All Chapters of 御曹司の妻を辞めた日、私は社長になった〜久世家を出た元嫁は、格上エリートと人生を再建する: Chapter 21 - Chapter 30

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21.知らない香り

翌朝、怜央はいつもより短い言葉で予定を告げた。「今日、遅くなる」美緒は味噌汁の椀を置く手を止めた。湯気が白く立ち上り、怜央の前で薄くほどけていく。いつもなら、そこで怜央はコーヒーを飲みながら新聞かタブレットを見ている。けれど今朝は、箸を持つ前からスマホの画面に視線を落としていた。「会食ですか」「ああ。取引先」怜央は画面から目を離さずに答えた。指先が画面の上を滑り、何かの予定を確認しているようだった。「最近、立て込んでるんだ」そう言われると、美緒にはそれ以上聞けなかった。「そうですか」「夕飯はいらない」「分かりました」短い会話だった。それだけなら、何も不自然ではない。久世物産はKUZÉ ma vieの件で慌ただしいはずだった。鷹宮との追加確認もある。宗一郎への報告、社内の調整、莉奈の資料修正、取引先との打ち合わせ。怜央の予定が詰まるのは当然だった。忙しいのだろう。そう思う方が自然だった。そう思う方が、怜央を疑わずに済んだ。けれど、美緒は怜央の横顔を見ながら、昨日の言葉を思い出していた。夫婦なんだから、俺の立場も考えてくれ。その声は、まだ胸の奥に残っている。美緒はあのあと、手帳を開いた。経営判断。小さく言わない。その下に何かを書こうとして、何も書けなかった。書いてしまえば、自分の中に生まれた違和感を認めることになる気がしたからだ。今朝も、怜央は目の前にいる。いつも通りのスーツ。整った髪。仕事へ向かう前の、少し急いだ空気。けれど、どこか遠い。怒っているわけではない。冷たくされたわけでもない。ただ、美緒へ向ける言葉が少しだけ短く、視線が少しだけ遅れて届く。その小さな距離を、美緒は自分のせいだと思った。鷹宮の前で、怜央を立てられなかったから。佳乃子に言われたように、上手に控えられなかったから。だから怜
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22.相沢紗季

翌朝、手帳に残った「相沢?」の文字を見て、美緒は小さく息を止めた。たった二文字と疑問符。それだけなのに、朝の光の中では、昨夜よりずっと濃く見えた。机の小さな灯りの下で書いたときには、ただ胸に引っかかったものを置いただけのつもりだった。名前を忘れないため。違和感を整理するため。自分にそう言い聞かせる余地がまだあった。けれど、朝の白い光は容赦がなかった。相沢?その文字は、まるで美緒が怜央を疑っている証拠のように見えた。美緒はページを指で押さえた。破ってしまいたいような気がした。破れば、疑ったことも、名前を意識したことも、知らない香りに立ち止まったことも、なかったことにできる気がした。けれど、破れなかった。消すこともできなかった。紙の上の文字を消しても、昨夜ジャケットの襟元から立った甘い香りは消えない。スマホの画面に光った相沢紗季の名前も、莉奈の何気ない言葉も、胸の奥に残っている。怜央を疑っている。そう認めるのが怖くて、美緒は一度、手帳を閉じた。閉じたところで消えるわけではない。それでも、閉じないよりはましだった。ダイニングへ向かうと、怜央はすでに席についていた。いつもと同じように、白いシャツに袖を通し、ネクタイはまだ少し緩めたまま、スマホを片手にコーヒーを飲んでいる。寝不足なのか、少し目元が重い。けれどその姿は、あまりにも普通だった。昨夜の香りは、もうどこにもない。美緒は味噌汁の椀を置いた。「おはようございます」「おはよ」怜央は短く答え、スマホから目を離さない。普通だ。そう思った瞬間、美緒は少しだけ安心した。昨日の夜、自分が感じたものは気のせいだったのかもしれない。疲れていたから、余計なことを考えたのかもしれない。鷹宮のこと、怜央とのぎくしゃくした空気、佳乃子の言葉。そういうものが重なって、何でもないことを不安に変えてしまったのかもしれない。美緒は小鉢を並べた。「今日も遅
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23.本気じゃない

相沢紗季。疑問符をつけずにその名前を書いてから、美緒は手帳を開くたびに胸の奥が冷えるようになった。まだ何も確かめていない。怜央に聞いたわけでもない。証拠が揃ったわけでもない。それでも、その名前はもう、ただの取引先の欄には戻らなかった。手帳の紙面に並んだ四文字は、朝の光の中でも、夜の小さな灯りの下でも、同じ濃さでそこにあった。美緒が閉じれば消えるわけではない。見なければなかったことになるわけでもない。むしろ閉じるたび、その名前は紙の向こう側で少しずつ重さを増していくようだった。聞かなければ、まだ疑いで済む。聞けば、答えになる。美緒はその境目に立ったまま、何度も手帳を閉じ、また開いた。二名分のレシート。夜遅くに届いた親しげな通知。ジャケットに残っていた知らない香り。相沢の名前を出したときの、怜央のわずかな停止。莉奈の言葉。怜央兄さんを立てるのが上手。ひとつひとつは、まだ説明できる。偶然かもしれない。仕事かもしれない。美緒が気にしすぎているだけかもしれない。けれど、見なかったことにはできなかった。それをまた、自分の不安や嫉妬として小さく押し込めてしまえば、何かを間違える気がした。ご自身の判断を、最初から小さくしないでください。鷹宮の声が、ふと胸の奥でよみがえった。資料のことを言われたのだと思っていた。仕事の判断のことだと。数字や商品や届け方をつなげたことについて、そう言われたのだと。けれど今、美緒が目の前にしているのは、仕事の資料ではなかった。自分の結婚だった。怜央を疑いたいわけではない。責め立てたいわけでもない。ただ、見えてしまったものを、見えなかったことにはできない。美緒は手帳を閉じた。その夜、怜央が帰ってきたのは、十時を少し過ぎた頃だった。玄関の扉が開く音がして、美緒はダイニングで顔を上げた。佳乃子も宗一
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24.妻の器量

翌朝、怜央はいつも通りに家を出た。「行ってくる」その声は、昨日までと大きく変わらなかった。少し疲れているようにも聞こえたが、少なくとも、昨夜の会話で何かが決定的に変わったようには見えなかった。濃紺のスーツに袖を通し、時計を確かめ、スマホを手に取る。玄関で靴べらを使う仕草も、ネクタイの結び目を指で押さえる動きも、いつもと同じだった。美緒は玄関で頭を下げた。「行ってらっしゃいませ」声は、いつもの声で出た。それが自分でも不思議だった。本気じゃない。そんなに大きくするなよ。怜央の言葉は、まだ胸の奥に残っている。残っているのに、朝は来る。味噌汁の椀を片づけ、湯呑みを洗い、箸置きを元の場所に戻し、玄関の花瓶の水を替える時間が来る。久世家の一日は、何もなかったように始まった。廊下には埃ひとつ落ちていない。庭師が入ったばかりの庭木は、朝の光を受けて静かに整っている。古い振り子時計は、昨日と同じ音で時を刻んでいる。何も変わっていない。変わっていないからこそ、美緒は、自分の中だけが取り残されているような気がした。怜央は、昨夜のことを片づけたものとして朝を迎えているようだった。本気ではないと言った。相沢とは距離を置くと言った。家庭を壊すつもりはないと言った。だから、これで終わった。怜央の中では、そういうことになっているのかもしれない。けれど美緒の中では、何ひとつ片づいていなかった。本気かどうかではなかった。相沢紗季にどれほど気持ちがあるのかではなかった。美緒が傷ついたことを、怜央が「大げさ」という言葉で小さくしようとした。そのことが、胸の奥でまだ冷たく残っている。朝食の食器を片づけ終えたころ、廊下の向こうから佳乃子の声がした。「美緒さん、少しよろしいかしら」いつもと変わらない声だった。上品で、穏やかで、少しも乱れていない。変わ
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25.菜月への電話

手帳に書いた文字は、時間が経つほど重くなった。もう無理。これは浮気だけじゃない。書いたときは、ようやく胸の奥にあったものを取り出せた気がした。形のない息苦しさに、初めて名前をつけられた気がした。けれど一人になると、その言葉は急に大きく見えた。机の上の小さな灯りに照らされた手帳の文字は、ひどく濃い。自分の字なのに、自分ではない誰かが書いたもののようにも見える。本当に、そこまで言っていいのだろうか。一度の浮気で、こんなふうに思うのは大げさなのではないか。佳乃子の言う通り、妻なら収めるべきなのではないか。怜央は、本気ではないと言っていた。家庭を壊すつもりはないと言っていた。相沢とは距離を置くと言っていた。なら、ここで美緒が騒がなければ、すべて元に戻るのかもしれない。久世家の朝はまた整い、怜央はいつも通り会社へ行き、佳乃子は穏やかに茶を飲み、莉奈はKUZÉ ma vieの資料を持って笑う。美緒が黙っていれば、何も壊れていないことにできる。そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。壊れていないことにするために、自分だけが壊れたままでいる。そのことに気づいてしまったからだった。美緒は手帳を閉じようとして、できなかった。もう無理。これは浮気だけじゃない。その二つの行が、閉じる前の紙面からこちらを見ているようだった。久世家の中に、話せる相手はいなかった。怜央は当事者だった。佳乃子は、男の過ちを収めるのは妻の器量だと言った。宗一郎に話せば、きっと久世家の体面や会社の立場の話になるだろう。莉奈に話せば、悪気はなくても怜央の側へ流れてしまうかもしれない。家の手伝いに来ている人たちには、もちろん話せない。この家の中にいる限り、美緒の傷は、久世家の秩序の中で処理されてしまう。痛かったでしょう、ではなく。どう収めるのか、と問われる。美緒は
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26.佐伯真帆

法律事務所のビルの前で、美緒は一度足を止めた。ガラスの扉には、佐伯真帆法律事務所、と小さな文字が入っている。菜月から送られてきた住所と同じだった。相談するだけ。何かを決めるわけではない。そう何度も自分に言い聞かせても、胸の奥は落ち着かなかった。一度の浮気で、弁護士に相談するなんて大げさなのではないか。久世家のことを外へ話してしまっていいのか。怜央の立場を傷つけることにならないのか。そう考えた瞬間、佳乃子の声がよみがえる。妻が感情で騒げば、夫の立場に傷がつくこともあるのです。美緒はバッグの中の手帳に触れた。もう無理。これは浮気だけじゃない。相談する。実家。そこまで書いたから、ここまで来た。美緒は小さく息を吸い、ガラスの扉を押した。受付は、思っていたより静かだった。白に近い薄いグレーの壁。余計な装飾のない待合スペース。低い棚に並べられた法律関係の冊子。丸い時計。観葉植物。久世家のような重厚さはない。古い写真も、家の格式を示す調度品もない。ただ、機能的に整っている。そこでは、誰かの体面ではなく、何かの事実が扱われるのだと思った。受付の女性に名前を告げると、すぐに相談室へ案内された。四人掛けのテーブル。水の入ったグラス。メモ用紙。ペン。壁際の棚に整えられたファイル。窓の外には、昼の街の明るさがある。美緒は椅子に座り、膝の上でバッグの持ち手を握った。少しして、扉が開いた。「お待たせしました」入ってきた女性は、三十代後半から四十代前半ほどに見えた。清潔感のある濃紺のスーツ。白いブラウス。肩につかない長さの髪はきちんと整えられている。華やかではない。けれど、どこにも隙がない。視線はまっすぐで、声は低すぎず、高すぎず、落ち着いていた。女性はテーブル越しに名刺を差し出した。「佐伯真帆です。今日は、菜月さんからのご紹介という
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27.仕事になるもの

離婚という二文字を書いてから、美緒は、生活費という言葉を何度も考えるようになった。証拠。財産。実家。別居準備。選べる状態。離婚。手帳に並んだ言葉は、どれも現実だった。怜央に傷つけられたことも、佳乃子に妻の器量を求められたことも、美緒の中ではまだ生々しい。思い出すたびに胸の奥が冷え、あの夜のダイニングの灯りや、佳乃子の応接室の白磁の茶器まで、妙にはっきりとよみがえる。けれど真帆の相談室を出てから、その痛みの横に、別の現実が置かれるようになった。暮らしていくには、お金がいる。実家に帰れたとしても、ずっとそこに寄りかかるわけにはいかない。父と母に心配をかけたくないという思いは、今も消えていない。久世家に戻ることができなくなったとして、その先で自分はどう生きるのか。住む場所、生活費、仕事、口座、保険、カード。真帆が挙げた言葉は、冷静で現実的だった。美緒は元銀行員だった。だからこそ、数字で生活を考えることはできる。一か月にどれだけ必要か。実家へ戻った場合、どれだけ自分で負担できるか。自由に使える預金はいくらあるのか。職歴として、銀行員だったことをどこまで使えるのか。久世家に嫁いでから、仕事としての空白がどれだけあるのか。考えようとすると、胸が重くなった。離婚という言葉を書いたあと、最初に美緒を圧迫したのは、怒りではなかった。生活費という現実だった。そのとき、菜月の言葉がふと浮かんだ。美緒、それだけ資料作れるなら、外で仕事にできるんじゃないの?電話の向こうで、菜月はそう言った。そのときは、励ましのように聞こえた。傷ついた美緒を少しでも立たせるために、友人として言ってくれた言葉なのだと思っていた。けれど、KUZÉ ma vieの追加資料について鷹宮から確認依頼が入ったとき、美緒はその言葉をもう一度思い出していた。連絡を伝えたのは怜央だった。朝食の席で、怜央はタブレットを見ながら言った。「
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28.離婚、起業

離婚という二文字を書いてから、美緒の一日は静かに変わった。怜央に何かを告げたわけではない。佳乃子に反論したわけでもない。久世家を出たわけでもない。朝になれば、いつものように食卓を整える。味噌汁の椀を置き、湯呑みの位置を直し、怜央のシャツの襟元に小さな皺があれば指先で整える。佳乃子に呼ばれれば「はい」と答え、廊下に落ちている小さな葉を見つければ拾い、応接室の花の向きがわずかに傾いていれば直した。表面だけ見れば、何も変わっていなかった。けれど美緒の手帳には、昨日までなかった欄が増えていた。証拠。財産。実家。別居準備。選べる状態。離婚。その一つひとつを、真帆に言われた通り、感情ではなく事実として埋めていく。怜央の帰宅時間を書く。相沢紗季の名前が出た日を記録する。二名分のレシートを封筒に入れる。怜央が「一度だけだ」と言った夜の日付を書く。「本気じゃない」「家庭を壊すつもりはなかった」「大げさにしないでくれ」と言われたことを、できるだけそのまま書き残す。佳乃子に言われた言葉も書いた。男の過ちを大きくするか、小さく収めるかは、妻の器量です。家庭に戻るつもりがあるのなら、戻る場所を整えておくのも妻の役目です。美緒さんなら、分かってくれると思っています。書いている途中で、何度も手が止まった。こんなものを記録していいのだろうか。夫の帰宅時間を手帳に残すこと。レシートを捨てずに封筒へしまうこと。義母の言葉を、日付つきで書くこと。それはまるで、自分が怜央や久世家を裏切っているようにも思えた。けれど、そのたびに真帆の声を思い出した。記録することは、相手を攻撃するためだけではありません。自分の記憶を守るためでもあります。怜央を疑うためではない。自分の記憶を守るため。そう言い聞かせながら、
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29.いつも通りの妻

翌朝になっても、久世家は何も変わっていなかった。廊下にはいつものように磨かれた床の光があり、ダイニングには決まった時間に朝食が並び、佳乃子の選んだ花が静かに生けられている。何も壊れていないように見えた。美緒は自室の机で、手帳を開いていた。離婚。起業。前の夜に書いた二つの言葉は、朝の光の中では、あまりにも大きく見えた。夜には確かに自分の言葉だった。久世家の振り子時計が遠くで鳴る夜、自分の手でその二つを書いたとき、美緒は、ようやく足元に一本の線を引けたような気がした。けれど朝の光の中で見る“離婚”と“起業”は、美緒にはまだ遠い二つの崖のように見えた。本当に、自分にできるのだろうか。本当に、この家を出ることを考えているのだろうか。本当に、自分の名前で仕事をする未来などあるのだろうか。廊下の向こうから、怜央の足音が聞こえた。いつもの朝が始まっている。美緒は手帳を閉じた。閉じただけで、書いた言葉が消えるわけではない。それでも、その二つを開いたまま朝へ持ち出すには、まだ怖かった。美緒は深く息を吸い、椅子から立ち上がった。そして、いつもの妻の顔でダイニングへ向かった。怜央はすでに席についていた。白いシャツに袖を通し、ネクタイはまだ緩めたまま、スマホを見ながらコーヒーを飲んでいる。テーブルの端にはタブレットが置かれ、画面にはスケジュールらしい細かな文字が並んでいた。美緒は味噌汁の椀を置いた。「おはようございます」「おはよ」怜央は短く返した。それも、いつも通りだった。美緒は焼き魚の皿を置き、小鉢を並べ、箸の向きを揃えた。湯呑みの位置を少しだけ直す。手は自然に動いた。何年もこの家の朝を整えてきた体が、何も考えなくても順番を覚えていた。「今日、少し遅くなるかもしれない」怜央が、スマホ
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30.証拠になるもの

証拠という言葉は、美緒には冷たく響いた。怜央を責めるためのもの。夫婦の間に、決定的な線を引くもの。そう思うと、真帆から教えられた項目を手帳に写すだけで、指先が重くなる。会食日。帰宅時間。レシート。明細。相手の名前。発言の記録。日時。場所。誰がいたか。見たもの、聞いたもの、思ったことを分ける。美緒は、自室の机で手帳を開いたまま、しばらくペンを持っていた。窓の外では、庭木の葉がわずかに揺れている。久世家の屋敷は、今日も静かだった。廊下の奥から古い振り子時計の音が届き、階下では家の者が食器を片づける小さな音がしている。家は何も知らない顔をしていた。その静けさの中で、手帳の上の文字だけが、妙に生々しい。一度だけだ。本気じゃない。そんなに大きくするなよ。怜央の言葉は、まだ耳の奥に残っている。男の過ちを大きくするか、小さく収めるかは、妻の器量です。佳乃子の声もまた、穏やかなまま胸の奥に沈んでいた。夫婦の会話を記録する。義母の言葉を記録する。それは冷たいことのように思えた。怜央と自分の間に、もう戻れない線を引いているような気がした。久世家の内側で交わされた言葉を、外へ持ち出す準備をしているような後ろめたさもあった。けれど、真帆は言った。記録することは、相手を攻撃するためだけではありません。自分の記憶を守るためでもあります。美緒は、その言葉を何度も思い返した。記録するたびに、夫婦の中に線を引いているような気がする。けれど、何も書かなければ、その線はいつか怜央や佳乃子の言葉で消されてしまう気もした。大げさ。本気じゃない。妻の器量。そういう言葉で、自分が何を見て、何を聞き、何に傷ついたのかまで曖昧にされてしまう。美緒は、ペン先を紙に置
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