Alle Kapitel von 愛人を選んだ夫が、離婚後に狂い始めました: Kapitel 221 – Kapitel 230

238 Kapitel

第221話 楽ではないよ

研究をするために臨床の場を離れることを。周囲へ詫びなくてもいい。誰かに迷惑をかけているような顔をしながら。自分の時間を確保しなくてもいい。研究も仕事の一部として認められているなら。臨床と研究のどちらかを疎かにしているという罪悪感を、毎回抱えずに済む。「研究費は?」「院内の小規模な助成もあるし、大学との共同研究へ入る人もいる。設備やデータが必要なら、内容によっては連携先を探す」真帆は少し考えてから続けた。「大学病院ほど何でも揃ってるわけではないけど、その分、研究だけが偉いという空気でもないかな」「研究だけが?」「大学病院にいた時って」真帆はフォークを置き、私を見る。「論文を書いてる人の方が、臨床を中心にしている人より上みたいな空気、少しあったでしょ」否定できなかった。「うちは、臨床だけをやりたい人もいるし、教育を中心にしたい人もいる。研究をしたい人もいる」「全部を同じ割合でやらせるより、その人が選んだ役割を、勤務としてどう成立させるかを考える方が強いと思う」「全部やらないと評価されないわけではない?」「少なくとも、私はそう感じてない」真帆は肩をすくめる。「全部やる人もいるけど、全部やらないと医師として足りない、みたいな言い方はされない」以前の大学病院では、臨床も、研究も、教育も。求められたことを断らず引き受ける人が優秀だと思われていた。私も、できないと言うことが怖かった。一つを選べば、残りを諦めたと思われる気がして。どれも十分にできていないと感じながら、一つも手放せなかった。「勤務日数は?」尋ねると、真帆は病院の制度を一つずつ説明してくれた。常勤でも週四日勤務を選べること。研究日を含めた勤務設計が可能なこと。専門外来を担当しながら、共同研究へ参加できること。医師ごとの希望を、年度ごとに診療科長と相談すること。育児や介護だけではなく、学位取得や研究を理由に勤務を調整している人もいること。もちろん、すべてが理想的なわけではなかった。人手が不足する時期には、予定していた研究時間を診療へ回さなければならないこともある。診療科によって、制度の使いやすさにも差がある。研究成果を求められる以上、時間だけ確保されても、自分で計画を進めなければ何も残らない。「楽ではないよ」真帆は、期待だけを持たせないようには
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第222話 何かあったね

「研究を離れていた期間が長いから、今から戻って、ついていけるのか不安」「それは勉強するしかないね」真帆はあっさり答えた。慰めるために、大丈夫だと言わないところが真帆らしい。「統計も、研究倫理も、制度も変わってる部分はある。論文を読む感覚も、最初は戻らないかもしれない」「うん」「でも、それって、できない理由じゃなくて、戻るなら必要な準備でしょ」できない理由ではなく、必要な準備。同じ事実なのに、言葉の置き方だけで見え方が変わった。「それに、綾香」真帆が少し笑う。「もうプロジェクトで、普通に研究者と議論してるんでしょ」「アドバイザーとしてだけど」「それでも、できない人は、そこで意見を求められないよ」「父と元夫の関係があったから、話が来たところもある」口にすると、真帆の表情が少しだけ変わった。「きっかけはそうでも、今そこに残ってるのは綾香の仕事でしょ」「……」「縁があって入った人が、全員、必要とされ続けるわけじゃない」その言葉は、必要以上に強くなかった。だからこそ、静かに胸へ入ってきた。「綾香は昔から、自分の実力を認める時だけ、全部きれいな経路じゃないと駄目だと思いすぎ」「どういう意味?」「誰の紹介でもなく、誰の助けも借りず、最初から自分一人の力だけで選ばれないと、自分の成果として認めないでしょ」指摘され、すぐには答えられなかった。父の名前。優との過去。石川先生の評価。大貴からの連絡。誰かの力が関わるたび、私は自分一人の力ではないと考えた。それは間違ってはいない。けれど、その入口から先で何を話し、どう働き、どの責任を引き受けるかは、私自身が決めている。「人に扉を開けてもらうのと、中で何をするかは別の話だよ」昨日まで、閉じていた場所へいくつもの道がつながっていると感じていた。けれど、扉を開けてもらったことまで、引け目に思わなくてもいいのかもしれない。「真帆は」私は少し笑った。「昔から、そういうことをはっきり言うね」「綾香が、言わないと分からないから」「そうかな」「そうだよ」即答され、二人で少し笑った。料理を食べながら、その後も病院の具体的な制度を聞いた。研究時間の申請方法。専門外来の内容。勤務医の人数。表面的な福利厚生ではなく。私が実際に働くとすれば、どのような一日になるのかを聞い
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第223話 選んでるのは私だと思いたい

隼人くんは、私が選ぶのを待ってくれる。自分の寂しさや不安と、私が決めるべきことを分けてくれる。私の代わりに答えを出さず、私が答えを出すまで、近くにいる。その人と関わる中で、自分がどうしたいのかを考える時間が、少しずつ増えたのは確かだった。けれど。「きっかけの一つではあると思う」私は答えた。「でも、選んでるのは私だと思いたい」真帆がゆっくり頷く。「うん」それから、少し笑った。「今の答え、結構好き」***食事を終えて店を出ると、夜の空気が思っていたより冷たかった。駅へ向かう道には、仕事帰りの人が途切れることなく行き交っている。真帆と並んで歩きながら、私は今日聞いた話を頭の中でもう一度整理した。臨床を続けながら、研究の時間を勤務として持つこと。専門外来を担当しながら。自分が日々の診療で感じている疑問を、研究の問いへ変えていくこと。大学病院へ戻るか、今のクリニックへ残るか。これまでは、その二つしかないように思っていた。けれど、別の病院で臨床と研究を続ける道もある。今のクリニックでの勤務を減らして。研究機関と別に関わる方法もあるかもしれない。今すぐ一つに決める必要はない。選択肢を知るたびに、一つしかないと思っていた道が。少しずつ枝分かれしていく。「一度、病院を見に来る?」駅の手前で、真帆が尋ねた。「見学として?」「正式な見学じゃなくても、私がいる日に来ればさ」「外来の雰囲気とか、研究スペースくらいは案内できる」「いいの?」「上司には一応聞くけど」真帆が笑う。「話だけ聞いても、分からないでしょ」その通りだった。制度の説明だけでは、自分がそこで働く姿まで想像できない。病院の空気。医師同士の距離。患者との関わり方。研究時間を持つ人たちが、どのような表情で働いているのか。知識としてではなく、自分の目で見てみたいと思った。「行ってみたい」口にすると、真帆はすぐに頷いた。「分かった。日程調整する」胸の奥が、期待と緊張の両方で少し高鳴った。病院を見に行くことは、転職を決めることではない。今の場所を捨てることでもない。ただ、自分が選べるかもしれない場所を、実際に見に行く。以前の私には、それだけの行動にも覚悟が必要だった。別の可能性へ目を向けることは、今持っているものへの裏切りだと思っていた
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第224話 見てきた方がいいね

『思っていたより、選択肢があると分かりました』『臨床も研究も、どちらかを諦めなくていい働き方があるかもしれません』送る。すぐに返信が来た。『そっか』今度は、続けて表示される。『それは、見てきた方がいいね』胸の奥に、温かさと少しの寂しさが同時に広がった。見てきた方がいいと言ってくれたことも。その言葉を選ぶまでに、少し時間が必要だったことも。どちらも、今の私には嬉しかった。何も感じていないふりをされるのではなく。それでも私の可能性を狭めない言葉を選んでもらえる。私は、その人の感情を埋め合わせるために、自分の選択を変えなくていい。『はい』返信する。『見てきます』画面を閉じたところで、電車がホームへ入ってきた。風を押し出すような音とともに扉が開き、私は車内へ乗り込む。空いていた端の席へ座ると、窓の向こうで駅の照明がゆっくりと流れ始めた。離婚する前の私は、未来について考えることをほとんどしなくなっていた。考えなかったというより、考えてはいけないと思っていたのかもしれない。結婚した時に一度選んだのだから。その先にあるものを受け入れることが、自分の責任だと思っていた。優との生活を選んだのだから、研究へ戻りたいと考えてはいけない。家庭を支えると決めたのだから、医師として働きたいと口にしてはいけない。自分で選んだ結婚を正しいものにするためには。そこで失ったものを惜しんではいけないと思っていた。何かを選ぶことは、ほかの可能性をすべて閉じることだった。一つの道を選んだあとで別の道を見れば。自分の決断が間違っていたと認めることになる。だから私は、ほかの可能性を見ないことで。選んだ生活を守ろうとしていた。けれど、離婚を決める直前には。その考え方さえ維持できなくなっていた。あの頃の私は、何を選びたいかではなくて。何から離れなければ自分が壊れるのかを考えていた。優と暮らし続けたいのか。医師へ戻りたいのか。どのような人生を送りたいのか。そんなことを考える余裕はなかった。ただ、このままでは自分が何も感じなくなるということだけが分かった。離婚は、未来を選んだ決断というよりも。もうこれ以上、自分を失わないために逃げ出すような決断だった。だから離婚が成立しても、すぐに自由になれたとは思えなかった。何をしたいのかと聞
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第225話 日曜日のデート 

真帆と食事をした翌日。午前の診療を終え、カルテの入力をしていると、机の上に置いていたスマホが短く震えた。隼人くんからだった。『明日、空いてる?』明日は日曜日で、クリニックは休診だった。病院見学の日程はまだ決まっておらず、ほかにも特別な予定は入れていない。久しぶりに、何をするか決めていない休日だった。『空いています』返信すると、すぐに既読がついた。『じゃあ、出かけない?』画面に表示された言葉を見て、指が止まる。私たちは付き合い始めた。お鮨を食べに行き、その帰りに初めて手をつないだ。その後も、仕事のあとに食事をしたり、車の中で話したりはしている。けれど、最初から二人で過ごすためだけに休日を空け、どこかへ出かけたことはなかった。診療のあとでも。何かを相談するためでもない。恋人として会う休日。そう考えただけで、胸の奥が少し落ち着かなくなった。『どこへ行くんですか』送ると、『行ってから決めてもいい?』 『綾香ちゃんが疲れない範囲で』と返ってきた。目的地を決めずに出かけることは、私にはあまりない。誰かと会う時には、先に場所と時間を決める。移動にどれくらいかかるかを調べ、必要なら店の予約まで済ませておく。優と結婚していた頃も、外出にはたいてい目的があった。会食。買い物。家族の行事。旅行でさえ、先に決められた予定を滞りなく進めることの方が多かった。行ってから決める。その言葉は、どこへ行くかよりも、誰と過ごすかの方が大切だと言われているように聞こえた。『分かりました』返信する。少し迷ったあと、『楽しみにしています』と加えた。送信した瞬間、急に恥ずかしくなる。けれど、取り消す前に既読がついた。少しして、『俺も』とだけ届いた。その短い言葉を見たまま、しばらく画面を閉じられなかった。***翌日。待ち合わせは、昼前の駅だった。約束の時間より少し早く着き、改札の外で待っていると。人の流れの向こうから隼人くんが歩いてきた。クリニックでは白衣か、落ち着いた色のシャツを着ていることが多い。今日は黒に近い薄手のニットに、濃いグレーのコートを合わせていた。長い髪は、仕事の時よりも少し低い位置で束ねられている。休日らしい柔らかさがあるのに、遠くからでもすぐに分かった。背が高いことだけではない。姿
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第226話 何が好きなんですか

「建築が好きなんですか」「見るのは好き」「知らなかったです」「綾香ちゃんが聞かなかったから」責めるような言い方ではなかった。付き合い始めたばかりなのだから、知らないことが多いのは当然だ。それでも私は、医師としての隼人くんや。綾瀬家の一員としての隼人くんを少し知ることで。この人のことをある程度分かったつもりになっていたのかもしれない。「ほかには、何が好きなんですか」尋ねると、隼人くんがこちらを見る。「今、知ろうとしてくれてる?」「はい」「少しずつ知りたいです」隼人くんの指が、本の背表紙へ触れたまま止まった。「そっか」短い返事だった。けれど、その声には少しだけ隠しきれない喜びがあった。「建築と、古い写真は好きかな」隼人くんは棚へ視線を戻す。「映画も結構見る」「映画は、どんなものを?」「何でも見るよ」「恋愛映画も?」「見る」意外だった。「もっと、難しいものだけを見るのかと」「綾香ちゃんの中の俺、だいぶ偏ってるね」「好きな恋愛映画はありますか」尋ねると、隼人くんが古い作品の名前を挙げた。私も知っている映画だった。登場人物が最後まで互いの気持ちを言葉にしきれず、別々の人生を選ぶ静かな作品。「意外です」「何が?」「もっと、結末がはっきりしたものが好きだと思っていました」隼人くんは少し考えた。「現実では、はっきり言わないと伝わらないことが多いから」本を棚へ戻しながら続ける。「映画では、違ってもいいのかもね」何気ない返事だった。けれど、隼人くんがどのように人と関わってきたのか。少しだけ覗いた気がした。店の奥へ進むと、カウンターにいた年配の男性が隼人くんへ気づいた。「隼人くん?」呼ばれ、隼人くんが振り返る。「あ、お久しぶりです」「随分来なかったじゃない」「仕事が忙しくて」隼人くんは、クリニックで患者へ向けるものとも。私へ向けるものとも違う、親しみのある笑顔を見せた。男性は、この店の店主らしい。隼人くんが学生の頃から通っていたこと。海外へ行く前には、大量の本を預かってもらったこと。気に入った写真集があると、何時間も店の中にいたこと。私が知らない隼人くんの話が、次々と出てくる。「こちらは?」店主の視線が私へ向いた。一瞬、どう紹介されるのかを意識した。隼人くんは迷わなかった
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第227話 先生の交友関係、新鮮です

「いいえ」「少し固まってたから」「驚いただけです」「付き合っているのは、本当でしょ」「そうですけど」言葉にすると、改めて恥ずかしくなる。少し歩いてから、私は隼人くんの横顔を見た。「先生の交友関係、新鮮です」自然に、先生としての姿の方が知っていることが多いから。先生の交友関係と、言っている自分に気づく。隼人くん自身のことは、やはりあまりまだ知らないから。こういう日は、いつもより新鮮に感じる。「そう?」間をあけずに、自然に返された。「どこへ行っても、知り合いがいそうですね」「そこまでじゃないよ」「でも」少しだけ言葉を選ぶ。「彼女を連れているのが珍しいと思われているんですね」隼人くんはすぐには答えなかった。歩く速度を少し緩め、私を見る。「ちゃんとした関係の人として」静かな声で言う。「自分の知っている場所へ連れてきたいと思ったのは、綾香ちゃんだけかもね」胸の奥が大きく鳴った。「かも、なんですか」思わず尋ねると、隼人くんが少し笑う。「断言すると、また距離が分からなくなることを言うかもしれないから」「隼人くんが言うんですか」「綾香ちゃんが、そういう顔するから」「どういう顔ですか」「本人だけ分かってない顔」それ以上は教えてくれなかった。けれど歩き始めた隼人くんの横顔には。ほんの少しだけ寂しそうなものが残っていた。私が、ただ新鮮だと感じていること。そこへ特別な感情を結びつけていないことを、分かっているのかもしれない。その表情の意味までは、私には分からなかった。数歩進んだところで、隼人くんの手が身体の横へ下りていることに気づいた。お鮨屋へ行った夜、私はその手へ触れた。それからも、二人で歩く時には何度か手をつないでいる。けれど、隼人くんから先に触れてくることはない。今日も、ただ隣を歩いている。私は少しだけ歩幅を寄せ、指先でその手の甲へ触れた。隼人くんの指が、ほんのわずかに動く。それから手のひらがこちらへ向き、私の手を包んだ。最初に手をつないだ時と変わらない、力を込めすぎない握り方だった。「今日も、手。つないでくれるんだ」前を向いたまま言う。「はい」「さっき紹介したから?」「それも、少し」答えると、手のひらが一瞬だけ強くなる。けれど、すぐに元の力へ戻った。以前よりも、少しだけ慎重
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第228話 今日珍しいね

昼食は、通りの奥にある小さなレストランへ入った。予約をしていたわけではない。隼人くんが自然に向かった先のメニューを見て、私へ尋ねた。「こういうの、好き?」魚を中心にした料理が並んでいる。「好きです」「じゃあ、ここにしようか」店内は厨房と客席の距離が近く、休日らしい賑やかさがあった。奥のテーブルへ案内される途中。カウンターの中にいた男性が隼人くんへ声をかけた。「先生」隼人くんが顔を上げる。「久しぶり」男性は店の経営者らしい。共通の友人を通して知り合ったこと。店を開く前の試食会へ、隼人くんが何度か来ていたこと。料理の話だけではなく、店主の家族の近況まで知っていること。短いやり取りからも、親しさが伝わってくる。「今日は珍しいね」男性の視線が私へ向く。「可愛い子連れてくるなんて」また同じことを言われた。「彼女です」隼人くんは、ここでも自然に答えた。店主が笑う。「先生がちゃんと紹介するの、初めて見たかも」「皆、同じこと言うね」隼人くんが少し困ったように息を吐く。「何か食べたいものがあったら言って。少しサービスするから」「普通でいいです」「彼女の前だからって遠慮するなよ」「そういうんじゃないから」隼人くんは感じよく笑いながらも、それ以上話を広げさせなかった。席へ着く。メニューを開いた隼人くんの横顔を見ながら。私は先ほどの店主との会話を思い返していた。どの人とも自然に話す。相手の家族や仕事のことを覚えている。長く会っていなくても、相手から親しげに声をかけられる。「本当に、知り合いが多いんですね」「今日は、たまたま」「そうでしょうか」「交友関係、新鮮って言ってたね」「はい」私はメニューへ視線を落とした。「クリニックにいる時の先生しか、ほとんど知らなかったので」「先生に戻った」「今のは、話の中なので」「そう」少しだけ笑う。「どんなふうに見える?」「人当たりがいいです」「褒めてる?」「褒めています」仕事の場でも、店の中でも。隼人くんは人との距離を取ることが上手だった。相手を緊張させず、親しげでありながら、踏み込ませすぎない。誰とでも自然に関われるのに。自分の深いところまで見せる人は限られているのかもしれない。「皆さんに」私は少しだけ迷ってから続けた。「彼女を連れて
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第229話 一緒に知ればいい

「私も、まだ分からないかもしれません」「じゃあ、一緒に知ればいい」隼人くんは自然に言った。私が完成した答えを持っていることを求めていない。分からない状態のまま、隣にいることを選んでいる。そのことが、胸の奥を柔らかくした。料理が運ばれてくる。食べ始めると、隼人くんは古書店で買った本の話をしてくれた。建物そのものより、そこに暮らした人の痕跡が残る写真が好きなこと。海外にいた頃、休日には一人で古い街を歩いていたこと。有名な建築物より、誰かが生活を重ねたことで形が変わった家を見る方が面白いと思うこと。私は、隼人くんが一人で知らない街を歩く姿を想像した。人付き合いが広く、どこへ行っても誰かに声をかけられる。それでも、一人で過ごすことも好きだったらしい。「一人で、寂しくなかったんですか」「ならなかった」「人が好きなのに?」「人は好きだけど」少し考える。「ずっと一緒にいたいと思う人は、あまりいなかったから」胸が小さく鳴った。「今は?」尋ねてから、あまりにも直接的だったと気づく。隼人くんはすぐには答えなかった。食器を置き、私を見る。「今はいるよ、隣に」低い声だった。視線を逸らせなくなる。店内には人の話し声があり、厨房から食器の触れる音が聞こえている。それなのに、二人の席だけが急に静かになったように感じた。「そういう顔をするから」隼人くんが言う。「何ですか」「距離が分からなくなるんだけど」「私には、いつもと同じに見えます」答えると、隼人くんが少しだけ目を細める。「そう見えるなら、それでいい」それ以上は言わなかった。私たちの間には、テーブルがある。隼人くんの手は、自分の食器の近くに置かれたまま。こちらへは伸びてこない。以前より少し慎重になったように感じるのは、気のせいだろうか。私が少し近づこうとするほど。隼人くんは今までと同じ場所に留まろうとしている。それは私にとって、変わらず安心できる距離だった。それなのに、手をつなぐことより先のことを。隼人くんが何も望んでいないように見える瞬間だけ、少し寂しくなる。その理由を、まだ自分でもうまく説明できなかった。***食事を終えたあと、二人で川沿いの道を歩いた。午後の日差しは柔らかく、風にはまだ冷たさが残っている。私は自分から隼人くんの手へ触れた
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第230話 そういう顔、もっと見たい

「え、今の。言わない方が良かったですか...?」連絡先を聞かれたと言ったのは、余計なことだったのかもしれない。尋ねると、隼人くんがこちらを見る。「そうじゃないけど、嫌だったから」答えは早かった。けれど、そのあとすぐに、少しだけ視線を和らげた。「でも、綾香ちゃんが悪いわけじゃないから」「はい」「だから、何も言うことはない」そう言って歩き始める。私はその隣へ並んだ。しばらくして、隼人くんの手が身体の横へ下りる。私は再び、自分からその手へ触れた。手のひらが重なる。先ほどよりも、少しだけ強く握られた気がした。けれど、それもすぐにいつもの力へ戻った。「隼人くんも」私は歩きながら言う。「今日、何度も見られてましたよ」「そう?」「はい」「気づかなかった」「本当に?」「綾香ちゃんしか見てなかったから」あまりにも自然に返され、言葉が止まる。隼人くんは私の反応を見て、少しだけ目を細めた。「また、その顔」「どの顔ですか」「距離が分からなくなる顔」「私は何もしていません」「そういうところが困る」低い声だった。それでも、隼人くんは手をつなぐ以上には近づかなかった。歩く位置も。触れ方も。お鮨屋へ行った夜から変わらない。それが心地よいと、私は思っている。けれど今日は、その変わらなさの中に。少しだけ足りないものがあるような気がした。何が足りないのか。自分が何を望んでいるのか。まだ、はっきりとは分からなかった。***夕方。駅へ戻る頃には、空が少しずつ薄暗くなっていた。改札の前で立ち止まる。「今日は、ありがとうございました」「こちらこそ」隼人くんは、つないだ手をすぐには離さなかった。人が行き交う中で、私たちが触れているのは、その手だけだった。「楽しかった?」「はい」「何が一番?」尋ねられ、少し考える。古書店。中国茶。食事。川沿いの道。いくつも思い浮かぶ。「知らない隼人くんを知れたことです」答えると、目元が柔らかくなる。「俺も」「私の何かを知りましたか」「うん」「何ですか」隼人くんは少し考えるように私を見る。「興味を持つと、思ってたより素直なんだね」「そうですか」「中国茶も」つないだ手をわずかに揺らす。「知らないって言いながら、ずっと楽しそうに聞いてた」「興味が
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