LOGIN前回のオンライン打ち合わせを終えてからも、美緒の言葉は鷹宮の中に残っていた。何を切れば数字が良くなるかではなく、何を残すために何を変えるのか。問いの順番が違う。その考え方を、鷹宮は頭の中で何度か組み直した。企業再生では、残された時間が少ないことがある。資金が尽きるまで半年。金融機関の支援期限まで三か月。翌月の給与すら危うい。そんな状況で、何を残したいかと丁寧に考えている余裕などないこともある。まず出血を止める。利益を生まない事業を閉じ、固定費を落とし、資産を現金に変える。それを鷹宮は何度もしてきた。必要なことだと思っていたし、今でもそう思っている。それでも、美緒の言葉を否定できなかった。数日後、美緒から再び連絡があった。久世物産の取引先ヒアリングを始める前に、確認しておきたいことがあるという。夜のオンライン打ち合わせだった。「こんばんは」「こんばんは」画面に映った美緒の前には、前回より資料が少なかった。代わりに、小さなノートが一冊置かれている。「今日は、久世物産の数字ではないんです」美緒が言った。「では、何ですか」「前回のお話についてです」鷹宮は少しだけ眉を上げた。「何を残すために、何を変えるかという話です」「はい」「取引先へ聞く前に、自分でも整理しておきたいと思って」美緒はノートを開いた。「会社を残すことと、関係を残すことは、同じではないですよね」「同じではありません」鷹宮は答えた。「場合によっては、会社を残すために関係を切る必要があります」「やっぱり、そうですよね」美緒の返事に落胆はなかった。確認しているだけだった。「取引先の事情を聞きすぎると、判断できなくなるのではないかとも思っています」
久世物産の初期診断が始まってから、十日ほど経った。その間、美緒から届いた連絡は二度だけだった。一度目は、追加で確認したい資料があること。二度目は、事業体制について少し相談したいというものだった。どちらも短く、久世家についての記述はなかった。怜央が何を言ったのか。宗一郎がどう対応したのか。以前、美緒が使っていた部屋を通ったのか。そうしたことを鷹宮は知らない。知らないまま、オンラインの接続時刻を迎えた。午後七時。鷹宮が会議画面を開くと、数秒後に美緒が入室した。「こんばんは」「こんばんは。お時間ありがとうございます」「構いません」美緒の前には、いつもより多くの紙が積まれていた。画面に映る範囲だけでも、付箋が何枚も見える。色分けされているらしく、黄色、青、薄い赤が資料の端から覗いていた。「かなり増えましたね」鷹宮が言うと、美緒は資料へ目を落とした。「増えました」声に疲労はある。ただ、困り切っているというより、考えることが多すぎて頭を使い続けている人間の声だった。「今日は、どの部分を整理しますか」「体制の前に、一度、診断そのものについてお話ししてもいいですか」「どうぞ」美緒は一枚の資料を手に取った。「最初に思っていたより、資料はあります」鷹宮は少し意外に思った。「ないのではなく?」「はい。かなりあります」美緒はページをめくる。「商品別の売上があります。粗利表もあります。在庫表も、返品記録もあります。百貨店別の販売実績も、ECのアクセス記録も、取引先別の条件一覧もあります」「それなら、問題は資料不足ではない」「そうなんです」美緒が頷いた。「資料はあります」そこで一度、言葉を切る。「でも、判断
その日は、朝から予定が詰まっていた。九時に投資先との定例会議。十一時から地方銀行との打ち合わせ。午後には、新規案件の事業計画について二件のレビューが入っている。普段なら、鷹宮はその日の予定を確認すると、頭の中を順番に切り替える。どの案件に何を確認するか、誰からどの資料を受け取るか、どこまで今日中に判断するか。けれど、執務室へ入って最初に思い出したのは、自分の予定ではなかった。今日は、美緒が久世物産へ入る日だった。正確には、戻る日ではない。初回診断の日。数日前、美緒との短いオンライン打ち合わせの終わりに、「久世物産の初回診断は、木曜日からになりました」と聞いていた。鷹宮は、「分かりました」と答えただけだった。何時からですか。誰が同席しますか。何時間くらいですか。そうしたことは尋ねなかった。鷹宮が知る必要のある情報ではない。それでも、木曜日という日付だけは覚えていた。パソコンを立ち上げる。時刻は八時十二分。美緒が何時に久世物産へ入るのかは知らない。もう移動しているのかもしれない。まだ自宅で資料を確認しているのかもしれない。鷹宮には分からない。そして、分からないままでいい。メールを開くと、新着が十数件あった。美緒からのものはない。鷹宮は一度だけ受信一覧を確認し、そのまま最初の案件を開いた。今日は久世物産ですね。頑張ってください。そう送ることはできた。あるいは、何かあれば連絡してください。でもいい。けれど、鷹宮はどちらも送らなかった。励ましが不要だからではない。何かあったときに連絡してほしくないからでもない。ただ、美緒が久世物産へ入る今日と
久世物産の再建支援を、美緒が条件付きで受けると決めてから数日が過ぎた。鷹宮のもとに、その後の相談は来ていない。契約条件が確定したのか。久世物産側がどこまで受け入れたのか。最初に何から着手するのか。鷹宮は知らなかった。知らなくてもよかった。美緒が必要だと思えば連絡する。それ以外は、リブランシュと久世物産の仕事だった。午後、三崎が翌週の予定表を持って執務室へ入ってきた。「来週ですが、水曜午後の銀行との打ち合わせが一時間後ろへずれました」「分かりました」「木曜の事業再生案件は予定どおりです。金曜は午前が空きます」鷹宮は画面上の予定を確認する。三崎がいくつか補足したあと、予定表を閉じた。「そういえば」「何ですか」「篠原さんから、次の相談予定は入っていません」鷹宮は顔を上げた。「そうですか」「久世物産の件が動き出したら、また何かあるのかと思っていましたけど」「必要があれば連絡が来るでしょう」「そうですね」三崎はあっさり頷いた。そのまま執務室を出ようとして、ふと足を止める。「最近、篠原さんから直接ご相談を受けること、本当に減りましたね」鷹宮は一拍置いた。「そうですね」否定する理由はなかった。「そのうち、仕事ではお会いする理由もなくなりそうですね」三崎は深い意味もなく言ったようだった。「リブランシュの案件も増えていますし、必要な専門家も周りに揃ってきていますから」鷹宮は返事をしなかった。三崎がこちらを見る。「鷹宮さん?」「いえ」鷹宮は視線を予定表へ戻した。「その方がいいでしょう」「ですよね」三崎はそれで話を終えた。扉が閉まる。静かになった執務室で
美緒から連絡が来たのは、久世物産の件について話してから四日後だった。午後六時を少し過ぎた頃、鷹宮は執務室で翌週の会議資料を確認していた。画面右下に、新着メールの通知が出る。差出人は、篠原美緒。件名は、久世物産の件について。鷹宮は手元の資料を保存してから、メールを開いた。鷹宮様先日はありがとうございました。久世物産の件ですが、条件付きで受けることにしました。契約内容については真帆さんにも確認していただき、久世物産側へ条件を提示しています。篠原美緒文面は、それだけだった。条件付きで受ける。鷹宮はその一文を読み返した。受けると決めた。久世物産だからでも、過去への答えとしてでもなく、リブランシュとして受ける理由があるかを考えた結果なのだろう。少なくとも、美緒はそう判断した。鷹宮は返信画面を開いた。そうですか。最初に浮かんだのは、それだけだった。おめでとうございます、ではない。久世物産の再建支援を受けること自体は、祝うべき出来事とは違う。よく決めましたね、も違う。鷹宮が美緒の判断を採点する必要はない。少し考え、承知しました。条件はまとまりましたか。と入力した。問いは、それだけにする。何を条件にしたのか、すべて報告してほしいわけではない。ただ、前回の相談で最も重要だったのは、美緒個人と業務を切り分けられるかという点だった。そこが整理できたのかは、確認してもよいと思った。返信は十分ほどして届いた。はい。契約面は真帆さんに確認してもらいました。私的な連絡と業務連絡を分けること、必要資料を期限内に開示してもらうこと、契約外の業務は別途協議することを条件にしています。また、リブランシュが久世物産の指
久世物産という名前を、仕事の相談として再び聞くことになるとは思っていなかった。連絡が来たのは、午後の会議を終えて執務室へ戻った直後だった。三崎が資料を置きながら、「篠原さんから、オンライン相談の希望が来ています」と言った。鷹宮は椅子へ座る前に足を止めた。「内容は?」「久世物産から、再建支援について相談があったそうです」鷹宮は何も言わなかった。三崎も、それ以上の意味を付け加えない。「明日の夕方で希望が来ています」「時間を空けてください」「分かりました」三崎が退出する。扉が閉まったあと、鷹宮はパソコンを開いた。美緒から届いたメールを確認する。鷹宮様久世物産から、事業再建について正式な相談がありました。受けるかどうかは自分で決めるつもりです。その前に、判断するときに何を確認すべきか、一度整理したく、ご相談できればと思っています。篠原美緒短い文面だった。受けるべきでしょうか。そうは書かれていない。どうしたらいいですか、でもない。判断するときに、何を確認すべきか。求めているのは結論ではなく、軸だった。鷹宮は、その一文をしばらく見た。以前なら、美緒は判断そのものを自分の外へ置こうとすることがあった。自分には決める資格がない。自分の考えで進めていいのか分からない。そういう迷いが、質問の形になっていた。今は違う。決めるのは自分だと、最初から書いてある。鷹宮に求めているのは、答えではない。見落としがないか。感情と事業判断が混ざっていないか。そこを整理するための時間だった。翌日の夕方。オンライン画面に美緒の姿が映った。「よろしくお願いいたします」
応接室の花は、すでに整っていた。けれど美緒は、もう一度だけ花器の向きを確かめた。床の間の掛け軸に対して、枝先がわずかに右へ流れている。ほんの少しのことだった。誰も気づかないかもしれない。けれど、佳乃子は気づく。この家では、気づかれないことよりも、気づかれたときにどう見えるかが大切だった。美緒は花器を両手で持ち、音を立てないように数ミリだけ動かした。陶器の底が畳の上の薄い板に触れる、そのわずかな感触にまで神経が向く。朝から動き続けているせいか、指先が少し冷えていた。応接室は、客を迎えるための部屋というより、久世家が久世家であることを証明するための部屋に見えた。磨かれた座卓。季節に合わ
久世家の朝は、門が開く前から始まる。まだ空は薄く青く、庭石の縁には夜の湿り気が残っていた。高い塀の向こうから、坂道を上ってくる車の音がかすかに聞こえる。新聞配達のバイクが一度止まり、また遠ざかっていく。その音は門の内側へ届く前に、どこかよその世界のものになった。美緒は玄関先に立ち、新聞受けから取り出した朝刊を両手でそろえた。重い門は、まだ閉じている。外から見れば、それは久世家の格式を示すものなのだろう。代々この地方都市で名を知られてきた旧家にふさわしい、堂々とした門構え。高い塀の内側には手入れされた庭が広がり、松の枝は季節に合わせて整えられている。飛び石には落ち葉ひとつ残されておらず、
怜央からのメッセージは、短かった。莉奈の資料、今日中に見られる?美緒は、ダイニングのテーブルに広げた企画書を前にして、その文字をしばらく見つめていた。今日中に。莉奈が言った「ちょっと相談」という言葉より、その四文字はずっと重かった。けれど、怜央からの頼みだと思うと、重いと感じる自分の方が間違っているような気がした。窓の外では、庭の木々が夕方の光を受けて暗い影を落とし始めている。昼間には明るく見えた苔の色も、今は深く沈み、飛び石の縁だけがかすかに白く浮いていた。古い振り子時計の音が、廊下の奥から一定の間隔で届く
スマホの画面には、莉奈の名前が表示されていた。お義姉さん、今日おうちにいますよね? ちょっと相談したい資料があって。美緒は、洗い終えた茶器を布巾の上に伏せたまま、その文面を見つめた。ちょっと相談。その言葉は軽かった。少なくとも、断るほど重いものには見えなかった。けれど美緒は知っている。久世家で使われる「ちょっと」は、たいてい、その言葉より少し重い。応接室には、まだ香の匂いが薄く残っていた。先ほどまで来客たちの笑い声が満ちていた部屋は、今は静まり返っている。茶器は洗い終えた。菓子皿も拭いた。座布団も元の位置に戻







