佐伯真帆の事務所は、久世家とはまるで違う静けさを持っていた。久世家の静けさは、人の声を吸い込むような重さがある。床の間の花、磨かれた廊下、古い振り子時計、先祖の写真。そこでは、美緒の言葉はいつも、家の空気に合わせて小さく整えられてきた。けれど真帆の事務所の静けさは、違った。白い壁。整理された書類棚。無駄な装飾のない相談室。窓際に置かれた観葉植物。テーブルの上には、クリップ留めされた書類と、真帆のノートパソコン、メモ用紙、ペンが整然と置かれている。ここでは、言葉は小さくされない。日付と、事実と、条件に分けられる。美緒は椅子に座り、膝の上に置いたバッグの持ち手を握った。中には、ファイルが入っている。怜央と相沢紗季の会食日。帰宅時間。二名分のレシート。スマホに表示された通知の記録。怜央が「一度だけだ」「本気じゃない」と言った日のメモ。佳乃子の「妻の器量」という言葉。怜央の「久世の名前がなくなって、お前に何ができるんだ」という言葉。莉奈の「久世家の嫁じゃなくなったら何が残るんですか」という言葉。そして、公私混同の可能性として分けた支出記録。バッグの中のファイルは重かった。けれどその重さは、美緒が一人で耐えてきた時間が、ようやく誰かに渡せる形になった重さでもあった。「では、確認しましょう」真帆の声に、美緒は小さく頷いた。今日は、泣くために来たのではない。怒りをぶつけるためでもない。久世家から出るための条件を、現実の形にするために来たのだ。美緒はファイルを取り出し、テーブルの上へ置いた。「これまでの記録です」声は少し硬かった。真帆は、その硬さを責めることも、励ますこともしなかった。ただ、ファイルを受け取り、静かに表紙を開いた。「拝見します」その一言だけで、美緒の胸が少し緩んだ。久世家で
Read more