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第6話 鏡の中の私

Author: 酔夫人
last update Petsa ng paglalathala: 2026-05-11 11:00:17

「今日は髪をまとめて、首を見せてみたらいかがでしょう」

そう声をかけた使用人にとっては、何気ない提案だっただろう。

だが、実花にとっては奇妙な重みを持っていた。

前の生の記憶がよみがえる。

恒一は実花が髪を上げることを好まなかった。

首筋が露わになることを「下品だ」と言った。

「女らしさを捨てて、男と張り合おうとしている」と、女性を見下すような言い方もしていた。

愚かにも、その言葉が正しいのだと信じてきた。

だから、実花は一度も髪を結い上げなかった。

それが恒一に好かれるための、正しい髪型だと信じていた。

だが、いまはもう違う。

「……いいわね」

返事はすぐに出なかった。

一呼吸の間に、わずかな迷いが挟まった。

「お願い」

恒一の好みに逆らおうとしている。

胸の奥に緊張が走った。

だが使用人たちは、その緊張を、自分で選んだ装いへの不安だと受け取ったようだった。

.

「首元のアクセサリーは、少し大きめのものにしてみてはいかがでしょう」

「視線が上に集まって、全体の印象も変わりますわ」

実花が頷く。

メインのアクセサリーが決まると、使用人たちが一斉に動き始めた。

「耳元はどういたしましょう」

「一粒のシンプルなものも上品ですが、今日は揺れるタイプの方が映えるかもしれませんわ」

「藍色のドレスですし、主張しすぎるとバランスが……」

「いえ、むしろ少しだけ動きを出したほうが」

「そうね、今の雰囲気に合うかもしれないわ」

使用人たちの手で、実花の新しい姿が形作られていく。

それは、命令に従うだけの作業ではない。

誰か一人の正解を押し付けるのではなく、複数の視点が重なり合って形を作っていく。

まるで一つの作品を作り上げているような熱量。

その中心に自分がいるという事実が、実花にはまだうまく理解できない。

ただ、不思議と拒絶したいとは思わなかった。

むしろ使用人たちの言葉に耳を澄ませている自分に気づく。

どんなものが似合うのか。

どんな姿を、自分が望んでいるのか。

少しずつ、分かり始めていた。

誰かの理想像として塗り固められるのではない。

誰かの所有物として形を決められるのでもない。

自分の手の中に、初めて自分らしさが形を持ち始めた気がした。

·

鏡の中で、自分がゆっくりと変わっていく。

髪は丁寧にまとめられ、すっきりとうなじが見えている。

髪を下ろしているときよりも大人びた印象で、そんな自分を少し好きになった。

藍色のドレスは光を受けるたびに色味が変わる。

深い海のような影が気に入った。

今までの実花ではない。

でも、品は損なわれていない。

美しく整えられている。

実花が心地よいと思える、控えめな存在感がある。

それでいて、藤宮家の娘として人々の視線を集めるだけの華やかさもあった。

「……これが、私?」

思わず漏れた声は、確認というより戸惑いに近かった。

その問いに、使用人の一人が穏やかに微笑む。

「はい。とてもお綺麗です、お嬢様」

その言葉は、これまで耳にしてきた『お世辞』とは明らかに質が違っていた。

評価でも迎合でもない。

ありのままを肯定する声。

実花はゆっくりと目を伏せる。

胸の奥に、言葉にならない感覚が広がっていく。

これまで自分を縛っていた恐怖も、罪悪感も、少しずつ遠ざかっていく。

代わりに胸を満たしていくもの。

――解放感。

そのとき。

廊下の奥から慌ただしい足音が響いた。

「実花はまだ支度中なのか?」

低く鋭い声が空気を切るように届いた。

聞き慣れた声。

実花の父親、藤宮実篤(さねあつ)の声だった。

使用人たちが反射的に背筋を正し、視線を揃える。

部屋の空気が一気に引き締まる。

長年染みついた序列が、音もなく場を支配していった。

実花は動かなかった。

鏡の中の自分を見つめたまま、静かに思う。

(来た)

かつては、この声に気圧されるだけだった。

ただ従い、『正しい娘』であろうとした。

だが、今は違う。

この夜が、破滅の始まりになることを知っている。

だからこそ、ただ従うわけにはいかない。

実花はゆっくりと顔を上げた。

藍色のドレスが、天井の灯りを受けて静かに揺れる。

それは、かつての自分との決別を示しているように見えた。

使用人の誰かが、小さく息を呑む。

次の瞬間。

扉が開く音が、はっきりと室内に響いた。

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