愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました のすべてのチャプター: チャプター 201 - チャプター 210

238 チャプター

第201話 契約に書かれたもの

優から連絡が来たのは、石川先生との面談から二日後だった。『契約書の案がまとまりました』続けて、もう一通届く。『一度、直接説明したいと思っています』 『来週、事務所へ来られる日はありますか』仕事の連絡として整った、短い文章だった。私は勤務予定を確認し、診察の入っていない午後を二つ伝えた。すぐに日時と事務所の住所が返ってくる。その住所を見た時、指がわずかに止まった。結婚していた頃、私は何度か優の事務所へ行ったことがある。大きな案件が終わった日に、食事へ行くために迎えに行ったこと。優が自宅へ書類を置き忘れた時に届けたこと。父の関係者との会食前に、事務所で待ち合わせたこともあった。けれど、仕事の依頼を受ける立場で、契約書の説明を聞くために行くのは初めてだった。『分かりました』 『その日時でお願いします』送信すると、しばらくして返信が届く。『承知しました』 『受付へ名前を伝えておきます』余計な言葉はなかった。それでも画面を閉じたあと。胸の奥には仕事の予定を入れただけでは済まない緊張が残った。***約束の日、午後の診察を終えた。カルテの入力を済ませてから、院長室のドアを叩いた。「どうぞ」中へ入ると、隼人くんがパソコンから顔を上げる。「お疲れさま」「お疲れさまです。これから優の事務所へ行ってきます」「うん」隼人くんは一瞬だけ私の顔を見つめ、それから仕事の表情へ戻った。「契約内容にクリニックへ関係する部分があったら、あとで教えて」「はい」「それ以外の条件は、綾香ちゃんが納得できるまで確認してきて。今日、署名する必要はないからね」「持ち帰ってもいいんですよね」「普通はね」隼人くんがわずかに眉を上げる。「持ち帰らせないなら、その方が問題だよ」その言い方に、少しだけ緊張がほどけた。「分からないところがあれば、利害関係のない人にも確認できるか聞いておいた方がいい」「綾瀬先生が見るという意味ではなく?」「俺が確認するのは、クリニックの名称や情報、勤務に関係する部分だけ。それ以外は、必要なら別の弁護士に相談できる状態にしておいた方がいいと思う」優が、私へ不利な契約を作るとは思っていない。今回のプロジェクトで、そのようなことをする理由もなかった。ただ、優は元夫で、父とも関係があり、プロジェクトの法務担当でも
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第202話 綾瀬先生は、何と?

「最初の案より、かなり明確になっています。私も非常に勉強になりました」「藤本先生が、運営側と研究側の要望を丁寧に整理してくれたからです」優は、褒め言葉をそのまま受け取らず、自然に藤本先生へ返した。藤本先生は一瞬だけ驚いたように目を上げ、それから照れを隠すように資料へ視線を落とす。この人は、優をかなり尊敬しているのだろう。能力だけではない。後輩の仕事を自分の成果のように扱わず、相手の前で正当に評価するところも含めて。「今日は、契約書案の内容と、白松先生へお願いする役割の範囲を確認します」優が資料へ手を置く。「すぐに署名していただく必要はありません。一度持ち帰り、必要であれば第三者へ相談してください」「第三者へ見せても問題ありませんか」「守秘義務を負う弁護士など、専門家への相談であれば問題ありません。相談に必要な範囲で開示できることも、条項に入れています」綾瀬先生から言われたことまで、すでに想定されていた。「では、契約の相手方から説明します」優は最初のページを開いた。「契約の相手方は、プロジェクトの運営団体です。大学病院、自治体、民間事業者のいずれかと個別に契約するわけではありません」団体名、代表者名、所在地、契約期間が記載されている。「白松先生には、外部臨床アドバイザーとして、研究及び運用設計に対する助言をお願いする形です」「研究計画を決める権限や、医療情報へ直接アクセスする権限はありません」藤本先生も説明を補う。「提供する資料は、個人を特定できない形に整理されたもの、または運用案、説明文書など、助言に必要な範囲へ限定します。患者情報や各医療機関の内部情報を、白松先生が取得することは想定していません」石川先生から聞いた内容と一致している。「綾瀬クリニックの患者情報や、内部資料を提供する必要もありませんよね」私が尋ねると、優はすぐに頷いた。「ありません。綾瀬クリニックがプロジェクトへ参加することを前提にした契約でもありません」「クリニックの名称は、どう扱われますか」優が外部公表用の名簿案を示す。そこには、白松綾香医師 外部臨床アドバイザーとだけ記載され、所属欄は空欄になっていた。「現職の所属を記載する必要はありません。経歴紹介が必要な場合も、大学病院で臨床及び研究経験があることと、現在も臨床医として勤務して
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第203話 なぜ私なんですか

「白松先生には、クリニックを参加させる権限がありません」淡々とした声で言う。「一方で、運営側から協力を求められた時に、自分の立場では決められないと断ることへ負担を感じる可能性がある。最初から契約で切り離しておけば、白松先生個人の判断で拒絶する必要がありません」胸の奥へ、静かな違和感が落ちた。それは、法務として合理的な配慮だった。同時に、私が父や運営側から頼まれれば、断ることに罪悪感を持つと知っている人の考え方でもあった。「次に、業務の範囲です」優は話を進める。会議への出席、資料への意見提出、患者向け説明文書や医療現場向け運用案への助言。月に一度程度の定例会議と、必要に応じた個別のヒアリング。「会議は基本的にオンラインです。平日夜か、白松先生の診療がない時間を優先します」「私の勤務予定を基準にするんですか」「すべてではありません」優は現実的な口調で答える。「複数の参加者がいるため、毎回合わせることはできません。ただし、白松先生の出席が必要な議題では、事前に予定を確認します」「出席できない場合は?」「資料へ事前に意見を提出していただければ問題ありません。欠席を理由に契約違反とはしません」契約書にも、定例会議への出席は可能な範囲で行うと記載されている。「外部の臨床医へ依頼する以上、診療へ支障が出る条件にはできません」優が言う。「参加回数を義務として固定せず、業務量の上限も定めました」「業務量の上限?」藤本先生が別紙を示す。月間の想定時間と、通常業務に含まれる資料数。超過する場合は、事前に本人の同意を得た上で追加報酬を設定することが記載されている。「運営側から追加の確認を求められ続け、実質的に無制限の対応を求められないようにしています」「これも、一般的な条件ですか」尋ねると、藤本先生が一瞬だけ優を見る。その視線に、私は答えの一部を見た気がした。「外部専門家との契約として、合理的な条件です」優が先に答える。「白松先生だけを特別に扱ったものではありません」仕事として正しい説明だった。ただ、その条件が私の働き方や、頼まれた時に断りにくい性格まで考慮して作られていることは、もう分かっていた。「報酬は、月額の固定報酬と、契約範囲を超える追加業務の個別報酬に分けています」藤本先生が説明する。示された金額は、私が想
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第204話 知っていたなら、どうして

仕事として説明できる言葉と、それだけでは終わらないものを分けているように見えた。「患者側の立場を、自分の問題として考えられるからです」やがて、静かに答える。「白松先生は、制度として正しいかより先に、その場にいる人が本当に選べる状態かを考える」今日、石川先生との面談で私が話したことと重なる。「それを、石川先生から聞いたんですか」「いいえ」優は私を見る。「以前から、知っています」胸の奥が、一瞬止まった。向かいに座る藤本先生の視線が、優から私へ移る。「以前から?」「結婚していた頃から」その言葉に、藤本先生の表情がほんの少し動いた。驚きを露骨に見せたわけではない。ただ、私たちの間にあるものが、単なる依頼者と弁護士の関係ではないと確信したような、意味を含んだ視線だった。すぐに資料へ戻ったものの、わずかな間は消えなかった。知っていた。優がそう言うなら、なぜあの頃は何も見ていないように見えたのだろう。私が何を我慢し、何を諦めていたのか。どうして一度も聞かなかったのだろう。「知っていたなら、どうして」言葉が自然にこぼれた。けれど、その先を続けられない。どうして、何も言わなかったの。どうして、私が医師を辞めても平気だったの。どうして今になって、理解していたように話すの。優は、言えなかった問いまで分かっているように見えた。けれど、ここには藤本先生がいる。優は私的な言葉で弁明しなかった。「私が、白松先生を理解しているつもりだっただけです」声がわずかに低くなる。「当時は、それがあなたにとって何を意味するのかまで、考えていませんでした」言い訳には聞こえなかった。自分の誤りを、ただ事実として認める声だった。「今は、考えているんですか」尋ねると、優の視線は私から外れなかった。「はい」短い答えだった。その一言の中に、仕事では説明できない感情が含まれていることは、私にも分かった。藤本先生にも、たぶん。彼は目を伏せ、私たちを見ていないふりをしていた。私は一度息を吸い、契約書へ視線を戻した。「責任の範囲について、確認したいです」話を戻す。優も、それ以上追わなかった。「白松先生が負う責任は、助言の内容について故意または重大な過失がある場合に限定しています」優は再び契約書を開く。「助言が採用された結果、事業上の損
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第205話 説明は以上です

「東郷先生は」藤本先生が慎重に口を開く。「今回の契約について、運営側から条件を緩めてほしいという意見が出た時も、かなり明確に反対されました」優がわずかに眉を動かす。「藤本先生」止める声ではなかったが、それ以上は不要だと示す響きがあった。しかし藤本先生は、一度だけ迷ってから続けた。「白松先生へ特別な便宜を図るという意味ではありません。外部の専門家へ責任だけを負わせる設計は認められないと、東郷先生は一貫して主張されていました」「ほかのアドバイザー契約にも、同じ基準を反映しています」優が補足する。「一人だけを例外にすれば、契約として不自然になりますから」「はい」藤本先生はすぐに頷く。「その点も含めて、非常に勉強になりました」二人のやり取りから、藤本先生が優を信頼していることが伝わる。単に指示へ従っているのではない。優の判断を理解し、それを自分の仕事へ落とし込もうとしている。優は、家庭では見せなかった丁寧さを、仕事では惜しまず人へ向けていた。部下の考えを聞き、必要なところだけ修正し、成果は本人へ返す。尊敬されるのも当然だと思った。同時に、その人当たりのよさを外で見るたび、結婚生活の中で自分が受け取れなかったものを見せつけられているような感覚も、昔から消えなかった。「次に、利益相反について確認します」優がページをめくる。父と私が親子であること。優と私が過去に婚姻関係にあったこと。その二点を、プロジェクト責任者と利益相反管理委員会へ申告する内容だった。「会議の参加者全員へ、私生活の詳細まで伝える必要はありません」優が説明する。「運営側の関係者と親族関係にあることと、法務担当者と過去に婚姻関係があったことだけを共有します」「それで、参加できなくなる可能性は?」「ありません。助言する立場と、意思決定する立場を分けているからです」「優と私が、同じ会議に出ることもありますよね」呼び方に気づいた。しかし、訂正はしなかった。藤本先生が、再びわずかに視線を上げる。優は表情を変えなかった。「あります」「その時は?」「私は法務担当者として発言します。白松先生は、臨床アドバイザーとして発言する」優の声は冷静だった。「意見が異なれば、仕事として議論します。過去に関係があったことを理由に、どちらかが譲る必要はありません」
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第206話 聞いてもいいですか

さっきまで人の目があった空間が、急に静かになる。「綾香」呼び方が変わった。白松先生ではなく、綾香。私は足を止めた。「何?」優はすぐには答えなかった。視線が私の左手へ落ちる。指輪のない手。それから、ゆっくり顔へ戻った。「契約のことではなく、聞いてもいい?」「今日は、契約の説明を聞きに来ただけです」先に答える。自分でも、少し強い声だと分かった。優は一度だけ目を伏せる。「分かってる」「なら、今日はここまでにしてください」沈黙が落ちる。以前の私なら、相手が何を言おうとしているのか、最後まで聞いてから断ったかもしれない。聞く前に止めることを、失礼だと思ったかもしれない。けれど、今は聞くかどうかも私が決めていい。優は私を見たまま、やがて静かに頷いた。「分かりました」追わなかった。「次回までに、契約書の修正希望を送ってください」仕事の声へ戻っている。「報酬や責任範囲も、遠慮せずに確認してください」「分かりました」私はもう一度だけ頭を下げる。「失礼します」歩き出したところで、背中へ声が届いた。「綾香」反射的に足が止まりかける。それでも、振り返らなかった。「気をつけて帰って」さっきまでの、誰に対しても感じよく振る舞う優の声とは違う。静かで、私だけへ向けられた声だった。「....ありがとう」それだけ返し、受付へ向かって歩いた。***ビルを出ると、外はすでに暗くなっていた。バッグの中には、優たちが作った契約書が入っている。私が責任を負いすぎないように。父や運営側の都合で、勤務先まで巻き込まれないように。言えなかった異論を、同意したことにされないように。依頼を断れず、業務を抱え込みすぎないように。どれも必要な条項だった。優が仕事として、私の立場を丁寧に考えた結果だった。私だけに不自然な便宜を図るのではなく、ほかの外部専門家にも適用できる合理的な基準へ変えている。そこまで整えられているから、優の感情が契約を歪めているとは言えない。むしろ仕事として、正しい。私を専門家として尊重し、守るための契約だった。それでも、胸の奥には安心だけではないものが残っている。優は、私がどのような時に黙るのかを知っていた。頼まれれば断りにくいことも。責任を背負いすぎることも。勤務先へ迷惑をかけるくらいな
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第207話 正しい配慮

隼人くんから届いた返信を見て、私はビルの入口から少し離れた。街灯の下には、仕事を終えた人たちが途切れることなく行き交っている。隣を歩く人と笑いながら駅へ向かう人。一人で通話をしながら、足早にタクシー乗り場へ向かう人。その中で立ち止まっていると、バッグの中へ入れた契約書の重さを、さっきよりも強く感じた。内容には問題がなかった。むしろ、想像していた以上に丁寧だった。私の責任範囲は明確に限定されている。発言が採用されなかった場合も、異論を述べた事実が記録される。勤務先の名称や情報を、運営側が利用する余地もない。業務量の上限まで定められ、追加の依頼を断りにくくならないように作られていた。どれも、私に必要な条件だった。だからこそ。それを優が考えたという事実だけが、簡単には処理できずに残っている。少しして。大通りの向こうに、見覚えのある車が停まった。運転席から降りた隼人くんが、車の流れを確かめてから横断歩道を渡ってくる。私を見つけると、表情がわずかに緩んだ。「お疲れさま」「ありがとうございます」「待った?」「少しだけです」答えると、隼人くんは私の顔をしばらく見た。仕事を終えたことを確認するだけではない視線だった。「帰れる?」「はい」「話したいって言ってたから」そこまで言って、無理に続けようとはしない。「車の中でもいいし、何か飲みながらでもいいけど」私は少し考えた。すぐに家へ帰って、一人になる気分ではなかった。「少し、座って話したいです」「分かった」隼人くんは近くの店を探すように周囲を見渡した。「静かなところにしようか」「はい」車へ乗り、十分ほど走った場所にあるホテルのラウンジへ向かった。遅い時間だったこともあり、店内には空いている席が多い。窓際の席へ案内され、飲み物を注文する。店員が離れるまで、綾瀬先生は契約について何も聞かなかった。私もバッグを椅子の横へ置き、何から話せばいいのか考えた。「契約の内容は」私から口を開く。「問題ないと思います」「うん」「クリニックの名前は出さず、個人の外部臨床アドバイザーとして契約する形になっていました」「勤務時間や患者情報も、完全に切り分けられています」「それなら、院長としては大丈夫そうだね」隼人くんの声が、少しだけ仕事のものへ変わる。「正式な契
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第208話 嫌ではないんですか

「周りの人へは、きちんと関心を持って」「相手が困らないように話して」「仕事も、正当に評価していました」「うん」「昔から、そういう人でした」だからこそ。家へ帰ったあとの沈黙が。余計に分からなかった。外では。相手が言いにくそうにしていることまで察する。後輩の表情が曇れば。その場で追い詰めず、考える時間を与える。それなのに。私が何かを言えずにいる時は。何も聞かなかった。「私には」声が少し小さくなる。「どうして、ああいうふうにできなかったんだろうって思いました」隼人くんの表情は変わらなかった。すぐに優を批判することも。私を慰めることもせず。続きを待っている。「今日、優に」一度、言葉を止める。「私が、どういう時に自分の意見を引っ込めるのか」「どんな時に責任を抱え込むのか」「全部、分かっているように言われました」「前から知っていたとも言っていました」口にすると。改めて胸の奥がざらついた。「それで、聞いたの?」「知っていたなら、どうしてって」「最後までは言えませんでした」「うん」「優は」その時の声を思い出す。「理解しているつもりだっただけで」「それが私にとって何を意味するのかまで、当時は考えていなかったと言いました」隼人くんは、しばらく何も言わなかった。やがて。「たぶん」慎重に口を開く。「東郷さんは、見えてなかったわけじゃないんだろうね」私は顔を上げる。「見えてはいたけど」「自分に関係のあることとして、受け取ってなかったのかもしれない」静かな声だった。「仕事では、相手の事情を理解しないと正しい判断ができない」「でも、家では」少し間を置く。「綾香ちゃんが、そこにいてくれることを前提にしてた」胸の内側へ。ゆっくり言葉が入ってくる。「だから」隼人くんは続ける。「見えていたことと、大事にしていたことが」「同じじゃなかったのかもしれない」優は。私が医師を辞めることへ、何も感じていなかったわけではないのかもしれない。私が人の感情を優先することも。頼まれれば断れないことも。知識としては知っていた。ただ。それが私を失う原因になるとは。考えなかった。私がいなくなる可能性を。想像していなかった。「今は」私は言う。「私を失ったから、考えているんでしょうか」「そう
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第209話 嫌だよ

問いかけると。隼人くんはすぐには答えなかった。テーブルへ置いていた手を組み直す。「嫌かどうかで言えば」正直に言う。「嫌だよ」静かな声だった。「東郷さんが、綾香ちゃんのことを分かってるみたいに振る舞うのも」「実際に、分かってる部分があるのも」「仕事で会う理由ができるのも」淡々と言葉を重ねる。「俺は、たぶん全部嫌」目を逸らさなかった。冗談にして。軽く済ませることもしない。「でも」一度、息を吐く。「だから仕事を断ってほしいとは思わない」「契約が正しくて」「綾香ちゃんがやりたい仕事なら」「俺が嫌なことは、止める理由にならないから」前に、隼人くんは。寂しいのは自分の感情だから、自分で引き受けると言っていた。今も。同じことをしている。嫉妬していないふりはしない。優が私を理解していることを。何とも思わないとも言わない。けれど。その感情を。私の仕事へ置かない。「止めたいとは思っているんですか」「思っているよ」少しだけ笑う。「でも」「止めさせられてるとは思ってない」「……違うんですか」「俺が選んでるから」落ち着いた声。「綾香ちゃんと付き合いたいと思った時に」「最初から東郷さんとの関わりが、完全になくなるとは思ってなかった」「家のこともあるし」「今回みたいに、仕事で会うこともある」「それも含めて」少しだけ目を細める。「綾香ちゃんと付き合いたいって気持ちを、俺が選んだ」胸の奥が大きく鳴った。私が。優と仕事で会うたび。申し訳なく思わなくていいように。先に引き受ける範囲を決めている。「だから」隼人くんが続ける。「俺が嫌そうだからって」「仕事の話を隠さないで」「今日みたいに、話したい時は話して」「はい」「別に」少しだけ口元を緩める。「毎回、大人みたいにきれいな返事ができるとは限らないけど」「今日も十分、大人だと思います」「そう?」「はい」「もっと嫌そうにしてもいいのに、って思ったから」思わず言うと。隼人くんが、少し驚いたように私を見る。「それは」「綾香ちゃんが困らない?」「少しは困るかもしれません」答えてから。自分の言葉に少し戸惑う。「でも」「何も思っていないようにされるよりは」言葉を選ぶ。「嫌だと思っていることを、言ってもらった方が」「私は、
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第210話 私が決める境界

翌朝、私は目覚ましが鳴るよりも少し早く目を覚ました。カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡い。リビングの家具も輪郭だけを浮かび上がらせている。昨夜帰宅してから一度は目を通した契約書が、ダイニングテーブルの上に置かれたままになっていた。ホテルのラウンジで隼人くんと話したあとは。家へ戻ってからも、すぐに眠る気にはなれなかった。優が用意した契約書。その中に込められていた、法務担当者としての配慮。私が責任を抱え込みすぎないように。自分の意見を引っ込めたとしても、最初に懸念を示していた事実が残るように。今の勤務先へ、私の判断だけでは処理できない協力を求められないように。どれも、仕事として正しく、私にとって必要な条件だった。けれど、条文を読むたびに、それを考えたのが優であることが頭へ浮かんだ。藤本先生から向けられた、何かを察したような視線も。会議室を出る直前、仕事以外のことを聞こうとした優の声も。綾瀬先生へ話したことで、気持ちはずいぶん整理できたと思っていた。それでも昨夜は、契約書を自分の仕事として冷静に読み切れている気がせず、途中で閉じてしまった。私はコーヒーを淹れ、テーブルへ座った。温かいカップを両手で包むと、指先に少しずつ感覚が戻ってくる。バッグから付箋とペンを取り出し、契約書の一ページ目を開いた。今度は、優の気持ちを考えるためではない。私が引き受ける仕事を、自分で選ぶために読む。契約期間。業務内容。報酬。守秘義務。責任の範囲。利益相反。一つずつ、条文と説明資料を照らし合わせながら確認していく。優が私を考えて加えたと思われる条件も、感情とは切り離して見てみると。外部の専門家として安心して働くために必要なものだった。私が示した異論は、採用されなくても記録に残る。想定を超える業務を依頼する場合には、事前に本人の同意を得なければならない。現在の勤務先の名称、情報、設備、人員を、この仕事へ持ち込むことはない。契約書に守られることと、この仕事を引き受けることは別だ。隼人くんから昨夜、聞かれた。綾香ちゃんが、やりたいから?私は、自分がやりたいからだと答えた。その答えを、契約書を読みながら改めて確かめる。大学病院で研究に関わっていた頃の自分と。地域のクリニックで日々患者を診ている今の自分。研究側が考えた仕
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