愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました のすべてのチャプター: チャプター 191 - チャプター 200

235 チャプター

第191話 研究室

昼休みに、休憩室へ入ると。 スタッフがそれぞれ食事を取っていた。 私も空いている席へ座る。 持ってきたサンドイッチを開き。 スマホをテーブルへ置いた。 画面が光る。 メッセージが一件。 隼人くんかと思い。 反射的に手を伸ばした。 表示されていたのは。 別の名前だった。 【上原大貴】 指が止まる。 大貴から連絡が来るのは。 この間のご飯以来だった。 メッセージを開く。 『久しぶり』 『この前話してた研究の件なんだけど、少し進展があって』 続けて。 もう一通届く。 『石川先生が、一度綾香と話したいって言ってる』 石川先生。 その名前を見た瞬間。 四年前までいた大学病院の景色が。 急に脳裏へ戻ってきた。 研究室の白い壁。 積み重なった論文。 学会前の慌ただしい夜。 何度も書き直した研究計画書。 石川先生は。 私が大学病院にいた頃の指導医だった。 厳しかった。 けれど。 私が何に関心を持っているのか。 誰より早く見つけてくれた人でもある。 結婚して。 病院を辞めると伝えた時。 最後まで。 本当にそれでいいのかと聞いてくれた。 あの時の私は。 優との生活を始めることが。 自分の選択だと思っていた。 戻りたいと口にすれば。 決めたことを否定するような気がして。 何も言えなかった。 メッセージの続きを見る。 『正式に研究室へ戻れって話ではないよ』 『ただ、今のクリニックでの経験も含めて、話せることがあると思う』 私は画面を見つめた。 今のクリニックでの経験。 大学病院を離れた四年間は。 何もなかった時間ではない。 医師を辞めていた期間もある。 戻ってからは。 大学病院とは全く違う規模の現場で働いた。 限られた人員。 患者との近い距離。 紹介先との連携。 病院では見えなかった問題を。 ここで何度も見てきた。 『地域医療のプロジェクトのこともある』 『研究側だけじゃなくて、現場側の意見が必要なんだ』 胸の奥が。 静かに騒ぎ始める。 研究へ戻りたい。 少し前から。 確かにそう思っていた。 けれど。 戻るというのが。 具体的に何を意味するのかは分からなかった。 大学病院へ戻ることなのか。 研究室へ所属することなのか。 今の仕事を続けながら。
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第192話 石川先生

大貴から日程の連絡が来たのは。 その日の夕方だった。『石川先生、明後日の夕方なら時間を取れるって。』続けて。『契約の話も進んでるみたいだし、一度研究側として役割を整理しておきたいって。』画面を見たまま。 私は少し息を止めた。契約の話。優からは。 以前から概要を聞いている。父からも。医療現場の実務を知る人間として。 可能な範囲で関わるように言われた。優から再び連絡が来た時には。前に話していた契約を。 具体的に進めたいとも伝えられている。だから。今回、初めて参加を打診されるわけではない。すでに。この仕事を引き受ける方向で。 話は動き始めている。ただ。運営団体や法務側が。 私へ何を期待しているのかは聞いていたけれど。大学病院の研究側が。 私をどう位置づけているのかは。まだ、はっきりとは知らなかった。『分かりました。』 『明後日、伺います。』送信する。すぐに。『了解。』 『研究室まで来て。』と返ってきた。研究室。その文字を見ただけで。胸の奥に。 懐かしさと緊張が同時に広がった。石川先生と会うのは。 大学病院を辞めて以来だった。最後に話した日のことを。 今でも覚えている。研究室の小さな面談室。退職の意思を伝えたあと。石川先生は。 私の話を最後まで聞いてから。『本当に、それでいいのか』と聞いた。私は。『はい』と答えた。迷いがないように。結婚を選ぶことが。 自分の意思なのだと示すように。あの頃の私は。一度決めたことを。 後から疑うのが怖かった。研究を途中で手放すことも。大学病院を離れることも。本当は。何も感じていなかったわけではない。けれど。優との生活を選ぶなら。 それ以外を惜しんではいけない気がしていた。だから。戻りたいとも。続けたいとも言わなかった。石川先生も。 それ以上は引き止めなかった。ただ。『いつか戻りたくなったら、連絡しなさい』そう言った。あの時の私は。何と答えたのだろう。思い出せなかった。***約束の日。午前の診察を終えてから。 私は大学病院へ向かった。正面玄関を抜ける。消毒液の匂い。白い壁。急ぎ足で行き交う人たち。院内放送の声。大学病院の建物は。 四年前とほとんど変わっていなかった。そのどれも
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第193話 臨床アドバイザー

研究室へ入る。窓際の机。壁一面の本棚。論文や資料が積まれた棚。配置は少し変わっている。それでも。ここで何度もデータを整理し。研究計画を直し。石川先生から指摘を受けた時間が。 急に近くなった。「久しぶりですね」机の向こうから。 石川先生が立ち上がる。白髪が少し増えていた。けれど。鋭い目元も。姿勢も。以前と変わらない。「ご無沙汰しております」頭を下げる。石川先生は。 私をしばらく見た。責めるような視線ではない。ただ。以前の私と。 今の私を比べているような目だった。「医師には戻ったと聞きました」「はい」「今は綾瀬クリニックでしたね」「はい。外来を中心に診ています」「座ってください」促され。大貴と並んでソファへ座る。石川先生も。 向かいへ腰を下ろした。テーブルの上には。 いくつかの資料が置かれている。その一番上に。医療データ基盤整備プロジェクト。と書かれていた。「東郷先生からは、どこまで聞いていますか」「大学病院、自治体、民間事業者が関わる医療データ基盤整備であること」私は資料へ視線を落とす。「仮名加工された医療情報を、研究や地域医療連携へ活用する可能性があること」「そのために、法務や運用上の整理が必要なことは聞いています」「白松先生からも?」父のことだ。「はい」「医療現場の実務を知る立場として、可能な範囲で関わるように言われました」石川先生は小さく頷いた。「契約の準備も進んでいるそうですね」「優さんから、改めて契約の話をしたいと連絡が来ています」「そうですか」石川先生は。 テーブルの資料へ手を置いた。「では、今日は」少し間を置く。「研究側として、あなたに何をお願いしたいのかを整理します」私は背筋を伸ばした。「はい」「最初に確認しておきますが」石川先生の視線が。 まっすぐ私へ向く。「あなたは、この大学病院の研究者として参加するわけではありません」「はい」「綾瀬クリニックを代表する立場でもない」「はい」「運営団体と個人で契約し」「外部の臨床アドバイザーとして、研究や運用の設計へ意見を出す」明確な言葉だった。綾瀬クリニックの医師として働く中で。 得た経験は使う。けれど。綾瀬クリニックそのものを。 プロジェクトへ参加させるわけではな
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第194話 できますか

石川先生が。 わずかに頷く。「続けてください」「同じ制度でも」「現場によって、患者さんとの関係が違います」「長く通っている人に説明する場合と」「紹介されて初めて来た人に説明する場合では」「同じ文章でも、受け取られ方が変わります」言葉にしながら。日々診ている患者の顔が浮かぶ。説明を最後まで聞かず。 医師が勧めるならと頷く人。家族へ相談してから決めたい人。新しい制度に。 強い不安を感じる人。「同意の文書が適切かだけではなく」私は資料へ手を置いた。「その場で、患者さんが本当に選べる状態かを見る必要があると思います」部屋が静かになる。石川先生は。しばらく私を見たあと。 小さく頷いた。「そういう意見です」「……」「研究側が作った設計を」「医学的に正しいかだけでなく」「実際の診療で成立するかという目で見てほしい」「患者に過剰な圧力がかからないか」「現場の医師へ、説明や判断を押しつけていないか」「制度上は可能でも」「人間の感覚として無理がないか」一つずつ。私が担う役割が。 言葉になっていく。「東郷先生は、法的な問題を見ます」「上原先生たちは、研究として成立するかを見る」石川先生の視線が。 私へ向く。「あなたには」「その間に、患者と臨床医が置き去りになっていないかを見てほしい」胸の奥へ。 静かに言葉が落ちた。研究者としてではない。弁護士としてでも。父の娘としてでもない。今の私が。日々患者を診ている医師として。 必要とされている。「できますか」石川先生に聞かれる。以前の私なら。期待されている答えを探し。 すぐにできますと言ったかもしれない。けれど。私は少し考えた。この案件には。父が関わっている。優も。私がまだ知らない事情や。政治的な都合もあるかもしれない。自分の意見が。どこまで実際の設計へ反映されるのかも分からない。「意見を出すことはできます」ゆっくり答える。「ただ」「私の意見が、運営側にとって都合が悪い場合でも」「言っていいのでしょうか」石川先生の眉が。 少し動く。「それを言わないなら」声は淡々としていた。「あなたに頼む意味はありません」胸の奥にあった力が。 少し抜けた。「私の父や」一度、言葉が止まる。「……東郷さんの考えと違って
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第195話 私が、ですか

「臨床と研究を両立できる環境を整えられるなら」「ゆくゆくは、研究室へ戻ってきてほしいと思っています」言葉が。すぐには胸へ入ってこなかった。戻ってきてほしい。それは。以前の私を懐かしんでいる言葉ではない。今の私へ。改めて差し出された選択肢だった。「私が、ですか」思わず聞く。石川先生の眉が。 わずかに動く。「あなた以外に誰がいますか」以前と同じ。少し厳しい言い方だった。けれど。その声に。 拒絶はなかった。「あなたが辞める前に扱っていたテーマも」「まだ発展の余地があります」「大学病院だけでなく」「地域の診療現場を知った今なら」「以前とは違う問いを持てるはずです」「離れていた時間を」一度、言葉を区切る。「空白として扱う必要はありません」胸の奥で。何かが大きく揺れた。私はずっと。医師を辞めていた時間を。 失った時間だと思っていた。研究から離れた四年間。優との生活のために。自分で手放したもの。戻れない理由。けれど。石川先生は。その時間を持った今だから。 見えるものがあると言う。「ただし」石川先生は。 現実的な声へ戻る。「臨床と研究の両立は、意思だけではできません」「時間と役割を」「最初から仕事として確保する必要があります」「診療の後や休日に」「残った時間で研究する形では続かない」「はい」「今の勤務先で可能なのか」「別の環境が必要なのか」「それは、これから考えてください」綾瀬先生の顔が浮かんだ。研究へ戻れば。今よりクリニックへいる時間が。 減るかもしれない。場合によっては。別の勤務先を選ぶ可能性もある。けれど。今はまだ。その答えを出す段階ではない。「今回の契約と」「将来の所属は別です」石川先生が。 念を押すように言う。「アドバイザーを引き受けたからといって」「この研究室へ戻る義務はありません」「はい」「逆に」「研究室へ戻るかどうかにかかわらず」「今回の仕事では、必要な意見を出してください」「分かりました」「自分で選びなさい」その言葉が。静かに胸へ落ちる。最近。何度も聞いた言葉だった。誰かに。正しい答えを渡してもらうのではない。研究も。仕事も。誰と、どこで生きるかも。自分で選ぶ。「考えます」私は頷いた。「今度は、
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第196話 浮いた話が多い割に

「誰と食事してたとか」「誰かが狙ってるとか」「隣にいた女性がどうとか」「顔も知られてるし、家のこともあるから」「少し一緒にいるだけで、すぐ話になる」そう言われれば。想像はできた。綾瀬先生は。人の目を引く。外見だけではなく。誰に対しても自然に振る舞える。本人にその気がなくても。周囲が意味を持たせることは。 きっと少なくない。「でも」大貴が続ける。「浮いた話が多い割に」少し間を置く。「本人から、誰かと付き合ってるって話を聞いたことは、ほとんどなかったから」私は大貴を見る。「ほとんど?」「少なくとも、俺は聞いたことない」「知り合いは多いけど」「自分のことは、あんまり話さない人だから」誰かと一緒にいたという噂はある。けれど。本人が。誰かと付き合っていると話したことは。 ほとんどない。その二つが。うまくつながらなかった。「だから」大貴が私を見る。「綾香のことも」一度、言葉を止める。「どこまで本気なのかなとは思ってた」以前。大貴が綾瀬先生について。少し心配そうに話していたことを思い出す。誰に対しても近く見える人だから。私がまた。相手の気持ちを優先してしまわないか。大貴なりに。気にしていたのかもしれない。「押し切られたの?」聞き方は穏やかだった。からかっているわけではない。私が。きちんと自分で決めたのかを。確かめようとしている。「付き合ってほしいって言われたのは、そうなんだけど」私は一度。言葉を止める。それから。自分の中にある答えを。そのまま口にした。「私が」「付き合ってみるのも、選択肢として考えていいかなって思ったの」大貴が私を見る。「私が決めたの」誰かに望まれたからではない。押し切られて。断れなかったわけでもない。まだ。綾瀬先生と同じ強さで。好きだと言い切れるわけではないけれど。知りたいと思った。近づいてみたいと思った。それを。自分の選択として決めた。大貴はしばらく私を見ていた。それから。小さく頷く。「そっか」声は穏やかだった。「それなら、よかった」前から感じていた。名前のつかない好意を。無理になかったことにはせず。だからといって。私へ何かを返すよう求めることもない。ただ。私が自分で選んだことを。受け取ってくれ
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第197話 お疲れさま

『すぐ、迎えに行く』その短い返事を見てから。十分も経たないうちに。 一台の車が病院の前へ停まった。運転席のドアが開く。降りてきた隼人くんは。 まだ仕事帰りの格好だった。黒いシャツの上にコートを羽織り。長い髪は。 いつものように後ろでまとめている。私を見つけると。少しだけ歩く速度が上がった。「お疲れさま」「ありがとうございます」「寒かった?」「そんなに待ってません」隼人くんは私の顔を見た。それから。何かを確かめるように。 少しだけ目を細める。「色々あった顔してるね」「そうですか」「うん」それ以上。ここで聞き出そうとはしなかった。助手席のドアを開ける。「乗って」「はい」車へ乗り込む。隼人くんも運転席へ戻り。 エンジンをかけた。暖房の空気が。冷えた指先へ少しずつ触れる。「何か食べた?」「まだです」「じゃあ、なんか食べようか」「はい」車が静かに動き出す。病院の灯りが。 窓の外へ流れていく。私はバッグを膝の上へ置き。その上で手を重ねた。隼人くんは。すぐには面談の内容を聞かなかった。私が話し始めるのを。 待っているようだった。「石川先生は」自分から口を開く。「ほとんど変わってませんでした」「見た目?」「話し方もです」「厳しかった?」「厳しいというより」少し考える。「相変わらず、答えを自分で考えさせる人でした」隼人くんが小さく笑う。「綾香ちゃんに合ってそう」「当時は、そう思ってませんでした」「今は?」窓の外へ視線を向ける。「少しだけ、分かる気がします」自分が何を見ているのか。何を考えたのか。答えを渡されるのではなく。自分の言葉にする。昔は。それが怖かった。正解を出せなければ。自分に価値がないような気がしていたから。でも今日は。すぐに答えず。考えてから話すことができた。「個人の臨床アドバイザーなんだよね」隼人くんが言う。「はい」「研究側と、法務や運営側の間で」「実際の診療や患者さんの視点が抜けていないかを見る役割です」「研究者として入るわけではなくて」「綾瀬クリニックを代表するわけでもありません」自分で説明しながら。今日整理された立場を。 もう一度確認する。「運営団体と、私個人で契約することになります」「そっか」隼
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第198話 二人で会うの?

信号が変わる。車を走らせながら。「東郷さんが、法務担当なんだよね」「はい」「契約書を作っているのも?」「おそらく」前に連絡をもらった時。契約の件を進めたいと言われた。父も。優が法務面を整理していると話していた。「二人で会うの?」声は穏やかだった。けれど。何でもない質問ではないことは分かった。「事務所で、契約の説明を受けるので」「担当者が同席するかまでは、まだ聞いてません」「そっか」それだけ。嫌だとも。行かないでほしいとも言わない。私は少し迷ってから。「院長としては」言葉を選ぶ。「契約書を確認した方がいいですか」「全部は必要ないよ」答えは早かった。「さっき言ったところだけ分かればいい」「クリニックの名称がどう使われるか」「勤務や患者情報に影響する条項があるか」「その部分だけ見せてもらえれば」一度、私を見る。「個人の報酬とか」「守秘義務とか」「仕事の責任範囲まで、俺が見る話じゃない」「それは綾香ちゃんと、契約先の話だから」どこまでが。院長として確認すべきことで。どこからが。私個人の仕事なのか。隼人くんは。最初から線を引いている。「分かりました」「うん」「正式な契約書を見てから」「必要なところだけ、申告します」「そうして」そこで。院長としての話は終わったようだった。隼人くんの肩から。 少しだけ力が抜ける。「ここまでが、仕事の話」前にも聞いたような言い方だった。私は思わず。 少しだけ笑った。「分けるんですね」「分けないと」隼人くんも小さく笑う。「俺が何を言っても」「院長だから言ってるのか」「個人的に言ってるのか、分からなくなるでしょ」「そうですね」「だから」少し間を置く。「ここからは、個人的な話をしていい?」「はい」返事をすると。隼人くんは。 しばらく前を向いていた。院長として話していた時より。言葉を選んでいるように見える。「研究室へ」ゆっくり口を開く。「戻ってきてほしいって言われたんだよね」「はい」「嬉しかった?」「嬉しかったです」今度は。迷わず答えた。「すごく」隼人くんの口元が。 少しだけ緩む。「そっか」「よかったね」メッセージと同じ言葉。けれど。声で聞くと。その中にある温度が分かった。「研究をま
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第199話 辞めてほしくないよ

「辞めてほしくないよ」静かな声だった。「毎日会えるの、嬉しいし」「クリニックにいる綾香ちゃんも好きだから」胸の奥が。 ゆっくり熱くなる。「仕事してるところを見るのも」「一緒に患者さんの話をするのも」「今の生活からなくなるのは嫌だと思う」「……」「でも」隼人くんは。少しだけ息を吐いた。「だから残ってって言うのは違う」「俺が寂しいことと」「綾香ちゃんが、どこで働くのがいいかは別だから」院長としての公平さではなく。恋人としての誠実さだった。寂しくないふりはしない。私が離れる可能性を。何でもないことのようにも扱わない。でも。その気持ちを。私の決定を縛る理由にはしない。「隼人くんは」口にしてから。ここが外だと気づく。二人きりの席でも。店員が近くにいる。私は呼び方を変えなかった。「どうして、そこまで分けられるんですか」隼人くんは。少しだけ考えた。「分けられてるかは、分からないけど」グラスの縁へ指を触れる。「混ぜたら」「綾香ちゃんが、俺の気持ちを先に考えるでしょ」その言葉に。何も返せなくなる。その通りだった。残ってほしいと言われれば。それを。ただの願いとして聞けないかもしれない。院長からの期待。恋人からの寂しさ。自分が応えなければならないものとして。抱えてしまう可能性がある。「だから」隼人くんは続ける。「俺が寂しいことは伝えるけど」「それをどうするかまで」「綾香ちゃんに任せたくない」「……どういう意味ですか」「寂しいのは俺の感情だから」落ち着いた声。「それは俺が引き受ける」胸の奥が。大きく揺れた。相手の感情は。私が整えなければならないものではない。機嫌を悪くさせないように。寂しくさせないように。不安にさせないように。私が選択を変える必要はない。隼人くんは。それを自分の側へ戻している。「綾香ちゃんは」「自分がどうしたいかを考えて」「決まったら、教えて」「はい」「それで」少しだけ笑う。「会える時間が減るなら」「その時は、俺が会いに行く方法を考えるから」あまりにも自然に言われて。私は目を瞬いた。「辞める前提になってませんか」「なってないよ」「残るなら、その方が嬉しいし」「でも、離れたら終わるとも思ってない」短い言葉だった。け
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第200話 何か気になった?

「それは、あったかもしれない」否定しないことに。胸の奥が。ほんの少しだけざらつく。「でも」私は続ける。「浮いた話が多い割に」「本人から誰かと付き合っていると聞いたことは」「ほとんどなかったそうです」隼人くんは。 しばらく何も言わなかった。「それで」ようやく口を開く。「何か気になった?」聞かれて。私はすぐに答えられなかった。気にならないと言えば。たぶん嘘になる。でも。過去を問いただしたいわけでもない。「私がまだ知らないことが」「たくさんあるんだろうなと思いました」そのまま答える。隼人くんの目が。少しだけ動く。「そうだね」あっさり認めた。「あると思う」「綾香ちゃんが知らないことも」「俺が話してないことも」「……」「知りたい?」低い声だった。私は少し考える。全部を今すぐ知りたいわけではない。何人と食事をしたのか。誰と噂になったのか。一つずつ確認したいわけでもない。ただ。この人が。どんなふうに人と関わってきたのか。何を近づけて。何を遠ざけてきたのか。それは。少しずつ知りたい。「知りたいです」答える。「でも」一度、言葉を止める。「今すぐ、全部ではなくて」「うん」「少しずつ」「そっか」隼人くんの口元が。ほんの少し緩む。「じゃあ」「聞かれたら、ちゃんと答えるよ」「聞かないと話さないんですか」「自分から昔の女性の話をする恋人って」少し眉を寄せる。「嫌じゃない?」「分かりません」「じゃあ、やめとく」すぐに引かれて。私は少し笑った。「でも」隼人くんが続ける。「上原が心配してたようなことはないよ」「心配?」「俺が、綾香ちゃんに本気じゃないんじゃないかって」静かな声だった。「それは」少しだけ目を細める。「心配しなくていい」その言葉の重さに。胸が小さく鳴る。「むしろ」隼人くんが。箸を置く。「俺の方が」一度、言葉が止まる。「綾香ちゃんが、どこまで俺を好きになってくれるのか」「そっちをすごい心配してる」冗談にするような笑いはなかった。私は。すぐに何も言えなかった。隼人くんは。私が自分で選んだことを。誰より喜んでくれている。でも。付き合うことを選んだことと。同じ強さで好きであることが。まだ別だということも分かってい
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