登入「今日は髪をまとめて、首を見せてみたらいかがでしょう」
そう声をかけた使用人にとっては、何気ない提案だっただろう。
だが、実花にとっては奇妙な重みを持っていた。
前の生の記憶がよみがえる。
恒一は実花が髪を上げることを好まなかった。
首筋が露わになることを「下品だ」と言った。
女らしさを捨てて、男と張り合おうとしている。
そんな、女性を見下すような言い方をしていた。
その言葉を、愚かにも正解として受け取ってきた。
だから、実花は一度も髪を結い上げなかった。
それが恒一に好かれるための、正しい髪型だと信じていた。
だが、いまはもう違う。
「……いいわね」
返事はすぐに出なかった。
呼吸の間に、わずかに迷いが挟まった。
「お願い」
恒一の好みに逆らおうとしている。
胸の奥に緊張が走った。
だが使用人たちは、その緊張を、自分で選んだ装いに自信が持てないためだと考えたようだった。
「首元のアクセサリーは、少し大きめのものにしてみてはいかがでしょう」
「視線が上に集まって、全体の印象も変わりますわ」
実花が頷くと、使用人たちが一斉に動き始めた。
「耳元はどういたしましょう」
「一粒のシンプルなものも上品ですが、今日は揺れるタイプの方が映えるかもしれませんわ」
「藍色のドレスですし、主張しすぎるとバランスが……」
「いえ、むしろ少しだけ動きを出したほうが」
「そうね、今の雰囲気に合うかもしれないわ」
使用人たちの手で、実花の新しい姿が形作られていく。
それは命令でも作業でもない。
誰か一人の正解を押し付けるのではなく、複数の視点が重なり合って形を作っていく。
まるで舞台を組み立てているような熱量。
その中心に自分がいるという事実が、実花にはまだうまく理解できない。
ただ、不思議と拒絶したいとは思わなかった。
むしろ耳を澄ませてさえいる自分に気づく。
どんなものが似合うのか。
どんな姿を、自分が望んでいるのか。
少しずつ、分かり始めていた。
誰かの理想像として塗り固められるのではない。
誰かの所有物として形を決められるのでもない。
自分の手の中に、自分らしさが転がり込んできた気がした。
·
鏡の中で、自分がゆっくりと変わっていく。
髪は丁寧にまとめられ、うなじが静かに現れる。
下ろしているよりも大人っぽく見えて、そう見える自分が好きになった。
藍色のドレスは光を受けるたびに色味が変わる。
深い海のような影が気に入った。
今までの実花ではない。
でも、品は損なわれていない。
美しく整えられている。
実花が好む、控えめな存在感がある。
それでいて、藤宮の娘として必要なだけの視線を引き寄せる力もあった。
「……これが、私?」
思わず漏れた声は、確認というよりも問いだった。
その問いに、使用人の一人が穏やかに微笑む。
「はい。とてもお綺麗です、お嬢様」
その言葉は、これまで耳にしてきた“お世辞”とは明らかに質が違っていた。
評価でも迎合でもない。
ありのままを肯定する声。
実花はゆっくりと目を伏せる。
胸の奥に、言葉にならない感覚が広がっていく。
恐怖ではなかった。
罪悪感でもない。
そのどちらも、少しずつ離れていく。
――解放感。
そのとき。
廊下の奥から慌ただしい足音が響いた。
「実花はまだ支度中なのか?」
低く鋭い声が空気を切るように届いた。
聞き慣れた声。
実花の父親、藤宮実篤(さねあつ)の声だった。
使用人たちが反射的に背筋を正し、視線を揃える。
部屋の空気が一気に引き締まる。
長年染みついた序列が、音もなく場を支配していった。
実花は動かなかった。
鏡の中の自分を見つめたまま、静かに思う。
(来た)
前世では、この声に気圧されるだけだった。
ただ従い、『正しい娘』であろうとした。
だが、今は違う。
この夜が、破滅の始まりになることを知っている。
だからこそ、ただ従うわけにはいかない。
実花はゆっくりと顔を上げた。
藍色のドレスが、天井の灯りを受けて静かに揺れる。
その揺らぎはまるで、これから動き出す運命の予兆のようだった。
使用人の誰かが、小さく息を呑む。
次の瞬間。
扉が開く音が、はっきりと室内に響いた。
光也が車を降りる。助手席側へ回るのが見えて、実花は自分で開けるのを待った。しかし、扉の横に立ったものの、光也が扉を開ける気配はない。(何かあったのかな?)仕事で何かあったのだろうか。それとも真理のことで何か。扉を開いた。そして、実花へ手を差し出してくる。光也の表情を見ると、トラブルがあったようではない。(むしろ……楽しそう?)「実花、手を」「はい」実花は素直に手を重ねた。そのとき。「リアル王子様」「あの顔で『手を』、なんて言われたら正気ではいられない」(……え?)大きな声ではないけれど、確かに聞こえた。首を傾げつつも、実花は車から降りる。(何、これ?)歩道に人が数人集まり、こっちを見ていた。「顔、小さっ!」「めちゃくちゃ可愛い」数人に見られるくらいは想像していた。老舗宝飾店の前に停まった最新型のスポーツカー。どんな人が降りてくるのか。芸能人や有名スポーツ選手とか、期待しただろう。でも、想像以上の人数。しかも、何か感想を言われている。「良かったな、めちゃくちゃ可愛いそうだ」「……東国さん、これは?」実花の言葉に、光也が首を傾げた。「派手に振る舞えと言われただろう?」「いや、でも、どうやって?」ものの数分で、どうやったらこんなに?「目が合ったから手を振っただけだ」「それだけ、ですか?」光也は考える。「笑っていたかもしれないな」(それだっ!)「笑顔はやり過ぎです」「やはりそうか」「……え?」
光也の車で藤宮邸を出発してしばらく。助手席に座る実花は、隣でハンドルを握る光也をそっと見た。いつもと同じように見えるけれど、機嫌がいい。口元もわずかに緩んでいるようだ。「東国さん、楽しそうですね」「ああ」光也は前を向いたまま、あっさりと認めた。「思いがけず、実花とデートができているからな」「……っ」あまりにも真っすぐ返され、実花は言葉に詰まった。頬が熱くなる。実花はもう光也を好きだと自覚している。だからなのか。以前なら聞き流せた言葉が一つひとつ胸に響く。実花は誤魔化すように窓の外へ顔を向けた。「そ、そういえば、高峰さんからの指示は『派手に振る舞う』でしたよね」「俺と実花の仲の良さを見せつけて、俺が真理に心を揺るがしていないことを知らしめる……だったな」光也が少し考える。「なかなかの難問だな」「え?」実花は思わず光也を見た。「難しいのですか?」「真理なんぞが間にいないことを知らしめるなら俺の部屋に実花を連れていけば解決だ。だが、見せつけるとなると」光也が眉間に皺を寄せる。「何をすれば派手になるのか分からん」「……東国さんが?」「ああ」実花は驚いた。光也の行動は、普段から十分に派手だ。女子校前に堂々と車で迎えに来られる人だ。着ているものも、身につけているものも、本人は気にしていないようだが一目で上質だと分かる。「東国さんは、普段からかなり目立っていますよ」「そうなのか?」本気で不思議そうに聞き返された。「気づいていなかったのですか?」「目が向けられるのは分かっていたが、顔のせいだと思っていた」なかなかな台詞だと実花は感心した。「だから、人目を気にしたことはない」光也は興味なさそうに答えた。「失敗しない限り、自分の行動を振り返ることはしない」光也が肩を竦める。「人目はどうしようもない。見るなと言えば、反応を見せたと余計に見られる」光也は面倒そうに眉を寄せた。「見るなと声をかければ、それを話しかけられたと受け取って、今度は向こうから話しかけてくる。煩わしいことが増えるだけだ」「……東国さんらしいですね」実花は思わず笑った。人にどう見られているか気づいていないのではない。気づいても、自分に意味がないから意識から外している。「それなら」光也が少し考える。「俺が好きなようにすれば目
「……なんだそれは?」藤宮家の玄関前。光也を出迎えた実篤は眉間にしわを寄せた。「実花にです。お義父上にではありませんよ?」「俺が花をもらってどうする」「飾ればよろしいでしょう」実篤との言い合いを聞きながら、実花は光也からもらった花束を控えていた使用人に渡す。「お部屋に飾っておきますね」「お嬢様宛てですものね」使用人たちがクスクス笑いながら、花を受け取る。実花は笑い、実篤も思わず苦笑したところで。「お義父上にはこちらを」「……なんだ、これは」「塩です。高峰さんから、ついでに塩を買ってきてほしいと頼まれました」「それで買ってきたのか?」「頼まれたので。どうぞ」差し出された塩を実篤が受け取る。「どこで買った?」「特別なブランド塩ではありませんよ。そこのコンビニです」「君もコンビニに行くのか」「一人暮らしの、料理のできない男が、コンビニなしで生き抜けると思っているのですか?」「自信満々に言うな。それなら料理を覚えろ」「お義父上はできるのですか?」「できんが、うちには料理人がいる」「いいですね。俺にも利用させてください」「飲食店のように気軽に来ようとするな」実篤は、大きくため息を吐く。「高峰から連絡があったということは、真理君のことは聞いたな」「一ノ瀬家からの依頼で興信所が探っているそうですね」そう言うと、光也は肩を竦めた。「何を探ろうとしているのかは想像ができますけどね」「そうなのか?」実篤が意外そうな声を出す。「なぜ、そんなに不思議そうなのですか?」「君は他人の気持ちになど一切興味がないのだと思った」「間違っていませんが、実花が勘違いをしたので『そうかな』、と」「実花がどんな勘違いを?」
「失礼します」朝食を終えたタイミングで、高峰が入ってきた。「旦那様」「なんだ?」「こちらを」高峰が差し出したタブレットを実篤が受け取るのを見ながら、実花はナプキンで口を拭いた。そして、部屋を出るために立ち上がろうとしたとき。「お待ちください」高峰が実花を止めた。「実花お嬢様にも関係することです」「分かりました」何が起きたのかと実花がわずかに緊張したとき。「おはようございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」「あ……おはようございます」高峰が実花に向ける笑顔は柔らかい。その笑顔を見ると、何かは起きたものの、差し迫った事態ではないのだと思えた。.「小童が……」実篤が喉から絞り出したような言葉に、実花はビクッと体を震わせた。「旦那様、言葉が乱れていますよ」「古語として見れば乱れておらん」「東国様に『これだから爺は』と言われますよ」「あの若造が……」(……東国さんって、お父様のことそんな風に言ったかしら)「ちょっと待て。いくらあいつでも、私のことを爺などとは言わないぞ」「そうでしたね。申し訳ありません。私の心の声です」「お前、いつも私のことを爺と罵っているのか?」「頭の中だけです」「罵っているじゃないか……全く同じ年で何を……」実篤はため息を吐くと、またタブレットに目を向ける。指で動かしているところを見ると、続きを読み始めたようだ。(東国さんとのやり取りに慣れた感じがあるわけだわ)実花が高峰を見ると、高峰がこちらを見た。「今日もいい天気でございますね」「そうですね」
同じ頃。薄暗い部屋で、恒一も同じ投稿を見ていた。机の上には、何冊もの雑誌が開いたまま積み重ねられている。どのページにも、光也と実花が並んで写っていた。ホテル。レストラン。結婚式場。広告の中で、実花は光也だけを見ている。そして今。スマートフォンの画面には、光也に抱き上げられ、安心したように笑う実花の姿が映っていた。恒一の指に力が入る。(実花の婚約者は、俺のはずだ)そう決まっていた。あの誕生日パーティーで、発表されるはずだった。実花もそれを望んでいた。いつも恒一を追いかけ、恒一に褒められようとしていた。恒一の妻になることを夢見ていたはずだ。それなのに。「どうして……」実花が光也へ向けている笑顔。恒一は、あんな笑顔を向けられた記憶がなかった。胸の奥に、苛立ちが湧き上がったとき。恒一のスマートフォンが震えた。表示されているのは【一ノ瀬美鈴】。『恒一さん、いま大丈夫?』美鈴の声に、恒一の表情は無意識に緩くなる。「ああ、どうした?」そう答えたとき、窓ガラスに映った自分に気づいた。楽しそうな表情をしていた。(なるほど……)美鈴との会話は楽しい。男女の関係になってからは、駆け引きも増えた。二人だけの秘密を持つ背徳感もあり、以前よりさらに楽しい。しかし、そうなる前も美鈴といるのは楽しかった。義妹だからと一歩引くときもあれば、義妹だからと甘えてみせるときもある。しかし常に自分を立ててくれる健気さがあった。(美鈴に嫉妬しているのか)自分が美鈴を大切にしているから。義妹に対してやきもちを焼くなどみっともないと思うが。(まだ十八歳なのだから、俺のほうが寛大になるべきなのだな
火曜日。実花が光也の会社でアルバイトをしていると、受付のほうがにわかにざわついた。「荷物かな?」社員の一人が顔を上げ、実花もつられてそちらを見る。やがてフロアへ入ってきたのは、一見すると配送業者にしか見えない人物だった。濃い色のシャツ。動きやすそうなパンツ。深く被った帽子。光也の会社に出入りしている業者の格好で、実花も見慣れているはずだった。その顔が真理でなければ。「こんにちは、東国光也さんはいますかー?」真理が片手を上げる。元気のいい声に社員たちの目が真理に向き、実花は慌てて光也の部屋に案内する。(真理って……)普段は女子生徒として整えられた姿しか見ていなかった。けれど今日は違う。制服の直線的な形が肩幅や骨格を際立たせ、いつもの中性的な雰囲気よりも男性らしさが強く見える。「格好いい……」光也の部屋に入ると同時に、その言葉はするりと口から出た。真理は驚いたあと、嬉しそうに笑う。「ありがとう」友人への素直な感想だった。実花にそれ以上の意味はない。しかし、実花が入ってきたため書類から顔を上げた光也は、その言葉に眉を寄せた。「何の用だ?」声が低い。「挨拶より先にそれ?」「仕事中だ」「実花がアルバイトをしている時間に来れば、二人ともいると思ったんだよ」真理は悪びれた様子もなく、光也の机へ近づいた。「その格好は?」「篠原真理がここに何度も来て、変に目立ったら困るからね」真理は帽子のつばを軽く持ち上げる。配送業者の制服なら、建物への出入りを不審に思われにくい。「それで、何の用だ?」光也がもう一度尋ねる。「この間のデートの反響を、二人と一緒に確認したくて」「反響?」実花は首を傾げる。先日の光也とのデート。食事をして、展覧会を見て、カフェにも立ち寄った。ただ二人で出かけただけのつもりだった。もちろん、政近へ見せつける作戦の一部ではあった。実篤がそのために記者を手配していたことも知っている。だが、実花自身は周囲の目をほとんど意識していなかった。実篤も「問題ない」と言っていた。「すごいことになってるよ」真理はスマートフォンを取り出し、画面を実花へ向けた。そこには、いくつもの投稿が表示されていた。【広告の二人、本当にデートしてた】【東国光也、婚約者への溺愛が隠せてない】【藤宮実花ちゃん
扉が開いた瞬間、空気が変わった。それまで室内に漂っていた柔らかな熱が、一瞬で冷え切る。重く、鋭く、抗うことを許さない圧が部屋の中へと流れ込んできた。「実花」低い声。その一言だけで、使用人たちの背筋が一斉に伸びる。まるで空気そのものが命令を受けたかのようだった。藤宮実篤。藤宮グループの頂点に立つ男は、いつだって“場の支配者”として現れる。誰かと会話をしていても、笑みを浮かべていても、その場の空気は最終的に彼のものになる。逆らうことを考える前に、人は自然と従う。そういう種類の男だった。実篤の視線がまっすぐ実花へ向く。そして次の瞬間、その目がわずかに見開かれた。「……そ
使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているよう
まぶしさで目が覚めた。実花は一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。瞼の裏に残る白い光の余韻がゆっくりと引いていき、代わりに柔らかい感触と静かな空気が意識へと染み込んでくる。身体を包んでいるのは上質なシーツで、布地は肌に吸い付くように滑らかだった。鼻腔を満たすのは、微かに甘く落ち着いた香り。高価な調度品に染みついたような、整えられた空間特有の匂いだ。ゆっくりと視線を巡らせると、そこは見慣れた―――けれど今の自分からは遠く感じる藤宮邸の一室だった。咄嗟に窓の外を見る。そこには、過剰なまでに手入れされた庭園が広がり、剪定された樹木と計算された配置の花々が、まるで絵画のような均整を保ってい
あの夜は、ただ変な声がして目が覚めただけだった。夢と現実の境目がまだ曖昧なまま、痛みでふらつく頭を押さえながら実花は一人で寝ていた寝室からゆっくりと廊下へ出た。冷えた床の感触が足裏に伝わるたび、意識が少しずつ現実へ引き戻されていった。声のする方へ向かったのは、意志というより反射に近かった。何が起きているのかを考える前に身体が勝手に動いていた。そして、すぐに分かった。何の声か。何の音か。理解してしまった瞬間、胸の奥が冷たく沈んだ。美鈴の甲高い声は快感を訴え、「もっと」と甘えるように揺れていた。それに応える恒一の唸り声は理性を削ぎ落とされた獣のようで、実花の知る“夫”という存在







