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第5話

Author: 酔夫人
last update publish date: 2026-05-10 11:01:00

使用人が用意したドレスを、実花は静かに見下ろしていた。白に近い淡紫色。

光の当たり方によってはほとんど白にも見えるその色は、藤宮家の「清楚な娘」であることを象徴するために選ばれたものだった。上品で、柔らかく、誰から見ても好印象を与える色。

前世の実花はこの色を疑うこともなく、むしろ一ノ瀬恒一の好みに合うだろうと信じて、少し誇らしげに選んでいた記憶すらある。彼に選ばれるための自分を作ることに、何の疑問も抱いていなかった。

だが今、その淡い紫はまったく違う意味を持って見えていた。それは「清楚」の象徴ではなく、「従順」の象徴だった。

良い娘であること、良い妻になること、それらの言葉に守られているようでいて、実際には何一つ守ってくれない枷。優しさの皮を被った鎖。

実花はゆっくりと目を閉じる。

そして、静かに開いた。

「変わるのよ」

誰に向けたわけでもないその言葉は、部屋の空気に落ちるように響いた。

だがその瞬間、彼女の内側で確かに何かが切り替わる音がした。従順な藤宮実花は、もうここにはいない。

(だから、これではないドレスを)

そう思いながら支度部屋を見渡すと、そこに並んでいるドレスはどれも似たような色調ばかりだった。

白、薄桃色、淡い水色。どれも優しく、無難で、誰かの期待に沿うために作られた色。父が望む「藤宮の娘」としての正解であり、一ノ瀬恒一が好むだろうと想定された未来のための衣装。

実花はそれらを見て、わずかに息を吐いた。

(好ましいかどうかすら関係ない。ただ彼らを安心させるための色じゃない)

自分はこれまで、そのどれかを選び、そのどれかを着て、「選ばれること」だけを目的に生きてきたのかと思うと、どこか現実味のない滑稽さすら感じた。

「他に、ないかしら。この淡紫でも、他のどれでもなくて……他に、ない?」

控えていた使用人たちが一瞬、動きを止める。

「……お嬢様?」

驚きは当然だった。

この淡紫のドレスは、一ノ瀬恒一の好みを意識し、前世の実花自身が悩み抜いて決めた“最適解”だったのだから。彼女がその選択を変えるなど、誰も想定していない。

実花は戸惑いの視線を正面から受け止めたまま、静かに言った。

「……変わり、たいの」

その一言に、部屋の空気がわずかに揺れる。使用人の一人が、恐る恐る口を開いた。

「ですが……本日は一ノ瀬恒一様もいらっしゃる社交会でございますし、お二人のご婚約に関わる大切な場でも……」

「それに旦那様も、藤宮家としての格式を何より重んじておられますので……」

前世の自分を縛り続けていた言葉が、次々と積み上がっていく。正しさのように見せかけた圧力。逃げ道を塞ぐための理屈。

だが実花は、そのすべてを否定する代わりに、ふわりと穏やかに微笑んだ。

「大丈夫。藤宮家の品位を落とすつもりはないわ。ただ、少しだけ……私を変えたいだけなの」

そこで、実花はある記憶を思い出した。

前世でこの淡紫のドレスを選んだのは、確かパーティーの一日前。用意された候補の中から、一ノ瀬恒一の好みに最も近いと判断したものだったが、他にもいくつかのドレスが外商によって届けられていたはずだ。

藤宮家専属の外商は、実花が幼い頃からの担当で、成人を迎える彼女のために、少し背伸びしたデザインや色味のドレスも用意していた。だが前世の実花は、それらを「藤宮実花らしくない」としてすべて退けた。

(あのときは、それが正しいと思っていた)

実花は使用人に外商から届いたドレスの保管場所を尋ねると、自らその部屋へ向かった。その足取りは驚くほど軽く、まるで長年押し込められていたものが少しだけ外へ漏れ出したようだった。

その変化に、使用人たちは戸惑いながらも、どこか安堵の表情を浮かべていた。

人形のようにただ静かに従うだけだったお嬢様が、初めて自分の意思で動いている。その事実が、奇妙なほど嬉しかったのだ。

部屋に入ると、年配の使用人が一歩前に出る。

「……では、お嬢様はどのようなものをお望みでしょうか」

実花は少しだけ考えた。

望むという感覚自体が、久しく存在しなかった言葉だった。これまでの人生は「選ぶ」のではなく「選ばされる」ものだったからだ。

だが今は違う。

「強すぎない色。でも、埋もれない色」

その言葉に、部屋の空気がわずかに変わった。

使用人たちの表情に、ただの作業ではない熱が宿る。

「でしたら、こちらの深い藍色はいかがでしょう」

「影を含んだ色ですが、変わりたいという意志にはよく合うかと」

「お嬢様の髪色であれば、光の加減でとても美しく映えると思います」

次々と提案が飛び交う。それは命令に従うための反応ではなく、誰かと一緒に選ぶという行為そのものだった。

実花はその光景に、わずかな戸惑いと同時に、胸の奥が温かくなる感覚を覚えた。

(こんなふうに、選んでもいいのね)

そして視線を向けた先にあったのは、深い藍色のドレスだった。

光を受けると黒にも紫にも見える、不思議な色。装飾は控えめだが、布地には静かな艶があり、これまでの「守られた色」とは明らかに違う圧を持っている。優しさではなく、意思を感じさせる色。

実花はそのドレスを手に取り、しばらく見つめたあと、小さく息を吐いた。そしてはっきりと告げる。

「これにします」

そこに迷いはなかった。

選ぶという行為が、これほどまでに明確で、静かで、それでいて確かな重みを持つものだと、初めて知った瞬間だった。

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