All Chapters of 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する: Chapter 91 - Chapter 100

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91.御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった

久世物産の月次進捗確認は、予定よりも静かに始まった。会議室に並んだ資料は、以前より少なくなっていた。それは問題が減ったからではない。見るべき項目が絞られ、誰が何を進めるのかが整理され始めたからだった。KUZÉ ma vie縮小実行。在庫処分進捗。EC導線改修。取引先説明状況。決裁フロー見直し。経費処理ルール改定。銀行向け月次報告。森川が画面に実行管理表を映す。空欄だった進捗欄には、少しずつ言葉が入っていた。未着手。進行中。完了。保留。次回対応。その四つの区分だけで、久世物産の空気は以前と違って見えた。検討中という便利な言葉は、表の中から少しずつ減っていた。代わりに、日付と担当者と、次に何をするかが入っている。まだ立ち直ったわけではない。在庫は残っている。取引先への説明も、すべてがうまく進んでいるわけではない。KUZÉ ma vieの縮小に対する社内の戸惑いもある。怜央の権限見直しも、完全に定着したとは言えない。それでも、久世物産はもう、沈んでいく理由を見ないふりする段階を過ぎていた。美緒は、リブランシュの席で資料に目を落としていた。今日は、細かい診断をする日ではない。進み始めたものを、進み続ける形に整える日だった。森川が報告する。「限定ボックス追加生産停止については、制作会社との精算条件が確定しました。既存在庫はギフト用途に限定し、通常商品への使用は行いません」長谷川が頷く。「損失見込みは」「経理で一次試算済みです。月次報告に添付します」次に浜口が、取引先説明の進捗を報告した。「優先対応先のうち、東雲醸造を含む三社へ訪問済みです。条件見直しについては一部厳しい意見もありましたが、今後の商品提案とEC支援の改善を前提に、継続協議となっています」宗一郎は、黙って資料を読んで
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92.エピローグ・名前を変えない朝

朝のテーブルには、鷹宮が淹れたコーヒーと、美緒が昨夜まで読んでいた事業資料が並んでいた。窓から差し込む光はまだ柔らかく、白いカーテンの端を淡く透かしている。テーブルの上には、リブランシュの案件ファイル、赤い付箋のついた試算表、地方の小さなメーカーから届いた商品パンフレットが広げられていた。生活と仕事が、無理に混ざるのではなく、静かに同じ場所に置かれている。美緒は、その光景を少し不思議な気持ちで眺めた。鷹宮と婚姻届を出してから、もう半年になる。部屋の中には、二人で暮らしている気配が少しずつ増えていた。玄関には美緒のパンプスと鷹宮の革靴が並び、棚の上には鷹宮が選んだ小さな花器が置かれている。リビングの一角には美緒の仕事用バッグがあり、その隣に、鷹宮が休日に読む経済誌が重ねられていた。どれも、静かなものだった。誰かの家に入った、という感じはしない。美緒の生活が、別の誰かの名前に飲み込まれたわけでもない。ただ、自分の生活の隣に、鷹宮の生活が自然に並んでいる。そのことが、今でも時々、美緒の胸をそっと温めた。「今日は午後から面談でしたね」キッチンから、鷹宮の声がした。「はい。商工会からの紹介で、味噌蔵の方が来られます」「資料は?」「昨日の夜に一通り見ました。商品自体は長く続いているようなんですが、価格設定と販路が曖昧で。あと、ECはほとんど整っていません」「リブランシュ向きですね」鷹宮はそう言って、コーヒーの入ったカップを美緒の前に置いた。からかうような調子ではなかった。けれど、そこには美緒の仕事を知っている人の穏やかな確信があった。美緒は小さく笑った。「そうですね。まず、何が残っているのかを見るところからです」鷹宮は、美緒の向かいに座った。彼の左手にも指輪がある。美緒の左手にも、同じように細い指輪が光っていた。けれど、その指輪は、美緒を誰かの所有物にするものではなかった。朝の光の中で、ただ静か
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1.切るべき数字

午前九時を三分過ぎたところで、会議室の扉が閉まった。壁際に置かれた空調が低い音を立て、長机の上には人数分の紙資料と、透明な袋に入った商品のサンプルが並んでいる。窓の外には、工場棟の灰色の屋根が見えた。その向こうでトラックが一台、ゆっくりと搬入口へ入っていく。鷹宮奏真は、机の中央に置かれた資料を開いた。表紙には、東城食品株式会社、中期経営改善計画とある。創業四十七年。従業員百二十名。地元スーパーや量販店向けに惣菜、冷凍食品、加工食品を製造する中堅メーカーだった。全国的に知られた会社ではない。だが、この地域では一定の知名度がある。地元の学校給食へ商品を納め、スーパーの棚には東城食品の商品が何種類も並んでいる。少なくとも、明日突然なくなる会社には見えない。「それでは、まず当社の現状からご説明いたします」正面に座った東城社長が、資料を一枚めくった。五十八歳。体格がよく、声も大きい。紺色のスーツに、少し派手な青いネクタイを締めている。緊張しているのだろう。資料を持つ指が、わずかに紙の端を押し潰していた。「昨年度の売上高は三十二億八千万円。今年度についても、現時点ではほぼ前年並みで推移しております」壁のモニターに棒グラフが映る。三年前。二年前。前年。今年度見込み。高さはほとんど変わらない。「昨年投入した新商品も好調でして、特にこちらの冷凍惣菜シリーズは若い世代にも受け入れられています」社長の隣に座った営業部長が、少し誇らしげに商品サンプルを示した。透明な袋の中に、色鮮やかなパッケージが見える。鷹宮は一度だけ商品へ視線を向け、すぐに資料へ戻した。売上高。三十二億八千万円。前年差、マイナス〇・四パーセント。数字だけなら、社長の説明は間違っていない。売上は前年を維持している。鷹宮はページをめくった。売上総利益。営業利益。販促費。棚卸資産。売掛金。一つずつ見る。説明は続いていた。「原材料費の高騰はありますが、販売数量である程度吸収できています。また、昨年からテレビCMとSNS広告にも力を入れておりまして、新しい顧客層の開拓も進んでいます」鷹宮は指先で資料の一行を押さえた。売上総利益率。三年前、三十一・八パーセント。二年前、三十・九パーセント。前年、二十八・七パーセント。今年度見込み、二
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2.黒字になった会社

車は、工場のある町を抜けて幹線道路へ入った。後部座席の窓から、低い建物がゆっくりと流れていく。小さなホームセンター、ガソリンスタンド、古い喫茶店。駅前へ近づくにつれ、看板の数が増え、人通りも少し多くなった。鷹宮は膝の上の資料を閉じた。隣では三崎が次の案件について何か話している。「午後の面談ですが、先方の社長から追加資料が届いています。設備更新の見積もりと、三期分の資金繰り表です」「後で見ます」「分かりました」三崎はそれ以上話さず、タブレットへ視線を戻した。車内は静かだった。エンジンの低い音と、タイヤが路面を拾うかすかな振動だけが続く。鷹宮は窓の外へ目を向けた。古い商店街が見えた。アーケードはなく、通りの両側に二階建ての店が並んでいる。衣料品店。菓子店。金物屋。昔は賑わっていたのだろうと分かる建物ばかりだった。看板は少し色あせ、シャッターを下ろしたままの店も多い。その景色を見て、鷹宮は数年前のことを思い出した。似た町だった。いや、似ていたというより、地方の古い商業地には同じような匂いがあるのかもしれない。新しい店と古い店が入り混じり、閉じたシャッターの隣で、何十年も変わらない看板がまだ残っている。あの会社も、そんな町にあった。当時の鷹宮は、今より迷わなかった。数字が悪ければ、直す。採算が合わなければ、切る。利益を生まない資産は売る。経営は感情ではない。そう考えていた。間違っていたとは、今でも思っていない。少なくとも、あの会社はそのままでは残らなかった。地方で食品加工と菓子製造を手がける老舗メーカーだった。創業は戦前。地域では知られた会社で、駅前には直営店があり、工場には大きな看板が掲げられていた。贈答菓子。焼き菓子。瓶詰めの加工品。季節商品。冠婚葬祭用の商品。百貨店や地元スーパーへの卸。扱う商品は多かった。多すぎた。鷹宮が最初に資料を見たとき、SKU(在庫管理単位)数は三百を超えていた。そのうち、上位四十商品で売上の七割以上を作っていた。残りの商品は、ほとんど利益を生んでいない。それどころか、小ロット製造、包材保管、季節ごとの在庫、返品対応にコストがかかり、利益を削っていた。工場は二か所。どちらも古い。設備更新を先送りしており、修繕費は年々増えていた。駅前には直営店が二店舗。片
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3.残すべきもの

自社へ戻ったのは、午後一時を少し過ぎた頃だった。エレベーターの扉が開くと、午前中までいた食品工場とはまったく違う空気が鷹宮を迎えた。白い壁。薄いグレーの床。ガラスで仕切られた会議室。天井から落ちる照明は均一で、どこにも影を作らない。受付の奥には会社名だけが控えめに掲げられ、装飾らしい装飾はほとんどない。来客用のソファも、社員が使うデスクも、機能を優先した簡素なものだった。鷹宮はコートを脱ぎながら、自席へ向かった。午前中の工場でまとった出汁や油の匂いは、もうほとんど残っていない。代わりに、コーヒーと紙と空調の乾いた匂いがする。机の上には、出る前にはなかった資料が三冊置かれていた。その一番上に付箋が貼られている。午後検討案件。三崎の字だった。「お戻りですか」声をかけてきたのは、若手の投資担当である柿崎だった。二十七歳。入社三年目。数字を読む速度は速い。資料もよく作る。まだ結論を急ぐところがあるが、それも経験を積めば変わるだろうと鷹宮は見ていた。「十四時からの案件会議、資料は会議室に入れてあります」「分かりました」「昼食は?」鷹宮は時計を見た。「まだです」柿崎が少し呆れたような顔をする。「またですか」「移動していましたから」「一階で何か買ってきましょうか」「必要ありません」鷹宮は鞄を置いた。「会議までに済ませます」そう答えると、柿崎はそれ以上言わなかった。鷹宮の昼食が、ほとんど作業の一部のように扱われていることを、社内の人間はもう知っている。食べないわけではない。健康を軽視しているわけでもない。ただ、食事のためだけに時間を取る習慣が薄かった。誰かと予定があれば店へ行く。会食なら相応の場所を選ぶ。一人なら、必要なものを必要なだけ取ればいい。それだけだった。鷹宮はデスクの引き出しから、小さなサンドイッチのパックを取り出した。朝、移動前に買ったものだ。包装を開ける。中身は卵とハム。特別好きなわけでも嫌いなわけでもない。片手で食べながら、午前中に届いていたメールを確認する。投資先の月次報告。金融機関からの照会。来週の出張予定。役員会資料。どれも急ぎではない。一つずつ振り分け、必要なものだけ返信する。十五分もかからなかった。空になった容器を捨て、コーヒーを一杯だけ淹れる。そ
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4.久世物産

夕方になっても、オフィスの明るさはほとんど変わらなかった。窓の外では、昼間の白っぽい空が少しずつ青みを深めている。向かいのビルには、すでにいくつかの窓明かりが灯っていた。鷹宮は、午後の会議で使った資料を閉じた。風白。三年連続赤字。だが、まだ切るには情報が足りない。机の端へ資料を寄せると、ちょうど三崎が新しいファイルを持ってきた。「もう一件あります」鷹宮は時計を見た。午後五時二十分。「今日中ですか」「急ぎではありません。ただ、来週先方と面談する可能性があるので、概要だけ見ていただければ」三崎が薄いグレーのファイルを机へ置いた。表紙には会社名が印刷されていた。久世物産株式会社。鷹宮は、その名前を見た。「久世物産」「ご存じですか」「名前は」鷹宮はファイルを開いた。知らない会社ではなかった。首都圏を中心に、食品や地域特産品の卸を手がける老舗企業。百貨店。ホテル。駅ナカ。通販会社。地域の食品メーカーや菓子店の商品を扱い、都市部へ流通させてきた会社だった。創業は昭和二十八年。従業員約百八十名。年商は四十億円を超える。全国規模の企業ではない。だが地元では、それなりの名前がある。金融機関との付き合いも長く、商工会や経済団体との関係も深い。「外部資本まで必要でしょうか」鷹宮は資料をめくりながら尋ねた。三崎が向かいの席へ座った。「先方としては、今すぐ再建という認識ではないようです」「でしょうね」これだけの会社なら、普通はそう考える。売上が半減したわけではない。債務超過でもない。資金繰りが明日止まる会社でもない。地元金融機関との関係も残っている。古くからの取引先も多い。表面的には、危機的な企業には見えなかった。「今回の相談は、新規ブランドへの外部支援が中心です」「新規ブランド」「はい。若年層向けの地域商品ブランドを立ち上げています」三崎が別の資料を取り出した。「その拡大にあたって、外部から資金だけでなく、事業設計やECについても助言がほしいと」鷹宮はまだその資料を取らなかった。まず本体を見る。最初のページ。会社概要。沿革。主要取引先。組織図。どれも特に珍しくない。次に、過去五期分の財務概要。売上高。四十三億一千万円。四十二億七千万円。四十二億四千万円。四十二億円
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5.二人の作成者

追加資料が届いたのは、翌日の午後六時を過ぎてからだった。三崎から転送されたメールには、久世物産から受領したファイルが六つ添付されていた。商品別収支。在庫滞留一覧。EC関連資料。KUZÉ ma vie初期企画書。同修正版。そして、補足資料。鷹宮は最後のファイル名を一度見た。補足資料。それだけだった。作成者名も、部署名も入っていない。窓の外はすでに暗く、ガラスにはオフィスの中が薄く映り込んでいた。日中は半分ほど埋まっていた執務スペースも、少しずつ人が減っている。「お先に失礼します」遠くで声がする。「お疲れさまでした」鷹宮も短く返した。机の上には、夕方に淹れたコーヒーが残っていた。もう湯気はない。急いで確認する必要はなかった。面談は来週。明日でも間に合う。それでも鷹宮は、添付ファイルを一つずつ保存した。前日の時点で、久世物産という会社には興味を持っていた。会社そのものが優れているからではない。むしろ逆だった。持っているものと、現在の経営状態が釣り合っていない。長年の信用。地域メーカーとの取引。百貨店との販路。扱っている商品の幅。それらは一朝一夕に作れるものではない。にもかかわらず、利益率は落ち続けている。在庫は増えている。ECは進まない。意思決定は遅い。そして、そこへ新規ブランドを立ち上げている。悪い会社なら、話は簡単だった。価値がない。将来性もない。経営者にも変わる意思がない。ならば投資しない。それだけで終わる。久世物産は、そうではない。残っているものがある。だからこそ、判断を誤ると失うものも大きい。鷹宮は最初のファイルを開いた。商品別収支。一覧には、売上上位商品と利益上位商品が分けて記載されていた。昨日までの資料よりは見やすい。だが予想どおり、売上上位と利益上位は一致していなかった。売上が大きいのに利益が薄い商品。販売数量は少なくても粗利を確保できている商品。値引き後に利益がほとんど残らない商品。包装費や物流費を含めると赤字になる商品。鷹宮は何行かに印をつけた。次に在庫一覧。百八十日以上滞留している商品。予想より多い。季節商品。贈答品。旧パッケージ。催事向けに仕入れた限定商品。一覧の中には、昨年度のイベント用と思われる商品まで残っていた。鷹宮
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6.この人に会いたい

午後十時を過ぎた頃には、オフィスに残っている人間はほとんどいなくなっていた。照明も、執務スペースの一部だけに落とされている。昼間は透明に見えたガラスの壁には、今は室内の光が映り込んでいた。窓の向こうには、都市の灯りが広がっている。高層ビルの窓。道路を流れる車の列。遠くに赤く点滅する航空障害灯。街そのものはまだ眠る時間ではない。だが、鷹宮のいるフロアは静かだった。空調の音。パソコンの冷却ファン。ときおり、どこかのデスクから聞こえるキーボードの音。それくらいだった。鷹宮は、KUZÉ ma vieの補足資料を開いたまま、別の案件へ目を通していた。明日に回してもいい。そう思いながら、久世物産の資料を閉じずにいる。自分でも少し珍しいと思った。通常なら、確認すべき項目を洗い出した時点で作業は終わる。不足資料を依頼する。面談で質問する。そこで答えが出れば判断する。出なければ保留する。それだけだ。相手が誰であろうと変わらない。だが今回は、資料そのものに引っかかっていた。華やかな企画書。名前のない補足資料。同じ事業について書かれているのに、明らかに見ている場所が違う。前者は、どう見せるか。どう知ってもらうか。どう魅力を伝えるか。を考えている。後者は、いくら残るか。どこまで仕入れるか。売れなければどうするか。何を残し、何を止めるか。そして、次へどうつなげるか。を考えている。片方だけなら、事業として弱い。だが二つがつながれば、形になる。問題は。つなげた人間が誰なのか分からないことだった。画面の右下に通知が出た。三崎からだった。まだ会社にいるらしい。鷹宮はメッセージを開いた。久世物産から回答ありました。補足資料について、正式な作成者名は登録されていないそうです。関連データを共有します。その下に、ファイルがいくつか添付されていた。鷹宮は眉を寄せた。正式な作成者名は登録されていない。それだけでも妙だった。久世物産は百八十人規模の会社だ。少人数の家族商店ではない。事業企画書にこれだけの修正を入れる人間がいれば、通常なら部署か担当者名くらい残る。鷹宮はファイルを開いた。最初はメール送付履歴。久世物産から提出された修正版資料が、いつ、どのアドレスから送られたのか。外部へ正式に送付し
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7.一人多い出席者

面談当日の午前九時四十分。鷹宮は会議室のガラス越しに、廊下を歩いてくる四人の姿を見た。事前に聞いていたのは三人だった。久世物産代表取締役、久世宗一郎。専務取締役、久世怜央。新規ブランド担当、久世莉奈。その三人に加えて、女性が一人いる。鷹宮は手元の出席者一覧へ視線を落とした。そこには、三人の名前しかない。昨夜、自分は三崎を通じて明確に伝えていた。KUZÉ ma vieの補足資料を実際に作成した人間にも、面談へ出席してほしい。ならば。廊下を歩いてくる四人目が、その人物なのだろうか。鷹宮はもう一度、女性を見た。三十歳前後。濃紺のワンピースに、淡い色のジャケット。華美ではない。かといって、場違いなほど地味でもない。アクセサリーも控えめで、手には黒い革のバッグと、厚みのある資料ファイルを抱えている。歩く位置は、久世怜央の半歩後ろ。秘書かと思った。だが、事前資料に専務秘書の同席予定はない。経営企画の担当者。あるいは財務。それなら納得できる。鷹宮は女性の手元を見た。一番上に置かれているのは、見覚えのある白いファイルだった。KUZÉ ma vie。昨夜まで何度も見ていた資料。ガラス扉が開く。三崎が立ち上がった。「本日はお越しいただき、ありがとうございます」「こちらこそ、お時間をいただきまして」最初に応じたのは宗一郎だった。写真で見た印象と大きく変わらない。六十代半ば。背筋は伸びている。濃い色のスーツもよく似合っていた。地方の経済団体や金融機関との付き合いが長い人間特有の、落ち着いた物腰がある。その隣に怜央。三十三歳。
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8.華やかな名前

莉奈の説明は、ブランドの概要から具体的な販売イメージへ移っていた。画面には、三枚の写真が並んでいる。一枚目は、従来の久世物産の商品売り場。木箱。包装紙。熨斗。商品札には産地と製造元が大きく書かれている。二枚目は、KUZÉ ma vieの試験展示。白い棚。小さなカード。商品の横には、作り手や素材について短い文章が添えられている。三枚目は、購入後の使用場面を想定した写真だった。朝食のテーブル。淡い色の器。ジャムと焼き菓子。湯気の立つカップ。「同じ商品でも、置かれる場所と見せ方で受け取られ方は変わります」莉奈は言った。先ほどまでより、さらに言葉が滑らかになっていた。「久世物産では、これまで製造元や産地を前面に出してきました。それは間違いではありませんし、贈答品では今も大事です。でも、自分用に買う人は、それだけでは動かないと思っています」鷹宮は手元の資料から顔を上げた。「何で動くと?」「自分の生活に置いたときのイメージです」莉奈は迷わず答えた。「誰が作ったかは、その次でもいい。最初に、自分が使いたいとか、食べてみたいとか、家に置きたいと思ってもらう。そのあとで背景を知って、もっと好きになる。その順番です」鷹宮は軽く頷いた。そこには筋がある。老舗企業が新規ブランドを始めるとき、ありがちな失敗がある。自分たちが大切にしてきたものを、顧客も同じ順番で大切にしてくれると思い込むことだ。創業年。製法。受賞歴。産地。職人。もちろん重要ではある。だが、顧客が最初に欲しいのは会社の歴史ではない。自分にとって何がいいのか。そこから始まる。莉奈は、その感覚を持っている。
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