LOGINあの夜のことは、忘れられない。
ただ、変な声がして目が覚めただけだった。
夢と現実の境目が曖昧なまま、鈍く痛む頭を押さえながら実花は起き上がった。
また、声が聞こえた。
夢ではない。
不審に思って、実花は寝室からゆっくりと廊下へ出た。
隣の部屋、恒一の寝室の扉を開けた。
恒一はいなかった。
実花は声のするほうに向かった。
冷えた床の感触が足裏から伝わってくる。
意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。
それでも、声のするほうへ向かい続けた。
意志というより、反射に近かった。
何が起きているのか。
それを考える前に、身体が勝手に動いていた。
.
客間の前で、何が起きているのか理解した。
すぐに分かった。
何の声か。
何の音か。
胸の奥が冷たく沈んだ。
「もっとぉ……」
美鈴の甲高い声は快感を訴え、甘えるように揺れていた。
応える恒一の唸り声は、理性を削ぎ落とされた獣のようだった。
実花の知る『夫』という存在から遠い響きだった。
.
実花は持っていたスマートフォンを起動させた。
よく冷静に行動できたと、今でも実花は信じられない。
実花を突き動かしたのは恐怖なのか。
それとも怒りなのか。
その答えは、このときの実花には不要だった。
異様なほど思考が冴えていることが重要だった。
指先が震えているのに、操作だけは正確だった。
二人の様子を動画に収めた。
衝動的だった。
証拠を残さなければいけない。
そんな目的を理解したときには、録画が始まっていた。
濡れた肌がぶつかり合う音が、スマートフォンの電子音をかき消した。
どの音も非現実的で。
小さな画面の中で絡み合う夫と義妹の姿は、別の世界の出来事のように見えた。
二人がいつも言い訳に使っていた「義兄妹」。
それが白々しいほど、二人は男と女だった。
「あんんっ……激しっ!」
ただ、この時点では夫の不貞でしかなかった。
だが。
「待って、お腹の赤ちゃんがっ!」
耳に飛び込んできた美鈴の言葉。
それは、実花が想定していた裏切りの範囲を踏み越えていた。
「赤ん坊だって、父親と母親の仲が良いほうが嬉しいだろっ」
美鈴は妊娠していた。
恒一の子どもを。
「ほらっ、もっと声を出せ」
恒一の声は笑っていた。
「だめっ! お義姉さんが起きちゃうぅ……あんっ!」
一見、実花を気遣っているようにも聞こえる台詞。
それと真逆の、目の前の光景。
「大丈夫だって。いつも通り睡眠薬を飲ませている」
「で、もぉ……」
「気づかれても、知り合いの精神科医に診断書を書かせるよ。妄想癖ありってな」
この瞬間。
実花の中で何かが静かに折れた。
「悪い、男っ」
「その男に突かれて善がってるのは誰だ」
満足げに笑う恒一の声。
喘ぎながら甘える美鈴の声。
そのすべてが作り物のようで、実花から現実感を奪っていった。
パキンッ。
実花の中で、冷え切った何かが砕けた気がした。
そして、はっきりと理解した。
――やっぱり。
そう、納得した。
浮気。
裏切り。
そんな言葉で片づけるには、もう軽すぎた。
実花の世界から音が消えた。
実花はただスマートフォンを構え、姿勢を変える二人を撮影し続けた。
画面の中の二人から目を逸らさなかった。
見たかったわけではない。
固定されてしまったように、目が動かなかった。
――どうして気づかなかったのか。
――私は、なんて間抜けなのだろう。
実花の「なんで」も「どうして」も、恒一たちには向いていなかった。
実花は自分を責めた。
恒一たちには罪悪感の欠片も見られないのに。
なぜか、実花だけが自分を責めていた。
――何がいけなかったのか。
――気づかない振りをしてきたことが、いけなかったのか。
それとも。
――私が存在したこと自体が間違っていたのか。
.
考えに没頭し過ぎていた。
それがいけなかった。
ずっと同じ姿勢のままでいたせいで、足に力が入らなかった。
それに気づいたときには、バランスを失っていた。
「きゃっ」
床へと崩れ落ちる。
実花の持っていたスマートフォンが床板を強く打った。
すぐに室内が騒がしくなった。
扉が開いて、恒一と美鈴が出てきた。
「実花!?」
恒一は驚いたが、すぐに状況を理解した。
床に落ちたスマートフォン。
その画面に、録画中であることを示す表示が出ていた。
恒一の顔色が変わった。
でも、罪悪感ではなかった。
焦りだった。
ここでようやく、自分が藤宮家の入り婿であるという現実を思い出したらしい。
「……実花」
名を呼ぶ声に、詫びるようなものはなかった。
いつものように、管理者の声だった。
その声は実花の体を強張らせた。
恒一が近づく。
その瞬間、恒一の汗ばんだ体が光った。
それが、実花の体の強張りを解いた。
逃げなければならない。
実花は階段に向かった。
足が勝手に動いた。
.
階段までたどり着いた。
玄関が見えた。
そう思った瞬間、背中に強い衝撃が走った。
視界が揺れた。
感じたのは浮遊感。
身体が反転した。
見えたのは、恒一の手だった。
そして、その手の向こう。
恒一の目は実花を『人』として見ていなかった。
処理しなければいけないもの。
あれは事故ではない。
実花を殺すために、恒一は背中を押したのだ。
落下しながら、実花は思った。
もし人生をやり直せるなら、今度は選ぶ側になる。
その思いを最後に、実花は完全な闇へと落ちた。
――はずだった。
.
実花は明るい世界にいた。
「おはようございます」
目を開けたとき。
「お誕生日、おめでとうございます」
実花は18歳の朝の光の中にいた。
「冗談はさておき」「冗談ではなく本気で悩んでいるが」そう言って光也は肩を竦める。「よく考えたら俺と実花で話すことだな」「……手加減してやれよ?」「善処する」自分が教えた曖昧な日本語。『やりたくない』から『全力で頑張る』まで幅広く解釈できる魔法の言葉。ガンガン行く気の光也にため息を吐く。「結婚すれば『光也』になるだろう」「そうなったときは『あなた』もいい」「選択肢を増やすな」ため息ばかり出る。それなのに呼吸ができている自分に感心しながら、航は他の人からさりげなく距離をとった。ここからは内緒話だ。「ご当主はどうだった?」「何も気づいていないな」いまこちらは当主交代を目論んでいる。それも名前は時々挙がるものの、大多数が『ない』と思っている万葉を当主に擁立しようとしている。航も今季の成績と来期の見通しを確認したが、東国政近は東国グループの揺るぎない頂点だ。さすが光也の父親というべきか、カリスマ性も備えている。社内には政近に傾倒している信者もいる。(だが女癖が悪すぎる)それを利用して当主の座から引きずり下ろそうとしている。「お前のほうは?」――直接会ったとき、相手から感じたことは重要だ。そう言った藤宮実篤は、その役目を光也に与えた。藤宮実篤自身も政近に会うが、付かず離れずの距離を保つ巨大な二家の当主同士。――社交辞令でカバーされたら真意は分からないから私は適任ではない。それを聞いたときは納得したが。――愛娘を下劣な目で見る猿と話すなんて時間が勿体なさすぎますからね。高峰の言ったこっちが本音なのだろうと思っている。それならマンションで一人暮らしをしている光也より、実家で一緒に暮らしている万葉のほうが適任ではないかと思ったが。(万葉さんはな……)――あの父と話をすると、ちょうど三分で頭の中でピコーンッて音がして……流れてくるの。万葉の芝居じみた言葉に「何が?」と素直に尋ねたのは純真な実花だけだった。あとの全員は分かっていた。――この男を殺そうと思うの。当たった。実花は冗談だと笑った。そんな実花の無垢な姿に航はほわっと心が温かくなったが。――藤宮と手を組めたら、完全犯罪くらい余裕だから。そんな万葉の言葉に実花は真剣な表情になり、「そうですね」と納得していた。(あの瞬間、実花ちゃんが藤宮実篤の娘だ
「おい、見ろ」「彼は光也さんの腹心では?」「なぜ万葉さんと一緒にいるんだ?」東国グループ本社。万葉と並んで歩く航の姿に社内がざわついた。仕事の話にしては朗らかな雰囲気。仲の良さ、親密ささえ感じられる二人に注目が集まる。そのような中で、万葉と航に光也が合流した。代わりに万葉が離れていく。今度は光也と航が注目される。「さすが光也さんだな」「彼を使って万葉さんの動向を探る気か」「そうなると、やはり次点は万葉さんか」「分家の孝也さんも有力視されているが、光也さんは一応本家だし」「孝也さんが三女の桜さんあたりと結婚すれば」「無理だろう。次女の葵さんと合わせて、あの三姉妹は仲がいい。姉の万葉さんを差し置いて夫を押すようなことはない」「葵さんの婚約者は?」「婚約者まで含めて比べれば、やはり光也さんだろう」「藤宮の令嬢か」「だが、藤宮の一人娘だぞ」「光也さんが藤宮に婿入りするのか?」「まさか」「デマに決まってる。光也さんにメリットは何もない」「確かに。若い美人なら他にもいるしな」光也の眉間に軽く皺が寄る。それを見た航は咳払いをする。二回。聞こえているという周りへの警告。そして、ここで騒ぐなという光也への注意。光也は航を見たあと、軽く肩を竦める。しかし、眉間の皺はそのまま。歩調が早くなったところを見ると、不機嫌であることに変わらない。航でも、好き勝手を言う周りに怒りを感じていた。仕方がない。内心で肩を竦めながら、航は光也のガス抜きをしておこうと思った。「光也……」「何で俺は“東国さん”なんだ……」光也の珍しく悩むような
東国グループの主要メンバーが揃った会議室。会議が終わっても、東国政近が退場するまでは誰もこの部屋を出ない。「それでは先に失礼する」そう言って政近が退場したあと、秘書の一人である万葉は父親のいた場所を片づけはじめた。突然室内がざわつき、次の瞬間、万葉の手元に影ができた。顔を上げると、そこには光也がいた。姉弟の目が合うと、その場は水を打ったように静かになった。東国政近と愛人との間に生まれた子だが、東国の後継者候補である光也。東国政近と妻との間に生まれた長子だが、東国の後継者に名も挙がらない万葉。この二人が騒ぎを起こしたことはない。仲良くはない。だが、仲が悪いかどうかと聞かれると答えに困る。二人の関係を言葉にすれば万葉が光也に対して喧嘩を売るが、光也はそれを買うことがない。光也にとって万葉は、あえて自分から関わることのない存在だったのだが。「少し、時間をいただいてもよろしいですか?」光也の言葉に大きな騒めきが起きる。だが――トンッと。万葉が束ねた紙を机で整えると、その場はまた静かになった。一触即発の雰囲気に、緊張がピークに達したとき。「いいわ」「では……」「でも、これから用事があるの。急ぎでないのなら、火曜日の五時でどうかしら」「……六時でもいいですか?」「いいわ。それでは火曜日の六時、あなたの会社に行くわ」トントンッと書類を束ねると、万葉はそれ以上何も言わずに会議室を出ていった。その後ろ姿を光也は見送ったものの、何も言わずに反対側のドアから部屋を出ていった。◇◇◇「あー……落ち着くぅ」万葉のうっとりするような声を聞きながら、実花は自分をがっちり抱きしめる万葉の腕の中から救いを求めて光也を見た。「そろそろ実花を離してください」
途端に政近は上機嫌になった。そして、ソファの背もたれへ深く体を預けた。「それで、藤宮実花はどうだった?」「とても可愛らしい方でしたわ」「そうだろう」なぜあなたが得意げなのか。そう思ったが、もちろん口にはしない。「写真よりも実物のほうがいいだろう」(娘に猥談を振る非常識さ)「少女から大人の女性になる過渡期独特の美しさがありますわ」「……そうか」恍惚とした政近の表情に、いますぐ警察を呼びたくなった。「確かに、写真からも色気を感じる。まだ高校生だというのにな。あれなら光也が夢中になるのも分からなくはない」(気持ち悪っ!!)万葉は笑顔のまま、心の中で吐き捨てた。自分の娘よりも若い少女。しかも息子の婚約者。そんな実花に対して下心を隠そうともしない。けれど、この男は、自分が娘から心底軽蔑されているとは想像もしていないのだろう。娘とは黙って父親に従う者。自分の言葉を聞き、自分の決定を受け入れるもの。少なくとも政近にとって、娘とはそういう存在なのだ。(実篤様と正反対……ああ、実篤様に会いたい)「それでしたら、私ももっと藤宮実花さんと仲良くなりたいですわ」(いっそのこと、あの家の娘になりたい)「いずれ義理の姉妹になるのですもの」(あら? 光也が実篤様の義息子になれば、その姉である私も義娘になるかしら)ならない。だが、万葉の脳内につっこみ役はいない。万葉はにこりと笑う。「私からお茶や買い物に誘っても不自然ではないですし」(実花ちゃんをお出かけに誘ったら実篤様もついてこないかしら)そうしたらきっと光也もついてくる。(光也は荷物持ちとして、あの子のことだから面倒がって航さんを召還するわよね)実花。実篤。航。
万葉が父親の東国政近に呼ばれたのは、藤宮家を訪れた翌日のことだった。万葉は父の書斎へ入ると、いつものように上品な笑みを浮かべる。「お待たせして申し訳ありません」突然呼び出すな。いい迷惑だ。そんな内心をしっかり隠し、思ってもいない謝罪を口にする。「お前、藤宮家へ行ったそうだな」母親似のクールな表情は崩さないまま頷いた。だが内心は。(お父様が実花ちゃんを誘い出すために藤宮家を見張らせてることなんて、実篤様はお見通しなのよ!)大変賑やかに実篤を称賛していた。「なぜだ?」「藤宮家から光也を迎えに来てほしいと連絡がきたからですわ」「なぜ私に言わなかった」万葉は首を傾げる。「光也がいたということは、藤宮実花も一緒にいたのだろう?」「はい」万葉が肯定すると、政近は苛立っていることを隠さず舌打ちをした。(この親父……本気で気持ち悪い)「余計なことをして、申し訳ありませんでした」うっかり本音が出ないように万葉は気を付ける。「まあいい、過ぎたことだ」「ありがとうございます」(なぜ光也を迎えにいったかには興味がないのね……色々理由を用意したのに)「万葉」残念と内心肩を竦めかけたところで名前を呼ばれ、万葉は気を引き締める。今度は何かと思ったが。「お前の目から見て、藤宮実花はどんな娘だ?」「……そうですね」さすがに間が空いた。そのくらい政近の思考に対して呆れていた。常識的に考えれば、“どんな”とは人間性を問うものだと思う。東国家の娘、または光也の異母姉として、実花をどう思うか。東国当主夫人としての適性とか。実花を義妹として受け入れることについてとか。(でもこのだらしない顔)欲望に満ちただらしないこの顔を見れば『女性』とし
「くそっ」自宅の玄関をくぐった一ノ瀬恒彦は悪態をつき、被っていた帽子を取ると三和土に叩きつけた。そしてそのまま靴で帽子を何度も踏む。「あなた?」玄関の音に気づいた妻、一ノ瀬芳江が驚いた声をあげた。夫は朝からゴルフに行っていた。以前は毎月のように行っていたが、かつての仲間たちから「仕事が忙しくなった」と断られるようになり、しばらく行っていなかった。今回は、新たな取引先の相手から誘われたと聞いている。この様子では楽しくなかったようだ。「お早いですね」芳江としても、一人で満喫していた時間が台なしだと思った。リビングから聞こえる女性の黄色い悲鳴。バスドラムの低音が響く、ポップなダンスナンバー。「また韓流アイドルか。いい加減にしろ」夫とは趣味のことでときどき揉める。以前は『好きにしろ』と言わんばかりに芳江の推し活に興味を持たなかったが、いまは金の無駄遣いだと文句を言ってくる。(この人だって、一回のゴルフで何十万円も使ってくるじゃない)言い返したい気持ちもあるが、推しの曲が流れる中で醜い喧嘩などしたくない。先ほど見たばかりの推しの笑顔を穢す行為だ。「部屋に下がります」片付けは通いの家政婦に任せ、読んでいる途中だった雑誌を手に取った。そのタイミングでこちらを見た恒彦の顔が苛立ったものになる。「いつまでそんなものを読んでいるんだ!」したくないと思った喧嘩を始めるような夫の大きな声。「家を改築する話はなくなっただろうが!」それが推しの声と重なったことに、芳江の気も一気に昂る。「あなたの! あなたと恒一のせいじゃない!」芳江は持っていた雑誌を開き、勢いよくページを捲る。そして見開きのページを恒彦に見せる。「私のバスルームもこう変わる予定だったのよっ! それなのに突然無理だとか言ったりしてっ!」「仕方がないだろう! その話は、恒一が自分の新居をリフォームするついでに進めると……」恒彦は唇を噛む。恒彦の頭に、計画していた社長室の改装案が浮かぶ。北欧の有名家具デザイナーに依頼する予定だったデスク。若い秘書と使い勝手について盛り上がりながら決めたソファ。男の夢を具現化したような部屋で、訪れる客から羨ましそうな目を向けられる。(そうなるはずだったというのにっ!)◇◇◇その頃、光也たちは廃屋となっている離れの探
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
「全く……美鈴、疲れているだろう。今日はうちに泊まっていくといい」その言葉は、まるで最初から用意されていた結論を読み上げるかのように自然だった。迷いも逡巡もなく、恒一の口から滑り落ちる中に実花の反応を気にかける様子はない。「でも、服が……」美鈴は困ったようにわずかに眉を寄せる―――困り方すら整えられていた。自分がどう振る舞えば最も『恒一に大事にされる存在』として成立するか、それを計算した振る舞いだった。「今夜はこの前置いていった服をとりあえず着ればいい。明日になったら一緒に買い物に行こう」恒一は即座にそう言い切った。その声音には、『こうするのが当然』というような親密さが滲んでい
その夜の記憶は、実花の頭の奥底に、まるで消えない染みのように残っている。思い出そうとしなくても勝手に浮かび上がり、忘れようとすればするほど輪郭を濃くしていく。そんな種類の記憶だった。.実花が夫の恒一と暮らしていた藤宮家の別邸は、その夜も例外なく重たく閉ざされていた。外の世界から切り離されたような敷地の中では季節の風すら遠慮がちに通り過ぎ、建物全体が呼吸を止めているように静かだった。ダイニングに入った瞬間、まず実花の目に飛び込んでくるのは過剰なほどの準備をされたテーブル。皺ひとつないクロス。寸分違わぬ位置に並べられた銀のカトラリー。食器の反射すら計算され
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ