愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました のすべてのチャプター: チャプター 181 - チャプター 190

238 チャプター

第181話 待つよ

私はもう一度、ゆっくり言った。『違います。先生に気を使ったわけでもない』 『優とのことだけで決めたわけでもありません』胸に手を当てる代わりに、私は膝の上で指を重ねた。『先生のことを、もっと知りたいからです』声が、少しだけ震える。でも、逃げなかった。『もっと近くで、先生のことを見てみたいと思ったからです』先生の表情が、また柔らかくなる。『それなら、よかった』低くて、優しい声。『そう言ってくれると、すごく嬉しい』その言葉に、胸がふっとほどけた。先生は、私が優から逃げるために選ぶことを望んでいない。私が先生を選びたいと思うことを、ちゃんと待ってくれていた。そのことが、今さら胸に深く落ちてくる。『でも』先生は少し笑った。『完全に気持ちが固まってないって言ってくれたのも、嬉しかったよ』『嬉しいんですか?』『うん』意外で、私は聞き返してしまう。先生は頷いた。『ちゃんと正直に言ってくれたから』その声に、嘘はなかった。『曖昧なまま、俺を喜ばせるために綺麗な答えをくれたんじゃなくて』 『今の綾香ちゃんのまま答えをくれた感じがした』私は、胸が詰まった。先生は、私の不完全な返事まで受け取ってくれる。迷いが残っていることも。怖さがあることも。それを隠さずに言ったことを、責めずに、むしろ大事にしてくれる。『だから』先生は少しだけ目元を緩めた。『これから固めていこう』『これから?』『うん』先生の声が、甘くなる。『俺のこと、もっと知ってくれるんでしょ』その言い方に、頬がまた熱くなる。『……はい』『じゃあ、俺にも綾香ちゃんのこと、もっと教えて』先生は、まっすぐ私を見た。『焦らないし、嫌なことはしない』 『綾香ちゃんが気になることは、ちゃんと教えて』そこで、少しだけ笑う。『でも、好きだっていうのは、たぶん結構言う』私は思わず目を伏せた。『それは、慣れるまで時間がかかりそうです』『慣れなくてもいいよ』先生は楽しそうに言った。『その反応が見たいから』『先生』『ごめん。今のはちょっと意地悪だった』全然悪びれていない顔だった。私は少しだけ睨む。先生はそれを見て、また笑った。その笑顔が温かくて、じんわりと好きだと思ってしまう。店の外から、器を置く小さな音が聞こえた。でも、この個室の中だけ、空
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第182話 隼人くん

先生の手が、まだ私の手を包んでいる。強く握られているわけではない。逃げようと思えば逃げられる。けれど、指先に残る温度は確かで。そこから、ゆっくりと胸の奥まで熱が広がっていく。私は、何度も自分に言い聞かせていた。付き合うことになった。私は、先生の彼女になった。そして先生は、私の恋人になった。それなのに、向かい側にいる人があまりに綺麗で。落ち着いていて。いつも通り、少し余裕があるように見えるから。現実感がなかなか追いつかない。この人が。この整った顔で。低い声で。私を彼女と呼んだ。そう思うだけで、胸が忙しくなる。先生は、私の手を包んだまま、少しだけ目元を緩めていた。嬉しそうなのに。大切そうなのに。触れ方だけは、まだ慎重だった。その距離が、やっぱり先生らしかった。『綾香ちゃん』呼ばれて、顔を上げる。『はい』先生は少しだけ首を傾けた。『ひとつ、言っていい?』『……はい』何を言われるのだろう。また、好きだと言われるのだろうか。そう思っただけで、頬が熱くなる。けれど先生は、少しだけ困ったように笑った。『彼女からの呼ばれ方が、先生なのは』そこで一度、言葉を切る。『やっぱり、ちょっと引っかかるな』私は瞬きをした。『呼ばれ方、ですか』『うん』先生は、私の手から指を離さないまま言った。『職場ではいいよ。もちろん。白松先生って呼ぶし、綾香ちゃんも先生でいい』『はい』『でも、今は職場じゃないし』 『早くそこは言っておかないと、そのままで慣れちゃう気がしたから』先生の目が、少しだけ甘くなる。『付き合った訳だし、少しくらいわがまま言ってもいいかなと思って』その言い方に、胸が小さく跳ねた。先生が、わがまま。その言葉が似合わないようで、似合っていた。いつも私の距離を見て、無理をしない人。私が困ることはしないと言ってくれる人。その先生が、付き合ったからという口実で、少しだけ自分の欲を出している。それが、たまらなく甘かった。『じゃあ』私は、少しだけ視線を落とした。『なんて呼べばいいですか』先生は、少し考えるようにした。でも、その表情はどこか楽しそうだった。『名前で呼んでほしい』心臓が、また鳴る。『名前』『うん』先生の名前。綾瀬隼人。もちろん、知っている。何度も書類で見た。
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第183話 嬉しいなって思って

ちょうどその時、次の一貫が運ばれてきた。艶のある赤身。小さな刷毛で醤油が塗られ、表面が淡く光っている。職人が静かに説明してくれる。私は頷きながらも、味が分かるか少し不安だった。先生の手は、料理が来る直前にそっと離れた。その離し方も丁寧だった。急に離すのではなく。私の指先を一度だけ軽く包み直してから。まるで、ここで一度離すね、と言われたみたいに。それだけで、胸の奥がまた甘くなる。私は寿司を口に運んだ。口の中で、魚の旨みがゆっくりほどける。おいしい。本当においしいはずなのに。今は、その味の奥に、先生の手の温度が残っている気がした。『おいしい?』先生が聞く。『はい』『よかった』先生は嬉しそうに笑う。その笑顔を見ると、また思う。この人が、私の恋人。まだ、全然実感が湧かない。恋人という言葉には、もっと分かりやすい距離があるのだと思っていた。もっと簡単に触れたり。もっと軽く甘えたり。もっと自然に名前を呼んだり。でも、私たちはまだ、手を重ねるだけで緊張している。名前を呼ぶだけで、お互いに黙ってしまう。それが、少し恥ずかしくて。でも、悪くない。むしろ、大切にしたいと思った。『隼人くん』思い切って呼ぶと、先生が箸を止めた。また、少しだけ固まる。『……うん』返事が遅い。その反応に、私は小さく笑ってしまう。『呼ぶたびに止まるんですか』『しばらくは止まると思う』『それは、結構困りますね』『俺も困ってる』先生は真面目な顔で言った。でも、目元は笑っている。『でも、呼ばれたいんだよな』その素直な言葉に、胸が鳴る。『わがままですね』『うん』先生は、少しだけ身を引いて、グラスを持ち上げた。『今日から、少しずつね』『少しずつでお願いします』『努力する』『それ、少し信用できません』『よく分かったね』悪びれもなくそう言うので、私は笑ってしまった。笑ってから、自分で驚く。こんなふうに笑っている。先生の前で。恋人になったばかりの人の前で。緊張しているのに、息ができる。甘くて、落ち着かなくて、でも怖くて逃げ出したいわけではない。その感覚が新しかった。先生は、そんな私を見ていた。じっと。でも、強くはない視線で。『何ですか』聞くと、先生は少しだけ首を振った。『嬉しいなと思って』
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第184話 どんな気持ちで帰るか

店を出ると、夜の空気が頬に触れた。店内に残っていた酢飯の香りと、柔らかな灯りが。 引き戸の向こうへ静かに閉じていく。私は小さく息を吐いた。少し冷たい空気が、熱の残った頬に心地よかった。「寒い?」隣から声が落ちる。「大丈夫です」そう答えてから。 少し迷う。「隼人くん」呼ぶと、隼人くんの足がほんの少し遅くなった。振り返った顔が、わずかに緩む。「何?」「……呼んだだけです」「そっか」隼人くんは少しだけ笑った。「なんか、まだ慣れないね」「私もです」「嬉しいけど」まっすぐ言われて。 私は視線を前へ戻した。まだ慣れない。店の中では、何度か口にできたはずなのに。外へ出て。 二人きりになった途端。その呼び方が、さっきよりもずっと近く感じた。この人が、私の恋人になった。そう思うたび。 足元が少しだけ落ち着かなくなる。隼人くんは隣を歩きながら、ポケットからスマホを取り出した。画面を数回操作する。私は辺りを見回した。店の前には、隼人くんの車が見当たらない。少し離れたところに停めたのだろうか。そう思っていると。「今日はタクシーで送るね」隼人くんが何でもないことのように言った。私は顔を上げる。「タクシーですか?」「うん」「車ですよね」隼人くんの指が、画面の上で一度止まる。「車だけど」「お酒、飲んでましたよね」鮨に合わせて、隼人くんは日本酒を頼んでいた。量は多くなかったけれど。 運転できるはずはない。私が見つめると。 少しだけ困ったように笑った。「今日は、最初から置いて帰るつもりだったから」「最初から?」「うん」短い返事。けれど。 そのまま理由は続かなかった。スマホの画面へ視線を落とす。タクシーが来るまで、あと五分と表示されていた。私は隼人くんの横顔を見る。ポケットの中へ入れた左手が、何かに触れている。金属が小さく鳴った。車の鍵だ。使わないはずの鍵を。 指先で弄んでいる。「どうしてですか?」聞くと。 隼人くんの指が止まった。「どうしてって?」「最初から、車を置いて帰るつもりだった理由です」隼人くんはすぐには答えなかった。目の前の道路へ視線を向ける。いつもなら。 何か軽い言葉で流すところなのに。今日は少しだけ、間が長い。「今日」静かに口を開く。
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第185話 手、繋いでもいい?

この人でも。 こんなふうに緊張することがある。そのことが少し意外で。同時に。 どうしてか嬉しかった。隼人くんが急にこちらを見る。「何?」「いえ」「すごい見てたけど」「見てません」「見てたよ」少し笑いながら言われる。私は視線を逸らした。「隼人くんでも、緊張するんだなと思って」言ってから。 隼人くんが静かになった。隣を見ると。 さっきまで笑っていた口元が、少しだけ固まっている。「今」隼人くんが低い声で言う。「名前で呼びながら、そういうこと言うのやめて」「どうしてですか」「戸惑うし、見てくれるのが嬉しいから」また、そうやって。 困るほど真っ直ぐなことを言う。私は何も返せなくなり。 道路の方へ目を向けた。ちょうどその時。一台のタクシーが、ゆっくりと近づいてきた。隼人くんがスマホの画面を確認する。「来た」車が私たちの前へ停まる。隼人くんは先に後部座席のドアを開けた。「どうぞ」「ありがとうございます」乗り込もうとした時。 少しだけ足元が揺れた。隼人くんの手が、反射的に私の腰へ向かう。けれど。触れる直前で止まった。そのまま少し位置を変えて。 私の肘の下へ手を添える。「大丈夫?」「はい」車内へ座る。隼人くんも隣へ乗り込んだ。ドアが閉まると。 外の音が少し遠くなった。運転手に住所を伝える声は、いつも通り落ち着いている。けれど。私の腰へ伸びかけた手を。 隼人くんが途中で止めたことが、なぜか頭から離れなかった。付き合うことになったのに。隼人くんは、急に距離を詰めようとはしない。むしろ。 前よりも少し慎重になったように見える。タクシーが静かに走り出す。窓の外で、街の灯りがゆっくりと流れていく。会話が途切れた。気まずいわけではない。でも。 今までとは違う沈黙だった。隼人くんの手が、座席の上に置かれている。私との間に。 ほんの少しだけ距離を残して。私はその手を見た。指先は動かない。こちらへ伸びてくることもない。けれど。 さっきから一度も、ポケットへ戻されていなかった。私は少しだけ迷って。自分の手を、座席の上へ置いた。隼人くんの手の近く。触れない程度の距離。隼人くんの視線が、ゆっくり下へ落ちる。私の手を見る。それから。 確かめるように、私の顔
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第186話 恋人としての帰り道

重なった指先から。 じんわりと熱が伝わってくる。隼人くんの手は大きかった。強く握られているわけではないのに。 指の間まで、隙間なく包まれている。窓の外を流れていく明かりが。 つないだ手の上を、何度も通り過ぎた。私は視線を上げられないまま。 自分の手を見つめていた。今までにも。 隼人くんに触れられたことはあった。腕を支えられたり。 人混みの中で、手を引かれたり。もっと近い距離になったこともある。それなのに。ただ手をつないでいるだけの今の方が。 ずっと落ち着かなかった。隼人くんの親指が、わずかに動く。私の手の甲へ触れそうになって。 そのまま止まった。撫でることもしない。握る力を強めることもなく。 ただ、つないでいる。その慎重さが。 さっきから少し気になっていた。「隼人くん」呼ぶと。 隼人くんがすぐにこちらを見る。「うん」名前で呼ばれることを待っていたみたいに。 返事が早い。「何ですか」「綾香ちゃんが呼んだんだけど」「そうでした」隼人くんが小さく笑う。私も、少しだけ口元を緩めた。「……何か話そうと思ったんです」「忘れた?」「少し」「じゃあ、思い出すまで待つよ」隼人くんはそれ以上聞かなかった。つないだ手も、そのまま。窓の外には。 閉店した店の暗い窓と、まだ人の残る飲食店の灯りが交互に流れている。車内には小さくラジオが流れていた。運転手がいるせいか。 隼人くんの声も、普段より少し低い。その静かな空気の中で。さっき思っていたことが。 少しずつ言葉になった。「付き合うことになったら」隼人くんが私を見る。「何か、変わるんでしょうか」口にしてから。 あまりにも漠然とした質問だったと思う。けれど。 隼人くんは笑わなかった。「変えたい?」反対に聞かれる。私は少し考えた。分からない。恋人になったら、毎日連絡を取るのか。今までより頻繁に会うのか。休日を一緒に過ごすのか。何を報告して。 どこまで相手の予定を知るのか。私は、普通の恋人同士がどんなふうに距離を縮めていくのか。 よく知らなかった。学生の頃に、恋人と言える人がいたことはあった。 それでも、今この歳になって、離婚もして。 どういう距離の詰め方をするのか、すっかり忘れてしまった。優とは。 そうい
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第187話 会いたいか考えます

「俺が会いたいからって、綾香ちゃんが会わなきゃいけないわけじゃない」静かな言葉だった。でも。 まっすぐ目を見て言われたから。胸の奥へ、ゆっくり染み込んでいく。私は隼人くんの手の中で。 少しだけ指を動かした。隼人くんの指へ、もう少し深く重ねる。その瞬間。 隼人くんの視線が手元へ落ちた。何も言わない。ただ。 重ねた分だけ、ゆっくり握り返される。「でも」私は口を開いた。「隼人くんが会いたいって言ったら」隼人くんがこちらを見る。「私も、会いたいか考えます」一瞬。隼人くんの表情が止まった。「考えるんだ」「ちゃんと考えます」「そこは会いたいって言ってくれてもよくない?」少しだけ拗ねたような言い方に。 私は笑ってしまった。「考えて、会いたいと思ったら言います」「厳しいね」「自分で選んでいいって言ったのは、隼人くんです」「言ったけどさ」隼人くんは困ったように笑った。その顔を見て。 胸の奥が少し軽くなる。付き合うことになったから。 隼人くんの望む恋人にならなければいけないわけではない。正しい答えを探さなくていい。会いたければ会う。触れたければ触れる。嫌なら断る。そんな当たり前のことを。 私は、今まであまり考えたことがなかった。いつも。 相手が何を求めているかを先に考えていたから。「でも」隼人くんがもう一度口を開いた。「一つだけ、今までと変えたいことがある」「何ですか」「遠慮しないで、頼ってほしい」私は隼人くんを見る。「何か決めてほしいって意味じゃなくて」穏やかに続ける。「困った時に、困ってるとか助けてって言ってほしい」「……」「来てほしい時は、来てって言って」それは。 簡単なことのように聞こえた。けれど。 私にとっては、一番難しいことかもしれない。誰かへ頼る前に。 自分で何とかしようとしてしまう。嫌なことがあっても。 大丈夫だと先に言ってしまう。隼人くんは、それも知っている。「練習します」そう答えると。 隼人くんが少し目を細めた。「うん」「すぐには無理かもしれません」「分かってる」「でも」私は、つないだ手を見る。「隼人くんになら」言葉が途中で止まった。隼人くんは急かさない。ただ静かに、続きを待っている。「少しずつ、できるようになりたいで
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第188話 触れない人

見慣れた通りへ入ると。 窓の外の景色が、急に近く感じた。あと数分で着く。そう思った途端。つないでいる手の存在が。 さっきまでよりも、はっきりと意識に上がった。隼人くんの指は、私の指の間に静かに重なっている。強く握り込まれているわけではない。それでも。 離そうと思わなければ、自然には離れない。私は窓の外へ視線を向けた。自宅の近くにあるコンビニ。夜になると照明を落とす美容室。何度も一人で歩いた道。いつもと同じ景色なのに。 今日は少しだけ、帰るのが惜しい。そんなふうに思った自分に気づき。 私はつないだ手へ視線を落とした。隼人くんは何も言わない。私が指を絡めた分だけ。 同じように握り返している。さっきまで会話をしていたのに。自宅が近づいてから。 隼人くんも少し口数が減った。「隼人くん」呼ぶと。 隼人くんはすぐに振り向いた。「うん」「静かですね」「綾香ちゃんもね」「私は、考えてました」「何を?」答えようとして。 少し迷う。帰りたくないわけではない。家に帰ることが嫌なわけでもない。ただ。この時間が終わることを。 少しだけ惜しいと思っている。それを、どう言えばいいのか分からなかった。「……何でもないです」「そっか」隼人くんは聞き出そうとしなかった。代わりに。 つないだ手へ、一度だけ視線を落とす。それから、窓の外を見る。その横顔も。 どこか少し名残惜しそうに見えた。けれど。そう思いたいだけかもしれない。私はまた、前へ視線を戻した。「もうすぐ着きますね」「うん」短い返事。隼人くんの親指が。 私の手の甲へ触れそうになって。また、止まる。さっき一度撫でたことを。 気にしているのだろうか。付き合ったのに。手をつなぐことさえ。 今までより慎重になっている。私は、そのことが不思議だった。恋人になれば。 もっと自然に距離が近づくものだと思っていた。少なくとも隼人くんは。 今まで何度も、私の近くへ来た。困っている時には手を差し出して。泣いている時には、逃げられないように支えて。私が危うい時には。 迷わず距離を縮めてきた。それなのに。今は。 私が触れた分しか、触れようとしない。タクシーが速度を落とした。運転手がバックミラー越しに確認する。「こちらで
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第189話 おやすみ

私も、オートロックへ向かわなかった。夜の静けさの中で。 向かい合う。隼人くんの顔を見上げる。鮨屋を出た時よりも。 少しだけ距離が近い。先生の視線が。 私の目元から、ゆっくり下へ落ちる。頬。口元。そして、また目へ戻る。何かを待っているようにも見えた。けれど。 隼人くんは一歩も近づかなかった。「今日は、ありがとうございました」私が言うと。「こちらこそ」隼人くんは穏やかに答えた。「付き合ってくれて、ありがとう」「それは、さっきも聞きました」「何回でも言うよ」「そんなに言わなくても」「嬉しいから」まっすぐな返事。私は視線を逸らした。また頬が熱くなる。小さく笑う気配がした。「じゃあ」短い言葉。顔を上げると。 隼人くんは帰ろうとしていた。「おやすみ」「……おやすみなさい」隼人くんが一歩下がる。本当に。 それだけだった。髪にも触れない。付き合う前には。 もっと近い距離にいたこともあるのに。今夜は手をつないだだけで。 隼人くんは帰ろうとしている。私はその背中を見た。胸の奥に。 小さな違和感が残る。寂しい、というほどではない。でも。もう少し何かあると思っていた。何を期待していたのかは。 自分でも分からない。「隼人くん」気づけば、呼び止めていた。隼人くんがすぐ振り返る。「何?」私は何を言えばいいのか分からなくなった。帰らないで、ではない。もっと触れてほしい、とも。 まだ言えない。それでも。このまま、何もなく帰られることに。 少しだけ引っかかっていた。「……それだけですか」口にした瞬間。自分でも驚いた。隼人くんも目を瞬く。「それだけって?」聞き返されると。 急に恥ずかしくなる。「いえ」「綾香ちゃん」「忘れてください」「無理だと思う」隼人くんは戻ってきた。けれど。 私の目の前まで来ると、そこで止まる。距離は近い。手を伸ばせば触れられる。それでも、隼人くんは手を出さない。「何か、してほしかった?」低い声だった。からかう響きはない。私は答えられず。 隼人くんのコートの襟元へ視線を落とした。してほしかった。そう言い切れるほど。 自分の希望が分かっているわけではない。ただ。恋人になった隼人くんが。 どんなふうに私へ触れるのか
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第190話 いつもの場所で

次の日、目を覚ました瞬間。 いつもと同じ天井が見えた。カーテンの隙間から。 淡い光が差し込んでいる。枕元のスマホへ手を伸ばす。画面には。 昨夜のやり取りが残っていた。『おやすみ。』 『明日、クリニックで。』短い二行。ただ、それだけなのに。先生。いや、隼人くんと付き合うことになったのが。 夢ではなかったと分かる。私は画面を閉じた。起き上がり。 ベッドの上で、自分の手を見る。もう熱なんて残っていない。それでも。指を少し曲げると。 昨夜、隼人くんの手に包まれていた感覚を思い出した。手をつないだだけ。それ以上のことは。 何もなかった。なのに。触れられなかった頬や。 一度視線が落ちた口元まで。朝になっても。 妙に意識に残っている。私は小さく息を吐き。 ベッドから降りた。今日は仕事だ。隼人くんは院長で。 私は、そこで働く医師。昨日までと同じように。 診察があって、患者が来る。恋人になったからといって。 仕事まで変わるわけではない。そう思うと。 少しだけ安心した。***クリニックへ着くと。受付では、すでにスタッフが慌ただしく動いていた。午前の予約は多い。急患の連絡も一件入っているらしい。白衣へ着替え。 髪をまとめる。診察室へ向かう途中。廊下の先から。 隼人くんが歩いてきた。白衣のポケットへ片手を入れ。 もう片方の手にはカルテを持っている。昨日までと同じ姿。足音も。 表情も。何も変わらない。隼人くんも私に気づいた。一瞬だけ。 視線が合う。胸の奥が、小さく跳ねた。けれど。「おはよう、白松先生」隼人くんは。 いつもと同じ声で言った。「おはようございます」私も同じように返す。隼人くんは私の前で足を止めず。 そのまま隣を通り過ぎた。白衣の袖が。 少しだけ視界を横切る。振り返ることもない。私も歩き出す。分かっていた。仕事中なのだから。 これが普通だ。むしろ、人前で急に態度を変えられた方が困る。そう思うのに。胸のどこかに。 小さな拍子抜けが残った。付き合った翌朝も。 本当に何も変わらない。隼人くんはスタッフへ指示を出し。 患者の状態を確認している。誰に対しても。 いつも通り穏やかで。私にだけ特別な視線を向けることもない。それ
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