Alle Kapitel von 元彼に「赤ちゃんが欲しい」と言われて、タオルをお腹に詰めてたら振られましたが、有名フォトグラファーの彼に愛されています♡: Kapitel 31 – Kapitel 40

82 Kapitel

第31話 暮らしのぬくもり

「浅野さん、これ、どこを触ればいいんでしょう。画面が、ずっと……真っ暗なままで」 荷物を整理し終えたあと――ソファに並んで座り、俺は手元のカメラをおっかなびっくり覗き込んだ。 すぐ左側に、浅野さんの体温が寄り添っている。 その近さに心臓が跳ねるけれど、彼はごく自然に、俺の手元へ顔を寄せた。「あはは、珠依さん。ここ、レンズキャップを外してないからですよ。……ほら、指先でつまむようにして」 浅野さんの大きな手が、俺の指に重なる。 ごつごつとした節のある、けれど温かくて頼もしい手の感触。 彼はそのまま俺の指を誘導して、プラスチックの蓋を外させてくれた。「な、失くしちゃいそうで怖いですね……」「あぁ、それはこれを使って。付属品なんですけど、傷がつかないように収納できるので」そう言って浅野さんは、黒いふわふわとした小さな巾着を俺に手渡してくれた。 パッと、ファインダーの中に光が差し込む。 レンズ越しに見る世界は、肉眼で見るよりもずっと鮮やかで、窓辺の光を浴びてキラキラと輝き始めていた。「わあ……綺麗。ただの部屋の中なのに、全然違う」 「まずは、あそこの窓辺でも撮ってみましょうか。……このダイヤルを回して、ピントを合わせます」 浅野さんは俺の背後に回るようにして、肩越しにレンズのリングに手を添えた。 包み込まれるような体勢に、背中から彼の胸の鼓動まで伝わってきそうで、息が止まりそうになる。「こう……ですか?」 うん、と耳元で頷かれる。 窓の外の白い雲をうつした画面に人差し指でふれると、オートモードで雲にピントが綺麗にあった写真が撮れた。「珠依さん、俺よりセンスいいかも」 「それは大げさすぎますよ。でも、すごく楽しいです」 「……なら、良かった」 浅野さんはそう言って、俺の頭をぽん、と優しく撫でた。 褒められた子供のように顔を上げると、応えるように顔を覗き込むながら、彼は笑みをこぼす。「カメラは、自分の好きなものしか映さないんです。……だから、珠依さんがこれから撮るものは、全部珠依さんの『好き』の形なんですよ」 彼の言葉が、すとんと胸の奥に落ちる。 手に握ったカメラ。ソファーにお利口さんで座る霞くん。 そして、すぐ隣に居る浅野さん。 俺の「好き」は、もう、このカメラを向けるまでもなく、この狭いソファの上にす
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第32話 見られたくないもの

選んだおかず皿やスープ皿、それに小さな箸置きをいくつかカートに入れてスマホを返すと、彼は俺の選んだ商品をしげしげと眺め、その遠慮さえも見透かしたように『これだけ? もっと買っていいのに』と促した。 ソファで背後から抱きしめられるような形になり、俺は平気なふりを装いながらスマホの画面を見つめる。 心臓の音が彼に伝わってしまわないか、そればかりが気にかかったのを憶えている。『本当は、これも悩んでいて……。夏だから、こういうガラス素材の小鉢も涼しげでいいですよね』 俺がぽつりと零すと、浅野さんは迷いのない手つきでそれらを次々とタップしていった。 さらに、彼は『折角なら、エプロンも新調していいですよ』と付け加えた。どれがいいか決めかねて戸惑う俺をよそに、浅野さんは薄ピンクのエプロンを迷わず選択する。 そのまま「注文を確定する」のボタンを、慌てる俺を置き去りにして軽快にタップした。『さ、流石にピンクは……ちょっと恥ずかしいんですけど』『絶対に似合います。というか……俺が、それを着ている珠依さんを見たいだけかもしれないですけどね』 さらりと言ってのける彼に、俺はまたしても顔を赤く染めるしかなかった。 浅野さんは、狙ってか無意識か、俺を翻弄して照れさせるのが本当に上手だった。「――浅野さん、トーストとサラダと……スクランブルエッグ、出来ました」 「うわ、今日も美味そう。いただきます」 浅野さんの日常は、常にカメラと共にある。 普段は何時間も自宅の仕事部屋に籠もり、撮影した写真のチェックや膨大な事務作業に追われている。撮影スケジュールによっては、数日前から現地へ向かうこともあれば、こうして一緒に朝食を摂ってから「行ってきます」と出かける日もある。 最近では、彼が外で昼食を摂れそうな時には、お弁当を持たせるのが俺の日課になっていた。 一度仕事に出れば、その日のうちに帰ってくることもあれば、一週間近く家を空けることも珍しくない。 静まり返った部屋で霞くんと二人、彼の帰りを待つ時間は、どこか手持ち無沙汰で、けれど確かな居場所を感じさせてくれるものだった。「あっ……いけない。乾燥機にかけてたの忘れてました。冷める前に畳んできますね」 朝食の手を止め、俺は慌てて立ち上がった。「え? 急がなくても、食べてからでいいのに」 浅野さんが不思議
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第33話 待っている時間

撮影に使うデリケートな機材か何かなのだろうか。申し訳なさで『すみません』と謝罪すると、その顔は首筋まで真っ赤に染まっている。「ごめんなさい……。でも、あの、それって何に使う物なんですか?」 俺が食い下がると、浅野さんは『はっ!?』と声を上げて息を呑み、あからさまに動揺した。「いや、あの、ストレス解消の……とにかく、珠依さんが触れていいもんじゃないんです! 忘れてください!!」 浅野さんはその筒を背後に隠したまま、今にもこの場で消えてしまいたいような絶望的な表情を浮かべた。そのまま、逃げるように撮影の支度へと向かってしまう。 怒らせてしまった? けど、あの反応を見る限り、怒りというよりは、羞恥心が限界を突破していたように見えた。 その後、玄関でいつも通り彼を見送った。「七時には戻れると思います。過ぎたら、先にご飯食べててくださいね」 ドアが閉まり、広い部屋に静けさが戻る。俺はリビングへ戻り、クーハンで眠る霞くんの柔らかな髪をベビーブラシでそっと撫でながら、心の中に溜まったもやもやを引き摺っていた。(浅野さん……すごく、複雑そうな顔してたな……) 理由はどうあれ、彼が隠しておきたかったであろうものに触れてしまった感は否めない。 このまま気まずい空気を引き摺るのは嫌だ。 けれど、俺には家事を完璧にこなすことでしか、彼に恩を返したり、機嫌を直してもらったりする術がない。「……よし。夜になったら美味しいもの、作ろう」 自分に言い聞かせるように呟き、スマホでレシピサイトを開く。 冷蔵庫の中身と照らし合わせながら、今晩の献立を真剣に練り上げた。 そういえば、浅野さんは明日が休みだと言っていた。ゆっくりお酒を飲めるかもしれない。ビールもしっかり冷やしておこう。 そう決心して、俺はレシピの保存ボタンを押した。 ◇◇◇ 結局、その日の夜は、八時を過ぎても浅野さんは帰ってこなかった。 少しだけ寂しい気持ちを抱えながら、キッチンに並んだラップ越しの料理たちを見つめる。 先に食べていいとは言われていたし、仕事なのだから仕方ない。 別に、子供みたいに寂しいわけじゃない。 けれど――。(『美味しい』って言って喜んでくれるところ、見たかったな……なんて) 掘り下げていくほど、自分の料理を『美味しいでしょ?』と強要しているみたいで、な
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第34話 恥ずかしくて言えない

やっぱり、もう一度謝った方がいいだろうか。不安に駆られて身を縮めていると、今までにないほど小さな声で、彼は問いかけてきた。「本当に、あれが何なのか、純粋に知らなかった……ってことですよね?」 「え、あ……はい。全然……」 確認するような慎重な口調。実家ですら見たことがない代物で、俺は困惑して眉を下げる。 浅野さんは一度唇を噛み締めると、意を決したように自室から「例の筒」を取りに行き、頬を朱に染めて俺の隣に座り直した。「これは、その……大人の男性が、ひとりで……欲求をですね、解消するための……専用の、道具なんです」 「欲求……?」 「……つまり、その。自分自身を……慰める、といいますか……」 浅野さんはそこまで言うと、耐えきれないといった様子で視線を泳がせた。「……えっ?」 「だから、ここに、自分のモノを入れて……使うものなんです。俺、ここ数年誰とも付き合ってませんし……一応、名が知れてる立場でしょう? セフレとか、風俗なんてもってのほかですから。そうなると……その、こういう結論に行き着くといいますか」 理解が追いついた瞬間、心臓が跳ね上がるような音が耳の奥で鳴り響いた。顔から火が出るどころか、全身の血が沸騰しそうなほどの羞恥心が押し寄せてくる。俺は思わず、昼間にあの筒を弄った自分の右手を、反対の手でぎゅっと握りしめた。「すみません! 俺、そんなものだとは知らずに……!」 「いや、まあ……知らないのには驚きましたけど。ただ、俺がああいう態度をとったのには、ちゃんと理由があったってことだけは、誤解のないようにしておきたかったので」 そう言って、浅野さんはソファのクッションの陰にそれを隠した。 どうしよう、消えてしまいたい。顔だけでなく、全身が熱くて仕方がない。「……気持ち悪いと思わせたなら、すみません。俺も最近は使ってなかったんで。入れたの、忘れてて」 「ぜ、全然! ごめんなさい、本当に……! えっと、あの、ご飯! ご飯にします!? お風呂も沸いてるので、お風呂が先でも良いんですけど……」 テンパって何を話せばいいのか分からない。必死にこの後の予定を並べ立てるけれど、今の空気の中では、どんな言葉もエッチな感じに聞こえてしまって、ますます居たたまれなくなる。 耐えきれず両手で顔を覆うと、浅野さんは少しの間沈黙した後、俺の両手
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第35話 添い寝と事故

「え、あ、あの……っ」 「運びます。転んでまた怪我をされたら大変ですから」 浅野さんの瞳も、心なしか潤んでいる。寝室まで運ばれ、シーツの上にゆっくりと体を横たえさせられると、彼はいつもより眠たげな、熱を帯びた瞳で俺を見つめた。「おやすみなさい、珠依さん」 「は、はい……おやすみなさい」 浅野さんは小さく欠伸をしながら、俺の隣に滑り込んできた。 そう――この家で一緒に暮らすと決まったあの日から、俺たちはこのセミダブルのベッドを共有している。 俺が使っていたベッドを運び込むことも、新しく買い足すこともしなかった。その理由を問えば、彼との今の関係を拒絶してしまうような気がして、聞けずにいる。左側が俺、右側が浅野さん。そうやって目に見えない境界線を引いて眠るのが、いつしか当たり前になっていた。 やがて、隣から浅野さんの規則正しい寝息が聞こえてきた。 アルコールの回った頭で、俺も意識を沈めようと目を閉じる。寝酒は良くないと思いつつも、今日くらいなら、許される気がした。「…………」 その時、重みのあるギシッという音と共に、隣の熱が急激に近づいてきた。 浅野さんが大きな寝返りを打ち、俺を包み込むようにして腕の中に閉じ込める。 驚いて声をかけようと振り返るがけれど、頸に感じるのは深く穏やかな吐息。彼は、完全に眠りの中にいた。 ほどこうにも、回された腕の力は驚くほど強くてびくともしない。(ちょっと……これ、なんか……マズい気がする……) 心臓の音が、アルコールのせいか、それともこの距離のせいか、うるさいほどに耳の奥で鳴り響いている。 背中から回された腕に引き寄せられ、ぴったりと密着した腰のあたりに、逃げ場のない熱い感触があった。(つ、疲れてると反応するって言うけど……どうしよう……) 浅野さんのそれが、確かな質量を持って俺の身体に押し当てられている。 少しでも距離を置こうと、もぞ……と腰を動かしてみたけれど、かえって摩擦を生んで刺激するような形になってしまい、慌てて動きを止めた。時間が経てば、自然に収まってくれるだろうか。 それにしたって、羞恥心と緊張で頭がおかしくなりそうだ。 きゅう、と爪先を丸めながら身を屈め、俺はさっきのやり取りを頭の中で反芻していた。『――ここ数年誰とも付き合ってませんし……一応、名が知れてる
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第36話 素直な身体

浅野さんの誠実さは、救いであると同時に、俺にとっては残酷な「壁」でもある。彼は俺を傷つけないよう、性的な視線を徹底的に排除して接してくれている。それは至極全うな優しさだ。 けれど、今の俺が求めているのは、その清廉潔白な優しさの「先」にあるものだとしたら。(……浅野さんに、性的な目で見てほしいと思ってる? 保護対象としてじゃなく、人として、欲情してほしい……?) その結論に辿り着いた瞬間、あまりの浅ましさに手が震えそうになった。 助けてもらい、住まわせてもらい、生活の全てを支えてもらっている身で。 彼に対して、「欲情してほしい」と願うなんて。 「そんなことを考えてはいけない」と脳に命令を下すことは、皮肉にも脳に対して「そのことを常に監視せよ」と指示を出しているのと同じだ。禁止すればするほど、そのイメージは解像度を増してしまう。 彼は、どんなふうにキスをするんだろう。どんなふうに囁いて、どんな角度で首を傾けて――。 そこまで考えた瞬間、じわ、と中心が熱く濡れる感覚がした。 慌てて布団の中で自分の腹部へ手を滑らせると、下着が微かに湿っているのが指先に伝わる。「う、うそっ……」 こんなことは初めてだった。自ら触れたわけでもないのに、思考の断片だけで身体が反応し、分泌液が溢れている。 俺は心臓の鼓動を抑えながら、浅野さんの腕を慎重に、壊れ物を動かすようにして退けた。音を立てないよう寝室を抜け出し、這うようにしてクローゼットから予備の下着を引っ張り出す。 けれど、立ち止まっている間にも、熱は引くどころか拍動を増していくばかりだった。(仕事をやめてから、自分からしたいなんて一度も思わなかったのに……っ) 彼が目を覚ます前に、この疼きを鎮めなければならない。俺はリビングのティッシュをひっつかみ、ソファーの座面に背を預けるようにして床にへなへなと座り込んだ。 浅野さんに欲情してもらうどころか、俺が、浅野さんに欲情してしまっている。 「ちゅく」と小さな粘着音が、静まり返ったリビングに場違いに響く。熱い吐息を押し殺しながら、指先で微かな刺激を与え続ける。 ふと横を見ると、そこには浅野さんが帰宅直後に脱ぎ捨てたパーカーが置かれていた。俺はもう、自責の念すら放り出し、それを手繰り寄せて胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。 好き。
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第37話 淡い真珠の空の色

浅野さんの家で過ごして、一ヶ月が過ぎた。 買い物を終えて帰宅した俺の気配を察して、仕事部屋から浅野さんがひょっこりと顔を覗かせる。「ただいま戻りました」 「おかえりなさい。……え、それ、めっちゃ重かったんじゃないですか? 言ってくれれば、俺も一緒に――」 「だめですよ、浅野さんはお仕事中ですから。日差しもそんなに強くなかったですし、平気です」 重い買い物袋を提げる俺を見かねて、浅野さんは「交代しましょう」と甲斐甲斐しく手を貸してくれた。 ベビーベッドの中では、霞くんがメリーを見上げるように仰向けになっている。 最近になってようやく、俺は霞くんを「浅野さんとお留守番」させて、一人で外出できるようになった。マンションから徒歩五分、鶴ヶ峰駅のすぐそばにあるこじんまりとしたスーパーまで。そんな些細な距離でも、今の自分にとっては確かな前進だった。 キッチンでエコバッグから食材を取り出していた浅野さんが、ふと手を止める。 そして、何かに打たれたような表情で一冊の本を手に取ると、驚きを隠せない様子で俺に視線を向けた。「しゅ、珠依さん。これ――」 「今日が発売日って聞いていたので。スーパーの隣の本屋さんで、買ってきちゃいました」 それは、浅野さんの新作写真集。 いつもの星空をテーマにしたものとは違い、彼が学生時代にフィルムカメラで撮り溜めてきた「記憶」を、一冊の物語のように編み上げた作品だ。発売前から、若者の間でそのエモさが話題になり、空気をそのまま閉じ込めたような瑞々しいきらめきは、老若男女問わず高い評判を呼んでいた。「……わざわざ買いに行ってくれたんですか?」 浅野さんはそう言って、耳の付け根を少しだけ赤く染めた。「はいっ。表紙もすごく素敵です。浅野さんの優しい視線がそのまま写ってるみたいで」 正直な感想を伝えると、浅野さんは照れくさそうに視線を泳がせ、それからふっ、と柔らかく目を細めた。 甘い沈黙がキッチンに流れる。浅野さんは写真集をカウンターに置くと、一歩、俺との距離を詰めてきた。「献本があるから、珠依さんにならいくらでもあげるのに」 「でも、それじゃあ意味がないというか……。微々たる力ですけど、売り上げに貢献したいんです」 「じゃあ、宛名入りでサインします。ここに」 そう言って、浅野さんはキッチンカウンターで写真
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第38話 エオリアン・ハープ

「一番、人に見られたくない一枚だったんですけど……けじめのつもりで載せたんです。星を撮り始める前の、ただ途方に暮れていた頃の自分が撮った海岸の写真です」 そう言って、彼は俺の頬に伝う涙を、大きな親指でそっと拭った。 その指先が熱くて、俺はまた視界を滲ませる。 浅野さんの声は、波音のように穏やかに俺の心に染み渡る。彼の過去に何があったのかは聞けない。けれど、その痛みのようなものに寄り添いたいと思った。「……俺も、この海を見てみたいな」 「えっ?」 「浅野さんが今まで見てきたものと同じものを、共有してみたいなって思いました」 俺が真っ直ぐにそう伝えると、浅野さんは目元を拭っていた指を止め、呆気に取られたように瞬きを繰り返した。 まさかそんな言葉を返されるとは思っていなかったのか、彼は少しだけ唇を尖らせ、困ったように、けれど今日一番の柔らかな熱を帯びた瞳で俺を見つめた。「……珠依さん、本当に……」 そう言って、彼は照れくさそうに前髪をかき上げた。「この海、ここからだと車で二時間くらいかかるんですけど……。霞くんも連れて、行きますか? ちょうど今の季節、夕暮れ時ならこの写真に近い色が見られるはずです」 「い、今からですか……?」 「珠依さんが、怖くなければ。……すみません、急なことを言って」 正直、どこか後ろめたい気持ちになった。 仕事もせず、隠れるようにして過ぎていく毎日。そんな自分が、眩しくて綺麗な時間を受け取ってもいいんだろうか。浅野さんに長距離の運転をさせて、明日の仕事に響いたらどうしよう――。 ひとりで理由をこねて足踏みしている俺の心を透かしたように、浅野さんは優しく笑った。「俺が見せてあげたいんです。それに、一人で眺めていたあの景色を、珠依さんと一緒に塗り替えられるなら、そんなに嬉しいことはないですから」 浅野さんはそう言うと、膝の上で開いたままの写真集を、大切な宝物を仕舞うようにそっと閉じる。 止まったままだったはずの時計が、浅野さんの刻むリズムに重なって、少しずつ、けれど確かに新しい時を刻み始めている気がした。「じゃあ、準備しましょうか。……あ、少し肌寒くなるかもしれないから、薄手の上着も持っていきましょう」 浅野さんはそう言うと、手際よく自分のカメラバッグを引き寄せた。その迷いのない動きを見ていると、俺の
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第39話 やさしい色と音

◇◇◇ ドライブを経て辿り着いたのは、写真集で見たままの砂浜。 車を降りた瞬間、潮騒の音が鼓膜を優しく撫でる。 目の前に広がっていたのは、普段見慣れた燃えるような夕焼けではなく、淡い真珠の母貝を透かしたような世界だった。 空は柔らかな薄ピンクから、溶け残った水彩絵の具のような水色へと緩やかにグラデーションを描き、その境界線はどこまでも曖昧だ。 浅野さんは、霞くんを抱いた俺の隣を、付かず離れずの距離で歩き出す。「……本当に、写真と同じですね」 「今の季節のこの時間は、色合いが一番優しく見えるんです」 砂浜に一歩踏み出すたび、押し寄せる波の縁は空の色を反射して、まるで光るレースのように砂を洗っていた。 あの写真集に綴られていた寂しい詩とは違い、今のこの景色には、体温のような温かさが混じっている。「珠依さん、足元気をつけて」 浅野さんがさりげなく俺の腕を支える。その大きな掌から伝わる確かな体温。 俺が抱っこ紐に手を添えて霞くんを抱き直すと、彼は足を止め、海を見つめたままふっと目を細めた。「……俺ね、中学の時に祖父から譲ってもらったカメラがきっかけで、写真を好きになったんです。けど、『人物』は撮ってもいまひとつで。何年やっても賞ひとつとれないし、センスも才能もないんだって、ずっと思っていました」 寄せては返す波の音に混じって、その独白は淡々と空に溶けた。「そのくせ、『人物』の写真を誰かに認めてほしくて必死で……。心からの感想をもらうより、一目でわかる『賞』っていう社会的な名誉を求めたんです。大学を卒業する前も、まさにこの場所で、カメラそのものを続けるかどうか悩んでいました。未来も明日も見えないような、しんどい気持ちのまま」 薄いピンクと水色が混じり合う空の下、横顔は、写真集のあの頁に描かれていた孤独な影を、今もどこかに宿しているように見える。「だから、星空と風景専門になったんです。要するに逃げたって言うか。人を撮る才能はないって分かったから、勝てる土俵に降りた……みたいな」 自嘲気味に笑う彼の背中が、どこか小さく見える。俺は霞くんを抱き直すと、ゆっくりと呼吸を整えた。 彼の言葉の裏側にある痛みを、静かに紐解いてあげたい。そんな一心だった。「……浅野さん」 呼びかけると、彼は少しだけ肩を揺らして、こちらを振り返った。
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第40話 こんなにも愛おしい

「珠依さんの……そういうどこまでも人に寄り添う優しさが好きです。そのくせ自分には厳しくて、完璧主義なところも、そんな自分を分かっているのに、変えられない不器用さも……全部」 空の色がゆっくりと海に溶けていく中、砂浜に伸びる二人の影が、ひとつに重なっていく。 自分でも、もっと楽に生きていけたらと思うほど面倒な性格をしているのに、それをそのまま受け止めて貰えるのは、やっぱり嬉しい以外の何物でもなかった。「今まで酷い目にあった珠依さんを助けたいとか、同情だとか、そんなんじゃない。今はあなたという存在そのものが愛おしくて、大切にしたい」「……こんな、何もできないのに?」「ほら、またそうやって自分を下げる。でも、いいですよ。珠依さんが何度そう言っても、俺はあなたの好きなところを何倍にもして返しますから。あなたが本当の感情をさらけ出してくれるまで、言葉の出し惜しみは絶対にしないって、もう決めてるんです」 浅野さんの大きな両手が、そっと俺の頬を包み込んだ。 ただ触れているだけなのに、人の掌がこれほどまでに温かくて、嬉しくて、切ないものだなんて、今まで知らなかった。 早霧の愛が俺を引っ張っていくような強くて激しいものだとしたら、浅野さんの愛は、後ろから抱き寄せて受け止めてくれるよな、静かな愛だと思った。 期待と不安で揺れる俺の瞳を、浅野さんは逃がさないようにじっと覗き込み、心の奥底に響くような声で告げる。「珠依さんがいるだけで毎日が温かくて、世界がこんなに輝くなら……俺は、ずっとあなたにそばにいてほしい。その言葉にずっと寄りかかって居たい。何より、俺はあなたが笑顔で過ごす日々を、一番近くで見守らせてほしいんです」「…………」 今日、二度目の涙が溢れた。けれど今度は、凍えていた心が解けていくような、震えるほど幸せな涙。 俺は浅野さんのシャツの胸元をぎゅっと掴み、祈るような心地で、心からの願いを口にする。「俺も……浅野さん、あなたのことが好きです。ずっと、隣にいたいです……」 俺の告白を飲み込むように、浅野さんがふっと顔を近づけた。吐息が肌に触れる距離で止まり、彼は愛おしそうに目を細める。「……あなたのことは、絶対に俺が幸せにします」 掠れた声が鼓膜を震わせた直後、吸い寄せられるように唇が重なった。 最初は、羽が触れるような、確かめるよう
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