All Chapters of 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Chapter 91 - Chapter 100

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第91話 必要なことはするよ

翌朝、クリニックに着いてすぐ、不動産会社から届いた契約書類をもう一度確認した。本審査通過。契約開始日。初期費用。鍵の受け取り日。画面に並ぶ文字は、昨日よりも少し現実味を帯びていた。私の部屋。そう思うと、胸の奥が少し温かくなる。けれど同時に、昨日の優の顔も思い出してしまう。『償わせてほしい』真摯だった。嘘ではなかった。でも、その真摯さが少し怖かった。私を困らせたくない。私を見落としたくない。今度こそ、ちゃんと向き合いたい。その気持ちが本物だからこそ、余計に断りづらくなる。優の優しさは、今になって私の周りを包もうとしていた。柔らかいのに、少し息苦しい。そこから抜け出したくて、私はスマホを伏せた。午前の診察が始まる前。事務室に勤務証明の件を確認しに行くと、綾瀬先生がちょうど戻ってきたところだった。白衣の袖を少し捲り、片手に書類を持っている。こちらに気づくと、足を止めた。『東郷先生』名前を呼ばれて、顔を上げる。『不動産の審査、どうなった?』その聞き方は、慎重だった。以前なら、もう少し軽く踏み込んできたかもしれない。でも今日は、私が答えなければそこで止まるつもりの距離だった。この前、私が線を引いたからだ。先生には関係のないことです。あの言葉を、この人はちゃんと受け取っている。それが分かって、胸の奥が少し痛んだ。『通りました』そう答えると、綾瀬先生の表情がふっと緩んだ。ほんの少しだけ、目元の力が抜ける。『よかった』たった一言だった。でも、その一言に、胸の奥が少しほどける。優の「おめでとう」とは違った。父の「そうか」とも違った。綾瀬先生の「よかった」は、結果だけではなくて。私がそこまで進めたことをそのまま見てくれているように聞こえた。『ちゃんと、自分の名前で通したんだね』その言葉に、息が止まる。そうだ。私は、自分の名前で通した。東郷でもなく。白松でもなく。誰かの所有物としてではなく。契約者の欄には、私の名前がある。その当たり前のことが、急に大事なことのように思えた。『……はい』声が少し小さくなった。綾瀬先生は、それを聞いても笑わなかった。ただ、いつものように軽く頷く。『いいと思う』たったそれだけ。それなのに、胸が詰まりそうになる。褒められたかったわけではない。
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第92話 距離が測れなくなる日

『昨日、不動産屋には行けた?』綾瀬先生にそう聞かれて、少しだけ身体が固まった。『はい』『一人で?』『……優も一緒に』言ったあと、なぜか少し気まずくなった。綾瀬先生は表情を大きく変えなかった。ただ、目元の力がほんの少しだけ抜ける。それが安堵なのか、何かを飲み込んだのか、すぐには分からなかった。『そっか』それだけだった。責めない。詮索しない。けれど、ほんの少しだけ声色が変わったような気がした。気のせいかもしれない。『まだ手続き上は、その方が早いこともあるよね』『はい。現住所の確認とか、離婚前の説明があったので』『うん』綾瀬先生は頷いた。大人の反応だった。夫としての優が横に座ること。手続きの場では、それが一番自然であること。その現実を、綾瀬先生はちゃんと分かっている。でも、少しだけ沈黙が落ちた。私はその沈黙に、なぜか胸がそわつく。綾瀬先生は、何か言いかけてやめたように、視線を少しだけ外した。昨日の私の言葉を思い出しているのかもしれない。先生には関係のないことです。あの言葉を、この人は簡単に忘れない。だから今も、踏み込みすぎない場所を探している。そのことが分かって、胸の奥が少し苦しくなった。『ただ』綾瀬先生が口を開いた。『全部、東郷さんに頼らなくてもいいよ』顔を上げる。彼はすぐに、少しだけ言い直すように続けた。『頼るなって意味じゃない』『必要なら、そこは使えばいい』『まだ夫なんだから、手続き上できることもあるだろうし』そこで一度、言葉が止まる。『でも、選択肢は一つじゃないから』胸の奥が、ゆっくり温かくなる。優を否定しない。私の選択も否定しない。ただ、私がひとつの場所に戻らなくていいように、別の出口を示してくれる。それが、綾瀬先生らしかった。『離婚の日は、決まった?』ふいに聞かれて、私は顔を上げた。『……まだです』答えたあと、自分の声が少し硬くなったことに気づく。綾瀬先生も、それに気づいたのだと思う。一瞬だけ目を伏せてから、すぐに言った。『ごめん』『少しプライベートに踏み込みすぎたかも』その引き方が、あまりにも早くて。この前の私の言葉を、まだちゃんと覚えているのだと分かった。関係ないと言った私に、これ以上踏み込まないようにしている。そのことに気づいた瞬間、胸の奥が
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第93話 鍵の日

今日は、遂に鍵を受け取る日。物事が進む時は、もっと大きな音がするのだと思っていた。家を出ると決めることも。もっと、何かが壊れるような音がするのだと思っていた。でも実際は、違った。一つひとつは、ただの手続きだった。けれど、その手続きが積み重なるたびに、私の生活は少しずつ東郷の家から剥がされていった。東郷家を出る。そう決めてから、現実はあっという間だった。心が追いつくのを待ってはくれない。迷っている間にも、契約書は届き、段ボールは積み上がり、鍵を受け取る日は近づいてくる。そして、その先には離婚届がある。まだ日付は決まっていない。けれど、遠い話ではなくなっていた。終わらせたい。それは本当だ。でも、終わりが近づくほど、四年間がただ消えていくわけではないことも分かってくる。優を待った夜。父の言葉に従って、役割を果たそうとした自分。全部を置いていくのだと思うと、自由だけではない重さがあった。そして今日。私は、その鍵を受け取りに行く。午前の診察が終わる少し前、綾瀬先生が診察室に顔を出した。『午後の最後、調整してあるから』『ありがとうございます』『不動産会社、何時?』『十五時半です』『じゃあ、余裕あるね』それだけ言うと、綾瀬先生はカルテに視線を落とした。あまりにも普通だった。私が今日、新しい部屋の鍵を受け取ること。それは、私にとって大きな節目だった。でも綾瀬先生は、それを大げさには扱わない。その距離感がありがたかった。『東郷さんは?』ふいに聞かれて、指先が少し止まる。『来ません』そう答えると、綾瀬先生は顔を上げた。『一人で行くんだ』『はい』優からは、前日に連絡が来ていた。『鍵の受け取り、俺も行ける』私はしばらく迷った。優が来れば、きっと手続きは楽だった。夫という立場は、まだ強い。けれど。この鍵だけは、一人で受け取りたかった。自分の名前で借りた部屋の鍵を、自分の手で受け取りたかった。『一人で行きますって、返しました』『そっか』短く返される。『でも、何かあったら連絡して』『はい』『いや、これは院長としてじゃなくて』言いかけて、綾瀬先生は少しだけ言葉を止めた。私は顔を上げる。彼は一瞬、困ったように笑った。『まあ、どっちでもいいか』『必要なら連絡して』その曖昧な言い方に、胸
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第94話 自分で選ぶ部屋

新しい部屋は、思っていたよりも静かだった。鍵を受け取ったあと、私はしばらく部屋の中央に立ったまま動けなかった。どこにも生活の気配がなかった。それなのに、ここが私の部屋なのだと思うと、胸の奥が不思議にざわついた。自由というものは、もっと明るいものだと思っていた。何かから抜け出した瞬間、世界がぱっと開けるような。息が一気に楽になるような。でも実際は、違った。空っぽの部屋に立つ自由は、少し心細い。誰にも邪魔されない。その代わり、何もかも自分で決めなければいけない。私はバッグからメジャーを取り出し、不動産会社でもらった間取り図を床に広げた。一つずつ測りながら、ふと手が止まる。私は、どんな部屋にしたいのだろう。私が帰ってきて、安心できる部屋。その想像が、まだうまくできない。私が好きなもの。そう考えた瞬間、急に分からなくなる。私は、自分が何を好きなのかを、こんなにも知らなかったのだろうか。***翌日の昼休み。私はスマホで家具の通販サイトを開いたまま、なかなか画面を進められずにいた。必要なものは、はっきりしている。それなのに、商品を見れば見るほど指が止まる。どれも悪くない。でも、どれが自分の好きなものなのか、よく分からなかった。その時、診察室の扉が軽く叩かれた。『東郷先生、昼まだ?』綾瀬先生が入口に立っていた。『あとで食べます』『それ、昨日も聞いた』『今日は本当に食べます』『じゃあ、今食べて』そう言いながら、彼は当たり前のように近くの椅子へ腰を下ろした。『何見てたの?』『家具です』『新居の?』『はい』私はスマホの画面を見せた。カーテンの商品一覧が並んでいる。綾瀬先生は少し覗き込んでから、すぐに私の顔へ視線を戻した。『迷ってる顔してる』『迷いますね』『何で?』軽い問いだった。私は少しだけ言葉に詰まる。『どれがいいのか、分からなくて』『サイズ?』『サイズもですけど』私は画面を見つめたまま、少し笑った。『自分が何を好きなのか、よく分からないんです』言ってしまってから、急に恥ずかしくなった。大人が昼休みに、カーテンを選べないなんて。しかも理由が、自分の好みが分からないからだなんて。けれど、綾瀬先生は笑わなかった。『そっか』それだけ言った。『それ、別に普通じゃない?』『普通
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第95話 離婚届の日

淡いグリーンのカーテンを注文してから、私は何度か注文履歴を開いた。発送予定日。到着予定日。商品画像。たったそれだけの画面なのに、見るたびに少しだけ胸が温かくなる。自分で選んだ。そのことが、思っていた以上に私の中に残っていた。正しいかどうかは分からない。部屋に合うかどうかも、実際につけてみなければ分からない。でも、それでいいのだと思えた。一度選んだものを、人生の正解にしなくてもいい。違ったら、また選べばいい。綾瀬先生の言葉は軽かった。けれど、その軽さに救われていた。カーテンも。部屋も。これからの生活も。ひとつ選んだからといって、すべてを決めきらなくていい。今の私が少し好きだと思えるものから始めればいい。そう思えたことが、小さな支えになっていた。その日の夕方。診察が終わり、着替えを済ませてクリニックを出る頃、スマホが震えた。画面に表示された名前を見て、足が止まる。優だった。最近、優からの連絡を見るたびに、胸の奥が少し構えるようになった。悪いことを言われるわけではない。責められるわけでもない。むしろ、優は以前よりずっと丁寧になった。丁寧で、慎重で、私を傷つけまいとしている。そのことは分かる。けれど、その丁寧さの奥にある熱のようなものが、時々怖い。私は駅へ向かう道の端に寄り、メッセージを開いた。『少し話したいことがある』『今日、電話できる?』『無理なら明日でもいい』文面は控えめだった。私はしばらく画面を見つめた。電話。声を聞くのは、メッセージよりも疲れる。相手の沈黙も、息遣いも、こちらに入ってくるから。でも、話したいことが何かは、何となく分かった。いつまでも避けられる話ではない。私は短く返した。『今日なら、21時頃なら大丈夫』すぐに既読がついた。少しだけ間が空く。ほんの数秒だったのかもしれない。けれど、その間が妙に長く感じた。『分かった』『その時間にかける』それだけだった。駅までの道を歩きながら、胸の奥が少し重くなる。生活を始める準備は進んでいる。けれど、別居だけでは終わらない。本当に終わらせるためには、まだ一つ大きな手続きが残っている。離婚届。その言葉を思い浮かべただけで、喉の奥が少し乾いた。望んだのは私だ。それなのに、日付になると急に怖くなる。終わりが
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第96話 木曜日

考えを巡らせた。状況が変わるわけでも、私の気持ちが変わるわけでもない。『うん。木曜日に行こう』私は静かに答えた。『終わらせたいから』優の息が、少しだけ止まった気がした。それは電話越しでも分かるくらい、短くて、重い沈黙だった。『……分かった』短い返事。けれど、その一言の中に、何かを無理に飲み込むような重さがあった。終わらせなければいけないと分かっている。でも、終わらせたくない。その二つが、声の奥でぶつかっているようだった。『木曜日、迎えに行く』『役所で待ち合わせでいい』すぐにそう返した。言ってから、自分でも少し驚く。でも、必要な線引きだった。迎えに来られたら、また私は優の車に乗る。助手席に座り、目的地まで連れて行かれる。それは、少し違う気がした。離婚届を出す日は、自分の足で行きたかった。電話の向こうで、優が黙った。さっきより長い沈黙だった。『……分かった』『役所で待ち合わせにしよう』優はそう言った。でも、その声は少しだけ沈んでいた。断られたことに傷ついたというより、また一つ。自分が私の生活から外されたことを確かめたような声だった。『時間は、綾香に合わせる』『午後の診察が終わったら連絡します』『分かった』そこで会話は終わるはずだった。けれど、優は電話を切らなかった。沈黙だけが、細く残る。『優?』呼ぶと、向こうで小さく息を吐く音がした。『いや』短い返事。それから、少し遅れて続く。『木曜までに、必要な書類は整えておく』また弁護士の声に戻っていた。必要なことを並べる声。けれど、その声に戻るまでの間を、私は聞いてしまった。優が、何かを言いかけてやめたことを。『お願いします』『うん』今度こそ、電話は切れた。部屋の中が急に静かになる。私はしばらくスマホを耳から離せなかった。通話終了の画面を見つめたまま、さっきの沈黙を思い出す。本当に、これでいい?その声は、確認ではなかった。問いでもなかった。どこか、引き止めに似ていた。でも、引き止める言葉にはしなかった。優は、言わなかった。たぶん、言えなかったのだと思う。私はカレンダーに予定を入れる。木曜日。離婚届提出。文字にすると、思っていたよりも冷たい。けれど、逃げるように消さなかった。これは、私が決めた日だ。父が
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第97話 行きます

時が経つのはあっという間で。あっという間に引っ越しの日の朝を迎えた。家のリビングには段ボールが並んでいた。思っていたより少なかった。四年も暮らしたのに。ここで朝を迎え、夜を待ち、食事を作り、優の帰りを待っていたはずなのに。私の荷物は、思っていたよりもずっと小さな数に収まってしまった。衣類。医学書。最低限の食器。自分で選んだ覚えのある小物。それから、新しい部屋に持っていくと決めたものだけ。白松の実家から持ってきた上品な皿は、箱に入れなかった。東郷家にふさわしいと思って買った来客用のグラスも、ほとんど置いていくことにした。捨てるわけではない。まだ、そこまでできるほど強くはない。でも、新しい部屋には持っていかない。その線引きだけは、自分で決めた。朝の光が、カーテン越しにリビングへ入ってくる。見慣れたはずの部屋なのに、今日はどこか他人の家のように見えた。ここで、私は四年暮らした。妻として。契約の中で。咲子の存在を見ないふりをしながら。それでも、確かにここにいた。その事実まで、なかったことにはできない。キッチンに視線を向ける。咲子が使っていたはずのマグカップは、もう出ていなかった。洗面台にも、香水の匂いは残っていない。夜、優が誰かと長く電話している気配もない。私が望んだことだった。離婚までの間だけでも、咲子の気配を家に入れないでほしい。そう言ったのは私だ。優は、それを守った。守ったのだと分かっている。それなのに、あまりにも綺麗に気配が消えていることが、少しだけ怖かった。妻の役割であった、私が出ていく。なら、咲子が戻る。ずっと、そうなるのだと思っていた。そうならないことに安心するはずなのに、今の私は、静かすぎる家に少し戸惑っている。優は、何を考えているのだろう。考えないようにしていたのに、口が先に動いていた。『咲子さんは?』声に出した瞬間、自分でも少し驚いた。優はリビングの端に立ったまま、こちらを見た。手には、業者に渡す書類がある。一瞬だけ、表情が止まった。『……今は』優は言葉を選ぶように、少しだけ視線を落とした。『その話はしたくない』拒絶というより、触れたら何かが崩れる場所を避けるような声。私は、それ以上聞けなかった。『分かった』短く答える。咲子のことを話したくない。
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第98話 誰も帰ってこない部屋

新居に着くと、引っ越し業者のトラックはすでにマンションの前に停まっていた。エントランスで挨拶をして、部屋まで案内する。鍵を開ける手は、朝より少しだけ慣れていた。空っぽだった部屋に、段ボールが一つずつ運び込まれていく。東郷家では少なく見えた荷物が、新しい部屋では思っていたより存在感を持っていた。白い床の上に段ボールが積まれるたび、ここが少しずつ私の部屋になっていく。作業はあっという間に終わった。確認のサインをして、業者を見送る。扉が閉まると、部屋の中に急に静けさが戻った。誰もいない。当たり前のことなのに、その当たり前が胸の奥にゆっくり広がっていく。東郷家では、いつも誰かの気配に反応していた。優が帰ってくるかもしれない。咲子の名前が出るかもしれない。玄関の音が鳴るかもしれない。期待していたわけではない。むしろ、怖かった。それでも私は、あの家でずっと誰かの気配に耳を澄ませていた。今、この部屋にはそれがない。優の帰宅時間もない。咲子の気配もない。誰かを待つために整えた空気もない。誰も帰ってこない部屋。その静けさは、自由だった。同時に、少しだけ寂しかった。私は段ボールの間を抜け、窓際へ向かった。淡いグリーンのカーテンは、今日の午前中に届いていた。袋から出すと、まだ折り目が残っていて、布は少し硬い。椅子に乗り、金具を一つずつ掛けていく。途中で一つ落として、床に小さな音が響いた。東郷家なら、きっと優に頼めば早かった。優なら、寸法を見て、無駄なく済ませるのだろう。でも、私は落とした金具を拾い、自分でもう一度椅子に乗った。時間はかかった。少し不格好だった。それでも、最後の金具を掛け終えた時、胸の奥が静かに満たされた。窓に、私が選んだ色がかかった。淡いグリーンの布越しに、夕方の光が部屋へ入ってくる。白い壁の印象が、少しだけ柔らかくなった。完璧ではない。でも、私はこの色を嫌いではなかった。それだけで十分だと思えた。床に座り込んで、しばらくカーテンを眺める。その時、ふと心に浮かんだのは、綾瀬先生だった。『合わなかったら変えればいい』『カーテンって、結婚相手じゃないんだから』あの軽い言葉を思い出して、少しだけ笑ってしまう。本当に、軽かった。でも、その軽さがなかったら、私はきっと今も迷っていた。
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第99話 同期からの連絡

新しい部屋で迎えた朝は、思っていたよりも眩しかった。まだ慣れない天井。壁際に積まれた段ボール。生活は、まだ始まったばかりだった。それでも、朝の光がカーテンを通って少し柔らかくなっているのを見た時、胸の奥が静かに動いた。この色にしてよかった。たったそれだけのことなのに、少しだけ嬉しかった。昨日の夜は、あまり眠れなかった。静かすぎる部屋で、何度か目を覚ました。玄関の音がしないことに安心して、同時に寂しくなる。誰も帰ってこないことにほっとして、同時に心細くなる。矛盾した気持ちが、夜の間ずっと胸の中を行ったり来たりしていた。でも朝になると、その矛盾は少しだけ形を変えていた。寂しい。慣れない。でも、ここで起きた。自分で目を覚まして、自分で今日を始める。それが、思っていたよりも大きなことに感じられた。*** クリニックに着くと、いつもの空気に包まれた。中に入ると、少しだけ肩の力が抜けた。ここにも私の居場所がある。新しい部屋だけではない。今の私は、働く場所にも、自分の名前で立っている。午前の診察は、いつも通り忙しかった。患者さんの話を聞き、薬を確認し、カルテを書く。その一つひとつに集中している間、私は余計なことを考えずに済んだ。仕事をしている自分は、少しだけ信じられる。父の娘でも、優の妻でもなく。医師としてここにいる自分。その感覚が、今の私を支えていた。午前の最後の患者さんを見送り、カルテを閉じた時、診察室の扉が軽く叩かれた。『東郷先生』顔を上げると、綾瀬先生が立っていた。『昨日、眠れた?』いきなりだった。私は一瞬、言葉に詰まる。『……少しは』『それ、眠れてない人の言い方』あっさり見抜かれて、思わず苦笑した。『新しい部屋って、思ったより静かで』『何度か起きました』そう言うと、綾瀬先生は責めるでもなく、当然みたいに頷いた。『新しい生活って、慣れるだけで体力使うから』その言葉が、胸の奥に静かに落ちた。慣れるだけで体力を使う。そう言われると、少しだけ救われる。私は昨日からずっと、自分が弱いのだと思っていた。自由になったはずなのに寂しがるなんて。自分で選んだ部屋なのに不安になるなんて。でも、慣れていないだけなのだとしたら。新しい生活に身体が追いついていないだけなのだとしたら。少しだ
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第100話 戻るという選択肢

真帆からのメッセージには、勤務中に返事をしなかった。診察の合間にも、帰りの電車の中でも、何度か画面を開いた。『来月、研修医時代の同期で集まることになったんだけど、もし都合よければ来ない?』『大学病院に残ってるメンバーも何人か来るよ』何度読んでも、その一文で指が止まる。大学病院。その言葉には、懐かしさだけではないものが混ざっていた。白い廊下。朝のカンファレンス。電子カルテの前で眠気と戦った時間。当直明けのぼんやりした空。緊張で手が冷えた初めての処置。指導医の厳しい声。それでも、患者さんにありがとうと言われた日のこと。私はあの場所で、確かに医師になろうとしていた。父の娘としてではなく。優の妻としてでもなく。まだ何者にもなりきれていない自分が、必死に白衣を着て、追いつこうとしていた。その頃のことを、私は長い間、あまり考えないようにしていた。大学病院を辞めた時、私は自分で選んだと思っていた。優との結婚。東郷家での生活。父の期待。家同士の意味。全部を理解した上で、自分が身を引いたのだと思おうとしていた。でも本当は、流されたのだと思う。父にとって都合のいい形に。優にとって都合のいい距離に。白松家と東郷家にとって、問題のない配置に。自分のキャリアまで、その流れの中で静かに畳んでしまった。それを認めるのが、ずっと怖かった。新居に帰ると、部屋はまだ段ボールだらけだった。私は床に座り、スマホを開いた。真帆の名前をもう一度見る。返信欄に指を置いて、何も打てないまま止まる。行く。そう打つのは簡単なはずだった。けれど、私の中では、同期会はただの飲み会ではなくなっていた。そこに行けば、昔の自分を知っている人たちに会う。大学病院を辞める前の私。まだ父の期待を、自分の努力と区別できていなかった私。その頃の自分に、私は何と言えばいいのだろう。頑張っていたね。そう言えるだろうか。それとも。結局、あなたは家の都合でその場所を離れるよ。そして四年間、愛されない結婚の中で、自分を小さくしていくよ。そんなふうに思ってしまうのだろうか。胸の奥が少し重くなる。その夜、優からメッセージが来た。『離婚届の書類、確認した』『木曜日、役所で直接待ち合わせで大丈夫』私は短く返した。『分かりました』それだけだった。
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