愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました のすべてのチャプター: チャプター 211 - チャプター 220

238 チャプター

第211話 転職について、触れる

私は付箋に、業務上の連絡経路及び記録方法を明確にしたいと書いた。私生活について話したくないから、という理由を契約書へ記載する必要はない。仕事上の連絡を記録へ残すことは。父や優との関係を含めた利益相反管理の観点からも不自然ではなかった。そこまで書き終えると、私はペンを置いた。優が私を守るために契約へ境界を書いたように。今度は私が、自分のために必要な境界を書き加えようとしている。それは、優を拒絶することとは少し違う。この仕事を続けるために。私自身が何度も自分を守ろうとしなくても済む仕組みを作ることが必要だと思った。窓の外は、いつの間にか明るくなっていた。私は契約書を閉じ、冷め始めたコーヒーを一口飲んだ。修正してほしい点はある。それでも、この仕事を引き受けたいという気持ちは変わらなかった。***クリニックへ着くと、待合室にはまだ患者の姿がない。受付では、スタッフが予約表とカルテを確認しながら午前の準備を進めていた。「おはようございます」挨拶を交わし、更衣室で白衣へ着替える。診察室へ向かう途中、院長室のドアが開き、中から綾瀬先生が出てきた。「おはよう」「おはようございます」ほかのスタッフがすぐ近くにいる。昨夜、手をつないで歩いた人と、今は院長と勤務医として向き合っている。けれど、その切り替わりはもう、以前ほど不自然には感じなかった。「契約書、読めた?」声も、院長が勤務医の外部活動について確認する時と変わらない。「はい。クリニックに関係するところだけ、あとでお見せしてもいいですか」「もちろん。昼休みに少し時間を取ろうか」「お願いします」「じゃあ、午前が終わってから」「はい」必要なことだけを話し、互いに診察室へ向かう。仕事中に距離を置くことは、二人の関係を否定することではない。むしろ、場所ごとに役割を切り分けられるからこそ。恋人であることを仕事の中で証明し続けなくて済むのだと思った。院長としての綾瀬先生と。仕事の外で、私との距離を詰めることを待っている隼人くん。どちらかが本当で、どちらかが仮の姿なのではない。その両方を持っている人と、私は付き合い始めたのだ。***午前の診察を終え、最後の患者を見送ってから。私は契約書を持って院長室へ向かった。ドアを叩くと、すぐに「どうぞ」と声が返る。隼
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第212話 よろしくお願いします、院長

「今のうちに入れておくのは、いいと思う」仕事としては、迷いのない答えだった。けれど私は、昨夜、自分が言ったことを思い出す。何も思っていないようにされるより、嫌だと思っているなら言ってほしい。自分に関心があると分かるから。「急に、転職の可能性の話をしました....嫌ではないんですか」聞くと、先生は一瞬だけ目を細めた。「嫌だよ」答えは早かった。「でも」口元にわずかな笑みが浮かぶ。「昨日、嫌なことは言っていいって言われたから」「言いました」「綾香ちゃんが、別の病院へ行く可能性まで考えて契約を直すのは、正直あまり嬉しくはないよ」冗談ではなく。けれど、私が罪悪感を抱かない程度の静かな温度で言う。「必要な修正だとも思うけどね」「ありがとうございます」「何でお礼?」「言ってもらった方が、安心するので」答えると、綾瀬先生は少しだけ私を見つめた。昨夜、自分から言った言葉なのに、改めて口にすると恥ずかしい。「じゃあ」綾瀬先生が少し声を落とす。「かなり嫌」「かなりですか」「うん。今のクリニックからいなくなる可能性を」 「契約書の中で現実的に想定されるのは、思ってたより嫌だった」胸の奥へ、小さな熱が広がった。引き止められたわけではない。私の選択を変えてほしいと言われたわけでもない。ただ、いなくなれば寂しいと思っていることを、隠さずに渡された。「でも、その条項は入れておいた方がいいよ」綾瀬先生はすぐに続けた。「今の勤務先だけを想定した内容にすると、所属が変わる時にまた交渉が必要になる」 「プロジェクトが長く続く可能性があるなら、最初から勤務先一般として切り分けた方が自然だと思う」感情を伝えたあとで、私にとって必要な判断を別にしている。その順番が、私には心地よかった。「分かりました」「ほかにも修正するの?」「仕事の連絡方法を、明確にしたいと思っています」先生の表情が、わずかに変わった。それでも、優を遠ざけたいのだと先回りして決めつけることはしない。「優から必要な連絡が来ることまで、禁止するつもりはありません」 「法務責任者なので、直接話さなければならないこともあると思います」「うん」「でも、原則として事務所の共有窓口か、記録が残るメールで連絡を取りたいと伝えるつもりです」私は膝の上に置いた契約書へ視
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第213話 仕事として整った返信

午後の診療を終えたあと、私は医局のパソコンを開いた。窓の外はすでに暗く、院内には診療を終えたあとの静けさが少しずつ戻っている。受付ではスタッフが会計の締め作業を進め、遠くからプリンターの動く音が聞こえていた。私は事務所のプロジェクト担当窓口を宛先に入れ、藤本先生にも共有されることを確認する。優個人へ送るメールではない。件名には、外部臨床アドバイザー契約書案に関する確認及び修正希望と入力した。書き出しも、仕事の文章として整える。昨日は契約内容についてご説明いただき、ありがとうございました。契約書案を確認し、以下の三点について、条文の修正または運用上の確認をお願いしたく、ご連絡いたしました。一つ目。会議中の発言と、正式な助言として扱う意見を区別すること。会議内での検討段階の発言については、本人の確認なく最終的な専門的見解として記録しないこと。二つ目。契約期間中に勤務先が変更された場合も、所属機関が本プロジェクトへ参加、協力または関係していると受け取られる表示を行わないこと。三つ目。業務上の連絡は、原則としてプロジェクトの共有窓口または記録の残る方法を使用すること。法務上の判断や緊急の確認など、必要な場合には法務責任者からの直接連絡を妨げない。ただし、業務上重要な内容については、必要に応じて担当窓口へ共有し、記録として残すこと。最後の項目まで書いたところで、私は指を止めた。優を排除する文章にはなっていない。仕事で必要な連絡を拒むものでもない。優と私が、過去に夫婦だったからこそ、曖昧な場所を残さない。それは私だけではなく、優やプロジェクト全体にとっても必要な整理だった。私はもう一度文章を読み返してから、最後に一文を加えた。なお、上記の点をご確認いただいた上で、本件については正式にお引き受けしたいと考えております。入力した文字を、しばらく見つめる。お引き受けしたい。父から言われたからではない。優が私へ配慮してくれたからでもない。石川先生から、必要だと評価されたことだけが理由でもない。研究と現場の間に立ち、患者や臨床医が置き去りにならないように意見を出す。私はその仕事を、自分で選びたい。送信ボタンを押した。画面からメールが消え、送信済みの表示へ移る。一つの仕事を引き受けるだけなのに。胸の奥では、以前手放し
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第214話 一緒にお祝いしたいです

返事が来るまでの数分間、以前の自分なら。きっと何度も送った文章を読み返しただろう。言い方が強すぎたのではないか。せっかく丁寧に契約を整えてくれた優を、傷つけたのではないか。これから仕事をする相手との関係を、悪くしたのではないか。けれど今は、送信を取り消したいとは思わなかった。私は、優を罰したいわけではない。優が私を考えて作った契約も、仕事上の能力も、否定していない。それでも、どの場所でどの話をするかは、自分で決めていい。数分後、返信が届いた。『分かりました』続けて、『今後は、そのようにします』と表示される。理由を尋ねることもなく、感情を訴えることもない。私が置いた境界を、優は受け入れた。そのことに安心しながら、胸の奥には、わずかに重いものも残った。優は、こういう時にいつも正しい。私が線を引けば、無理に越えようとはしない。けれど、線のすぐ外側に立ったまま、必要な時には正しい理由を持って現れることができる。自分の気持ちを押しつけるのではなく、私が拒みづらいほど適切な形へ整えて差し出す。それが、今の優の執着なのかもしれない。私はスマホを伏せた。優が何を考えているのか、今すぐ答えを出す必要はない。私が決めるべきなのは、優の感情ではなく。自分がどこまでを仕事として受け入れ、どこからを私生活として分けるのかだけだった。白衣を脱ぎ、帰り支度を終える。更衣室を出ると、廊下の先に隼人くんがいた。受付のスタッフと翌日の予約について話している。私に気づいても、会話を途中で切り上げて近づいてくることはない。スタッフへ必要な指示を伝え、相手が離れてから、ようやくこちらへ視線を向けた。「お疲れさま」「お疲れさまです」まだ院内には人がいる。声も距離も、仕事中のままだった。「メール、送れた?」「はい。修正希望と、引き受けたいということを伝えました」「そっか」隼人くんの目元が、柔らかく緩む。「おめでとう」新しい仕事を得たことだけではない。私が自分で考え、自分で決めて、それを言葉にできたことまで含めて祝われているように感じた。「ありがとうございます」「連絡方法の件も伝えた?」「はい。仕事の連絡は、原則として共有の窓口を使ってほしいと」「東郷さんは?」「分かりました、と」隼人くんは短く頷いた。それ以上、優が
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第215話 戻るのではなく、進む

契約書の修正版が届いたのは、私が修正希望を送ってから三日後だった。藤本先生から届いたメールには。変更した条項と、その理由が分かる比較表も添えられていた。会議中の発言は、検討段階の意見として扱われ。本人の確認なく正式な助言として記録しないこと。契約期間中に勤務先が変わった場合も。所属機関がプロジェクトへ参加、協力しているような表示を行わないこと。業務上の連絡は。原則としてプロジェクトの共有窓口を使用し、重要な内容は記録に残すこと。私が求めた三点は、どれも意図を損なわない形で条文へ反映されていた。文章は私が書いた希望よりも簡潔で、特定の事情だけを想定したものには見えない。それでも、私が避けたいと思った曖昧さは、きちんと取り除かれている。優からの個人的な連絡はなかった。修正版の確認も、署名方法の案内も。すべて藤本先生と共有窓口を通して届いた。私が引いた境界を、優は守っている。それが当然のことだと思う一方で。優ならこうするだろうという予想まで、あまりにも正確に当たることが。わずかな落ち着かなさもあった。けれど、今はその感情を考える必要はなかった。署名を終え、必要な書類を返送すした。契約成立の通知と一緒に、初回会議の日程が送られてきた。研究側からの窓口は、大貴だった。『来週の水曜、十八時半からオンラインで初回の打ち合わせ』 『研究側の現状説明と、今後見てもらいたい資料の確認が中心だから、二時間はかからないと思う』続けて、会議資料が共有される。私はパソコンへ資料を保存し、ページを開いた。研究の背景。現時点での参加機関。医療情報を活用する目的。患者への説明方法。医療機関ごとの運用負担。資料の表紙に記載された研究室名を見る。それだけで、胸の奥がわずかに動いた。大学病院を辞めた時、研究との関係はそこで終わったのだと思っていた。学会の抄録を読むことはあっても。自分が再び研究資料を前にして、意見を求められる日が来るとは考えていなかった。けれど、これは以前の場所へそのまま戻ることではない。私は研究室の一員ではない。大学病院へ所属しているわけでもない。以前の続きを与えてもらったのではなく。大学病院を離れて、医療そのものからも離れて。地域のクリニックへ戻った今の私に、新しい役割が与えられた。その違いを考える
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第216話 今の私に求められている仕事

画面にはまだ、大貴しか入っていなかった。『お疲れ』イヤホンから声が聞こえる。「お疲れさま」『クリニック?』「うん。診療室を借りています」『院内から参加して大丈夫なの?』「院長には申告してるから大丈夫。患者情報と資料も完全に切り分けています」私が答えると、大貴は少し笑った。『相変わらず、説明が完璧だね』「聞かれたので」『いや、心配して聞いたというより、普通に家かと思っただけ』「そうなの?」『そうだよ』大貴の笑い方に、食事をした時や大学病院で会った時とは違う、仕事の軽さがあった。「今日は優も参加するの?」尋ねてから、呼び方が私的すぎたかと思った。石川先生に再会した日に。このプロジェクトの担当法務が元夫だということは伝えていた。けれど、大貴は特に反応しなかった。『東郷先生は後半だけ入る予定。今日は法務の話より、研究設計と現場運用の確認が中心だから』「分かりました」『気まずい?』唐突に聞かれ、私は少し考えた。「仕事だから、大丈夫」『それは分かってるけど』「契約上も、仕事の連絡とそれ以外は分けることになってるから」『そこまで決めたんだ』「必要だと思ったから」大貴は一瞬だけ黙ったあと、穏やかに頷いた。『そっか』それ以上、優との関係へ踏み込まなかった。すぐに画面の表示が増える。石川先生。大学病院の研究員が二人。運営団体の事務局担当者。自治体側の担当者。簡単な挨拶が交わされる。私は外部臨床アドバイザーとして紹介された。「白松綾香と申します。大学病院での臨床及び研究経験のあと、現在は地域のクリニックで外来診療に携わっています。今回、患者さんと実際の診療現場の視点から、運用設計へ意見を出す役割を担当します。よろしくお願いいたします」自分の経歴を口にしても、以前のような後ろめたさはなかった。研究を離れた時間も、医師を辞めていた時間も隠してはいない。けれど、失敗や空白として説明する必要もない。現在の私が何を見られるのか。それだけを伝えればいい。会議は、研究側からの進捗説明で始まった。現時点では、大学病院を中心に研究設計が進められている。将来的には複数の地域医療機関と連携する可能性がある。でも、参加機関はまだ確定していない。患者へどの段階で説明を行うのか。診療情報を研究へ活用することに対して
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第217話 お疲れさま

会議の後半。参加者の表示が一つ増えた。東郷優。名前が画面へ現れたあと、優が接続する。濃紺のスーツ姿。事務所の会議室から参加しているらしく、後ろには藤本先生も座っていた。『遅くなり、申し訳ありません』優は全員へ短く頭を下げる。『法務側で確認していた事項がまとまりましたので、説明します』声も表情も、契約説明の時と同じだった。私を特別に見る様子はない。会議参加者の一人として、必要な範囲で視線を向けるだけ。それでいいと思った。撤回方法について私が指摘した内容が共有されると、優はすぐに資料を確認した。『現在の同意書案では、撤回窓口を各参加機関へ委ねる表現になっています』「はい」『白松先生の指摘を踏まえるなら、運営団体側に共通窓口を置き、各機関の診療部門から独立させる方法が考えられます』優は私ではなく、会議全体へ向けて話している。『電話、書面、オンラインの複数手段を用意し、本人確認後に対象機関へ通知する。診療担当者へ撤回理由を共有しない運用も可能です』「理由を共有しないことは、明記できますか」私が尋ねる。優の視線が画面越しにこちらへ向く。『できます。ただし、すでに研究へ利用された情報をどこまで除外できるかは、研究計画ごとに異なります』「その点も、患者さんが理解できる形で説明する必要があります」『そうですね』短い応答。以前なら。優と意見を交わすだけで、結婚していた頃の関係を意識したかもしれない。けれど今、優は法務として問題点を整理し、私は臨床側として患者が受け取る意味を確認している。過去に夫婦だったことと。今、この議題で意見が一致することには。何の関係もない。『では、この部分は』優が藤本先生へ視線を向ける。『共通窓口を設置した場合の法的整理と、撤回後の情報利用範囲を藤本先生にまとめてもらいます』『承知しました』藤本先生が答える。一瞬だけ、彼の視線が私と優の間を行き来したように見えた。けれど、契約説明の日ほど意味を含んだものではなかった。仕事上の意見交換として成立していることを確認しただけなのかもしれない。会議は予定より少し早く終わった。次回までに、私は患者向け説明文書と撤回手続き案を確認することになった。『白松先生』会議を終了する前に、石川先生から呼ばれる。『今日のように、制度上は可能でも、
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第218話 真帆がいる病院

『真帆のところ、一度話を聞いてみてもいいかもしれない』「真帆?」同期の名前が出て、私は顔を上げた。『今、あいつがいる病院』大貴が病院名を口にする。聞いたことはあった。大学病院ほど規模は大きくない。でも、専門外来と臨床研究の両方へ力を入れている病院だった。『研究日を勤務として確保する制度があるらしい』「勤務として?」『うん。診療を減らした分、自分の時間で研究しろっていう形じゃなくて、最初から週の中に研究時間が入ってる』石川先生から言われたことを思い出す。診療の後や休日に、残った時間で研究する形では続かない。時間と役割を、最初から仕事として確保する必要がある。「真帆は、そこで研究もしているの?」『してる。臨床中心だけど、共同研究にも入ってるはず』「知らなかった」『同期会でも、あいつ仕事の話あんまりしなかったからな』画面の中の大貴が、少しだけ首を傾ける。『俺から話を振ってもいいけど、綾香から連絡した方が自然じゃない?』「そうだね」真帆とは、学生の頃から親しかった。優と結婚したあと。大学病院を離れた。少しずつ医師の友人たちと距離ができてしまった。完全に関係が切れたわけではない。それでも。自分から仕事の相談をしたことはなかった。医師を辞めた自分が。働き続けている友人へ連絡することに。どこかで引け目を感じていたからかもしれない。けれど今は。真帆がどのように働いているのか。素直に聞いてみたいと思った。「連絡してみる」『うん』「まだ転職すると決めたわけではないけど」『話を聞くことと、決めることは別だから』大貴の言葉に、私は小さく頷いた。選択肢を知ることは。今いる場所を否定することではない。話を聞いたからといって。綾瀬クリニックを辞めると決まるわけでもない。「分かりました」『じゃあ、次回もよろしく』「よろしくお願いします」通話を終える。画面が暗くなった途端、診察室の静けさが戻ってきた。窓の外は、すっかり暗くなっている。時計を見ると、二十時を少し過ぎていた。机の上の資料を片づけ、パソコンを閉じる。初めての会議。久しぶりの研究の話。優と仕事として意見を交わしたこと。大貴と、以前と変わらないようで、少し違う関係で働き始めたこと。そして。真帆の勤務する病院。一つの仕事を始めただ
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第219話 選べる場所

真帆から返事が届いたのは。クリニックを出てから十分ほど経った頃だった。隼人くんの車へ乗り、シートベルトを締めたところだった。バッグの中のスマホが短く震える。取り出して画面を開くと、いくつかの通知が続けて並んでいた。『久しぶりって、この間会ったばかりでしょ』最初の一文を見た瞬間、思わず口元が緩んだ。確かに、真帆とは先日の同窓会で顔を合わせたばかりだった。そもそも、しばらく同期との集まりから離れていた私に。連絡をくれたのも真帆だった。久しぶりに皆で集まるから。無理にとは言わないけれど、来られたら来ない?あの時、真帆から誘われなければ。私は同窓会へ行かなかったと思う。大貴と改めて研究の話をすることもなく。大学病院で進んでいるプロジェクトと、自分へ持ち込まれた案件がつながっていることにも。もっと後まで気づかなかった可能性がある。画面を指で送り、続きのメッセージを読む。『仕事の話なら、もちろん大丈夫』 『というか、綾香から相談されるの珍しいね』 『電話でもいいし、ご飯でもいいよ』 『何の話? 転職? 研究?』私がまだ詳しい事情を説明していないうちから。考えていた二つの言葉が、どちらも挙げられている。研修医だった頃から、真帆はこういう人だった。相手の細かな変化によく気づく。けれど、気づいたことを必要以上に深刻なものとして扱ったり、答えを急かしたりはしない。何かあるのだろうと察しても。こちらが自分から話せるところまで、少し明るすぎるくらいの調子で待ってくれる。私は少し迷ってから返信した。『両方かもしれない』 『臨床を続けながら、研究にも戻れる働き方について聞きたいです』送ると、数秒も経たないうちに返事が届いた。『それなら会おう』 『文章で説明するより早い』 『来週、空いてる日送って』迷いのない返事に、胸の奥へ小さな温度が広がった。以前の私なら、まず真帆の事情を考えたと思う。忙しい勤務の中で、わざわざ時間を取らせるのではないか。転職すると決めたわけでもないのに。勤務先の制度について詳しく尋ねるのは失礼ではないか。自分が話を聞きたいという気持ちより先に。相手へ負担をかけない方法を考え、結局は相談そのものを諦めていたかもしれない。けれど今は、私は話を聞きたいと思っている。真帆も会おうと言ってくれて
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第220話 真帆の勤務する病院

約束の日になった。私は診療を終えてから、真帆の勤務する病院の最寄り駅へ向かった。待ち合わせの店は、落ち着いた雰囲気のレストランだった。大きな窓から漏れる暖かな灯りが、夕方の冷えた歩道を淡く照らしている。店の前へ着くと、真帆はすでに入口の横に立っていた。肩までの髪を後ろで一つに束ね、薄い色のコートのポケットへ両手を入れている。私に気づくと、昔と変わらない大きな動作で手を上げた。「綾香」「待たせた?」「全然。私も今来たところ」そう言ってから、真帆は私を上から下まで眺めた。「何?」「いや」少しだけ目を細める。「この間の同窓会の時より、顔が柔らかくなってる気がして」「そう?」「うん。何かあった?」真帆らしい聞き方だった。気づいていることを隠しはしない。けれど、話すことを強制するような重さもない。「色々」答えると、真帆が笑った。「その色々は、あとで聞いていいやつ?」「たぶん」「じゃあ、まず仕事の話ね」店へ入り、奥の席へ案内される。注文を終えると、真帆はテーブルの上で両手を組み、改めて私を見た。「それで?」声には好奇心がある。けれど、私の事情を先回りして決めつける軽さはなかった。「臨床を続けながら、研究にも関わりたいって?」「うん」私は、医療データ基盤のプロジェクトへ、外部臨床アドバイザーとして参加したことを説明した。大学病院、自治体、運営団体が関わる仕組みの設計に。実際の診療現場と患者の視点から意見を出す役割であること。石川先生や、大貴の所属する研究チームも参加していること。初回の会議へ出て、久しぶりに研究者たちと議論をしたこと。「面白かったの」そう口にすると、真帆の目が少しだけ大きくなった。「研究が?」「研究というより」私は、自分が楽しいと感じたものの形を探すように、ゆっくりと言葉を選んだ。「いろいろな立場の人が作った制度を見て、それが実際の診療で使えるのかを考えることが」「患者さんが、本当に断れるようになっているのかとか。手続きが用意されていても、心理的に使えない形になっていないかとか」「そういうことを考えて、意見を出すのが面白かった」真帆は途中で口を挟まず、静かに聞いている。「石川先生からも」私は続けた。「臨床と研究を両立できる環境があるなら、いつか研究室へ戻ってきてほしい
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