそのままひょいっとベッドを出て、当然のように朝シャンへ向かっていくのも佐伯っぽい。 ぽつんと取り残されたベッドの中で伸びをしようとして――ふと、目に入る。 太ももにくっきり残った昨晩の痕。 「……うわ、めっちゃ目立つ……」 思わず小声で文句言いながら、スウェットを引っ張って隠す。 ついでにのろのろと着替えて、俺はキッチンで朝食の準備を始めた。 佐伯って、俺と一緒の時はコーヒーと甘めのパンを食べる。 一人の時は絶対ゼリーだけで済ませるタイプなのに。 ちょっとだけ、そういうのは俺との生活を大切にしてくれる気遣いを感じられて、嬉しい。 洗面所から聞こえる安物ドライヤーの音が、最後のあがきの音を吐き出して沈黙した瞬間。 「そろそろ
last update最終更新日 : 2026-05-13
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第70話 置いて行かないで

マジで、あり得ない!! 佐伯と付き合う前も、付き合ってからも、どういう神経してんだよって思うことは山ほどあった。 けれどーー今回ばかりは、『冷凍庫閉じ込め事件』のK点を軽々と飛び越える、ぶっ飛んだ事件が起きた。「俺、明日の朝から二週間海外に行ってくるから」 その言葉を告げられたのは、日付が変わる少し前の夜中のことだった。「えっ、何? どういうこと?」 俺の声は、思わず震えてしまった。心臓がバクバクして、頭の中が真っ白になる。 そんな俺の狼狽を、佐伯は意に介さず、淡々と説明を続けた。 大学の必修で、語学研修のためのイタリア・フランス研修旅行に行くのだという。「は? 突然すぎる……」 心の中で呟いた言葉が、声になって漏れそうになるのを押さえつつ、俺はただ黙って聞くしかなかった。 目の前の佐伯は、いつも通りの涼しい顔をして、でもどこか楽しそうにしていた。 突然、大好きな恋人と二週間も離れ離れになることになった―― 「会えなくなる」ってだけで、夜の静寂に置き去りにされた俺の胸は、ぎゅっと締め付けられる。 だって、今日すら普通にエッチして、明日の朝もまた隣でイチャイチャするんじゃないかと思っていたのに、佐伯は「フライトに備えて早く寝る」とか言い出す。 来月のシフト表の半分が空欄なのは、まだ予定が分からないからだろうと、呑気に考えていた自分が馬鹿みたいだ。 佐伯は俺に背を向けたまま、静かに横になっている。 その背中を見ていると、妙に寂しさが増幅される。 中途半端に身体に残っていた熱も、今夜は行き場をなくしてしまった。 結局、俺もまた佐伯と背中を合わせて眠るしかなかった。 そして――翌朝、目覚めた時には、佐伯の姿はもうそこにはなかった。 《部屋、そのまま居ていいから掃除だけしといて》 最後に送られてきたメッセージは、これだけ。 謝罪も、寂しくさせてごめんも、急で申し訳ないも、何もない。ただ一言、「掃除しといて」。 (知らねーよ、佐伯のばか。俺はダスキンじゃないんだぞ。ばーかばーか……) しかも、フランスってどれくらい遠いんだろう。 スマホで調べてみると、時差はなんと8時間。フライトだけでもかなり時間が掛るらしい。 出てくる画像は、映画の世界みたいな街並みや、光をまとった歴史的建築物の数々。 心の底か
last update最終更新日 : 2026-05-14
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