愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました のすべてのチャプター: チャプター 171 - チャプター 180

238 チャプター

第171話 もっと眠れない夜

『この前、会えて嬉しかった』 『今、綾香のこと考えてた』 『迷惑なのは、わかってる』 『でも、自分の気持ちは変わらないから』水を持っている手の、指先が冷える感覚がした。さっきまで、美香と先生のことを考えて温かくなった気がしていた。それなのに、優からのメッセージは私を現実に引き戻す。通知に示されたメッセージを見て、返信をする気はしなかった。私の距離を守ろうとする先生。自分の焦りを隠さずに、距離を詰めようとする元夫。この二人を無意識に比べて。私は、元夫に対して温かい気持ちを持つことはないのだと。メッセージが来て、皮肉にも実感してしまった。既読をつける。返信する気もないからこそ、敢えてメッセージを未読にしないことにした。それを確認したのか、重ねてすぐに連絡が来た。『もうすぐ、プロジェクトの件で連絡することが増えると思う』 『仕事に関しては、ちゃんと気持ちを分けるから』 『あんまり、警戒しないでほしい』警戒しないで。その言葉に、少しだけ。冷ややかに笑ってしまう自分がいた。ざらついた気持ちが、残っていることを実感する。昔はずっと、ずっと。気を遣っていた優に。こんなにも、私が気を遣われる日が来るなんて。半年前の自分に言っても、絶対に信じてもらえないだろう。そんな風に、少し前のことを振り返る。小さなため息をついた。スマホをテーブルに置いて、そのままベッドに戻る。まだ、温かさが残るベッドに再び横になり、目を閉じた。....いつからだろう。こんなにも、優の言葉が私にとって、意味のないものになったのは。いや、気づいていたと思う。少なくとも最近の、自分の変化には。期待することをやめたときから。離婚をすると決めた半年前から。心のどこかで、彼に対して縋りたくなるような感情は。少しずつ、小さな波のように広がって、消えていった。ふと、思う。こんな風に、自分自身の優に対しての気持ちを振り返るのは、いつぶりだろう。引越しをしたあの日くらいだろうか。それとも、離婚届を出しに行った、その前日の夜くらいだろうか。思い出しても、離婚届を出した日は複雑な気持ちだった。少しだけ残っていた、離婚という選択肢をとった自分の見え方に対しての不安と。やっと解放されるという安心感とこれからへの期待に。自分自身の気持ちが、わからなく
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第172話 寝不足?

目覚ましの音で目を開けた瞬間、眠りが浅かったことが分かった。身体は起きている。でも、頭の奥が少し重い。夜中に何度も目が覚めた。そのたびに、綾瀬先生の声が浮かんだ。付き合ってよ、俺と。そして、自分の中で決めた答えも。先生のことを、もっと知りたい。だから、付き合いたい。その言葉を思い出すたびに、胸が熱くなって。緊張して。また目が冴えた。洗面台の前に立つ。鏡の中の自分は、少しだけ目元が重かった。寝不足。そう思って、私は小さく息を吐いた。今日は、仕事がある。そして、夜には先生とご飯に行く。そこで返事をする。そう思った瞬間、心臓が小さく跳ねた。私は両手で頬を軽く押さえた。落ち着こう。まだ朝だ。まずは、仕事。そう自分に言い聞かせて、いつもより少し丁寧に髪を整えた。病院に着く頃には、いつもの慌ただしさが始まっていた。受付の声。廊下を行き交う足音。電子カルテの立ち上がる音。看護師さんからの確認。その全部に、少し救われた。忙しい。ありがたいくらいに忙しい。目の前の患者さんのことを考えている間は、余計なことを考えなくて済む。綾瀬先生に何と返事をするか。先生がどんな顔をするか。その後、私たちはどうなるのか。考え始めると、胸が落ち着かなくなることを、仕事が少しだけ遠ざけてくれた。午前の外来がひと段落した頃、廊下で綾瀬先生とすれ違った。胸が、すぐに反応した。でも、先生はいつも通りだった。白衣の袖を少しだけまくり、片手にタブレットを持っている。目元は落ち着いていて、表情も仕事の時のものだった。『白松先生』そう呼ばれる。少しだけ、心臓が止まりそうになった。白松先生。いつも通りの呼び方。職場での距離。その呼び方に、私は少しだけ安心した。昨日の電話のあとでも。付き合ってよ、と言われたあとでも。先生は仕事の場所で、いつも通りにしてくれる。『はい』私は顔を上げた。『午後の紹介患者さん、検査結果が先に届いてる』先生はタブレットの画面を少しこちらへ向けた。『この数値なら、先に説明しておいた方がいいかもしれない』『確認します』私は画面を見ながら答えた。声が少しだけ硬くならないように、意識する。先生は淡々と必要な情報だけを伝えてくれた。その横顔は、いつもと変わらない。綺麗で。静かで。
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第173話 洋服を考える

午後も忙しかった。検査結果の説明。次の予約の調整。急な問い合わせ。書類の確認。身体は疲れていくのに、心はどこか上の方で浮いている。その浮き方が自分でも落ち着かなかった。だから、忙しさに感謝した。余計なことを考えずに済む。先生の顔を思い出して、仕事中に頬が熱くなるようなことを避けられる。...そうこうしているうちに、あっという間に夕方だった。最後の確認を終えた頃には、外はもう暗くなり始めていた。私は白衣を脱ぎ、荷物をまとめる。廊下を歩きながら、少しだけ先生の姿を探してしまった。でも、見当たらなかった。そのことに、また少しだけ緊張する。今日はもう、夜に会う。職場ではなく。先生と、私として。私は病院を出た。外の空気は冷たい。駅までの道を歩きながら、胸の中で何度も言葉を練習した。先生のことを、もっと知りたいです。だから、付き合いたいです。言えるだろうか。顔を見て。ちゃんと。家に着くと、部屋の明かりをつける前から、心臓が忙しかった。荷物を置く。手を洗う。一度、深く息を吐く。まだ少し時間はある。でも、ゆっくりしている余裕があるほど、心は落ち着いていなかった。クローゼットを開ける。最初に手に取ったのは、いつものワンピースだった。無難で。落ち着いていて。私らしい服。でも、すぐに戻した。今日は、少しだけ違う自分で会いたかった。先生は、どんな洋服を着ている人が好きなんだろう。そう思った瞬間、自分で苦笑してしまった。今まで、そんなことを考えながら服を選ぶことがほとんどなかった。特定の誰かにどう見られるかではなく、自分がきちんとして見えるか。場にふさわしいか。失礼がないか。そういう基準で選んできた。でも今日は違う。先生に、綺麗だと思われたい。先生に、似合ってるって思われたい。そう思っている自分がいる。認めると、頬が熱くなった。私はクローゼットの奥から、あまり普段は着ないミニスカートを取り出した。黒に近いネイビー。短すぎるわけではない。でも、いつもの私なら仕事帰りの食事には選ばない丈だった。少し迷う。それから、黒のタイツを合わせた。それでも、鏡の前に立つと、足元がいつもより頼りなく見える。胸が少しだけ緊張した。上には、柔らかい白のニット。その上から、少し長めのジャケット
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第174話 可愛いね

マンションのエントランスを出ると、夜の空気が頬に触れた。冷たい。けれど、昨日の夜とは違う冷たさだった。胸の奥にある緊張のせいか、指先だけが少し熱い。私はジャケットの前を軽く押さえながら、通りへ出た。少し先に、見慣れた車が停まっている。でも、優の車ではない。そう思っただけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。助手席側のドアが開くより先に、運転席から綾瀬先生が降りてきた。黒いコート。中には落ち着いた色のニット。白衣ではない先生を見るのは、何度目かのはずなのに。今日は、いつもより少しだけ違って見えた。夜の光を受けた横顔。こちらへ歩いてくる時の、静かな足取り。余裕があるのに、どこか緊張を隠しているような目。胸が、きゅっと鳴る。先生は私の前で立ち止まった。そして、私を見た。髪。ジャケット。ミニスカート。タイツ。それから、顔。視線は丁寧だった。けれど、ちゃんと熱があった。『今日、着替えたんだ』先生が口を開く。声が、少し低い。『可愛いね』心臓が跳ねた。来ると思っていなかったわけではない。でも、実際に言われると、胸が全然追いつかない。『……ありがとうございます』声が少し小さくなる。先生は、私の反応を見て、ほんの少しだけ笑った。『俺のためにおしゃれしてくれたの?』自然な声だった。からかうようで。でも、少しだけ本気が混じっている。私は一度、視線を落とした。足元を見る。いつもなら選ばない丈のスカート。黒いタイツ。少しだけ勇気を出して着た服。ここで曖昧にごまかすのは、違う気がした。私は顔を上げた。『……そうです』言った瞬間、頬が熱くなる。先生の表情が、少しだけ止まった。それから、ゆっくり柔らかくなる。『そっか』短い言葉。でも、その声が甘かった。二人の間に、少しだけ照れた沈黙が落ちる。私も先生も、すぐには次の言葉を出せなかった。ただ、その沈黙は嫌ではなかった。むしろ、胸の中がふわっと温かくなるような沈黙だった。先生は少しだけ視線を落とし、私の足元を見る。『でも』『はい』『その丈は、冬は寒いからやめな』急に現実的なことを言われて、私は思わず瞬きをした。『え』『可愛いけど、寒いでしょ』『タイツ履いてます』『それでも寒い』真顔で言うので、少し笑ってしまった。『それ、直
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第175話 特別なとき

私は先生の横顔をそっと見た。運転している時の先生は、いつも落ち着いている。ハンドルに添えた指。前を見る目。たまに横顔に流れる街灯の光。その全部が、いつもより近く感じた。『兄が』私は、少し落ち着いてから言った。『先生のこと、知ってたんですよね』先生がちらりとこちらを見る。『お兄さんが?』『はい。直くん、投資会社にいるので』『ああ』先生はすぐに納得したようだった。『先生が投資した案件の出資関係で、名前を見たことがあるって言ってました』『そうなんだ』先生はあまり驚かなかった。『まあ、結構いろんな会社に出資してるし。医療系だと家の名前は目立つからね』あまりにもさらっと言われて、私は先生を見る。『結構いろんな会社に?』『うん』『先生、そういう話、全然しないですよね』『聞かれないから』先生は淡々と言った。その言い方があまりにも先生らしくて、私は少し笑ってしまった。『聞かれなかったら、言わないんですか』『うん。言う必要がないことは、あまり言わないかも』『すごいことなのに』『すごいかどうかは、案件によると思うけど』そう言って、先生は少しだけ笑った。その横顔を見て、胸がまた少し鳴る。まだ知らない先生がいる。医師としての先生。院長としての先生。私に好きだと言ってくれる先生。そして、投資家としての先生。いろいろな顔があるのに、先生はそれを必要以上に見せない。その余白に、少しときめいてしまう。もっと知りたい。昨日、家に帰る道で出した答えが、また胸の中で静かに光った。『今日のお店も』先生が言った。『俺が出資してる店なんだ』『え』思わず顔を上げる。『お店にも出資してるんですか』『うん。お鮨屋さん』『お鮨屋さんにまで』『いいお店だからね』先生は何でもないように言う。『若い料理人が真面目で、魚の扱いもいい。店の作り方も無理がないし』『先生、そんなところまで見るんですね』『見るよ。出すなら見る』その言い方に、やっぱり先生は優秀な人なのだと思う。でも、それを誇る感じは少しもない。ただ、自分が関わるものに対して誠実なだけ。そういうところが、好きだと思った。『個室が取れて美味しいところって考えたら、ここかなって思ったから』先生が前を見たまま言った。『綾香ちゃんが落ち着いて食べられる場所が
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第176話 知らなかった顔

店の中は、外から見た印象よりもずっと静かだった。控えめな照明。木の香り。磨かれた白木のカウンター。奥へ案内されると、個室に近い小さな席が用意されていた。完全に閉じた部屋ではない。でも、外の気配がほどよく遠い。二人で話すには、ちょうどいい距離だった。席につくと、すぐにおしぼりが出された。手に取った瞬間、ふわりと柑橘の香りがした。檸檬か、柚子か。冷たすぎない温度の布が、指先を包む。私はそれだけで、少しだけ緊張がほどけた。『いい香りですね』思わず言うと、先生が少し笑った。『綾香ちゃん、そういうの好きそうだと思った』『分かるんですか』『なんとなく』先生は、向かい側に座っていた。白衣ではない。職場で見る先生とも、公園で隣を歩いた先生とも違う。落ち着いた色のニット。綺麗に整えられた髪。少しだけ伏せた睫毛。おしぼりで指先を拭く仕草まで、静かで無駄がない。やっぱり、綺麗な人だと思った。顔立ちだけではない。動き方や、視線の置き方まで含めて。どこか、整っている。見ていると、少しだけ胸が落ち着かなくなる。『見てる?』不意に先生が言った。私ははっとして、顔を上げた。『見てません』『今のは見てたよ』先生が少し笑う。私は何も言えなくなって、手元のおしぼりに視線を落とした。先生は、からかいすぎずに話題を変えた。『そういえば』『はい』『お兄さんの写真、見せてよ』一瞬、何の話か分からなかった。それから、昨日の車の中で話した直くんのことだと思い出す。『本当に見たいんですか』『見たい』『ちょっと恥ずかしいんですけど』『なんで』『家族写真なので』『なおさら見たい』先生は穏やかに言う。押しつけがましくはない。でも、少し楽しそうだった。私は少し迷ってから、スマホを開いた。写真フォルダを遡る。父の関係の会合で、珍しく家族が揃った時の写真。父。母。真哉お兄ちゃん。直くん。私。みんな、きちんとした服を着ていた。家族写真というより、どこか広報用の記録写真みたいな一枚だった。私は画面を先生の方へ向ける。『これです』先生はスマホを受け取らず、私の手元を覗き込むように見た。距離が少し近くなる。肩が、少しだけ緊張した。先生の視線が写真の中をゆっくり動く。そして、ふっと笑った。『隣に立って
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第177話 俺から切り出した方がいい?

そこには、先生の家族らしい人たちが写っていた。父親。母親。兄弟だろうか。歳が近そうな男性が二人。そして先生。さらに、大きな犬が一緒に写っている。私は思わず写真に顔を近づけた。『先生、犬飼ってたんですか』『そうだよ』先生の声が、少しだけ柔らかくなった。『大きいですね』『うん。大型犬』『名前は?』『オリバー』『オリバー』口にすると、なんだか先生の家の空気が少し近くなった気がした。でも、先生はそこで少しだけ視線を落とした。『今は、事情があって一緒には暮らせないんだけど』その言い方に、私はそれ以上踏み込まなかった。聞きたかった。なぜ一緒に暮らせないのか。今はどこにいるのか。先生がどんなふうにオリバーと過ごしていたのか。でも、先生にしては珍しく、そこには触れてほしくなさそうだった。だから私は、写真に視線を戻した。もう一度写真を見る。ご家族も容姿の良い人たちで、やはり遺伝だとすぐに感じた。そのなかでも。『先生が一番、お父様に似てますね』先生は少し苦笑した。『よく言われる』写真の中の先生のお父様は、確かに先生に似ていた。整った顔立ち。落ち着いた目元。どこか人を圧倒するような雰囲気。けれど、先生の方が少し柔らかい。少なくとも、私にはそう見えた。『なんか』私は写真を見ながら言った。『ちゃんとした家って感じですね』言ってから、少し曖昧な表現だったと思う。でも先生は笑った。『綾香ちゃんの家と、そんなに変わらないと思うけど』『そうですか?』『うん』先生は、どこか他人事のように言った。『まあ、堅苦しい家だよ』その言い方が少し軽くて、私は笑ってしまった。堅苦しい家。その一言で、先生の家も私の家と同じように、外から見える綺麗さだけでは語れないものがあるのだと感じた。完璧な家族写真の奥に、それぞれの息苦しさがある。そう思うと、少しだけ先生が近くなった。食事が始まる。最初に出てきた小さな一品は、白身魚に柑橘の香りを合わせたものだった。口に入れると、香りがふわっと広がる。『おいしい』自然に声が出た。先生が、少し嬉しそうに笑う。『よかった』その顔を見て、私はまた胸が熱くなる。今日の店を、先生は特別な時にしか来ないと言っていた。そして、ここに私を連れてきてくれた。その意味を考える
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第178話 利用してよ

『私から、話したいです』そう言ったあと、胸の奥で心臓が大きく鳴った。先生は何も言わなかった。ただ、箸を置いたまま、静かに私を見ていた。急かさない。先回りしない。私が言葉を探す時間を、そのまま置いてくれる。個室の外では、職人が誰かに小さく声をかけている。器の触れる音。湯気の立つ音。遠くで氷がグラスに当たる、かすかな音。店の中のすべてが、少し遠くなった気がした。私は膝の上で、指を軽く握った。手のひらが少しだけ湿っている。さっきまで飲んでいた日本酒の温かさが、まだ胸のあたりに残っていた。それでも、喉は緊張で少し乾いている。先生の目を見る。柔らかいけれど、逃がさない目だった。私を追い詰めるのではなく。私が逃げずに話せるように、そこにいてくれる目。その目を見ていたら、言える気がした。『私、やっぱり』声が少し揺れた。でも、止めなかった。『元夫と仕事で離れられない選択を』 『自分のキャリアと、やりたいことをする上では』 『どうしても、諦めきれないんです』先生は、ゆっくり頷いた。『うん』たったそれだけ。でも、その相槌で少し呼吸が楽になる。私は続けた。『地域医療のプロジェクトに関われることは』 『私にとって大きな意味があると思っています』 『医師としても、これからのキャリアを考えても、ちゃんとやりたいです』言いながら、自分の中で改めて確かめる。それは、優が関わっているから迷うだけで。仕事そのものは、やりたい。そこは嘘ではない。逃げたくない。『だから、先生に言われたことが』 『すごく、その通りだなって思ったんです』私は一度、息を吸った。『仕事を理由に距離が完全に切れないなら』 『個人的な関係の可能性を残さないための、選択肢を考えた方がいいって』先生は、また静かに頷いた。その表情は変わらない。けれど、目の奥にはちゃんと熱がある。私の言葉を、ひとつずつ受け取ってくれている。『ただ』ここからが、本当に言いたかったことだった。私は、少しだけ視線を落とした。目の前の器の縁が、灯りを受けて白く光っている。綺麗だと思う余裕があることに、自分で少し驚いた。『私が今その選択をすると』 『やっぱり先生の気持ちを利用してしまうことになるんじゃないかと思ってしまって』言葉にした瞬間、胸の奥が少し痛
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第179話 私でよければ

先生はゆっくり顔を上げた。『曖昧な関係とかじゃなくて、俺はちゃんと』目が合う。胸が、強く鳴る。『綾香ちゃんを自分の彼女にしたいから』彼女。昨日も聞いた言葉なのに。こうして目の前で言われると、また違う響きになる。先生の声で。先生の目で。私だけに向けて置かれると、その言葉は逃げ場がない。『だから』先生は、少し困ったように笑った。『むしろ、そんなことまで考えなくていいのに、って思っちゃったかな』胸の奥が、ふっと緩んだ。怒られたわけではない。重く受け止められすぎたわけでもない。先生は、私の考えすぎるところまで、ちゃんと知った上で受け止めてくれている。『……なら、よかったです』私がそう言うと、先生の目元が少し柔らかくなった。でも、まだ本題は終わっていない。私は手元のグラスを見た。水滴が、薄く指先に触れる。少し冷たい。その冷たさで、もう一度気持ちを整えた。『あの日』私はゆっくり言った。『私、人を紹介されて』先生は静かに聞いている。『会った人は、いい人でした。ちゃんと優しくて、話しやすくて』 『私に無理な距離を取ろうともしなくて』自分で言いながら、あの日の食事を思い出す。加瀬さんの穏やかな声。美香の心配そうな顔。太一くんの気遣い。本当なら、もう少し素直に楽しめたはずの時間。『でも、ずっと先生のことを考えてました』先生の表情が、ほんの少しだけ変わった。私は、そこから目を逸らさなかった。『先生だったら、こういう言い方はしないなとか』胸が熱くなる。『こういうことを話すだろうなとか』『こういう時、黙って待ってくれるんだろうなとか』言葉にするたびに、自分の気持ちが形になっていく。『気づいたら、ずっと先生と比べていました』先生は何も言わなかった。でも、その沈黙に、さっきより少しだけ甘さが混じった気がした。『それに、今日も』私は続けた。『先生のことが知りたいって気持ちがあるんです』先生の家族。オリバーという犬のこと。父に会ったことがあるという話。出資している会社。このお鮨屋さんのこと。まだ知らない先生が、今日だけでもたくさんあった。知るたびに、もっと知りたいと思った。『私、この気持ちを大切にしたくて』声が少し震える。でも、もう止まらなかった。『それに、直くんにも言われたんで
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第180話 彼女になってくれるの?

先生は、しばらく何も言わなかった。私でよければ、よろしくお願いします。自分で言った言葉が、まだ胸の中で熱を持っている。声に出した瞬間、私は確かに一歩を踏み出した。けれど、その一歩の先で先生が黙っているから、急に足元が心細くなる。言い方が違ったのだろうか。もっとはっきり、好きですと言うべきだったのか。それとも、まだ完全に気持ちが固まったとは言い切れない、なんて正直に言いすぎたのだろうか。不安になって、私は膝の上で指を握った。その時、先生がようやく息を吐いた。短く。けれど、どこか胸の奥からこぼれたような息だった。『……いや』先生は少しだけ視線を落とした。口元に、困ったような笑みが浮かぶ。『正直』そこで言葉を止める。いつも余裕のある先生が、珍しく言葉を探していた。それだけで、胸がまた強く鳴る。『まだ早いから難しいとか』 『気持ちが固まってないから難しい、って言われると思ってたから』先生はゆっくり私を見る。その目が、少しだけ揺れていた。『ちょっと、いや、かなり意外というか』声が低い。でも、いつもの落ち着いた声とは違った。現実をまだ手に取れない人みたいな、少しだけ頼りない響きがあった。『実感がない、って言うのが正しいかな』そう言って、先生は小さく笑った。その笑顔を見た瞬間、胸の奥がぎゅっと甘く縮んだ。嬉しい時の顔。驚いているのに、抑えようとしている顔。けれど、抑えきれないものが目元からこぼれている顔。こんな先生を見るのは、初めてだった。私は、少しだけ勇気を出して言った。『……早いとは、確かに思っています』先生の眉が、わずかに動く。『うん』『でも、早いから違う、とは思わなかったんです』言いながら、少しだけ恥ずかしくなると同時に。胸が熱くなる感覚がした。先生は黙って聞いている。でも、その目はもう、少しも私から離れない。『先生のことを、もっと知りたいと思いました』私がそう言うと、先生の指が、膝の上でわずかに動いた。触れたいのを、我慢しているように見えた。その仕草に気づいて、私の身体まで小さく熱を持つ。『付き合うって、全部決めることじゃなくて、もっと知っていくことでもいいんだって思えたので』先生は、しばらく私を見ていた。それから、静かに聞いた。『じゃあ』声が少しだけ掠れていた。『
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