翌朝、クリニックに着いてすぐ、不動産会社から届いた契約書類をもう一度確認した。本審査通過。契約開始日。初期費用。鍵の受け取り日。画面に並ぶ文字は、昨日よりも少し現実味を帯びていた。私の部屋。そう思うと、胸の奥が少し温かくなる。けれど同時に、昨日の優の顔も思い出してしまう。『償わせてほしい』真摯だった。嘘ではなかった。でも、その真摯さが少し怖かった。私を困らせたくない。私を見落としたくない。今度こそ、ちゃんと向き合いたい。その気持ちが本物だからこそ、余計に断りづらくなる。優の優しさは、今になって私の周りを包もうとしていた。柔らかいのに、少し息苦しい。そこから抜け出したくて、私はスマホを伏せた。午前の診察が始まる前。事務室に勤務証明の件を確認しに行くと、綾瀬先生がちょうど戻ってきたところだった。白衣の袖を少し捲り、片手に書類を持っている。こちらに気づくと、足を止めた。『東郷先生』名前を呼ばれて、顔を上げる。『不動産の審査、どうなった?』その聞き方は、慎重だった。以前なら、もう少し軽く踏み込んできたかもしれない。でも今日は、私が答えなければそこで止まるつもりの距離だった。この前、私が線を引いたからだ。先生には関係のないことです。あの言葉を、この人はちゃんと受け取っている。それが分かって、胸の奥が少し痛んだ。『通りました』そう答えると、綾瀬先生の表情がふっと緩んだ。ほんの少しだけ、目元の力が抜ける。『よかった』たった一言だった。でも、その一言に、胸の奥が少しほどける。優の「おめでとう」とは違った。父の「そうか」とも違った。綾瀬先生の「よかった」は、結果だけではなくて。私がそこまで進めたことをそのまま見てくれているように聞こえた。『ちゃんと、自分の名前で通したんだね』その言葉に、息が止まる。そうだ。私は、自分の名前で通した。東郷でもなく。白松でもなく。誰かの所有物としてではなく。契約者の欄には、私の名前がある。その当たり前のことが、急に大事なことのように思えた。『……はい』声が少し小さくなった。綾瀬先生は、それを聞いても笑わなかった。ただ、いつものように軽く頷く。『いいと思う』たったそれだけ。それなのに、胸が詰まりそうになる。褒められたかったわけではない。
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